2020年1月23日木曜日

共鳴する加速関係——大浦町の人口減少(その4)

(「いかにして大浦町が農業の機械化先進地となったか」からの続き)

大浦のメインストリートを、木連口(きれんくち)通りという。

南北に延びる、700mほどの通りである。今でも、役場、銀行、役場、郵便局、スーパー、農協、ガソリンスタンドなどが並びメインストリートとしての名目は保っているが、まあ有り体に言ってシャッター通りになってしまっている。

しかしこの通りが最も賑やかだった昭和20年代は、たくさんのお店や家がこの通りを埋め尽くしていた。年末の歳の市になると、すれ違うこともできないほどの人でごった返したという。大浦干拓が完成した昭和40年代にも多くの店が軒を連ねており、この700mに電器店だけで4店もあった。理容・美容室に至ってはなんと11店も(!)あったのである。美容室が犇めく東京・南青山でもそれほどの美容室の密度はないかもしれない。

かつての大浦の絶望的な貧しさを考えると、理容・美容室がとんでもない密度で存在していたことが不思議なくらいである。既に述べたように、昭和60年代になっても大浦町民の平均所得は全国平均の半分、鹿児島県の平均の70%しかなく、全国でも有数の貧乏地帯だったのだから。にも関わらず、木連口通りが活気に溢れていたことも同様に事実だった。

東南アジアや南米などを旅してきた人は、この貧しさと活気の両立を別段不思議とも思わないかもしれない。統計で見れば極貧の地域で最低の生活を余儀なくされているボロ屋街の人々が、実にアッケラカンとしてせせこましくなく、通りは活気があって人々は元気だということがたくさんあるのだから。いや、そういう地域の貧乏な人たちの方が、立派な企業に勤める高級住宅街の人達よりもずっと生き生きして人生を謳歌しているように見えることもしばしばだ。

だから過去の大浦が、全国有数の貧乏な町であったことと、木連口通りに活気があったことは矛盾しない。ポケットにはお金はなかったが、みんな若く無鉄砲で、将来の心配などせずその日暮らしをしていた。事業計画書などなしに新しい商売を筵(むしろ)一枚で始め、うまくいかなければさっさと辞めた。通りには入れ替わり立ち替わり新しい商売が生まれ、消えていった。大浦だけでなく、日本中がそういう時代だった。

——どうして、この活気が失われてしまったのだろう。

ここに掲載したのは、1955〜1995年の大浦町の人口・世帯数・高齢化率のグラフである。

1955年(昭和30年)には7500人以上いた人口が、30年後の1985年には約半数の3700人あまりに減ってしまった。この人口減少は、若者が町を去ったために起こったので、高齢化率は逆に10%未満から30%以上へと急上昇した。通りから活気が失われた直接の原因は、この高齢化である。

これは日本の農村に共通した傾向ではあった。産業の中心が農業を中心とした第一次産業から製造業など第二次産業へとシフトし、農村の若者たちは「金の卵」と言われて集団就職で上京していった。だが大浦のように変化が急激だったのも珍しい。だからこそ大浦町は鹿児島県で第1位の高齢化自治体になったのである。

なぜ大浦の人口減少はかくまでに急激だったか。

干拓事業やそれに続く基盤整備事業、そして農業の大規模化・機械化といった意欲的な動きがあったにも関わらず、同じ時期に人口が急減しているのは傍目には不可解だ。しかし実はこれらの動きは連動していたのである。

というのは、農業の大規模化・機械化が急速に進んだ原因は、人々の意欲だけではなかった。むしろ人口減少への対応という側面もかなり存在したのである。例えば、昔の田植えというのは、一族総出で行われなくてはならない一大行事だった。ところが若手がどんどん都会へ出て行ってしまうと、十分な人手が集まらなくなる。そうなると機械で田植えをしなければしょうがない。ある意味では、人々はやむにやまれず機械化に進んだのである。

そして、農地の規模拡大はより人口減少と関わっていた。既に述べたように、干拓以前の大浦の農家の平均的な規模は30aほどだったが干拓地では3haと10倍になり、その他の地域でも徐々に規模が拡大していった。ということは、農地の総面積はそれほど変わらない以上、農地の規模が10倍に増えることは、農家数は10分の1に減ることを意味する。

これは、零細農家が競争に負けて廃業していった、ということではない。後継者のいない農家が自主的に廃業していった結果であり、農業の近代化がそれについていけない零細農家を淘汰したわけではなかった。むしろ、この時期の大浦の農業に機械化・大規模化のトレンドがあったことは、そうした廃業農家の耕作地がスムーズに集積され、荒廃せずに済んだというプラスの面が大きかった。

しかし農業の大規模化・機械化が進めば進むほど、人口減少が加速していったこともまた疑い得ない。今まで5人必要だった作業が、機械の力を借りて2人でできるようになる。今まで10人の人手で耕した田んぼが、トラクターでは1人で耕せる。このように省力化が進んでいくと、同じ農業を続けて行こうにも、自然と人間があぶれて行ってしまう。

若者は、ぼーっとしているように見えても、こういう趨勢に極めて敏感である。「自分はいずれ、ここにいなくてもよい人間になる」、うすうすでもそう感じれば、自然と外に目が向くのが若者だ。逆に言えば、この時期に農業の大規模化や機械化のトレンドがなく、相変わらず人手に頼った農業をしていれば、ある程度の若者はイヤイヤながらでも大浦に踏みとどまったかも知れない。「自分がいなければこの家はやっていけない」と思えば責任感から人生を選択する人はけっこう多い。

しかし実際には、大浦の農業は急速に近代化しつつあり、人手に頼らなくてもすむ形へと変わっていった。人口減少の流れがある以上、そういう形に変えて行かざるを得なかったからだ。農業の大規模化・機械化は人口減少の原因ではなかったが、それを助長する要因ではあった。

農地の大規模化・機械化・人口減少は「共鳴」し合いながら加速していったのである。この共鳴する加速関係があったことが、大浦が鹿児島県で第1位の高齢化自治体になるほど急激な人口減少がおこった理由であった。

このように書くと、町の発展のために行われた干拓事業や基盤整備事業、そして個々の農家の大規模化の努力が裏目に出たかのように感じる人がいるかもしれない。仮にそうした動きがなく、人々が狭い耕地で人手に頼った昔ながらの農業をしていれば、急激な人口減少は避けられたのかもしれない。事実、大浦よりももっと僻地の山村で意外と人口が維持されたケースはあった。でもそれは長期的に見れば、静かに廃村へ歩んでいくことにほかならなかった。基盤整備をしない狭い田んぼばかりの土地は、いずれ耕作が不可能になることは明らかだからだ。牛や馬で耕す人は今や誰もいない。

だから大浦が早い時期に農業の近代化に取り組んだことは、急激な人口減少という痛みはあったものの、長期的に見れば町の発展に寄与したのである。今でも大浦は耕作率が高く、主要な水田にはほとんど耕作放棄地がない。それに町にとっては人口減少は痛みだったかもしれないが、出ていった若者を見てみれば、大浦で農業をするよりもずっと実入りのいい仕事に就いた人が多かった。やりたいことができずに農業をやらされるより、都会に出て行くことができたのはよい面もあった。

もちろん、本当なら生まれ故郷を離れたくなかった、という若者もたくさんいただろう。そうした若者に町内でよい就職口を準備できなかったのは残念なことだ。だが当時の人達に何ができただろう。農業の生産性を上げる、というのが純農村地帯であった大浦にとって唯一にして最大の経済政策だったことは間違いない。 結果的に激しい人口減少を招いたのはわずかばかりの皮肉だったとしても、大浦の農業を持続可能なものに変革した功績は計り知れない。

大浦は、時代に取り残された遅れた地域だったから人口減少したのではない。

逆だ。時代を先取りし、他の地域に先立って農業の大規模化・機械化が進んだために、人口減少や高齢化をも先取りしてしまったということなのだ。それが、同時期に過疎が進んだ他の農山村との際だった違いだったと私は思う。

でもそれにしても、いや、そうであればこそ、近代的な農村に生まれ変わった大浦のメインストリートが、やはりシャッター通りになっていったことの意味を問わなければならない。大浦が遅れた地域だったのであれば、木連口通りが衰退した理由は簡単だ。しかし大浦は農業の近代化によって「稼げる地域」になっていったはずなのだ。人口減少があるにしても、もはや昔のような極貧の地域ではなくなっていた。それなのに商店街が寂れていったのはどういうわけだったのか。

(つづく)

【参考文献】
「大浦町の農民分解と今日の農業問題」2002年、朝日 吉太郎 

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