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2023年10月29日日曜日

敗北の日

10月26日、鹿児島県議会(臨時会)は、県民投票条例案を否決した。

条例案の否決後、各会派への挨拶回りを行った塩田知事は、自民党議員とグータッチした。自民党と共同して条例案を否決できたことに安堵したグータッチだっただろう。今回の勝者は、塩田知事と自民党だった。

また、決められた手続きに沿って審査中の川内原発は、20年の運転延長が決定される見込である。反原発の市民運動は、またしても敗北した。

こう書くと、私も反原発の立場だと思う人がいるだろうが、このブログでは度々書いてきたように、私は原発絶対反対ではない。長期的には脱原発すべきだと思うが、「原発をいますぐ停止しろ」とは思わないし、20年運転延長も、絶対反対というよりは、むしろ「20年延長するくらいなら原発を新設した方が安全では?」と思っていたりして、条例制定を求めた市民グループの方とはだいぶ考えに開きがある。ただ、日本人は原発からは足を洗った方がいいとは思っている。

県議会では、知事も自民党も「県民投票では多様な意見を反映するのは難しい」と難色を示していたが(県民投票はそもそも知事が言い出したことなのだが、それは置いといて)、確かに原発には多様な意見がある。だが、これまでの県政でそういう「多様な意見」を県民に聞くことがあったか。運転延長に対する私の意見は、○×だけじゃない「多様な意見」にあたると思うので、聞きたければ言ってあげるのだが。

また、「多様な意見が反映できないから県民投票はよくない」という論理もよくわからない。いくら多様な意見があっても、結局は20年運転延長するのかどうか、という二択ではないのか。多様な意見を聞こうともせずに、二択を否定したのは論理破綻だ。これはほんの一例で、全体的に県の答弁は、その場しのぎの詭弁ばかりで、4万6112筆の市民の署名に誠実に向き合ったものとは言えなかった。

そもそも、これは反原発の署名ではない。もちろん、これを集めた団体は反原発のために行ったのだが、署名の性質はそうではない。この署名は「大事なことを決めるのに、市民の意見も聞いて下さい」というものだった。私自身、署名をちょっとだけ集めたが、その際には「これは反原発じゃないんですよ。県民の声も聞いてね、っていう署名なんですよ」と説明した。 だからこそ、これまでの反原発活動ではなかったような、大きな広がりがあり、多くの署名が集まったのだと私は思っている。

実際、県議会でも原発の安全性などについては質問しないように、ということになっていた。県議会で審議したのは、反原発なのか、原発推進なのか、ということではなくて、4万6112筆の市民の署名にどう応えるか、ということだったはずだ。

だが、民会派の山田国治委員は「原子力政策は国策。国が責任を持って判断すべきだ」と延べ、県側も「国策」を強調した。「国策だから県民の意見を聞く必要はない」だなんて、ずいぶん乱暴な話で、「国策だったら、県民どころじゃなく国民の意見を聞く必要があるんじゃないの?」と私は思う。どうやら県や自民党は、「国」というものを、国民を統治する王様か何かのように思っているらしいが、実は日本は一応「国民主権」ということになっていて、我々の方が主権者なのである。

それなのに、塩田知事は臨時会冒頭、県民投票は「慎重に判断すべきだ」と述べている。これなどは、意味がわからない。川内原発20年運転延長を「慎重に判断すべき」だから県民投票をしよう、ならわかるが、どうして県民の意見を聞くのに慎重でなければならないのか。「国民主権」「県民主権」なのだから、むしろ県民の意見を聞かないと先へ進めないくらいだと私は思う。

そもそも、塩田知事は県知事選で勝利したからこそ県政を担っているのだから、県民の意思は塩田知事の権力の源泉である。塩田知事は国に知事にしてもらったのではなく、県民に知事にしてもらったのである。

にもかかわらず、今回、塩田知事は県民の方を向かず、常に「国」の方を向いていたように見えた。「国策」である原発政策に異議申し立てをしては、自分のキャリアの汚点になるとでも思ったのだろうか。 

だいたい、塩田知事自身も言っていたが、原発の運転延長を止める権利は県知事にはない。仮に県民投票をして運転延長にノーが突きつけられたとしても、「県民の意思はこうです」と国や九電に述べるだけで、それに応じて相手(国・九電)がどう対応するかは県のあずかり知らぬところである。つまりある意味、原発政策に対しては県は責任を負わなくてよい、という立場にある。塩田知事は、県民の側に立てたはずだ。

にも関わらず、塩田知事は、民意が示されることを怖れていたように見える。「もし、県民投票を実施して、運転延長が反対多数になったらどうしよう」と不安に駆られていたのではないか。 賛成多数を予想していたとしたら、投票を行うことに何の躊躇もないからだ(あるとすれば、運転延長のスケジュールがずれることと県民投票の費用くらい)。

臨時会閉会後のグータッチは、民意が示されることを阻止したグータッチでもあった。でも、一応民主主義を掲げているこの国で、民意が示されることを阻止したことを喜ぶとは、いったいどういうことなのだろう。4万6112筆もの市民の署名によって請求したことを棄却したことに、一切の遺憾の意も表明されないとは、いったいどういうことなのだろう。

実は、私が「日本人は原発からは足を洗った方がいい」と思うのは、原発にはこういうところがあるからなのだ。日本の民主制は、原発のような難しい問題を扱えるほどは成熟していない、というのが私の実感である。原発の技術的な困難(災害への弱さや廃棄物の処理)は、技術的に克服することが可能だ、と元来は工学系の私は信じている。しかし原発という巨大な利害が対立するプロジェクトを真に民主的に運営していくことは、今の日本人には不可能だと感じる。一言でいって、「原発は日本人にはまだ早い」のだ。

今回の県民投票条例の否決は、まさにその一例になった。「大事なことを決めるのに、市民の意見も聞いて下さい」という、民主社会ではごく当然の要求を突っぱねなければ進められないのが原発なのだとしたら、そんなものはいらないのだ

だが同時に、今回の否決は、ある意味では民意というものの強力さをまざまざと見せつける結果にもなった。塩田知事も自民党も、「もし民意が示されたらどうしよう」という怖れを抱いていた。彼らは、国策とは違う民意が示された場合に、自分たちの立場がどうしようもなくなることをわかっていたのだ。彼らは、自分たちが民意に反しているかもしれないことを、図らずも露呈していた。まだ示されてもいない民意に、怯えていた。

そういう意味では、民意というものに、対峙する前から敗北していたのは塩田知事であり、自民党であった。彼らは、民意を味方につけるのではなく、無視することを選び、だからこそ民意を怖れた。

まだ示されていない民意でも、これだけの力がある。

もし、民意というものが、はっきり示されたら、どれだけの力があるのだろう。脱原発なんて簡単かもしれない。

とはいえ、今の鹿児島県の民意が脱原発にあるとは、私は全然思わない。それどころか、無関心による消極的支持も含め、私の肌感覚では6割の県民は原発を支持している。はっきりと反原発の考えを持っている人は1割以下、5%程度だと私は思う。実際、天文館で反原発を主張してきた市民グループは、以前は残念ながら多くの人に無視されていた(と思う)が、そんな中でも粘り強く民意の形成に取り組んできたことが今回の結果に繋がった。

つまり、消極的であれ多数派が原発を支持している状況でも、塩田知事は民意を怖れたのである。民意は、とてつもなく強大だ。鹿児島県民が、その強大な力をいつかはっきりと示す日が、きっと来ると信じている。

2023年10月20日金曜日

後戻りできなくなる決定が、今この瞬間にも行われているのかもしれない

すったもんだの末、鹿児島県の新体育館(スポーツ・コンベンションセンター)は、ドルフィンポート(DP)跡地に作られることになった。

「あれは何だったんだ?」と思ったのは、今年の2月~4月に募集された「本港区利活用エリアのアイディア募集」。これには234件もの応募があり、うち7件はプレゼンまで行われた。

【参考】鹿児島港本港区エリアの利活用に係る検討委員会 > 第4回検討委員会(プレゼン資料が掲載されています)
https://www.pref.kagoshima.jp/ah15/kentouiinkai4.html

この集まったアイディアはどう活用されるのだろうか、と思っていたら、一応ゾーニングの素案に生かされたことになってはいるが、本港区エリアの利活用について大きな影響を与えることはなかった、と思う。まあ、「今後の参考」との位置づけだ。

プレゼンされたアイデアには、かなりの手間をかけて練った構想も見受けられた。プレゼンの当事者も、こんなに軽い扱いになるとはびっくりだったのではないだろうか。とはいえ、県がアイディアを軽くあしらったわけではなく、わざわざ検討委員会に幹事会を設けていろいろと議論してはいる。

しかしながら、結局のところ、このアイディア募集は遅すぎた。なにしろ、ドルフィンポート跡地に新体育館を造ることを決定した後で行ったものだからだ。むしろ、この段階ではアイディア募集などしないほうがよかった、と私は思っている。なぜなら、意見やプレゼンは、せいぜい「いいとこどり(委員のコメント)」されるのが関の山だったからだ。

当然に、この意見募集やプレゼンの後の県の対応は評判が悪く、「何のためにわざわざ意見募集したんだよ」という声がたくさん聞かれた。鹿児島市のスタジアム構想(アイディア募集後、いろいろあってDP跡地へのスタジアム建設は事実上断念した)との齟齬もあり、「塩田知事がどんな体育館をつくりたいのか全然わからない」とか、「リーダーシップがない」といった、塩田県政への批判も惹起した。

とはいえ、これではちょっと塩田知事が可哀想な気もする。というのは、これまでの新体育館の検討が混乱し収拾がつかなくなっていたのは、歴代の鹿児島県知事が「新体育館をどこに造るかは俺が決める」みたいな態度であったことが大きな原因で、塩田知事の場合は同じ轍を踏まぬようかなり気を付けてきた(ように見える)。

新体育館の建設場所の検討を始める際にも、「場所ありきではない」ことが強調され、新体育館に必要な機能、規模・構成等をまず議論した上で決めようとした。そしてその検討委員会(総合体育館基本構想検討委員会)も、公開の下で行われ、これまでの鹿児島の密室政治とは一線を画した。

塩田知事はこうした検討が行われている中でも、「自分としてはここがいいと思う」みたいな軽はずみな発言は一切せず、「検討委員会の出した結論を尊重する」との態度を貫いてきた。検討委員会で本当に自由闊達な議論が行われたかどうかは疑問だが(傍聴した人の話ではいわゆる「シャンシャン委員会」だったそうだが私は見ていない)、それでも形式的には民主的な議論の結果、最終的には点数方式でDP跡地が選ばれた。

その後、整備の基本構想が取りまとめられ、パブリックコメントを経て、県議会は新体育館の整備を了承した。鹿児島県が作る箱モノで、ここまで民主的な手順を踏んで建設を決定したのは初めてのことで、画期的なことだと思う。

こうして新体育館(スポーツ・コンベンションセンター)の立地は決定した。だから、いくら「本港区利活用エリアのアイディア」にいいものがあったとしても、それに応じて基本構想が揺らぐはずもない。というか、揺らいだら民主制の否定になる。

「塩田知事がどんな体育館をつくりたいのか全然わからない」とか、「リーダーシップがない」という批判の裏には、知事は県民の意見を聞いて、それまでの議論をひっくり返してほしい、というそこはかとない願望があると思う。もし、塩田知事が今になって「やっぱりDP跡地に建てるのは辞めます!」と言ったら、一部の人は「リーダーシップを発揮した!」と喝采するに違いないが、民主的手続きによって行われた決定を知事の一存で白紙にするのは、民主的というより実際には独裁的だ。

そもそも、民主制は非常に手間がかかる。手順を追って物事を決定しなければならないし、その手順を踏んでいる間に社会の事情が変わってきても、「状況が変わったのでやっぱり変えます」とは言いにくい。要するにスピード感に欠ける。それに、代議制民主制の場合は利害団体の意見が強く反映されるという特徴があって、一般市民の感覚とは乖離しがちなことも短所である。

だから民主制の社会に生きる一般市民は、つい独裁的なものを望んでしまうことになる。独裁者は、なんでもスパッと決定し、一般市民の気持ちを代弁してくれる(ように感じる)からだ。今、維新の会が急速に国政での存在感を増しているのは、はっきりと独裁的な性格を持っているからだと私には思われる。

第2次世界大戦の前に、ナチスドイツが全権委任法によって一党独裁になっていったのは、完全に民主的な手続きによるものだった。彼らは、「ユダヤ人は気に食わない」という「一般市民」の気持ちに寄り添うことで独裁的権力を得た。ところがひとたび独裁制が確立してしまえば、およそ民主的な社会ではありえないような決定が下された。

話が逸れたが、新体育館のことで塩田知事がリーダーシップを発揮せず、何を考えているのかわからないような対応に終始しているのは、民主的な手続きを尊重するという態度の裏返しだろう(ただし、塩田知事は万事がこの調子なので、物足りないのは確かだ)。

そして、はっきり言えば、新体育館の立地についていまさら意見を言っても遅い。これまでに書いた通り民主的な手続きによって決定したことだからだ。「じゃあ、いつ意見を言えばよかったんだよ?」と人はいうだろう。私は、総合体育館基本構想検討委員会が、点数方式での立地比較を行うことを検討・決定した2021年11月あたりが山場だったと思う。

というのは、この比較項目に、当初からDP跡について懸念されていた「景観」が全く入っていなかったのである。これは意図的に外したとしか思えないが、不思議と誰も問題視しなかった。

【参考】第5回総合体育館基本構想検討委員会(2021年11月16日開催)
https://www.pref.kagoshima.jp/ac12/dai5kaihaihusiryou.html

そして、実はこの時あたりまで、新体育館の県民の関心は極めて低かった。もしかしたら「検討委員会がよか風にまとめてくれるに違いない」という安心感があったのかもしれない。結局、さほど議論はないままに、点数方式での立地比較によってDP跡に決定した。

2022年1月12日付の南日本新聞の記事「ドルフィン跡決定」の記事でも、検討委員の一人が「県民の関心が少ない感じ」と述べている。

県ではDP跡に決定する直前の2021年12月17日からスポーツ・コンベンションセンターに係る意見募集を行っていたが、これにもほとんど意見が寄せられていなかった(確か新聞報道では、20人が意見提出と伝えられた)。

ところが、この決定後に潮目が変わる。

このあたりを境に、いろんな人が、急にDP跡では問題があるとSNS等で発言するようになったような気がする。やっぱり一番大きかったのは景観の問題で、憩いの場であるウォーターフロントパークの芝生を残してほしいといった要望も多かった。突如県民の声が高まったことを受け、県では当初1月14日までとしていた意見募集の期間を1週間延長。これによって最終的には234人が意見を提出した。

私の見るところ、新体育館に関して民主的な手続きを軽視していたのはこの意見募集の一点である。というのは、意見募集している最中に委員会がDP跡に立地を決定したからである。意見募集の結果を反映した上で決定すべきであったのに、あろうことか意見募集中に決定をしてしまった。これでは何のために意見募集したのかわからない。アリバイ的な意見募集といわれても仕方ないと思う。新体育館の検討において、ここが最大の瑕疵である。

とはいえ、それ以外の点においては、それなりに民主的な手続きが踏まれた。こうして新体育館のDP跡への建設が決まっていったのである。

話が急に変わるようだが、太平洋戦争の記録を読んでいると「いつの間にか戦争が始まっていた」という記述に出くわすことがある。これはちょっと無責任な言葉のようにも思えるが、新体育館の建設についても、多くの県民にとって「いつの間にか決まっていた」ように感じられるのではないか。

先ほども書いたように、民主制は手間がかかり、一度民主的な手続きによって決定したことは権力者といえども簡単には覆せない。逆に言えば、一般市民の総意とはかかわりなく、その手続きが踏まれていくとすれば、いつの間にか引き返せないところまで進んでしまう。仮に多くの人が反対したとしても、もう遅い、という状況は容易に想像される。

新体育館についても、県民が2021年11月頃に声を挙げていれば、違った結論になっていただろうと私は思う。もちろんこれは後知恵だ。それに、その後に沸き起こった県民の声も決して無駄なものではなく、新体育館や本港区の将来によい影響を与えたと思う。だが、多くの声があったにも関わらず決定が覆らなかったのも事実だ(それに業界団体は概ねDP跡を支持していた)。

少し空恐ろしく感じるのは、そういう、後戻りできなくなる決定が、いろんなところで、今この瞬間にも行われているかもしれないという可能性についてである。いや、今この瞬間どころか、ずいぶん前に我々は後戻りできない道を選んでいるのかもしれない。そういう状況を避けるためには、国民が社会について関心を持ち続けること以外にはないだろうと私は思う。

「国民の関心が少ない感じ」と言われて重要な決定がなされ、威勢のいい独裁者に権力を与え、「いつの間にか戦争が始まっていた」とならないようにしたい。もうその時には、いくら反対を叫んでも遅いのだ。「民主的」に決定した事項は、簡単には覆らないのだから。


※現在、「鹿児島港本港区エリア景観形成ガイドライン(素案)」に関するパブリック・コメントが行われています(2023年10月6日~11月6日)。DP跡からの桜島の景観が気になる方は意見を出されたらよいと思います。
https://www.pref.kagoshima.jp/ah09/keikandezainkaigi/keikandezainkaigi1.html


2023年4月4日火曜日

過疎で高齢化しているが、子だくさんの町=大浦町から少子化対策を考える

私の住む南さつま市大浦町は、人口1600人の過疎の町である。

1600人というと、町というよりは村かもしれない。(合併後は、南さつま市の大字(おおあざ)として「大浦町」が設定されているのでそもそも自治体ではないが。)

大浦町の人口減少は甚だしく、平成17年(2005)に2678人だった人口が、15年後の令和2年(2020)には1674人にまで減ってしまった。その減少率は37%。そして令和5年(2023)3月末時点で人口がちょうど1600人になった。

当然に子どもの数は少なく、うちの集落では、我が子が最後の小学生になる見込みである。

このまま大浦町は消滅する運命なのだろうか?

遠くない将来、そうなるのかもしれない。しかし、ここに一つだけ明るいデータがある。

ここに掲載したのは、2020年の国勢調査データから作成した大浦町の人口ピラミッドだ。65~70歳くらいにピークがあり、かなり高齢化した様子がうかがえるが、実は子どもの数は、若い女性の数に比べてそんなに少なくはない。というより、結構多い。

実際、うちの子の同級生には、4人きょうだいが珍しくない。例えば、小5の娘の同級生はたった7人しかいないが、そのうち4人きょうだいなのが2人もいる(ちなみに3人きょうだいも2人)。「過疎の町」というイメージからは意外だろうが、大浦町はそれぞれの女性に注目すれば、たくさんの子どもが生まれる町なのである(ただその母数となる女性の数が少ないので、出生数は少ない)。

とはいっても印象だけで語るのは少し危ういので、ちょっとデータを出してみる。

これは、先ほどと同じく2020年の国勢調査から日本の人口ピラミッドを作成し、比較のために大浦町の人口ピラミッドと並べたものである。

左(日本全体)の横軸1目盛りは10万人、右(大浦町)の横軸1目盛りは1人である。

これを見てみると、日本全体では40歳以下の世代は減り続けているが、大浦町では10~14歳に小さいながらもピークがあり、単調な減少ではないことがわかる。

15~19歳でいきなりガクンと減るのはなぜかというと、大浦町には自宅から通える場所に大学や専門学校がなく、進学のためには必ず町外に出るからである。ついでに言うと就職もほとんどが町外になる。

さらに、数値でも比べてみよう。本当は大浦町の合計特殊出生率を算出できればよいが、合計特殊出生率の算出にはややこしい計算が必要なので、ざっくりとした数字を出してみたい。

具体的には、「20~49歳の女性の数」を、「0~14歳の子どもの数」で割ることとする。大浦町の場合は、「20~49歳の女性の数」が140人、そして「0~14歳の子どもの数」が123人なので、この値は0.88になる。子どもを産む年代の女性一人につき、0.88人の子どもが誕生している、ということだ。仮にこの値を「出生率もどき」と呼ぶことにする。

同様に日本全体で「出生率もどき」を求めてみると、0.70になる。ちなみに、これは合計特殊出生率1.33(2020年度)よりずいぶん低いように見えるが、合計特殊出生率とは、女性が15~49歳の間に産む子どもの合計数であるため、これから生まれる子どもを計算に入れなくてはならないからだ(なお「出生率もどき」に1.91を掛けると合計特殊出生率を近似的に計算できる)。

さて、「出生率もどき」で比べてみると、大浦町は日本の平均よりもずっと子どもが生まれている町だということになる。次に、どのくらいこの数値が高いのかを理解するため、都道府県別にこの数値を出し、ランキングにしてみた。



最高は沖縄県の0.93で、鹿児島県は2位の0.86。大浦町の0.88はこの間に位置し、全国的に見てかなり高い。最低は東京都の0.54。東京は大浦町よりもずっと子どもが生まれない街である。

ここまでデータがあれば、「大浦町は過疎で高齢化しているが、子だくさんの町でもある」ということは言い切ってよいだろう。

では、どうして大浦町は子だくさんの町なのだろうか。 

ここからの考察はデータに基づいたものではないが、4点それらしき理由が挙げられる。

第1に、結婚の年齢が早いことである。これは大浦町だけでなく、鹿児島の田舎に共通して言える。私が22歳で大学を卒業した時、小中学校の同級生(男)はすでに2回結婚して2回離婚していた。しかもそれぞれのパートナーとの間に子どもがあった。田舎では人生がずいぶん早く進む。

それは、大学進学率が低いことが影響している。特に鹿児島は女性の大学進学率が全国最低レベルに低い。要は大学に行かないから結婚が早い。また、田舎の場合はアウトドアとパチンコ以外の娯楽はあまりなく、男女の営みくらいしかやることがないという事情もありそうである(極論)。

第2に、大学進学率が低いために子どもの教育費を心配しなくてもよく、多産になる傾向があるということである。例えば4人きょうだいで全員が大学進学するとすれば、国公立大学のみであったとしてもその学費は総額1000万円を軽く超える。こうなるとなかなか多産はできないというのが一般的だ。

大浦町でも、子どもが大学に行きたいといえば行かせるのが普通だし、行くとなれば絶対に自宅からは通えないので、都会に住んでいる人よりも学費・生活費は高くつく。それでも、「子どもを全員大学まで行かせられるかどうか心配だ」との声はあまり聞かない。これは「大学は全員行くものではない」という楽観(?)に支えられていると思う。 

第3に、単純に家が広いということがある。といっても、大浦町はあまり経済的に豊かな地域ではなく、立派で大きな家はむしろ少ない。しかし土地は本当に安い。家を新築するときは、土地の値段はほとんど無視できる。だからすごく大きな家が多いわけではないが、都会に比べたら家はゆったりしている。つまり多産するのに住居が制約になりにくい。

第4に、これが一番大きいが、実家・義実家が近くにあり、子育ての手助けを得やすいということである。大浦町の住民は、ほとんどが元からの地元民である。だから実家・義実家が近い。しかも、これは南薩地区の特徴なのかもしれないが、両親同居の割合が低い。

というのは、このあたりでは伝統的に、子どもが結婚すると老夫婦は三畳一間ほどの「隠居小屋」を建てて敷地内別居していた。今では「隠居小屋」の風習は廃れたが親子別居の慣習は残り、核家族化したのである。

結果的に、大浦町では若い夫婦は実家の近くに別に住んでいるのが普通になった。これは二世帯同居よりも子作りの面では有利であるし、何やかやと実家・義実家の手伝いを得られるという、子育てには最高の環境である。習い事の送り迎えや、学校のない日の昼食(特に夏休み中)など、実家・義実家に頼れることはすごく助かる。逆に、例えば4人きょうだいでそれぞれに習い事があるような場合は、実家・義実家の送迎能力なしでは立ちゆかない。

以上4点が、私が考える大浦町が子だくさんな理由である。

それから、念のために付言するが、大浦町では女性への子どもを産むプレッシャーが大きいということは、(私の見るかぎりでは)ないと思う。大浦町はド田舎で遅れた地域であることは確かだ。だから「ここは男尊女卑で、女性の人権は無視されてて、子どもを産むのがプレッシャーだから多産なのだろう」と考える人もいるかもしれない。

しかし大浦町が九州の平均くらいに男尊女卑であることは否定しないが、ひどく男尊女卑であるとは思わない。むしろ男女が対等である場面も、都市部よりも多いくらいだ。それは大浦町が純農村地帯であり、高度経済成長期を含めずっと貧しかったからで、ここでは「サラリーマンの夫と専業主婦の妻」という図式がついに一般的にならなかった。共に働くことが当たり前で、妻が夫に経済的に従属していなかったから、ひどい男尊女卑にならなかったのだと思われる。

さて、上述の4つの理由を眺めてみると、第3の「家が広い」は別として、残りは全ていわゆる「遅れた社会」の特徴を形成しているものばかりだと気付く。結婚の早さ、大学進学率の低さ、人の移動の少なさ(実家と近い)といったものだ。そもそも「遅れた社会」は、大抵は高い出生率を伴っていた。だから「遅れた社会」の特徴を色濃く残した大浦町が、子だくさんなのは当たり前なのかもしれない。

ところで、今、岸田政権は「異次元の少子化対策」を行うこととしているらしい。それはいいことだが、大浦町の子だくさん事情を踏まえれば、この話題について財政支出だけが議論の焦点になっているのはちょっと不安だ。

もちろん、子育て支援には大規模な財政支出が必要だ。なぜなら、原子的個人に分断された「近代社会」においては、地域の相互互助や実家等からの手伝いなどは得られない以上、お金しか頼るものがないからである。

しかし、過疎地の大浦町が子だくさんの地域でもありえるのは、お金の問題ではないことは縷々説明したとおりである。それにお金が少子化を解決するなら、全国で一番平均所得が高い東京は一番子だくさんでなければならないが、現実には東京が一番出生率が低いのである。少子化対策には財政支出も必要であるが、社会の仕組みまで含めていろいろ変えて行かなくてはならない。

例えば、大浦町の事情から導き出されることだけでも、(1)学歴を諦めなくても早く結婚出来、(2)結婚・出産がキャリア形成に影響しないようにすることや、(3)高等教育の低額化や給付型奨学金の拡充、ついでに(4)子育て世代への住宅事情の改善などが考えられる。

逆説的だが、「遅れた社会」である大浦町から見ることで、かえって改善すべきことが明確になる気がするのだ。

それというのも、かつて日本中のどこにでもあった「遅れた社会」は、実は人間が生きていくのにちょうどよい間尺にデザインされたものだったからだ。もちろんその社会に生きていた全ての人が幸せだったとは思わない。自分の希望した生き方ができなかったり、差別があったり、貧困に苦しんだりした人は多かった。「遅れた社会」のままでよかった、とは思わない。だがその社会では、子どもを5人も6人も育てるような、今から考えると大変なことを、なんでもないことであるかのように普通にこなしていたのである。

一方、「進んだ社会」は、人間が生きていくためにデザインされたものではなかった。例えば「転勤族」というライフスタイルは、生活に相当犠牲が出るものだ。ギュウギュウに詰め込まれた満員電車に乗って通勤することだけでも、負担は大きい。どんな「お客様」にもマニュアル通りに笑顔で接客しなければならないことは、ほとんど非人間的だと私は思う。それが「働く」の当たり前だとしたら、それがおかしいのだ。生きるためではなくて、働くため、もっといえば「労働者を働かせる」ためにデザインされたのが、「進んだ社会」の一側面だったのではないか。

私は、高学歴化とか、女性の社会進出の進展、価値観の多様化、人の流動性の向上、ジェンダー平等といった「進んだ社会」のあり方は、基本的によいものだと思っている。そして、これは子どもを産んだり子育てしたりする上でもよいもののはずだ。出生率にはマイナスの影響を及ぼす「女性の社会進出の進展」だって、ある程度女性が働くのが当たり前になるとむしろ出生率がプラスに転じることは世界の国々が立証している。

それでも、日本以外の多くの先進国でも少子化が問題になっているのだから、「進んだ社会」は少子化を宿命づけられているのかもしれない。人を働かせることばかりに熱心で、人が生きることには冷淡なのが「進んだ社会」だとしたら、そうだろう。

だから少子化対策は、「進んだ社会」を「より進んだ社会」に変えていくことでなければならない。人々が、社会の駒としてではなく、自然体で、自分の幸福のために生きていくことができる社会にすることが、真の少子化対策になると私は信じる。

「異次元の少子化対策」が、まさか大浦町のような「遅れた社会」に逆戻りさせるということではないのを祈っている。

2019年5月20日月曜日

「制度の趣旨を逸脱」をめぐる総務省と自治体の「ふるさと納税」合戦

「ふるさと納税」の新基準に合致しない、ということで、鹿児島県では鹿児島市と南さつま市の税制優遇が9月で切られる、との新聞報道があった(全国では43自治体)。

総務省によれば「不適切な寄附集めをしていた」というのだ。南さつま市が不適切とされたのは、返礼率(総務省の用語では「還元率」)は3割以下でないといけないのに、業者に「奨励費」の形でキックバックし、実質返礼率をそれより上乗せしていたから、とされた。

この報道を見て、「ルールを逸脱して寄附をたくさん集めた南さつま市、けしからん!」と思った人もいるかもしれない。

しかし、ちょっと待って欲しい。私も「ふるさと納税」の返礼品を提供している事業者の一員である。内部から見た姿と報道された姿では大きな違いがある。行政からは反論しづらいところだと思うので、微力であるがちょっと思うところを述べてみたいと思う。

そもそも「ふるさと納税」が始まった2008年、今から約10年前には、これは地味な制度だった。寄附額も低調で、さほど注目もされていなかった。だが自治体が返礼品を充実させることにより次第にマーケットが巨大化していく。

「ふるさと納税」は、あくまでも自治体への寄附により税額が控除される制度であって、返礼品はオマケである。

でも、実質的には税学控除分でオマケを購入できることと意味は同じだから、「ふるさと納税」はEC市場(ネットショッピング市場)では、自治体が運営するディスカウントストアというような意味合いになってしまった。

こうして自治体には「ふるさと納税」のディスカウント合戦が湧き起こった。ある自治体などは、「返礼率は100%でもいい! 全部寄付者に還元するんだ!」というような極端なディスカウントをやるところも出てきた。

「寄附額を全額返礼品にまわしたら、自治体の手元にはお金が残らないわけだから、事務の手間がかかる分、損では?」と思う人もいるだろう。しかし自治体が集めたいのはお金ではなかった。「ふるさと納税」をきっかけにしてその地域のことを知ってもらい、ファンになってもらい、そして商品の愛用者になってもらうことが真の目的だったのである。

例えば南さつま市の地元企業は、全国に販路を持っているところは僅かであり、地方的な、地味な商売をしているところが多い。ところが「ふるさと納税」の波に乗れば、別段「ふるさと」を意識していなくても、美味しい肉や魚を安くで手に入れたい人がどんどん注目してくれるわけで、事業者はお金を掛けずにインターネットで全国に広報できるわけだ。そして返礼品を受け取った人の何割かは、今度は「ふるさと納税」と関係なく、その商品を買ってくれるお客さんになってくれるのである。

実際、私もポンカンを「ふるさと納税」の返礼品として出品したが、返礼品を受け取った方が次に普通の注文をくれたということが何件かある。

「ふるさと納税」なんていう制度が長続きするものではない、ということは明らかだから、存続している何年かの間に、地元企業のいくつかが全国にファンをつくり、販路を開き、拡大していくチャンスにできるなら、自治体の手元にさほどお金が残らなくったって、長期的に見れば十分おつりがくるのである。

2015年、2016年にふるさと納税日本一になった都城市は、まさにそういう考えから高い返礼率を設定するとともに、「日本一の肉と焼酎」に特化してアピールを行い、全国的にほぼ無名だった都城を一躍全国が注目する地域へ変えた。例えば2018年度の都城市は95億円もの「ふるさと納税」を集めているが、都城市の返礼率は55%程度と言われているから、地元企業の商品が52億円分売れた、というのと同じことなのだ。地方都市にとって、これはたいした経済効果と言わなければならない。

そしてより重要なことは、仮に「ふるさと納税」の制度が明日終了したとしても、都城市のお肉や焼酎を味わってくれた大勢の人たちは消えてしまうことはない、ということだ。きっとその何割かは、ディスカウント期間が終わったとしてもその商品の愛用者になってくれる。

「ふるさと納税」は、政策立案者が考えてもみなかったこうした効果の方がずっと大きかった。何億円寄付を集めた、ということよりも、オマケだったはずの返礼品によってお金以上の「繋がり」を構築できるかの方が重要になってきた。

ところがこれは表面上、「加熱する返礼品競争」と捉えられた。ディスカウント合戦だとみなされたのである。もちろん、寄附を集めたいがためにそういうエグい競争をした自治体はあった。でも多くの真面目な自治体は、「ふるさと納税」のプラットフォームを使って地元企業をEC市場に参入させ、全国に売り込んでいくためにこの機会を利用したのである。

しかし2017年4月、総務省は「本来の趣旨を逸脱している」として返礼率を3割以下にするよう自治体に通知。これを受けて南さつま市は、2017年9月、正直に返礼率を3割に見直した。

一方で、この通知を無視した自治体も多かった。というのは、通知があっただけで違反の罰則がなく、法的な拘束力がなかったのである。そもそも返礼率3割がなぜ適正かという論理的な根拠もなかった。なぜ返礼率が高いというだけで問題なのか、「競争が過熱している」というが、競争することがなぜ悪いのか、そういう観点は総務省通知には全くなかった。

確かに、「ふるさと納税」は金持ち優遇政策の一つである。金持ちほど得をする制度は、公共の仕組みとしてはあまり褒められたものではない。だがそれをいうなら、太陽光発電の補助金や売電価格保証だってそうだし、エコカー減税だって住宅ローン減税だってそうだ。貧乏人には縁のない、金持ち優遇政策である。なぜ「ふるさと納税」だけが狙い撃ちされなければならないのか、そこは謎だった。

だから多くの自治体が総務省通知を無視して高い返礼率を維持した。そこで馬鹿正直に返礼率を3割に低下させた南さつま市は、大幅な寄附減額に見舞われた。文字通り、正直者が馬鹿を見たのである。

これを受けて、南さつま市では2018年9月、返礼率は3割に維持したままで、「サービス向上費」として業者に15%キックバックする制度を始めた。総務省通知では、あくまでも寄付者への返礼率だけが問題で、自治体が事業者に補助することは何も言っていなかったからである。このようにして南さつま市は、返礼率は3割のままで、実質は寄付者に45%還元する仕組みにした。またこれに合わせて、ふるさとの納税事業者(返礼品を提供する事業者)によって組合(ふるさと納税振興協議会)を作り、より積極的に広報やキャンペーンなどに取り組んでいけるようにした。

ところがこの組合が設立された数日後、総務省は通知が十分な効力を持たなかったのを見て、都城市を名指しで批判し、高額な返礼品を送る自治体を制度から除外する方針を打ち出した。

あわせて10月、返礼率の全国調査が行われた。南さつま市では、別に悪いことはしていないということで、実質45%還元していることを回答。しかし全国で3割を越えたと回答したのはたったの25自治体に留まった。しかし返礼品競争が過熱していたのは事実だ(だから総務省は調査を行った)。多くの自治体では、はっきり言えばチョロマカシによって3割以内だと回答したのである。ここで、堂々と真実を報告した南さつま市を私は誇りに思う。

一方総務省は、多くの自治体が返礼率をチョロマカし、制度の趣旨に逸脱する競争が行われていると見て、2019年6月をもって、ふるさと納税の対象自治体を指定する新制度に移行することとした。南さつま市は上述の通り馬鹿正直に真実を報告していたため、暫定的に2019年9月まではこの指定を受けたが、他の自治体に比べ1年短い指定であった。要するに、6月〜9月の3ヶ月は暫定的に指定してやるから、その3ヶ月の間に返礼率を見直しなさい、というのである。なお、南さつま市は2019年3月に制度を見直し、返礼率を既に3割に低下させているから、おそらく来る9月には再指定を受けることができると思う。

さて、これまでの経過を見てみて、「ふるさと納税」をめぐる総務省の対応は極めてマズかったと言わざるを得ない。

「ふるさと納税」の自治体間競争が過熱したのの、どこに問題があったのか、そこを深く考えず、競争を抑制しようとしたのがいけなかった。そもそも「ふるさと納税」に限らず、政府は自治体間に競争の原理を持ち込もうとしてきたのが最近の流れだった。にも関わらず、実際に自治体間の競争が起きると、「競争が過熱」「制度の趣旨を逸脱している」などといい始めたのである。

そして「制度の趣旨を逸脱している」というのは、そもそもの制度設計が悪いことを自ら露呈しているようなものである。趣旨を逸脱して使える制度、というものがそもそも悪い。総務省は、制度設計が甘かったことを棚に上げて、自分の思うとおり動かない自治体にやきもきしているように見えた。だが10年前、制度の趣旨の通りに運用されていた「ふるさと納税」は寄附額も小さく、地味な目立たない制度だった。それがここまで盛り上がったのは、まさに「制度の趣旨を逸脱」したからであって、逸脱がなければ「ふるさと納税」などほとんどの人が顧みない失敗政策だっただろう。

だいたい、元来は地方の活性化政策だったはずの「ふるさと納税」なのに、実際に自治体が活性化に役立て、総務省の思惑を越えて意義深く活用したら、「制度の趣旨を逸脱している」としてそれに掣肘を加えるというのは、誰のためにやっている政策なのかわからない。「よくぞ我々の思惑を越えて、地方の活性化に役立ててくれました」と褒めてもいいくらいではないのか。総務省は「制度の趣旨」を守らせること自体が目的化しているように見える。

先日、南さつま市役所からふるさと納税事業者向けにお知らせがあった。そこには「再指定に向けても堂々と取組んで参る所存であります、皆様のご協力どうぞよろしくお願い致します」とあった。「堂々と」とわざわざ書いたのが奮っている!

無様なチョロマカシをせず、堂々と「ふるさと納税」に取り組んだ南さつま市は立派だったし、これからも堂々と取り組んで欲しいと思う。

でもチョロマカシをした自治体よりももっと無様だったのは、総務省の方だと思えてならない。

2017年3月13日月曜日

農業に「移民」はいらない

今、日本は人手不足らしい。

特に人気のない職業の場合は。

「そんなの、待遇改善すればいいだけだろ!」というのが経営者以外の方々から言われている。その通りだと思う。だが農村の場合は、そもそも人がいない。それで、安易に外国人を入れようという話に進みがちである。「外国人技能実習生」という名の、低賃金出稼ぎ労働者の活用だ。

そもそも、外国人技能実習生、という制度は悪名高く、日本農業の恥部とも言える。研修の名の下に最低賃金を下回る待遇にしたり(違法)、相手の生活全般を握っているのをいいことに様々な費用をピンハネしたりといった話も聞く。全部が全部そういう悪用のケースではなく、企業と実習生が互いにうまくニーズを満たしあっているケースも多いが(そもそも外国人も自主的に来ているわけだから)、悪用しうる制度になっていること自体が問題だ。

高収益を挙げている成功した農家、という話をよく読んでみると、実際には外国人技能実習生を搾取しているだけの経営だったりする。農業技術なんて関係ない。1000円分の仕事をさせておいて500円しか支払わなかったら、大儲けするのは当たり前である。それは農業で儲けているのではなくて、搾取によって儲けているだけなのだ。

そして、搾取によって儲ける、ということほど確実な金儲けの道はない。一度「搾取」を覚えたら、そこから真っ当な商売に戻っていくのは大変なことだ。こうなると、「どうやったら合法的に搾取できるか」だけを考える商売になっていく。

こんな恥ずかしい仕組みを国策として推進しているだけでも大問題だが、最近はこれでも足りずについに「移民」の検討が始まっているらしい。この新しい「移民」が、「どうやったら合法的に搾取できるか」を目的としたものでないことを祈るが、そうでないにしても、都合よく使える人間を連れてこようという発想には違いない。

しかし、移民というのは出稼ぎ労働者とは全然違う。何しろ、用が済んだから帰って下さいというわけにはいかない。歳を取れば年金を与えなくてはならないし、病気になったら健康保険を適用しなくてはならない。生活に困窮したら生活保護を与えるべきだ。でも働き盛りの時には都合よく働かせておいて、移民がいざ保護を必要とする状況に陥ったら「自業自得だ。移民のために税金を使うなんて馬鹿げている」などと言いはしないだろうか?

イスラーム世界最大の学者とも言われるイブン=ハルドゥーンが、歴史を動かす力を考究し尽くした大作『歴史序説』で14世紀に強調している。社会を成立させる基礎は「連帯意識」にあると。社会は容易には壊れないが、みなが同じ社会を構成する「同胞だ」という意識がなくなれば、その社会はあっけなく崩れてしまう。世界の歴史を見ても、国家というものは敵国との戦争で滅びるよりも、社会の分裂によって瓦解することの方が多い。

移民とは、他の国の人間を「同胞」として迎え入れることでなくてはならない。でなければ、社会に分断をもたらす。我々は外国からの労働者を、「同胞」として迎え入れられるほど、「世界市民」へと成長しているだろうか?

「五族協和」「八紘一宇」を掲げた戦前の人々は、そのスローガンを実践はしなかったが、少なくともそういった大義名分がなければ他国の併合はできないと思っていた。ただ力によって人々を支配するのではなく、もともと我々は一つなんだという建前を必要とした。しかし今の、移民についての検討はどうだろうか。誰を同胞として迎え入れるか、という観点はほとんどないように見える。ただ、都合のよい人を連れてこようという話にしか見えない。建前だけの大義名分すら、そこにはない。

私は鹿児島生まれではあるが、ここ南薩には一応Iターンで移住してきた。自分自身は地域によく受け入れてもらっていると感じているが、決して順調な移住だけではないこともいくつか見て来ている。最近は、行政が移住を強く推進していて、ちょっとしたブームになってきているようだ。だがその移住は、「同胞」を迎え入れようというものになっているだろうか。ややもすれば、地域にとって都合のよい人材のみを求めるものになっていないか。

もちろん、わざわざ外から人を受け入れようということになれば、都合の悪い人が来てもらっては困る、というのは自然な感情である。できれば有為の人材に来てもらいたい、というのは当たり前だ。そのために魅力的な仕事を用意したり、環境を整えたりすることはいいことだ。だがそれをするのなら、今、現にそこへ住んで仕事をしている人の待遇改善をするほうがよいのではないか。

「そんなこと言っても、農村には人がいない。集まらない」という声が聞こえてきそうである。農業だけでなく農水産物の加工なんかも、外国人技能実習生でなんとか人をやりくりしているところは多い。

しかし自分自身が農業に取り組んでみてわかった。少なくとも、農業は決して3K(きつい、汚い、危険)の仕事ではない。きつくもないし汚くもないし、それほど危険でもない。泥で汚れてもそれは別に汚くはない。むしろ土というものは清浄なものだ、ということが最近分かってきた。昔なら人糞の撒布なんかもあって事実汚かったのかもしれないが、今はそういうこともほとんどない。そして、「きつい」は全然当てはまらない。人間にとっていちばんきついのは、何をおいても人間関係である。上司や客から罵倒されて働く職場がいちばんきつい。少なくとも農業(独立自営農)にはそういう精神的きつさは全くない。体力的にきついのは時々あるが、最近は機械化が進んでいるからどんどん楽になってきている。

ただ、別のK、すなわち「稼げない」はあるかもしれないと思っている。でもそれにしたって、稼げない仕事ばかりになってきている昨今、農業だけが特に稼げないというわけでもなさそうだ。こう考えてみると、農村に人がいない、農業に人が集まらないというのは、それほど必然ではないと思う。外国人労働者に頼らなくても、農業の魅力だけで人集めはできると私は思う。

外国人技能実習生がいなかったら、農業が成り立たない! なんていう人がいるかもしれない。米国の農業も、メキシコからの移民に大きく依存していた。EU先進国の農業も、東欧などからのEU内移民によって成り立っていた部分は大きいらしい。農業は、やはり低賃金労働者を必要とする産業であることは確かである。しかしこの南さつま市大浦町では、今のところ外国人技能実習生は一人もいないようである。日本の端っこで、僻地というハンデを抱えながらも、地元勢でそれなりに農業をやってきている。外国人技能実習生がいなくても、現に成り立っているではないか。

農村に人がいない、それは大問題には違いない。

しかし、ルネサンスの旗手となった全盛期のフィレンツェの人口が、たった4万5千人くらいである。南さつま市の人口が、約4万人弱で同じくらいだ。フィレンツェは世界の富を牛耳っていたし、こんなに高齢化していなかったし、ヨーロッパ中から俊英が集まっていたから人口が同じくらいだからといってもそれを比べるのはおかしいかもしれない。

だが、我々一人ひとりができることの可能性は、ルネサンス時代と比べて千倍にも広がっている。志を同じくする人が10人でも集まれば、世界を変えることだって不可能ではない時代に我々は生きている。人が少ないからお先真っ暗、というのはあまりに短絡的なのではなかろうか。

私自身は、外国人がたくさん日本に来て、日本の遅れた文化を変えてくれたら面白いと思っている。何にでも印鑑がいるとか、FAXで請求書を送らなきゃならないとか、上司には「了解しました」ではおかしいとか、そういうどうでもいい、「伝統」でもなんでもないことはどんどん破壊すべきだ。しかし移住にまつまわる話を聞いていて感じるのは、同じ日本人の移住者すら、「同胞」と見なしてくれない地域はまだまだ多いということだ。

だから都合のよい外国人労働者を連れてくることよりも、今社会に生きる人の可能性を、もっともっと押し広げることこそが必要だと思う。待遇を改善し、人間らしい暮らしを送れるようにすること。人生を楽しめること。ステキな思いつきを現実に変えられる余裕を持つこと。誰を搾取するでもなく、人生を謳歌できるようにすること。

そんな生き方ができるようになれば、「人手不足」は自然と解消されるだろう。

【2017.3.15アップデート】
適正に「外国人技能実習」の制度を使っている方が不快に思われる書き方をしていた部分があったので、若干改めました。

2016年7月4日月曜日

「人間らしい暮らし」こそ社会が発展する原動力

(前回からのつづき)

そして、次の大問題、経済成長と少子高齢化について。

この20年、日本は慢性的な不況に苦しんでいる。ほとんど、経済成長していない。「経済成長しなくても幸せに暮らすことは可能!」という人もいるが、それは今のところ皆が皆には当てはまらない。経済が停滞して一番割を食うのは弱い立場にいる人で、経済成長しなくても幸せに暮らせるのはある程度の強者である。弱者に手をさしのべる余裕は、経済成長の中でこそ生まれる。経済成長は、まず弱者にとって必要である。

そしてより重要なことは、世界全体が総じて経済成長している中で、日本だけが経済成長しなかったらどうなるのか、ということである。日本は相対的に貧しい国になっていき、結局は全体の福祉が損なわれることになる。現代文明が限界に近づいていることも明らかで、次の文明のあり方を模索することは我々に託された重要な宿題だが、グローバル経済の中で日本だけが今「脱経済成長」をすることは現実的ではない。

何より経済成長は、環境を改善し(環境汚染がひどいのは発展途上国)、福祉を向上させ、人々をより自由にする(ことが多い)。逆に不況は、環境を破壊し、福祉を悪化させ、人々をより不自由にする。もちろん、生産活動が盛んになることで環境が破壊される面もある。でも好況の中では環境負荷が小さい生産方法を探す余裕もあるが、不況の中では(例えば不法投棄のような)違法で環境を破壊する行為が、コストダウンの為に選択されることが多くなる。

前置きが長くなってしまったが、要するに経済成長は必要なものだし、大体において社会によい影響をもたらす。そんな経済成長に、この20年見放されている不幸な国が、日本である。

なぜ日本は経済成長しなくなったのだろうか。なぜこんなにも不況が続いているのだろうか?

簡単に言えば、それは需要不足である。つまりものが売れない。売れないから、企業はコストカットを行う。どんな業種でも一番のコストは人である。だから正社員を安い非正規労働者に置き換える、リストラをする。残業代を減らして、無闇な長時間労働をさせる。そうやって不況の中でもなんとか利益を出してきた。それどころか、不況の中で「過去最高益」を更新する企業がたくさん出てきた。でもそうしているうち、どんどん人は人間らしい暮らしをできなくなった。労働者は、職場を離れれば消費者になる。でも給料がそれなりに出れば買えたはずのものが、買えなくなった。だからもっと、ものが売れなくなった。それが現在の日本が陥っている不況の悪循環だと私は思う。

これへの処方箋は(理論的には)簡単だ。労働の改善再配分の強化である。つまり、給料を増やしたり長期間労働を是正したりして消費への意欲を増やし、お金がなくて困っている人にはお金を渡せばよい。これが最大の成長戦略、景気刺激策だと私は信じる。

景気刺激策のことが話題になると、よく「大企業か庶民か」というような二項対立が語られる。でも実は大企業こそ、庶民という巨大な消費者層に頼った存在だ。

どういうことか、例えば食品業界で考えてみたらよい。大企業がどんな商品を開発しているか。100円のチーズか、500円のちょっと高級なチーズか、3000円の高級チーズか。大企業ならどんな商品を開発するだろうか。もちろん100円のチーズだ。なぜなら、高級なものは利益は大きいが、ほんのちょっとしか売れないからだ。ほんのちょっとしか売れないものを開発しても、多くの社員を支える利益を出すことはできない。だから、大企業というものは、商品開発においては実は不自由なことが多い。常に、多数派に売れるもの、万人受けするものしか開発できないからだ。要するに、巨体を維持するためには、多数派の「庶民」に依存するしかないのだ。実は、「大企業」と「庶民」は、一蓮托生なのである。

よって、庶民が豊かになることは、大企業の利益にもなる(もちろん、中小企業の利益にもなる)。法人税の減税とか、労働規制の緩和といったようなことは、短期的には企業の利益にもなるが、それは本質的には成長のキーにはならない。企業が成長する唯一のキーは、需要が伸びること、それに尽きるのである。そのためには、庶民が豊かにならなくてはならないのである。

だから、まずは労働の改善が必要だ。無闇な残業をなくす、それだけでどれだけの需要が喚起できるか。早く帰れれば、友人と食事やお酒を楽しんだり、趣味にお金を費やす余裕もできる。無理なく安定的な働き方ができるようになれば、確実に消費は伸びると思う。一方現政権は、労働規制を緩和しようとしている。いわゆる残業代ゼロ法案である。これは、経済成長とは逆の道だ。

そもそも、日本の労働基準法は既に蔑ろにされている。労働基準法という最低限の基準すら守っていない企業は多い。これをしっかり守らせるべきだ。そのためにはどうするか。ここはちょっと難しい。労働基準を守らせるためには、結局は労働組合を強化しなくてはならないのだ。でも日本の労組というのは構造的に弱いものになっている。というのは、企業内に労組があるという事情がある。企業内に労組があるということは、企業と労組が共同体になっているということである。企業が倒れれば、労組も無くなる。これではストも団体交渉もできたもんではないのである。

ヨーロッパでは、産業別に労組がある。企業とは独立して横断的な労働組合が設立されているのである。だから強い交渉権があるのだ。このように、基本的に企業と独立した労組を日本でも育てていくことが必要だと思う。特に、企業内労組の弊害として、交渉力の小ささもあるが、そもそも労組が存在しない企業もあるということもある。だから弱い立場で働かざるを得ない人ほど労組に頼れなかったりする(そういう人が働く弱小企業には労組がないことがある)。労働法規には詳しくないので具体的な提言はできないが、企業に労働法規を遵守させるには労働者の声を強くする以外にはないのだから、労働組合を構造的に強いものにしていくことが求められるだろう。

連合(日本労働組合総連合会)を支持団体にしている民進党は、基本的には「労働者の党」になるべきだ。しかし連合そのものが、これまでの複雑な経緯や内部事情を抱えていて、正常に機能しているようには見えない。それどころか、連合の存在そのものが、新しい時代の労働組合の誕生を阻害している面すらあるのではないかと思う(私の想像です)。今の時代に労働者の権利をどうやれば守れるか、そこから出発して仕組みを作り直していくべきだ。

そして、再配分の強化もしなくてはならない。人間は、生まれながらにして平等ではない。どんな時代にどんな両親の下に産まれてくるか、それだけで一生のほとんどは決まる。こんな不公平なことはないのである。そして、何も策を講じなければ、その不公平はどんどん拡大する方向に進んでいく。豊かな人はより豊かに、貧しい人はより貧しく。教育すら、その拡大に荷担してきている。東大に進む若者の親は、多くが豊かな人である。かつて教育が果たしてきた階級上昇の機能は、もはや麻痺状態にある。

だから、再配分が必要だ。再配分によって、公平な社会を作っていかなくてはならない。しかし再配分は、弱者保護の意味合いだけではない。偏りすぎた富を分配することは、豊かな消費社会を作っていくことにもなるのである。1人が10億円持っていて、99人が100万円しか持っていない社会より、100人が1000万円ずつ持っている社会の方が、多様な消費が行われ、より多くの貨幣が流通する(売ったり買ったりでお金が動く頻度が高くなる)。つまり極端に富が偏った社会よりも、平等な社会の方が経済成長する可能性はずっと大きい
 
では、再配分が必要だとしても、その原資は何にすべきか。まず一つは、前回書いたように不公平の温床となっている年金の改革をする。でもやはり本丸は税制である。特に日本の法人税法(租税特別措置法)はめったやたらに複雑で、ある程度以上の大企業だと悪気がなくても節税がどんどん可能な悪法である。税制を簡素化して各種の優遇措置をなくし、帳簿上のやりくりで払うべき税金が免除されてしまうような事態をなくすことだ。(でも個人的には、法人税は最初から無税にして、自然人への課税を非常に累進的にするのがこれからの合理的な税制だと思う。)

また、これは社会保障関係費の改革そのものでもあるが、税と社会保障を一本化するべきだ。つまり、健康保険とか年金を「社会保障費」として個別に集めているのを辞めて、徴集を税に一本化するのである。もっと単純にいうと、社会保障費の徴集は厚労省の所管になっているが、これを国税庁に移管する。税も社会保障も再配分の一環なので、個別に集めるよりも一本化した方が合理的に制度が設計できる。この一本化の大きなメリットは累進性を高められることで、社会保障費は今さほど累進的でないので、これをかなり累進的にして再配分の要素を強めることが必要だと思う。

こうして、生活に困っている人の数を少なくする。世の中では生活保護の不正受給だなんだと、再配分への風当たりは強いが、私は逆に生活保護はもっと受けやすくするべきだと思う。それが公平な社会の実現でもあり、同時に経済成長にも繋がると思うからである。

さて、ここまで読めば、もう書かなくても分かっていると思うが、経済成長に必要な対策と、少子高齢化対策はかなりの程度が共通している。労働の改善(ワークライフバランスの改善)と再配分の強化、これは少子化対策そのものである。高齢化対策の方は必要なことがちょっと違うが、これは結局はお金のやりくりの話になるので、大問題なのは少子化の方である。

既に高度経済成長期から出生率は低下してきており、景気のよしあしだけが少子化の原因ではないし、景気が上向きになったからといってすぐに出生率が上昇するとも考えられない。人々の価値観やライフスタイル、そういうものの変化が少子化を招いている面もある。しかし経済的な理由で結婚や出産ができない、遅れる、と言う人も多い。少なくとも、経済的な面での安定がなくては、価値観やライフスタイルが仮に昔に戻ったとしても少子化は改善しないだろう。

結局、経済成長でも少子化でも、改善するには「人間らしい暮らし」ができるようになること、これだと思う。美味しいものを食べ、友人と遊び、趣味を楽しみ、家族で団らんする。これがあたりまえの「人間らしい暮らし」である。この20年の不況が破壊してきた当たり前の暮らしだ。これを取り戻さなくてはならない。要するに「人生を楽しむ」。それが消費に繋がり、人と人との出会いに繋がり、社会が発展していく原動力になる。「人生を楽しむ」というと随分お気楽な題目だけれども、これがなかったら「社会」そのものが存在している意味がない。

これまで、財政再建、経済成長、少子化という内政面について長々と述べてきた。一方で、外政面についてはいろいろと難しいこともある。しかし、国というのは内部から瓦解しない限り、国際的な紛争によってはなかなか崩れないものである。恐れるべきなのは、隣国の脅威とかテロではない。それよりも、「人生を楽しむ」ことができなくなりつつある社会の方だ。個人の楽しい人生が存在しなくなったら、その国は経済成長など絶対にできない。財政再建など夢のまた夢である。国家を強力にするには、まず個人の人生が充実していなくてはならないのである。国家か個人か、という二項対立は存在してはいけない。常に個人が優越するべきだ。個人の人生がなかったら、国家は存在しない。

かつて米国のジョン・F・ケネディ大統領はその就任演説で「国があなたのために何をしてくれるかではなく、あなたが国のために何ができるかを考えようではありませんか」と述べた。それに対して私ならこう答える。「私が国のためにできる一番のことは、自分の人生を充実させることだ」と。

今回の選挙から投票権が18歳からに引き下げられる。若い人たちは賢いから言われなくても分かっていると思うが、「自分の人生の充実」が、国政を見る視点だ。「自分」を大切に思ってくれるのは誰なのか。それを見極めて投票所に足を運んで欲しい。

2016年7月1日金曜日

自民・公明か、それ以外か

(前回からのつづき)

一方、今回の鹿児島の参院選は、どちらに投票すべきかそれほど明らかではない。

というのは、現在の国政は徹底的に政党政治が(悪い意味で)貫かれていて、誰が当選するかというのはさして問題ではなく(もちろん党首が落選するとかは大きいことだが)、結局は議席数のみがものをいう世界である。要するに、「人」よりも「党」を選ぶのが国政選挙である。

今回、鹿児島で立候補している4人を見ると、自民党1人、幸福実現党1人、無所属2人であり、「党を選ぶ」という観点では、実質的には野村 哲郎(自)と下町 和三(民・共・社の推薦=野党統一候補)の2択だろう。

でも野党統一候補、といっても、実際の国政における位置づけが明らかでないのが問題である。当選後にどこかの党に所属するのか、それとも当選後も無所属という不利な立場で活動するのか…。位置づけの如何によっては、大した活動ができない可能性もある。野党統一候補というものを作ったまではよかったが、であれば野党としての共通の(アンチ自民だけでない)価値観をつくるべきだった。でも一方で「自民党以外」という選択肢を用意するだけでも精一杯だったのだろうとも思う。それが現在の野党の限界なのかもしれない。

というわけで、鹿児島だけに限ったことではないが、今回の選挙は「自民・公明か、それ以外か」を問う選挙である。そして私なら、「それ以外」を選ぶ。

最近の自公政権は、かつてのそれとは随分違ったものになってきている。最も強調しなければならないのは改憲の動きである。自民党の出している改憲案を見ると、あからさまに個人の自由や権利を制限し、公の秩序を優先する考えが見て取れる。かつての自民党だったら、こういう方向性を打ち出したかどうか…。もはや自民党は「保守派」ではない。

派閥政治華やかなりし頃の自民党は、内部で百家争鳴ある政党だったので、このような草案がまとまることはなかったと思う。それが最近、急に自民党が一枚岩化してきて、異論を言うのは古い自民党の生き残りのような人たちだけになってしまった。公明党も、長く政権のバランサーとして自民党の独走を抑制する役割を果たしてきたと思うが、最近は軽減税率の導入を強く主張するなど、目先の点数稼ぎに走っている感がある。

私は自民党政権時代に霞ヶ関で働いていたし、元々アンチ自民ではないが、最近の自公政権の動きは不気味すぎてついて行けないと感じる。自民党・公明党のためにも、このあたりで一度立ち止まって考えた方がよい。

かといって、野党に国政を任せられるだけの甲斐性があるのかというとこれも心許ない。人材は少ないし、政策面も薄弱である。とはいっても、今回は政権交代を問う選挙ではないので、とりあえず自公政権を掣肘する意味合いで野党には頑張って欲しい。

と同時に、いつまでも「アンチ自民」だけでは成り立たないということは、民主党政権の時にみんなが痛感していることだ。野党は今後、これまでの利害得失を乗り越えて共通の価値観を作り、それに賛同できないものは去って、新たな力をまとめていく必要があるだろう(今回の選挙の結果如何に関わらず)。

……というわけで、与党にも野党にも上から目線で論評してきたが、じゃあお前はどんな政策を望むのか、という人もいるだろう。

なので、今回の選挙とは直接関係しないこともあるが、この機会に国政に関して普段思っていることを書いてみたい。選挙でもないと、国政について語るということもないので。

……

まず現在の日本が直面している大問題は、内政面では財政再建経済成長、そして少子高齢化である。

現政権は、財政再建のために増税を予定している。野党はこれに反対しつつも、「財政再建のためにはしょうがないのかな」という感覚も持っているように思われる。しかし歴史的にも、増税のみによって財政再建を成し遂げた国はないと思う。ある程度の増税は必要だとしても、財政再建に必須なのは歳出の抑制である。要するに赤字経営のさなかでの大盤振る舞いを辞めなくてはならない。

そして、最も大きな歳出抑制が必要なのは社会保障関係費である。単純に言えば、例えば年金の減額をする必要がある。ただでさえ年金というのは世代間不公平の温床になっていて、だいたい1955年生まれより上の世代は得をして、その下からは損をする(支払い額より受給額が少なくなる)という構造になっている。まずこれを是正する必要がある。年金制度の実質的な破綻は明らかなので、早いうちに改革した方が傷も小さくなる(厚労省は「年金は破綻しない」と言っているが、要するに給付額をどんどん少なくしていけば破綻しないというだけの話で、それは実際には破綻だと思う)。

さらに医療・福祉(介護保険等)にもメスを入れる必要がある。国民皆保険などのこれまでの日本の医療制度は大変優れたものであったと思うが、もはやそれを維持する余裕はなくなってくるので、患者負担の割合を高めるといった改革(改悪?)を行わなくてはならないだろう。でも最初は一律に負担割合を増やすのではなく、例えば平均入院日数の縮減のような取組が先だ。入院は医療行為の他にホテル的な費用がかかるので医療費の増加への寄与が大きいし、入院日数の縮減は患者の利益にもなる。しかし入院日数を短く抑えようとすると、結局は病床数の削減をしなくてはならない。こうなってくると話が難しいが、難しい話を避けてやりやすい負担割合の増加をやるよりも、業界と向き合った改革が必要だと思う。それには、中医協(中央社会保険医療協議会)の改革というような、地味で難しい課題に取り組まないといけないかもしれない。

しかし、年金を減らして、医療・福祉を改悪するとすれば、このようなことを掲げる政党はとても議席を取れそうではない。これらは特に高齢者層にウケが悪い政策で、彼らの票は非常に大きいし、高齢者でなくても反対する人は多そうだ。だが(政治家は誰も言わないが)こういったことをしなければ財政再建ができないのは明白なのである。よって、「民主制度下においては、財政再建はできない」と言う人すらいる。財政再建を行うために必要な政策は、民主的に否決されるようなものばかりなのだ。極論を言えば、財政再建を行うには民主制度を捨てなくてはならない、ということになる。

もちろん、財政再建を行うために独裁制をとるのは本末顚倒なので、こうした(主に高齢者層への)不利益を緩和させ、なんとか民主的に年金・医療・福祉の低下を実現していかなくてはならない。その手法は私にも見当が付かないが、基本的には社会保障制度の簡素化と、公平さの実現であろう。

「公平さ」、これがこれからの日本社会を作っていく上でのキーワードだと私は思う。

目先の年金・医療・福祉よりも、子ども世代・孫世代まで含めた公平さを選択する人は、今はそんなに多くないかもしれない。でも少なからずそういう人はいる。そういう人に向けたメッセージを発する政党が、少しはあってもいいと思うのだ。

(つづく)

※冒頭画像はこちらからお借りしました。
By Emmanuel Huybrechts from Laval, Canada (Golden Lady Justice, Bruges, Belgium) [CC BY 2.0 (http://creativecommons.org/licenses/by/2.0)], via Wikimedia Commons