2013年6月19日水曜日

二人の「日羅」——南薩と日羅(2)

坊津の一乗院の創建を始め、金峰山の勧請、磯間嶽の開山など、ありそうもない日羅の事績が南薩に残っているのはどうしてなのだろうか? また、古墳時代という遙かな古代に日羅が本当にやってきたのだろうか?

さて、始めにこうしたことがこれまでの地域史でどのように考えられてきたのかを見てみよう。まず坊津の一乗院だが、一応「我が国最古の寺」というのを触れ込みにしているものの、史学的にはこれは否定されており、せいぜい平安時代、おそらく鎌倉時代の創建と考えられている。本当に古代寺院だったとすれば古い資料にその名前が残っているはずなのに、実際には一乗院(龍巌寺)の名称はどこにも見いだせないのが主な理由だ。よって、日羅が創建したというのは文字通りあり得ない話であると一蹴されている。

次に金峰山の勧請(正確には、蔵王権現という修験道の仏の勧請)だが、幕末に編纂された『三国名勝図絵』において、日羅が勧請したという説を紹介しつつ「時世等の違いがあるので、名前が同じ別の人ではないだろうか」とされている。これ以外の史料に、金峰山の日羅による勧請を考察している記事を見つけられないが、要はあまり信憑性もないので相手をする人がいないのであろう。

まとめると、南薩に日羅が訪れ寺院の創建などを行ったという伝説は、かなり疑わしいものであるために真面目に取り扱われてこなかった、というところだ。これは、いわゆる「弘法大師お手堀の井戸」の扱いに似ている。全国各地に「弘法大師空海が錫杖(または独鈷)で衝いた所から水が湧いた」という伝説を持つ井戸があるが、錫杖で衝いて水を出すということ自体が荒唐無稽であるし、それが事実かどうか考証されることなどほとんどないと言える。日羅伝説もそれと同様の、荒唐無稽の妄説なのであろうか?

ここで視野を広げて他県の地域史を見てみると、日羅の父が国造をしていた熊本葦北を始めとして九州各地に日羅伝説が残っていることに気づく。特に注目すべきなのは国東半島(大分県)だ。国東半島は我が国で最も数多くの、そして素晴らしい磨崖仏が残っているところであるが、この磨崖仏のいくらかが日羅の作と伝えられており、また大分県内の寺院には日羅が刻んだという仏像も多く残る。

また、日羅が創建したとされる古代寺院は坊津の一乗院の他にも九州には多数あり、肥後七ヶ寺を始めとして天台宗の寺院に多い。一乗院は真言宗だが、いずれにしろ日羅の創建として伝えられているのは密教の寺院である。

さらに全国に目を転じると、日羅は愛宕信仰における勝軍地蔵菩薩の化身とされてもいる。愛宕信仰は修験道の一派の信仰であるが、国東半島で磨崖仏を刻んだのもおそらく修験者であることを考えると、日羅伝説は修験道と縁が深い。そして元々修験道は密教の一派として発達したのであるから、密教寺院の創建も広い意味では修験道と関連する事績に含められるだろう。
 
振り返って南薩の日羅伝説を鑑みると、金峰山も磯間嶽も修験道の修行の山であった訳だし、坊津の一乗院も先述の通り密教寺院であったということで、全国的な日羅伝説の傾向と合致しているのである。

こうしたことを踏まえると、各地に残る日羅伝説は、古墳時代の百済の日羅とは無関係であることは歴然としている。ポイントを簡単に述べれば、

  • 日羅は数多くの密教寺院を創建しているが、密教はいわば平安時代のニューウェイブ仏教であり、もし古墳時代に百済の日羅が寺院を創建するとすれば南都六宗のようなもっと古風な宗派であるはずだ。
  • 日羅は自ら仏像や磨崖仏を刻んでいるが、飛鳥時代以前には仏像は工人(技術者)が造るもので、仮に百済の日羅が僧侶だったとしても自ら仏像を制作するのはおかしい。
  • そもそも磨崖仏や修験道は平安時代に生まれたものであるから、古墳時代の百済の日羅がこれらと縁があるわけがない。また日羅作と伝えられる磨崖仏も平安〜鎌倉の作と比定されているものが多い。
というところだろう。実は、こうしたことは既に大分県の史学界で考証がなされており、国東半島に磨崖仏を残した人物が「百済の日羅」とは無関係であることは定説というか常識である。だが、日羅伝説は各地の寺院が権威付けのために野放図に捏造したようなものでもなく、そこに一定のパターンというか、ある種の筋が通っている部分もある。日羅伝説を俯瞰してみると、修験道の行者(山伏)という「日羅」の人物像が浮かび上がってくるような気もするのだ。とすると、磨崖仏を刻んだ「日羅」と呼ばれる人物が別にいた、ということなのだろうか?

これに対しては各種の仮説が呈示されている。例えば、そういう特定の人物はいなかったが、各地の磨崖仏などが「日羅」という有名人に奇譚的に託されたのではないかと考える人もいるし、「日羅」という「百済の日羅」と同名の修験者が実際にいたが、時が経るにつれ「百済の日羅」と混淆していつしか同一人物になってしまったのではないか、という説もある。

こうした説のどれが正しいかは、もはや状況証拠的には決められない。真相は、闇に包まれている。しかし、日羅伝説が成立したと考えられる平安時代、磨崖仏なり仏像なりを400〜500年も前の古墳時代のものとして「捏造」するのはさすがに大それているし、何かのきっかけがなければ日本書記にしか記録が残っていない「日羅」が復活するとは考えにくい。

とすると、説として魅力的なのは、平安時代あたりに各地で磨崖仏を刻み、寺院を創建した「日羅」と名乗る人物が実在した、というものだ。つまり、約500年の時を経て、日羅は二人いたということになる。ここではその「日羅」のことをわかりやすく「修験の日羅」と呼ぶことにしよう。「修験の日羅」は、各地の山林を抖擻(とそう:歩きながら仏道の修行をすること)して、あるところでは磨崖仏を彫り、またあるところでは寺院を創建(といっても、多分祠堂を設けるとか、仏像を安置するといった程度のことと思う)したのだろう。その活動範囲は九州一円にも及び、各地に「日羅」の事績を残したと考えられる。

どうしてこの「修験の日羅」の記憶がなくなり、やがて「百済の日羅」に置き換わってしまったのかはよくわからない。想像するに、『日本書記』に日羅の記述を見つけた人が自らの権威を高めたかったのか、「うちは日羅創建の古寺である」と誇り、それが連鎖反応的に広まったのかもしれない。そうしたことが続くうち、「日羅」というのが一種の超越的な、古代のスーパーマンとしてアイコン化し、実際には「修験の日羅」にも関係がない所にまで日羅伝説が広まっていったということがあるのだろう。それが勝軍地蔵が日羅の化身と考えられるに至った理由であるように思われる。

そのように考えると、この南薩の地に「ありそうもない話」である日羅伝説が残っているのは、まるきり荒唐無稽なこととは思われない。つまり、「百済の日羅」とは無関係であっても、「修験の日羅」が実際にここへ来て、一乗院を創建したり、金峰山を勧請したり、磯間嶽を開山するといったことをやったという可能性はゼロではないのである。薩摩の地には古くから修験道が栄えていたというし、元より修験者=山伏は各地を巡りながら修行をするものであるから、この辺境の地まで赴いてもおかしくはない。

一方で、そうだとすると古墳時代に遡ると思われた磯間嶽や一乗院の歴史が、それよりは随分新しい平安時代以降のものとなってしまうので、古さを誇りたい人には残念かもしれない。しかし、私自身は「古ければ古いほど有り難い」とは思わないし、荒唐無稽な古さを主張するよりも、実際にあったかもしれない過去を想像する方が楽しい。我が家から毎日見ている磯間嶽に、平安時代に大分(か熊本)から「日羅」と名乗る修験者がやって来て、岩山をよじ登り祠堂を設け、そしてまた旅を続けたのだと考えてみたい。彼はその時にどんな大浦を見たのだろうか。土地の人々に何を教えたのだろうか。そういう風に考える方が、私は楽しいのである。

と、いろいろ書いてきたけれど、私はこちらに越して来てから実はまだ一度も磯間嶽に登ったことがないのである。早く磯間嶽に登って、日羅が見たかもしれない風景の1000年後の様子を見てみたいと思っているところである。

【参考文献】
「日羅の研究—「宇佐大神氏進出説」批判(3)—」(『大分縣地方史』第116号所収)1984年、松岡 実

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