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2021年1月10日日曜日

島津亀寿の戦い——秋目の謎(その4)

(「秋目からルソンへ」からの続き)

薩摩藩から独立した立場を築いていたらしき貿易港、秋目を私領地としていた持明夫人こと島津亀寿(かめじゅ)とは何者だったのだろうか(以後、表記を「亀寿」で統一する)。

島津亀寿は、元亀2年(1571)島津氏第16代当主・島津義久の三女として誕生した。亀寿が生まれた頃の島津家は、島津義久・義弘の兄弟が中心となって九州最強の勢力を誇っていた時代である。しかし亀寿が17歳の時には、島津はへ豊臣秀吉の九州征伐に敗北。島津家としては難しいかじ取りが求められるようになる。

亀寿は三女とは言っても正室の娘としては長女であり、義久には男子が誕生しなかったため、亀寿は島津本家を受け継ぐ存在となった。彼女の夫となるものは、島津家の当主となるべき人だったのである。

それであるだけに亀寿の生涯は不遇であったといえる。亀寿はいとこ(義弘の子)の島津久保(ひさやす)と結婚する。久保は次期島津家当主になるべく亀寿と結婚したが、これは政略結婚とはいえ、二人は仲むつまじい関係だったようだ。ところが秀吉の朝鮮の役のため久保は朝鮮に渡り客死。結婚生活は5年未満と見られる。

その後、亀寿は秀吉の命によって島津忠恒(ただつね)と強制的に再婚させられた。忠恒は久保の弟である。この婚姻は島津家当主にすら相談なく決められたものらしい。

亀寿は久保と夫婦の時も、忠恒と再婚してからも、秀吉への人質として京都に送られた。亀寿はこうして20代のほとんどを人質として過ごさなくてはならなかった。この人質に対する褒賞として、亀寿は1万石の領地が無公役(無税)で贈られるのである。史料上は不明確だが、この中に秋目も入っていたのだと思われる。

ところで、亀寿と忠恒との夫婦仲は非常に悪かった。島津氏の歴史で、最悪といってもいい。忠恒は亀寿に対してひとかけらの愛情もなかったようである。亀寿は醜女(しこめ)であったと伝えられるが、それが事実だとしても、世継ぎを産むのが女性の重要な役目であったこの時代において、忠恒は正室である亀寿と子作りをしようとしなかったらしいことは異常である。

関ヶ原の戦いが勃発すると亀寿は京都を脱出し鹿児島に帰還。それから10年間は、父義久の後見もあって、忠恒との対立は続きながらも亀寿は島津本家の家督相続決定権者として重きをなしたように見える。

彼女は島津家当主が引き継ぐべき歴代宝物を所有し、それを決して夫忠恒には渡さなかった。島津家にとってのレガリア(それを持つことによって正統な王、君主であると認めさせる象徴となる物)の家宝だったからだ。亀寿は、忠恒を正当な島津家当主とは認めたくなかったのだ。

しかし慶長16年(1611)、義久が死去すると、忠恒(家康から「家」の字(遍諱)を受けて「家久」に改名。以後「家久」と表記)は亀寿を鹿児島から追い出し、義弘の居城だった国分の国分城へ追いやった。そしてそれまで亀寿とは子どもをもうけていなかったのに、家久は当てつけのように8人の側室を置いて、33人もの子どもをもうけた。

さて、秋目からルソンへ貿易船が出航した時期は、亀寿が父義久の後見の下でそれなりに地位が安定していた10年間に含まれる。

こう考えてゆくと、秋目は、亀寿が家久に対抗していくために私的に保護した貿易港であったように思われてならない。秋目を拠点に貿易を行なっていた商人たちは、誰の後援もなく幕府から「朱印状」を取得するのは難しかっただろうからだ。亀寿は公式ルートとは別の筋で(おそらくは公家ルートで)幕府との交流や要人との連携があったのではないだろうか。

史料上で裏付けされない、こういう空想を人は妄想として退けるかもしれない。まあ「歴史ロマン」の類である。ところが、先日「しいまんづ雑記旧録」というブログを見ていたら、この空想を傍証してくれるような「『中山世譜』の島津亀寿」という記事を見つけた。

【参考】しいまんづ雑記旧録
http://sheemandzu.blog.shinobi.jp/

この記事によれば、琉球の歴史書『中山世譜』に、まだ亀寿が亡くなっていない1620年、亀寿が亡くなったことになっていて、その葬いのために琉球王からの使者が鹿児島を訪れた、という記録があるのである。

どうして亀寿は死んだことにされたのだろうか。この記事に続く「『中山世譜』の島津亀寿 続」でそれが考察され、亀寿を庇っていたらしい島津義弘が前年1619年に死亡したことを受け、「家久(忠恒)にとっては亀寿を徹底的に排除できるチャンスが訪れたと言うことになる。そこで家久(忠恒)が最初に行ったことこそが上記に書いた「琉球など対外的に亀寿を死んだことにする」事ではなかったのではないだろうか」と推測されている。

それでは、なぜ家久はこと琉球に対して亀寿を死んだことにしたかったのだろうか。もし亀寿が秋目を私的な貿易港として保護していたなら、その理由は明白である。亀寿は、島津本家とは別に、琉球交易に対して何らかの権益を持っていたのである。

もし1620年の段階で、亀寿が無力な女城主として国分に寂しく暮らしていただけであれば、島津本家はわざわざ琉球に亀寿死亡の嘘情報を流すわけがない。この時期にも、亀寿は家久に対抗しうる力を持っていた。だからこそ家久はこのような奸計を以って亀寿を排除しようとしたのである。

事実、このころまだ亀寿は島津家の歴代家宝を所有している。依然として、正統な島津家の継承者(少なくても継承者の決定権者)は島津亀寿のままである。

だが、亀寿の命脈が風前の灯火であったのもまた事実だった。「隠さなければならない繁栄」でも既に述べた通り、家久は、慶長14年(1609)、琉球へ侵攻を行って琉球を属国にしていた。そして琉球を通じて明との貿易を行うという、藩営の密貿易体制を構築していたのである。仮に亀寿が海外貿易に何らかの権益を有していたにしても、このような国際関係の前では従前のように秋目を通じた海外交易はできないだろう。ひょっとすると、琉球侵攻という暴挙は、亀寿に対抗する意味合いも含まれていたのかもしれない。

しかも徳川幕府は元和2年(1616年)に明船以外の入港を長崎・平戸に限定するという鎖国体制の一歩を進めていた。もはや日本にとっての大航海時代は、終わりを迎えていた。

貿易を私的に保護することで家久に対抗するという、島津亀寿の戦いはこうして終わりを告げた。死んだことにされた年の二年後、元和8年(1622)、亀寿は家久の次男・虎寿丸を養子にし、私領1万石と島津家歴代宝物を相続することに決定した。後の島津光久である。ここで、亀寿は宝物を家久に渡すのではなく、その息子を自分の養子にして相続させたということは、重要な意味を持っているだろう。亀寿は、義久から引き継いだレガリアを、自分を通じて養子の光久へ受け渡した。彼女にとって、家久は遂に正統な島津家当主になることはなかった。

寛永7年(1630)、島津亀寿は国分で死去した。法名は「持明彭窓庵主興国寺殿」。ここから「持明様」=「ジメサア」と呼ばれるようになる。ちなみに家久は亀寿の墓を建立することもなかった(のちに光久が慌てて建立)。つくづく酷い夫である。

私は、島津家久と亀寿は、単に夫婦仲が悪いというだけでなく、貿易に関して何らかの権益を争った競争者であったと思う。家久には認められなかったルソン交易が、なぜか秋目出港の船に認められていたという事実がそれを示唆する。

だが、女性一人がたった一万石の私領で向こうを張るには、島津家久は強大で、冷酷すぎた。それでも、そのわずかな所領の中、秋目という僻遠の地に独自の貿易港を築いて、対外関係に不思議な存在感を示したことは、彼女の戦いが決して一方的な負け戦ではなかったことを示している。

秋目に残る「持明夫人公館跡」は、そういう島津亀寿の戦いの跡であると思う。ここで島津亀寿は遥かなルソンを臨み、その貿易を基盤として家久とは違う「正統」を保っていこうとした。本当の島津家を継承していくために。

(つづく)

【参考文献】
戦国島津女系図」の「島津亀寿のページ」
http://shimadzuwomen.sengoku-jidai.com/shi/shimadzu-kameju.htm

※本文中にあげた「しいまんづ雑記旧録」の本体WEBサイトで、亀寿の生涯についての情報はほとんどこのページを参照させてもらいました。

秋目からルソンへ——秋目の謎(その3)

(「隠さなければならない繁栄」からの続き)

前回、秋目は「貧乏で疲れた郷」を自称しながら、少なくとも享保年間以降のしばらくの間はかなり豊かだった、と述べた。

では、その前はどうだったのだろう。陸の孤島である秋目は、今と同じ、寂しい港町だったのだろうか。

そのことを考えるにあたって、面白い史跡が秋目に残っている。「持明夫人行館跡」である。場所は、今「がんじん荘」がある所の道向かい。昔は史跡の説明板があったが(看板の写真は過去のもの)、今は何もないので知らない人はわからない。冒頭の写真の場所である。

鹿児島の人は、持明夫人こと「ジメサア」のことを一度は聞いたことがあると思う。鹿児島市立美術館の敷地内にあるおしろいをした石像が「ジメサア」と呼ばれて女性の守り神みたいに扱われ、化粧の塗り直しをするのが報道される。

「ジメサア」とは「持明様」が訛った呼び方で(一部に「持明院様」とする説があるが「院」をつけるのは誤解だと思う)、持明様こと持明夫人は島津家久(忠恒)の室(正妻)、島津亀寿(かめじゅ:1571-1630)のことである。

秋目には、この持明夫人が逗留した屋敷(行館)があったというのである。なぜこんな辺鄙なところに持明夫人は来たのだろうか。どういう意味があったのだろう。

通説では、持明夫人がここに来たのは、不仲だった夫家久と離れ、気晴らしをするためだったという。秋目には持明夫人がそこで納涼したという「持明夫人納涼石」なるものも残っている。確かに今の秋目の辺鄙な様子を考えると、ここは夫と離れて気晴らしするにはよいところだ。まるで別の国に逃げてきたような気分になるかもしれない。だが当時からそうだったのだろうか。ここはただの寂しい港町だったのか…?

そんな、当時の秋目を考える上で興味深い記事が『旧記雑録』という資料にある。

「慶長9年(1604)、秋目から呂宋(ルソン)へ小田平右衛門という人の船が出航し、慶長11年(1606)に片浦に帰航した」というのがそれだ。 

ルソンとは、言うまでもなくフィリピンにある最大の島である。秋目から、はるばるルソンまで貿易に行っていたというのだ。この記事だけを見れば、この頃の秋目は寂しい港町どころではなく、国際貿易港だった、ということになるだろう。

ただ、話はそれほど単純ではない。実は、ルソンへの渡航というのは特殊な意味合いがある。この記事をさらに理解するために、ちょっと長くなるが、当時の対外関係や国際貿易についておさらいしてみよう。

話は時代を200年ほど遡って、日明貿易から始めなくてはならない。足利義満は「日本国王」として日明間に国交を開き、公式には長く途絶えていた大陸との関係を再建した。日本は明の冊封体制に組み込まれ、定期的に朝貢を行うことになる。

朝貢は、もちろんいろいろな贈り物を献上する。だが明からはその返礼として日本にとってはそれ以上に価値ある品が下賜されるため、これは実質的に官営貿易と同じ意味があった。こうして日本は日明貿易の時代を迎えた。何しろ明と日本は互いに貿易の必要性が大きかったのである。

日明貿易の主役となったのは、大坂の堺の商人と結んだ細川氏と、筑前博多商人と結んだ大内氏であったが、やがて両者は対立するようになって、細川氏の貿易船は北九州を経由しないルートを取るようになった。それが、南九州をぐるっと経由して東シナ海を渡るルートであったため、島津氏はその警護を担当するようになり、また次第に貿易の仲介を行うようになった。

大内氏と細川氏の対立は明の寧波にまで持ち込まれ、1523年、「寧波の乱」という騒動を起こしてしまう。これによって明との関係が冷え込み、日明貿易は途絶する。そこで日明間の国交回復のためにキーマンになったのが島津氏である。というのは、島津氏は琉球と国交がある。そして琉球は明と国交がある(冊封体制に入っている)、ということは、島津氏→琉球→明という形で国書をやりとりすることができるのである。島津氏はこのハブ的な立場を利用して、貿易立国として発展していった。

そして、この時代、さらに大きな商機が訪れていた。南蛮との交易である。スペインのフラシスコ・ザビエルが鹿児島に来るのが1549年。16世紀には、たくさんの南蛮人、すなわちスペイン・ポルトガルの商人が日本に訪れ、物珍しいものをもたらした。彼らが携えていた最新の道具や科学技術はそれはそれで日本に大きな影響を与えていくが、貿易において重要なのは、東南アジアを拠点にした貿易体制が出来上がったことだった。

つまり、スペインやポルトガルは東南アジアをハブにして中国や日本と貿易を行ったのである。ということは日本から見ると、東南アジアを通じて中国の商品を手に入れられるということになる。日明貿易が再開されなくても、南蛮貿易が中国へのパイプになるのだ。しかもややこしい朝貢の手続きなどなしに。

こうして、日本は「朱印船貿易」の時代を迎える。幕府(や権力者)から与えられる貿易の許可状が「朱印状」(御朱印)である。「日明貿易」の場合は、実質的には大内氏や細川氏の私貿易の性格があったが、形の上ではあくまでも国家による通商であった。ところが「朱印船貿易」は、圧倒的に私貿易の性格が強い。国家は貿易の許可(朱印状)を与えるだけで、あとは商人や大名の自己責任に任されていた。

こうなると、貿易がもたらす莫大な利益のために大勝負を打つ者が出てくる。ちょうどスパイスを求めてアメリカ大陸を発見したコロンブス、地球を一周したマゼランのように。そんな冒険人的な商人の代表が、伝説的な堺の豪商、呂宋助左右衛門こと納屋(なや)助左右衛門である。

正確な事績は不明ながら、彼は安土桃山時代にルソンに渡海して貿易商となり、巨万の富を得、秀吉の保護を得て活躍したらしい。ともかくこの時代、一財産築くことを夢見て南の海に漕ぎ出していった者は多いのである。

そしてこのために、日本の造船技術は長足の進歩を遂げる。日本は四方を海に囲まれているにもかかわらず古来から造船技術が未熟で、操舵が不完全で難破も多く、しかも大船を作ることができなかった。それがこの時代、ヨーロッパ人たちの船やその航海技術を学ぶことで、乗員数200〜300人程度の大船を製造することが可能になったのである。

こうして、日本にとっての「大航海時代」が訪れた。 多くの日本人がアジア各地の交易都市へ赴き、アモイ(中国・福建省)、バンデン王国(インドネシア)、アユタヤ(タイ)、ホイアン(ベトナム)などには日本人街も生まれるのである。そんな中でも、ルソン島マニラ(スペイン領)の日本人街は最大規模のもので、16世紀から17世紀にかけては3000人もの日本人が居住していたという。

呂宋助左右衛門も、ルソンでの貿易で財をなしたというし、1604年に秋目から出航したのもルソン往きの船であった。この頃のルソンと交易するというのはどういうことだったのだろうか。

実は、ルソンには莫大な利益を生む商品があった。それが「ルソン壺」(「真壺」ともいう)である。 「ルソン壺」とは陶製の耳付きの壺で、「ルソン」と名がついているが実は南中国からルソンに輸出された実用品の廉価な壺だった。この別に高級品ではない地味な壺が侘び寂びを旨とした茶人たちに評価され、日本に持ってこられると茶器としてとんでもなく高価な宝物に化けたのである。

現地では極めて安く手に入り、超高価で売れる「ルソン壺」はまさに一攫千金の夢が詰まった壺だった。こういうものがルソン島にあるとなると、まさに「蟻が群がる」(ペドロ・バウティスタ第4号文書)ように日本人がルソン島に押し寄せたのも無理はない。

そして薩摩は、当然ながらこの南蛮貿易に地の利があった。中継点としての琉球との国交もあるし、何より日本国土の南端で南蛮世界には一番近いのである。さらに、薩摩人たちは「倭寇」として非合法の貿易で東シナ海を縦横に駆け回っているものも多くあった。薩摩人たちにとって、東南アジアはいつでも行ける土地と認識されていたに違いない。マニラの日本人街には、多くの薩摩人がいただろう。

ところが、ルソン壺交易はやがて大きな転換点を迎える。豊臣秀吉が、ルソン壺を独占する姿勢を見せたのである。先述の通り、ルソン壺は南中国からルソンに輸出された品だったのであるが、実はこの時代には既にその輸出は停止しており、南中国のどこからやってきたのか不明になっていた。現地の人はこれを生活雑器として使っていたが、日本人がルソン壺を高く買い上げるので手近にある品は根こそぎ日本人に売った。こうなると供給はもうないのだから、ルソン壺は消滅する運命にあった。

しかも茶人たちは、ルソン壺だったらなんでもよいというのではなく、その美意識から傑作と駄作を峻別していたから、ルソン壺の名品は超貴重品だった。こういうものを、権力者が独占しようとするのも無理はない。秀吉はルソン壺の輸入を統制下に置き、ルソン壺を買い占めたものは厳罰に処するという非常に強烈な意志を持って独占を図るのである。

そして、秀吉の没後を引き継いだ徳川家康もこの姿勢を踏襲。ルソン壺の交易は並みの大名には決して許されない、非常にデリケートな交易品となっていく。

具体的には、徳川幕府はルソンへの渡航の「朱印状」を大名には与えていない(唯一の例外は平戸藩の松浦鎮信)。カンボジアやアユタヤ(タイ)、安南(ベトナム)といった東南アジアの他の国には大名へも「朱印状」を与えているのに、ルソンだけは特別なのだ。ルソン渡航が許可されたのは、大名の配下にない独立の有力商人たちにだった。

もちろん島津氏にもルソン渡航の「朱印状」は発給されていない。当時の藩主、島津家久にとってルソンへの「朱印状」は喉から手が出るほど欲しいもので、家康に対してたびたび公布願いを出し、さらには神仏への祈願すら行っている。それでも遂に、島津家久にはルソン渡航が認められることはなかった。

さて、ここでようやく秋目の話に戻ってくる。家久がルソン渡航の「朱印状」をもらっていないというのに、なぜ秋目からルソン往きの船が出航できたのだろうか。

そもそも、薩摩藩が南蛮貿易の拠点港としたのは山川港である。持明夫人の父、島津義久(家久の伯父)が頴娃氏から領主権を剥奪して山川港を我がものとしたのが天正11年(1583)。藩営の貿易船であれば、秋目ではなく山川から出発するのが自然なのだ。

答えはただ一つ。秋目から出航したこの船は、藩営の貿易船ではなくて、私船だったのである。

改めて『旧記雑録』の該当箇所の原文を引用しよう(用字を現代のものに改めた)。

去々年秋目呂宋へ罷渡候小田平右衛門尉舟、頃片浦へ帰朝仕候、勿論、御朱印船ニて候間、此方よりハかもいなく候
(慶長11年(1606)6月5日付 島津家久宛、島津義弘書状)
『旧記雑録後編』巻60、4、215号(鹿児島県資料)

義弘から家久への書状で、「一昨年、秋目から呂宋へ渡った小田平右衛門の舟が、この頃片浦に帰朝した。もちろん御朱印船なので、こちらからはどうすることもできない」という内容である(※「かもいなく」は「かいもなく」の誤り?)。

書状中に明確なように、藩とは全く別個に「朱印状」を得て、秋目から呂宋へ渡っていた商人がいるのである。しかも、その存在を苦々しく思いながらも、島津義弘も家久も、それをどうすることもできない。

なお、この船と同船かどうか不明だが、同様の事案が家久から義弘への書状でも触れられている。該当箇所を引用する。

次従秋目致出船候渡唐船帰朝候哉、直ニ被下御朱印たる舟之由候間、其段山駿州迄申置候
(慶長11年(1606)6月24日付 島津義弘宛、島津家久書状)
『旧記雑録後編』巻60、4、232号(鹿児島県資料)

これは「次に、秋目から中国に渡った船については帰朝しました。朱印状を直接発給された船であるため、山口駿河守直友(幕臣)に申し伝えて置きました」という内容である。

ここで「朱印状を直接発給された(直に御朱印下されたる)」といっているのは、これが島津氏(=薩摩藩)を素通りして、江戸幕府から直接もらったものであるためで、だからこそ島津氏はこの船と無関係であるにもかかわらず、幕臣に報告する義務があるのである。

というわけで、この時期の秋目港は、どういうわけか島津氏の支配の及ばない場所で、しかもなぜか独自に江戸幕府から「朱印状」をもらう力がある商人がいる場所であった。さらには、島津氏の直轄港である山川港はどうしてもルソン交易に参画できないのに、秋目からはルソン往きの船が出ていた。秋目とは、一体全体、どういう港だったというのか。

そしてこの時期、秋目を私領地として領有していたのが、持明夫人こと島津亀寿だったのである。「持明夫人行館」が、不仲だった夫家久と離れ、気晴らしをするための場所であったとはありそうもないことだ。ではここで何が行われていたのか?

(つづく)

【参考文献】
「初期徳川政権の貿易統制と島津氏の動向」2006年、上原兼善
「ルソン壺交易と日比通交」2016年、伊川健二
海洋国家薩摩』2011年、徳永和喜
火縄銃から黒船まで—江戸時代技術史』1970年、奥村正二
『大ザビエル展 図録』1999年
「歴史講座「戦国島津」第8回「16世紀前半の南九州海域と対外関係」」2020年、新名一仁(ビデオ及びレジュメ)

2020年7月24日金曜日

吹上浜沖に世界最大の洋上風力発電所を建設する事業が密かに進行中(今なら意見が言える)

「吹上浜沖洋上風力発電事業 計画段階環境配慮書」より引用
とんでもない巨大プロジェクトが南薩で進行中である。

吹上浜沖洋上風力発電事業」という。

吹上浜の沖合に、洋上風力発電の風車を102基も設置するというのだ。この風車がバカでかくて、なんと1基の高さが250mもある。この巨人のような風車が洋上にずらっとならび、その合計出力は約97万kWに上る。

これがどれだけ巨大な出力かというと、例えば川内原発の出力は1、2号機がそれぞれ89万kWだから、原発1機分よりも大きい。そして九州電力の九州全体のベース電力がだいたい1000万kwだから、その約1割分にもあたる。

これは、もちろん、風力発電所としてはダントツで日本最大である。それどころか、洋上風力発電所としては、現在世界一のイギリスの「ウォルニー・エクステンション」(65万9000kW)を抜いて、世界最大になるという規模である。

【参考】マンハッタンの2倍、世界最大の洋上風力発電所が稼働|BUSINESS INSIDER
https://www.businessinsider.jp/post-175246

設置面積も度外れている。いちき串木野市、日置市、南さつま市の3市にかかる吹上浜全体の洋上に風車が設置される計画で、その面積は約22,000ha=220k㎡に上る。日置市の面積が約250k㎡なので、ほぼ日置市くらいの面積(!)に風車が並ぶのである。

私は、再生可能エネルギーの導入を進めていくのは賛成である。しかし、いかんせん規模がでかすぎる! こういう巨大プロジェクトは、慎重になりすぎるということはないのである。

「配慮書」はお手盛り

私がこのプロジェクトに気づいたのは、ちょうど今、このプロジェクトの「計画段階環境影響配慮書」(以下「配慮書」)というものがひっそりと公開されていたからだ(2020年6月23日〜7月31日)。
 ↓
(仮称)吹上浜沖洋上風力発電事業に係る「計画段階環境影響配慮書」の縦覧について
http://www.city.minamisatsuma.lg.jp/shimin/oshirase/e022596.html

この「配慮書」とは、要するに環境評価の事前段階で「配慮しなくてはならないのはこういうのが考えられますよ」というのをまとめたもので、内容的にはほとんどが文献による事前調査である。例えば、自然保護区を調べたり、生息している生物を調べたりといったものである。そして文献調査の結果に基づき、今のところの環境評価をまとめている。(本格的な評価は次のステップで行う。)

全部で300ページくらいあるので全部を熟読したわけではないが、この「配慮書」自体はなかなか面白く、いちき串木野市、日置市、南さつま市の3市の情報が(環境に直接関わらない情報も含め)網羅的に掲載されて、しかも地図上にビジュアルに表現されているから、交通網の整備やまちづくりなんかを考える際にはちょうどよい参考資料になっていると思った。

ところが、肝心の評価となると、当たり前だが「お手盛り」と言わざるを得ない。いろいろ問題があると思うが、私が一番おかしいと思った「景観」について見てみよう。

「重大な影響を回避している」わけない

吹上浜は日本三大砂丘の一つとされ、白砂青松の砂浜と縹渺とした東シナ海の眺めは最高である。特に南さつま市では、海岸沿いの景観のよいところを「南さつま海道八景」に定めて観光の目玉として整備してきた。洋上にこのような巨大風車が並ぶとなれば、景観面への悪影響が当然心配されるところである。

ところが、この「配慮書」における「総合的な評価」では「景観」はこのように述べられている(強調引用者)。
①主要な眺望点および主要な景観資源への影響
 主要な眺望点および主要な景観資源への影響については、いずれも直接的な改変は生じないことから、眺望点および景観資源に係る重大な影響を回避していると評価する。

②主要な眺望景観への影響
 高崎山展望所では垂直見込角が4.9度、谷山展望所では同3.8度となっており、圧迫感は受けないものの、比較的細部まで良く見えるようになり、眺望景観への影響が予測される。
 事業実施想定区域は海岸から約5km程度の離隔を取っていることから、多くの主要な眺望点からの垂直見込角は3度程度以下となっている。したがって、風力発電機の機種、塗色統を工夫することにより景観への影響を低減するとともに、風力発電機の配置について、主要な眺望点からの眺望において山の稜線を乱さないように配置する計画である。以上のことより、重大な環境影響を回避又は低減することが可能と評価する。(後略)
これについては誰もが「は?」と思うに違いない。「直接的な改変は生じない」というが、海に巨大な風車がずらずらならんでいたら、眺望が大きく変わってしまうことは明らかだ。少なくとも「南さつま海道八景」の意味合いは全然変わってくる。それなのに、「直接的な改変は生じ」ないから「重大な影響を回避している」という評価はお手盛り以外のなにものでもない。要するに「眺望点に風車を建てるわけじゃないから直接的な改変はない」と言いたいらしいが、どう屁理屈を捏ねてみても、景観が改変されることは否定しようのない事実である。

また、②の方で、「山の稜線を乱さないように配置する」というのは、洋上風力発電なのになぜ山?と思ったが、おそらくはこれは山に設置する風力発電所の「配慮書」をコピペして作った資料だからで、馬脚を現したというか、語るに落ちたというか、まるで検討していないのが丸わかりなのである。

この巨大事業の実施主体は「吹上浜沖洋上風力発電合同会社」という会社。だが実際の実施主体は「INFLUX INC」というところで、各地で多数の風力発電所の建設を手がけている。本当にコピペであるかどうかはわからないにしても、そうであってもおかしくないほど多数の風力発電案件を同時並行的に進めている風雲児的な会社である。

【参考】吹上浜沖洋上風力発電合同会社
http://influx-fukiagehamaoki.com/index.html

【参考】INFLUX INC
http://influx-inc.com/wind/

景観への影響評価は真面目にする気がない

ちなみに、ちょっと補足すると、この評価では「垂直見込角が3度程度以下」だから工夫すれば気にならないだろう、とされているのだか、この「垂直見込角」についても説明が必要だろう。

見込角とは、その対象物がどのくらいの大きさで見えるかを角度で表したものだ(この場合は風車の高さを問題にしているので「垂直」とついている)。では「垂直見込角」が3度というと、風車は海岸からどのくらいの大きさに見えるのだろうか? 5km離れているのだから、ごく小さく見るのか?

実は、満月の見込角は0.5度である。ということは、風車が3度で見えるとは、満月の6倍の大きさ(正確には高さ)で見えるということになる。かなり大きい! 影響の予測では、多くの眺望点で「3度以下だから 気にならない」と言いたいらしいが、例えば白シャツに黒いシミがあったら、譬えそれが大きなものでなくても気になるように、気になるかどうかは大きさだけでなく、それが置かれた景観の心理的な価値を考慮する必要がある。

それから、シミが一つだったらまだしも、連続的にそれが並んでいるとまた違った見え方になってくる。景観への影響評価は、全く真面目にする気がないらしい。

だいたい、「3度程度以下」を基準にしているが、これは公に認められた基準でもなんでもない。環境省の「風力発電施設の審査に関する技術的ガイドライン」では、「垂直見込角が0.5°を超えると景観的に気になり出す可能性がある」とされている(p.25)。単純に見た目の大きさで風景への影響を評価するというのも一面的であるが、見た目の大きさの評価ですら「お手盛り」と言わざるを得ない。

【参考】「風力発電施設の審査に関する技術的ガイドライン」について|環境省
https://www.env.go.jp/press/press.php?serial=13643

「配慮書」より引用
そもそも、鹿児島県が定めた「鹿児島県風力発電施設の建設等に関する景観形成ガイドライン」では、風車の建設では「主要な眺望景観を阻害しないこと」「地域固有の景観を阻害しないこと」が定められている。吹上浜の洋上に巨大風車を並べることは、まさにこの条件に抵触するといえる。

というのは、吹上浜の海岸線のほぼ全体が「吹上浜県立自然公園」に指定されており、「配慮書」で問題があるかもとされている高崎山展望所・谷山展望所がある沿岸地域も、「坊野間県立自然公園」である。自然公園からの景観は、「主要な眺望景観」「地域固有の景観」に当たると考えられる。

計画地域には久多島もある

さらに、「配慮書」では全く触れられていないが、この地域にはもう一つ考慮すべき事項がある。それは「久多島」である。久多島とは、吹上浜の洋上12kmほどのところに浮かぶ無人島であって、鳥の繁殖地となっている。鳥の糞で白く見えることから「トイノクソ島(鳥の糞島)」とも呼ばれている。

この久多島は、古くから、信仰の対象となってきた。日置市の永吉川河口に久多島神社があり、この島を遙拝(遠くから拝む)し、またかつては久多島まで行って神事をしていたようである。南さつま市の万世にも久太嶋権現という同様の神社があり、小山の上から久多島を遙拝してきた。

もし風力発電施設ができると、久多島は巨大風車に取り囲まれる格好になる。ちなみに久多島は29mの高さである。この9倍もの高さの風車に取り囲まれるというのは、久多島信仰に大きな影響を与えると言わざるを得ない。これに関しては、氏子の意見をしっかり聴取してもらいたいと思う。

【参考】 二つのクタジマ神社と大宮姫伝説|南薩日乗
http://inakaseikatsu.blogspot.com/2013/04/blog-post.html

ちなみに、久多島は鹿児島のダイバーであれば知らぬものはいないという超一級のボートスポットでもあるそうである。風力発電所ができたら、ダイビングができるかどうかもわからない。

この他、長くなるので詳細は割愛するが、漁業や環境への影響も甚大なものがあるだろう。工事中は豊かな海の環境がかなり攪乱されるのは間違いない。さらに、操業開始後は、渡り鳥への影響(バードストライク)も考えられるし、海中の騒音も問題だ。吹上浜海岸はウミガメの産卵地であり、クジラ類も多く回遊している。ウミガメやクジラへの影響は未知数である。「配慮書」では「これから調査する」とされているが、ウミガメやクジラの回遊を解明できたらそれだけで博士論文になるくらいだから、簡単に調査できるわけもない。

ともかく海岸から近すぎる

だいたい、洋上風力発電所は、沿岸の生態系や人間の活動から遠いところに設置できるのがメリットなのに、今回の計画は洋上5kmということで、あまりに沿岸に近すぎる。最初に例を出した現在世界一のイギリスの「ウォルニー・エクステンション」でも、陸地から20kmくらい離れている。一体、陸地のこんな近くに世界最大の風力発電所を作るとは、どういう考えなんだろうか。

そして、この風力発電所の建設には、別の面からもいろいろ疑問がある。まず、共同体の共有財産である海洋を、一民間業者が占有するということの是非である。「再エネ海域利用法」というのがあって、洋上発電などでは最大30年間の占用許可を得ることができる。しかし日置市の面積と匹敵する広大な海域、しかも吹上浜に近い人間の生活に深く関わっている場所を占有するとなれば、よほどの公共性が必要である。この事業はそんなに公共性が高いものなのか。

【参考】洋上風力発電関連制度|資源エネルギー庁
https://www.enecho.meti.go.jp/category/saving_and_new/saiene/yojo_furyoku/index.html

確かに、この風力発電所があれば川内原発は不要になるのかもしれない。でも、この風力発電所を作るから川内原発は廃炉にしますという話があるわけでもない(そもそも事業者が別だから繋がりはない)。これから、石炭やLNGの火力発電を減らして、再エネ(再生可能エネルギー)の割合を増やしていく方向性はあるだろう。特に九州では電力の不安定な太陽光発電が他の地域に比べて多く普及しているので、安定的なベース電力として使える再エネは求められている。

しかしこのような巨大発電プラントによってそれをまかなうというのは、どうも時代が違うというような気がして仕方がない。これは原発に替わる巨大な事業であって、原発と同様に、人々の暮らしを蹂躙するものであるという予感がするのだ。

カネの問題

そして、気になるのは、この巨大事業にかかるカネの問題である。

既に、我々は「再エネ賦課金」という電気料金の上乗せ分を払っている。2020年7月現在、九州電力では2.98円/kWhである。もしこの風力発電所が出来ると、九電のベース電力の1割が固定価格買取制度(FIT)で購入されたものになるので、どうやっても電気料金は上がらざるを得ない。この巨大な風車たちを建設するには莫大なお金がかかるが、結局それは我々の電気料金に転化されることになるのである。

得をするのは誰かというと、この風力発電所を運営する会社であり、もっと言えば、このプロジェクトに投資した投資家なのだ。

実施主体の「吹上浜沖洋上風力発電合同会社」にしろ、その母体の「INFLUX INC」にしろ、この巨大事業をまかなうだけの手持ち資金があるわけではない。当然、投資を募って事業を行う。風力発電は、当然リスクはあるにしても、固定価格買取制度に支えられた手堅い投資案件だから、マネーの行き場がなくなっている現在、魅力的な投資先と言える。それどころか、今は「洋上発電バブル」とでもいうような状況があるのだという。電力需要が間に合っている九電管内でこれほどまでに巨大なプロジェクトが計画されているのは、再エネ電力の需要云々ではなく、投資を集めるのが真の目的なのではないかと邪推してしまう。

そして、その投資の配当を支えるのは、我々の電気料金なのだ。

元々、固定価格買取制度というものは、貧乏人から金持ちへの配分政策であって、金持ち優遇政策の一環である。マイホーム減税やエコカー減税なんかもそういう金持ち優遇政策なのだから、だから悪い! というわけではないが(いや、心情的には反対の政策だが)、ことにこの巨大風力発電プロジェクトの場合、地域に住む我々は、景観を破壊され、割高な電気料金を甘受せねばならないのに、投資家は一度も風車を見ることすらもなく、毎月の配当を受けるだけだと考えると、ちょっと不平等すぎると思う。

「配慮書」が我々が意見を言える最後のチャンス

こういう、いろいろ問題をかかえた事業なのであるが、「配慮書」に話を戻すと、この公開方法自体にもかなり問題がある。

これは「環境影響評価法」に基づいて公開されたものであるが、実は「公開」といっても随分手が込んでいる。というのは、これが公開されているWEBサイトでは、ダウンロードすることもできず、印刷はおろかコピーすらできないように工夫されているのだ。おそらく縦覧期間が終了したらすぐに見られなくなるだろう。

(※ダウンロードは可能だと教えてもらいました → http://influx-fukiagehamaoki.com/pdf/data/f01.pdf [数字の部分:f01 ~ f08]※印刷するには、こちら→ https://www.ilovepdf.com/ja/unlock_pdf を使ってロック解除してください。以上テンダーさん @tender4472 からの情報)

このような工夫が施されていること自体、何か疚しいことがあるのではないかと感じさせるのに十分だ。(ただし、環境省は、こうした限定公開を認めているようなので、環境省の問題も大きい。)

環境アセスメントの手続きでは、各手順で意見を聞くことになっているのに、縦覧期間終了後に非公開にしたら、意見がどのように反映されたかも確認できないというのに、つくづくおかしな公開方法だと思う(そもそも、これは「公開」とは言えないだろう)。

環境影響評価情報支援ネットワークより引用

そして、今回の「配慮書」公開で留意しなければならないのは、環境影響評価法によれば、環境アセスメントの手続きにおいて、一般からの意見が自由に言えるのは、「配慮書」に対してのみだということだ。これから、「方法書」「準備書」「評価書」そして最後に「報告書」が作られるが、これらに対しては専門家が意見を述べることになっているものの、一般の意見を受け付けるものではない。つまり、この巨大すぎ、問題が満載の事業に対して市民が自由に意見を述べられるのは、今回の「配慮書」が最初にして最後のチャンスなのである(※これは言い過ぎでした。一番下の【2020.8.1追記】参照)。

それなのに、この事業は報道等でもほとんど扱われておらず、いちき串木野市、日置市、南さつま市の行政も積極的に情報を広めていない。社会問題について深い関心を有する私の友人たちも誰一人としてこれを知らなかった。どうも、何か「ひっそりと進められている感じ」「公明正大ではない感じ」、つまり「隠密感」が漂っているのである。

こういう巨大プロジェクトは、動き出したら止めるのがとても難しい。なぜなら、推進側はプロジェクトから巨大な利益を得ることができるが、 反対側は、現状維持だけが報酬だからである。また、ひとたびプロジェクトが動き出すと、補償を受けられる人と受けられない人が存在するようになり、そうでなくても人の考えはそれぞれだから、賛成派と反対派で地域が分断されてしまう。これが、私が一番心配することである。

それを防ぐ唯一の方法は、事業の全てのプロセスを透明化し、早い段階から多くの人の意見を聞き、最初から利害調整が難しいところは避けて、穏当な計画を具現化していくことである。今のやり方は、Point of No Return(後戻り出来ない点)まで来た後で、文句を言う人には「あの時、ちゃんと意見をいう機会があったじゃないですか〜!」と言って却下するつもりだと思わせる。

最後になるが、私は洋上風力発電自体には反対ではない。今回の事業も、もっとずっと洋上の沖合に、規模を数分の1に縮小して建設するなら、悪いものではないのかもしれないと思っている。今回のプロジェクトの最大の問題は、巨大であるにもかかわらずその進め方がいかにも不信感を抱かせるものだということだ。

「配慮書」への意見は、7月31日8月7日まで受け付けられている。あと1週間。意見の提出方法は、郵送、または市役所で書面提出。ネットで受け付けていないだけでも、「なるだけ意見を出してもらいたくない」という姿勢が伝わって来るではないか。

地域住民のみなさん、そしてこの地域の自然や景観が好きな人は、ぜひ意見を出して欲しい。こういう時の意見は、「数は力」である。


↓↓「配慮書」への意見はこちら
 (仮称)吹上浜沖洋上風力発電事業に係る「計画段階環境影響配慮書」の縦覧について
http://www.city.minamisatsuma.lg.jp/shimin/oshirase/e022596.html


【2020.7.29追記】
テンダーさんもご自身のブログでこの問題を取り上げてくれた。この記事とはまた違った観点でこの事業の問題点を指摘しています。

鹿児島の洋上に世界最大の風車群建設計画が持ち上がるが、その環境配慮書がてんでダメ、という話。
https://yohoho.jp/24633


【2020.8.1追記】
上では「意見を言う最後のチャンス」と書いたが、「それは言い過ぎでは?」との意見があった。環境影響評価法を改めて読んでみると、確かに環境アセスメントの後段階で説明会があり、意見を書面で提出する機会がある。「配慮書」だけは「一般の…意見を求めるように努めなければならない」とあるので、私は「一般の」を強調して理解したが、これは文飾上のもので、今後の各機会において誰でも意見は言える模様。
 

2019年2月24日日曜日

海からやってきた2頭のクジラ

先日、笠沙の小浦に2頭のクジラが打ち上がった。

下の娘がクジラを見てみたいというので保育園から海岸まで直行。正確な場所は聞いていなかったが、行けば人だかりがあるだろうとタカをくくって進むと、果たして大勢の人が集まっているところがある。自宅から車で15分ばかりの岩場に巨大なクジラが横たわっていた。

クジラは大きい、と頭で分かってはいても、実際間近で見るのは初めてで、大きさに圧倒された。あまりにも大きいので、逆にリアリティが感じられないほどだ。20m弱のマッコウクジラで、重さは40トンくらいではないかという話だった。

クジラは、発見された時には既に死んでいたそうだ。こういう巨大なクジラは、浮力で体を支えなくては自らの重みに耐えられないため、陸に上がると体が押しつぶされ死んでしまうのだという。それとも元々病気で弱っていて打ち上げられたんだろうか。

娘たちは、意外とケロっとしているように見えたが、次の日、上の娘は過去最長の日記を書いていた。やはり、強烈な印象を与えたのかもしれない。そして、下の娘が夜の読み聞かせに読んでもらおうと本棚からとってきたのが『海に帰った4頭のクジラ』という絵本。私自身、この本を読みながら、なぜか感極まって泣きそうになってしまった。

『海に帰った4頭のクジラ』
『海に帰った4頭のクジラ』はニュージーランドのダニーデンという港町で実際にあった出来事を描いている。ある日11頭のヒレナガゴンドウという小型のクジラが海岸に打ち上げられ、それを町のみんなで力を合わせて救出するという話である。クジラを海に返していくシーンが特にいい。みんな、へとへとに疲れているなかで大喜びするという描写が、生き物への愛情に溢れていて感動する。

ちなみに、私の住む大浦町でも2002年に14頭のマッコウクジラが漂着し、真冬の大荒れの海でクジラの巨体と格闘し1頭を救出したという事件があった。うちに『海に帰った4頭のクジラ』という絵本があるのも、自分の町でこの事件があったからこそだ。

ちなみに助かったのは1頭だけで、残りの13頭は死亡、その処理にも非常なる苦労があった。後日、13頭の慰霊の意味もこめた「鯨との日々」というモニュメントが建てられ、またさらに数年後、そのうち1頭の骨格標本を展示する「くじらの眠る丘」も作られた。ことの顚末は当時鹿児島新報(今はないローカル新聞社)の記者をしていた方が詳細に書いている。

【参考】クジラ漂着騒動記
http://www5.synapse.ne.jp/kabahiko/newpage426.htm

詳細な記録としては、『鯨との日々 : くじら座礁の記録』という本が公的機関(南薩西部地域振興対策協議会=合併前の市町村連合会みたいなもの)によってまとめられた。またこの事件によって、地域には漂着クジラの処理のノウハウが蓄積し、今回打ち上げられたクジラについては翌日には沖合に仮繋留されたらしい。ものすごい対応の早さである。

だから14頭のクジラ漂着は忘れられたわけではないのだが、しかしこの事件ももう17年も前のことで、子どもたちは直接知らないし、記憶もやがては風化していく。何もかも覚えていられない以上、忘れても仕方ないものといえばそれまでかもしれない。

でも『海に帰った4頭のクジラ』を読んで改めて思った。物言わぬ生き物を助けるということには無上の価値があることで、その経験は次の世代に伝えていくべきなんだと。そのためには、絵本という形態が非常に理に適っているということも。

そんなことで、私が密かに思ったのは、大浦町の14頭のマッコウクジラ漂着の物語を絵本にしたらどうだろうということだ。 今ならまだ当時奮闘した人の話も聞ける。見守っていた人たちの話も聞ける。私自身は新参者の住民なので漂着事件を直接には経験していないが、そういう人たちの話を元にすれば少なくとも何があったかを伝える絵本が書けるんじゃないか。

ただ絵本である以上、絵を描く人を見つけないといけない。それを子どもたちに言ったら、「自分たちが描くから大丈夫だよ」と気軽に言う。

——そんなに簡単に描けるわけないだろ、難しいんだぞ、と言っておいた。

2014年3月7日金曜日

恵比寿とクジラの関係

今、南さつま市では、クジラ関係の観光振興に力を入れている。先日は、クジラをテーマにしたお土産コンテストまで開催され、とも屋さんの「くじらのおひるね」というお菓子が大賞を受賞した。

こうして、クジラに力を入れているのは「くじらの眠る丘」というクジラの骨格標本を展示する施設ができたからなのだが、自分としては、ただ骨があるというだけでは観光資源としての深みに欠けるような気がして、もう少し歴史や文化まで掘り下げてクジラをアピールすることができないかと思っている。

【参考】南薩の捕鯨と「くじらの眠る丘」

というようなことを考えていたら、ふとクジラと恵比寿信仰には関係があるのではないかと思いつき、少し調べてみた。南さつま市でも笠沙に「笠沙恵比寿」という恵比寿信仰をモチーフにした施設があるのを始め、恵比寿信仰は盛んだった。その祠があるところが、どうもクジラが見られる浦に当たっているような気がして、関連性が気になったのである。

結論を言うと、恵比寿信仰とクジラには深い関連があり、中山太郎という明治時代の民俗学者は「ゑびす神異考」という論考を著して、恵比寿信仰の源にはクジラへの信仰があるのだ、という説を唱えているくらいである。ただこれは少し牽強付会なところがあって、信憑性はイマイチと言わざるを得ない。

だが、北関東以北の地域では、クジラやサメといった大型の海棲動物を「えびす」と呼んできた地域が多い。 これは、クジラやサメが小型の魚を追い込んで沿岸に大量に連れてくるため豊漁になることが多く、豊漁をもたらす有り難い存在として「えびす」と呼んだのだろうとされている。恵比寿信仰とクジラには確かに関連があるのである。

ただし、西日本ではクジラと恵比寿信仰に関連があるという明白な証拠がないようだ。西日本の沿岸での恵比寿信仰は、海岸の石とか珍奇な漂着物とかを依り代(よりしろ)にして豊漁を願うものが多く、東日本のそれとは少し違っている。こうした自然発生的な民俗信仰は地域ごとの差異が大きく、そもそも信仰の淵源を求められるものではないが、残念ながら西日本ではクジラと恵比寿信仰の関係は遠い。

しかし今回少し調べてみて思ったが、恵比寿信仰というのはなかなか奥が深い。漁民の豊漁や安全を願う心が具現化されたのが恵比寿という存在であることに疑いはないが、他の神格や神話を取り込み、習合を繰り返し、恵比寿は複雑な神に発展して行った。だが生活と仕事に即した素朴な願いが託されている存在であるから、決して大仰な力(例えば国家安泰とか)を持ったりせず、それが司るのは商売繁盛といった身近で現世的なものだったのである。

そういう点は、稲荷信仰、八幡信仰、熊野信仰といった民間信仰がみな共有していたところでもあるが、恵比寿信仰が特異的だったのは、信仰に中心らしい中心を持たず、常に意識が海の彼方へと向かっていたというところである。稲荷信仰なら伏見稲荷、八幡信仰なら宇佐八幡、熊野信仰はそのままずばりで熊野が中心だ。だが恵比寿信仰は、兵庫県の西宮神社というのが総本社とされているが、各地ではそれが意識されていなかったようだ。

恵比寿信仰は、神話の及ぶところにない、庶民と海の間から澎湃と沸き上がった信仰である。そういう正体不明の存在だからこそ面白い。いつか機会があったら南薩の恵比寿信仰についてちゃんと調べてみたい。

【参考資料】
えびす信仰事典』1999年、吉井良隆 編

2014年2月24日月曜日

笠沙美術館を運営して(ミュージアムカフェをやって)みませんか?

先日の南さつま市議会で、笠沙美術館に関する条例の改正があった。一見地味だがなかなか面白い内容である。

それは、笠沙美術館に指定管理者制度を導入するものだ(第15条)。つまり、この施設の維持管理を民間に委託できるようになった、ということである。

そして、その中のさらに地味な条項であるが、指定管理者が行う業務として、「市長が必要と認める業務」が規定されているのがポイントだ(第16条)。美術館自体の維持管理は、単に入場料を徴集したり、場所貸しをしたりといった仕事であり、民間の創意工夫を生かす余地はないが、この条項があるので、たとえばここをミュージアムカフェにするといったようなことが可能になる

この笠沙美術館は、以前も紹介したことがあるように「日本一眺めのいい美術館」を標榜してもおかしくないほどの絶景の地にある。この絶景を眺めながらコーヒーの一杯でも飲めたらどんなに幸せだろう、と夢想してきた私にとって、この条例改正は大変喜ばしいものだ。指定管理者は個人で請け負うことができないが、もしそうできれば、私が真っ先に手を挙げたいところである。

また、笠沙美術館は風景がいいだけではない。美術館の建物はクルーズトレイン「ななつ星」などのデザインで知られる水戸岡鋭治氏で南欧風のデザインが瀟洒である。こういう洒落た建物で飲むコーヒーは美味いに決まっているのである。

だが、経営的に見ると少し厳しい点もある。最も心配されるのがあまりにも辺鄙な土地にあるということだろう。しかし、山側の道路を挟んだ向かいには「杜氏の里笠沙」がある。「杜氏の里」は、南さつま市の三セクの中では唯一の黒字団体であり(2012年度)、それなりの客足がある。場所柄は辺鄙で寂しいところだが、決して無人の地ではない。市の方で近年力を入れている「南さつま海道八景」の見所の一つでもあり、ドライブ客が期待できる。

それに、指定管理者には管理料収入が市から支払われる(というか民間で経営が成り立つなら公共の施設にすべきでない)。基本的には、美術館の維持管理のみであれば赤字はないはずで、ほぼリスクなくこういう絶景の地にミュージアムカフェをオープンできるとすれば、事業者にとっては大チャンスである。

だが、市の方ではかなり弱気な姿勢を見せていて、先日の市議会では「応募がなかった場合は現状とならざるを得ないと考えるが…」と随分引き気味なことを述べている。「応募がなかったら」というような消極的なことではなく、創意工夫と経営能力がある事業者が応募してくるように、鹿児島市内はもちろん、北九州や大都市圏でも説明会をするべきだと思うし、そうして、市の方で応募者を厳正に審査するという強気な立場にならなければならないと思う。

一番いけないのは、形式的には公募の形をとりつつ、実際には南さつま市内の適当な事業者に声をかけるだけで広く呼びかけず、結局役所がやるのと変わらない仕事を民間が担うということだと思う。せっかく指定管理者を公募できる規則を作ったのだから、これを生かしてもらいたいというのが一市民としての期待である。そしてもう一つ高望みすれば、こここをミュージアムカフェにしてもらい、沖秋目島を眺めながらコーヒーが飲みたいのである。

【補足】
本件に関してご関心ある(南さつま市外の)事業者の方は、コメント欄にでもご連絡ください。市の方に取り次ぐことも可能だと思います。なお、条例上は「指定管理者に業務を行わせることができる」となっているだけで、応募者が想定されない場合は公募されないこともあります。なので、公募があったら検討しようということではなく、公募をするように市の方に働きかけていくくらいの積極性がないとダメかもしれません。

2013年8月10日土曜日

南薩のポストカードを制作中

実は今、南薩のポストカードを作っている。

きっかけは何だったか忘れたが、南さつま市が近年「南さつま海道八景」のプロモーションに力を入れているように、南薩のこのあたりは絶景の宝庫であるにも関わらず、なぜかポストカードの一枚も販売されていないため、「ないなら自分たちで作っちゃえ!」と軽い気持ちで始めたのが昨年のこと。

私の写真の腕前はドシロウトであるため、高校の同級生でセミプロカメラマンA君の絶大な協力をお願いして快諾をもらい、また笠沙の現代アート写真家こと向江 新一さんからの写真提供もあって、写真についてはあまり心配していなかったが、いざ撮影をお願いする段階になると(ここをこんな風に撮って欲しいと具体的にお願いしたわけではないが)結構難しい仕事であることに気づいた。

というのも、単なる風景写真ではなくてポストカードにするものだから、見る人が「美しい」と感動するだけでなくて、風景を自分のものとして共感して、それを人にあげたいと思ってもらわなくてはいけない。また、コンテストで入賞するような写真は、撮影者の独自の視点であったり、他の人が見逃していた美しさなどが表現されていることが多いと思うが、ポストカードの場合はあまり独自性がありすぎてもいけないと思う。それは、ポストカードの風景は、撮影者だけのものではなくて、手紙を出す人のものでもあるべきだと思うからだ。

だから、凡百の観光地のポストカードは、誰も文句が言えないような、代表的な絶景を無難に配置するということになっているのだと思う。そして、それで十分な場合もあるだろう。けれども、せっかく私のような一個人が発案して作る風景ポストカードなわけだし、そういう無難なやり方ではなく、これまでにない南薩の表情を切り取ってみたいという欲もある

このあたりのことは、実際に写真を撮るA君が考え抜き、また悩み抜いたであろうことで、写真を選ぶ(という傲岸な立場の)私はあまり考える必要はなかったのかもしれない。だが、南薩の絶景でポストカードを作る以上、自己満足で終わらせずに、地域の多くの人に実際に使ってもらいたいと思っているし、しかもタダで配るのではなく、大浦ふるさと館等で販売して、経費分くらいは回収したい。ビジネス的にそのくらいできなくては、ただの素人の遊びになってしまう。

それに、この数ヶ月間、A君は写真撮影のために貴重な休日の多くを費やしているわけで、私の方としても自然に、ポストカードを作るということが本当はどういうことなのか、なんとなく考え続けてきた次第である。

そして、ついに、A君からも素晴らしい写真の数々が入稿され、今、印刷段階に入っているところである。5種類作る予定で、シリーズタイトルだけ事前告知しておくと「Nansatz Blue」という。別に青をテーマとしたポストカードというわけではなかったのだが、入稿された写真を見ていると美しい青の写真が多い! ということから、今回は青に絞ってポストカードを作ることになった。「今回」ということは「次回」があるはずで、まだ何も完成品を出していないうちから次回のことを考えるなんて笑止千万とは思うが、A君の撮ったたくさんの写真を目の前にして、5種類とはいわずまだまだ作るべきだ、という思いが強くなった。やはり、南薩は美しい。

うまくいけば発売は8月末か9月初旬である。改めてお知らせするので是非注目してほしい。

2013年6月28日金曜日

水陸両用バスに試乗

先日、南さつま市が実証実験として運行した水陸両用バスに試乗させてもらった。南さつま市では、海沿いの景観を生かした観光振興の一環として、話題性のある水陸両用バスの定期運行を計画しているという。

当日の試乗コースは仁王崎から片浦漁港へ行き、そこから進水して片浦湾内を一巡りしてまた元に戻ってくるというもの。全体を通じてみて、ネガティブで申し訳ないが「定期運行したら赤字だろうな」と思ってしまった。

片浦湾内の景色は悪くないが、やはりなぜ水陸両用バスでなければならないのか、というところがぼやけていて、観光するなら遊覧船でいいんじゃないかと思う。この水陸両用バスは波が静かな内海でしか運行できないのではないかと思われるが、おそらくそのためにコースが片浦湾内に限定されてもいる。本当にそうかどうかはわからないものの、あえて片浦湾内を観光しているというよりは、外海に行けないからしょうがなくそこを巡っている、という感じがぬぐえない。

せっかくの水陸両用バスなので、バスでも、遊覧船でもできない特徴的な観光コースができればよいと思う。例えば、無人島に上陸するとか、そういう無茶はできないものだろうか。少なくとも、「景色がきれい」という漠然としたアピールの仕方ではなくて、「水陸両用バスでしか見られないこの景色が見られます!」というような目玉が欲しいところである。

他にも、実際に定期運行を考えると難しい点が多々あり、予算的なことも考えると、イベント的な運行に留めておいた方がいいような気がする。

ただ、船上で観光ガイドをしていただいた「加世田いにしへガイド」の方の案内は結構ためになり面白かった。短い遊覧コースではあったが、そこには意外にもたくさんの歴史があり、ただ風景がきれいなだけではない、奥深い内容があったと思う。観光振興には話題性も重要だが、ああいう地味な活動はもっと大事だと思うので、同じお金を使うなら、そういう草の根の動きを一層盛んにするような使い方をしてもらいたい。

2013年5月30日木曜日

もう一つの特攻基地

南薩で特攻基地、というと知覧が圧倒的に有名だが、実は加世田の万世(ばんせい)にも特攻基地(万世飛行場)があった。

この基地は旧日本陸軍最後の特攻基地であり終戦間近の数ヶ月だけしか使われなかったことや、極秘の飛行場だったためか、かつては「幻の基地」と呼ばれほとんど知られていなかったのだという。

しかし、使われたのが短期間とはいえ201人もの若い命がこの飛行場から特攻に飛び立っており、知覧の439人と比べ約半分の規模、またこれは全特攻戦死者1036人の約5分の1を占めてもいる。

現在飛行場跡地には「万世特攻平和祈念館」があり、慰霊と特攻の記録が展示されている。この施設ができたことで、「幻の基地」は幻でなくなったといえる。これはここから飛び立った数少ない生き残りである苗村七郎さんという方が、非常な熱意を以て遺品を収集し、また私財を旧加世田市に寄附したことを契機として建設されたものだ。なお苗村さんは生前は名誉館長も務めていた。

その内容は、知覧特攻平和会館に全く劣らない。規模的には半分程度だと思うが、遺影と遺書の展示は見ているとどんどん気分が沈んでくるものであるから、半分もあれば十分すぎるほどだと思う。しかし、入館者の数は半分どころではなく、知覧の10分の1もないであろう。先日私が訪問した時も、入館者は私一人であった。

知覧には武家屋敷もあり、複合的な観光地であるので単純に比べることはできないが、この入館者の少なさは残念だ。南さつま市の方でもこの施設を積極的に広報していこうという気はなぜかないようだが、いつも人でごった返している知覧よりも、静かに、じっくりと特攻兵士たちと向き合える施設だと思うので、もっと多くの人に見てもらいたいと思う。

ちなみに、この万世飛行場だが、戦況が悪化の一途を辿っていた昭和18年に突貫工事で作られた。資材不足のため舗装すらされていなかったという。が、用地は吹上浜に面した網場集落(83戸)というところを買収しており広大な敷地があった。戦後、飛行場は跡形もなく消えさり、今では営門の遺構が残っているだけに過ぎない。かつて「幻の基地」と言われた所以である。

しかし、基地の敷地だったところには今でも官有地がかなり残っており、この万世平和祈念館を始め県立薩南病院、物産センター「るぴなす」など公共の施設が多い。特に吹上浜海浜公園は基地跡のかなりの面積を占めているだけでなく、同公園には今でもさりげなく特攻の滑走路が残されている

死地へと飛び立つ兵士を送り出した滑走路が、今は子どもたちの歓声が響く公園で使われているわけだ。これには「滄海変じて桑田となる」という言葉を思い出さずにはいられない。隣国との関係が何かギクシャクしている昨今、今度は桑田がまた滄海と変じてしまわないように、気をつけていかなければならない。今度、滑走路跡を歩いてみたいと思う。

2013年5月1日水曜日

大浦町には、世界最北限のマングローブ自生地があります

南さつま市大浦町には、なんとマングローブがある。大浦川の河口にあるメヒルギの群落である。

なおマングローブとは、汽水域に成立する森林の総称。様々な樹種で構成されるが、その中でもメヒルギは耐寒性が強く、最も北で自生する種類である。

このメヒルギは、自生の北限がこの大浦町と鹿児島市の喜入ということになっていて、特に喜入の方は国の天然記念物に指定されている。

ところで、この喜入と大浦のメヒルギは、世界的にもマングローブの自生の北限とされていて、さらに南限(つまり南半球で南極に近い方の極限)まで含めて、今発見されているものの中では赤道から最も遠いマングローブなのだ。

では、どうして世界的にも北限という特殊なマングローブが喜入と大浦にあるのだろうか? ここは、緯度に比してそんなに暖かいところなのだろうか?

実は、喜入のメヒルギは正確には自生ではなく、人為的な移植によるものと考えられている。薩摩藩の琉球出兵の折、喜入の領主肝付兼篤が琉球から持ち帰って植えたものとする言い伝えがあるのだという。事実、喜入のメヒルギの系統を分析すると、種子島や屋久島のものとは遠縁で、むしろ沖縄のものと近縁らしい。

では、大浦町のメヒルギはどうなのだろうか? ローカルな話で恐縮だが、蛭子島(という陸続きの小島が河口にあるのです)のメヒルギは、かつてメヒルギの生育環境が悪化し枯死が心配された時に、喜入から移植したもので、実は天然の群落ではない。

問題は、もっと上流側のメヒルギだ。これは大浦川の護岸工事の際に一度群落を取り除き、護岸工事を終えてから種子島から取り寄せたメヒルギとあわせて植え直したものらしいから(※)、そういう意味では人工的な群落だが、護岸工事の前は自生だったのではなかろうか?

古い資料を見てみても、護岸工事前のメヒルギが人工的に移植されたものという話は見当たらない。また、大浦川のメヒルギ群落は、メヒルギが貴重なものということが分かってから保護し増やしたもので、保護する前はわずか1株しかなかったという話もある。ここが逆に本物っぽいところで、もしかしたら、大浦川は正真正銘のメヒルギの自生北限なのかもしれない。

では、人為的な群落と思しき喜入のメヒルギが国の天然記念物に指定されていて、もしかしたら天然かもしれない大浦のメヒルギが「市」の天然記念物という落差があるのはどうしてだろうか。これは、天然記念物という制度ができた大正時代、植物に関しては中野治房という学者が全国を調査し天然記念物に指定すべきものを建白したのだが、彼が「大浦川河口のものはその数甚だ少なく到底喜入村のものに及ばず」と一蹴したことによる。

中野は喜入のメヒルギ群落が人為的なものであることは「掩うべからざる事実なるが如し」としながらも、その規模と保存のしやすさなどから喜入のメヒルギを天然記念物にふさわしいものとして推したのだった。しかしながら現代では、メヒルギは静岡県の伊豆にも植栽されており、天然でなければこちらが北限の群落になる。そういう意味では喜入のメヒルギの価値が揺らいでいる状況だ。

というわけで、大浦川のメヒルギが本当に天然のものなのか、ちゃんと調査してみるとよいと思う(私が知らないだけで既にやっているかもしれないが)。喜入のメヒルギ群落が人為的なものということで、自生の北限は種子島に変更すべき、という主張もあるらしいが、種子島に変更してしまう前に、大浦のメヒルギの価値を明確化してはどうだろうか。

※ ここら辺の経緯が茫洋としていて摑めない。不正確だったらすいません。

【参考】
薩摩半島(鹿児島県)で「自生最北限のマングローブ」の調査活動を実施」マングローブの保護をしている国際的なNPOが大浦にもきて調査していたようだ。写真があるのでわかりやすい。
→(2016.6.19追記)リンク切れ。だが同団体のWEBサイトに大浦川のマングローブの写真がたくさん掲載されている。「鹿児島・沖縄マングローブ探検|鹿児島

【参考文献】
史蹟名勝天然紀念物調査報告. 第8号」1919年、内務省編(中野治房報告)
大浦町の植物」1973年、浜田 英昭
マングローブ林の林分解析」1979年、中須賀 常雄
種子島阿嶽川・大浦川のマングローブ林について」2013年、寺田仁志 他
"Status and distribution of mangrove forests of the world using earth observation satellite data” 2010年、C. Giri他

2013年4月13日土曜日

硫黄貿易が結んだ南薩と硫黄島

知りたいことがあって、中世の硫黄貿易について調べている。

近年、日宋貿易における重要な輸出品として硫黄へ注目が集まりつつあるのだが、これの重要な舞台として、南薩の坊津、そして硫黄島(※1)が登場する。

硫黄島は、島の大部分が硫黄岳という火山によって占められており、中世においては東アジア最大の硫黄鉱山であったと言われる。 そして採掘された硫黄は、11世紀後半から日宋貿易により宋へ輸出されたと見られている。

この頃の宋は、西夏との争いに備えるため、火薬の原料である硫黄を必要としていた。その一方で遊牧民族の侵入により領土が縮小し、国内には良質の硫黄鉱山を持っていなかったという事情もあり、わざわざ日本から硫黄を輸入する必要があったというわけだ。

また、その背景として、軍馬の産地である西北を隣国に押さえられていたということもあるようだ。このため当時の主要戦力である騎兵が不足して自然と防御を重んじることになり、要塞の防衛のために火器が求められるようになったらしい。

硫黄が当時どれほどの価格で取引されたのかはわかっていないが、11世紀から16世紀に至るまで硫黄島とその隣の黒島と竹島(三島合わせて三島村を形成)が繁栄し続けたところを見ると、硫黄がかなりの富をもたらしたのは間違いない。その証左として、これらの島は小さな離島であるにも関わらず、立派な五輪塔を始めとして数多くの石造物が遺っている。

硫黄島から運び出された硫黄は、第一の寄港地として坊津を経由したようだ。もしかすると、硫黄貿易は坊津で管理されていたのかもしれない。というのも、坊津と硫黄島は当時「河辺郡」という同じ行政区画に属していたからだ。莫大な利益をもたらす資源というのは、実は統治機構にとって危険であり、その管理は重大事である。硫黄は、本土で厳重に管理されていたと考えるのが自然だ。

なぜなら、資源は適切に管理しなければ、野放図な開発や統治機構の腐敗、資源の奪い合い、そして略奪行為が誘発されるからである。それは当然といえば当然で、富をもたらす資源があるところ、「それは俺のものだ」と主張するならず者が必ず現れる。現代でも、アフリカの多くの地で、希少な資源を採掘する場所がほとんどマフィア的に占領され、現地の人をむしろ不幸にしているケースがあるのはこの罠による部分がある。資源は、適切に管理する能力を持つ統治者がいなければ、必ずしも現地の人に富をもたらすものではないのである。

そう考えると、13世紀以降に硫黄島を管理した千竈氏、そして16世紀に硫黄島の主導者となった長浜氏といった人々は硫黄貿易をうまく取り仕切ったのだろう。しかし、具体的な硫黄貿易の姿は茫洋としていて、よくわからないことだらけだ。これらの人々がどんな支配を行ったのかもよくわからない。文献もあまり残っていないため、現在の硫黄貿易研究は、いわば状況証拠に頼っているような部分がある。

また、11世紀から16世紀という500年にも及ぶ長い期間、元代には低迷期があったにしても、海外との貿易のみによって硫黄島が繁栄し続けたということはありそうもない話である。やはり国内にも安定的な硫黄の需要があったと考えるのが自然ではないか。では、その国内の需要とはどんなものだったのだろうか。

硫黄は、まずは火付けとして使われたし、少なくとも江戸時代には農薬としても使われていた。こうした用途で硫黄島の硫黄が各地に販売されていたことも考えられるが、日本では硫黄は各地で採れたはずで、敢えて硫黄島産を購入する必要もないような気がする。他方、安定的に硫黄を採掘するというシステムが各地で構築されたようにも思えず、そういう意味では硫黄島は貴重な存在だったのではないかという気もする。…というわけで、海外との硫黄貿易の実態解明も興味深いが、国内流通の方も気になるところである。

そんなわけで、一度硫黄島へ行って石造遺物や島内の様子を見てみたいと思っている。現在、硫黄島(三島村)への定期航路は鹿児島市-竹島-硫黄島-黒島というものがあり、これに加えて黒島-枕崎漁港というのが数年前から実証実験として就航している。噂では、近く枕崎からの便が定期航路化(本数が増えるということ?)するらしい(※2)。三島村には、南薩地域との結びつきを強め、観光や特産品販売などの面で協力していこうという考えがあるようだ。

中世において、硫黄貿易を通じ非常に密接な関係を持っていたと思われる南薩と硫黄島が、現代においてまた結ばれるとすればなかなか面白い展開だと思っている。いつか実際に硫黄島に上陸する日を楽しみにしたい。

※1 東京都にも、太平洋戦争で激戦地になった硫黄島があるが無関係である。
※2 伝聞なので間違っていたらすいません。

【参考文献】
日宋貿易と「硫黄の道」』2009年、山内 晋次
2013年3月に坊津の輝津館で行われた「甦る中世貴界島」という講演会の内容も参考にさせていただいた。

2013年4月2日火曜日

二つのクタジマ神社と大宮姫伝説

南さつま市万世の当房(とうぼう)というところに小山があり、そこの急な石段を上ってみると久太嶋権現という神社があった。

ほんの標高数十メートルの小山だが、吹上浜に向かって(藪は多少あるが)眺望が開け、周りには高いものがないので大変眺めがよい。たった数十メートル視点が上がるだけで、全く違う景色が広がっているのが面白い。

この神社、何だろうと思って調べてみると、同じく久多島神社というのが日置市にもあり、その由来が興味深い。

この2つのクタジマ神社は、吹上浜の沖合10kmばかり沖にある無人島、久多島遙拝(ようはい:遠くから拝む)するために建てられたらしいが、ではなぜその島を遙拝したのだろうか?

実は、これは南薩に残る「大宮姫伝説」に関係している。大宮姫伝説とは、要約すると次のような伝説である。
  • 頴娃に鹿から産まれた美しく賢い女の子がいた。
  • その評判が京にも伝わって朝廷の采女となり、後に天智天皇の后になり大宮姫と名乗った。
  • ところで、姫はいつも足袋を履いていたが、それは姫の足が鹿のそれのように二つに割れていたからであった。
  • ある時、姫の寵愛を妬んだ女官たちによってその秘密が暴かれてしまい、姫は天智天皇の元を去り、鹿児島へと帰ってきた。
  • 天智天皇も姫を追って鹿児島へと下向し、やがて二人はこの地で亡くなった。

ちなみに、『日本書紀』などには天智天皇に大宮姫という后がいた記録はなく、また鹿児島へやってきたという記録もないので、これは正史からは認められないローカルな伝説である。ただ、このような伝説がなぜ産まれたのか? ということを繙くと、古代の地域史がいろいろわかってくる様な気もして面白い。

さて、二つのクタジマ神社はこの大宮姫が鹿児島へと帰ってくる場面に関係する。こういうエピソードである。

大宮姫が舟で開聞へ行く途中、姫は俄に産気づいて皇女を出産するが、残念ながら赤子は息絶えてしまう。姫は死んだ赤子を舟に乗せて海に流し、舟は吹上町の永吉に流れ着いた。村人は遺体を手厚く葬り舟を再び海に流したが、この舟が沈んだところの岩が盛り上がり島となった。この島を久多島といい、村人はこの島に皇女の霊を祀ったのだという。

氏子の高齢化などで現在は廃されたようだが、以前は数年に一度、この久多島まで行きお祭りをしていたそうである。久太嶋権現にはご神体らしき石仏(本尊というべきか)もあるが、真の意味でのご神体はこの久多島だ。

こうした伝説がどうして成立したのか不明だが、吹上浜の沖合にある小さな無人島を拝むにはそれ相応の理由があったに違いない。天智天皇を持ち出すくらいだから、相当古くからの信仰なのだろう。この久多島とは何なのか、どういう特別な場所なのか、機会があったら行って調べてみたいけれど、この無人島に行く機会は一生ないような気がする。

【参考】
大宮姫伝説について
大宮姫 指宿市山川町(さつまの国の言い伝え)
久多島神社の由来(さつまの国の言い伝え)
ウッガンサアへの感謝―薩摩半島加世田市当房の内神霜月祭り―(南さつま半島文化 鹿児島県薩摩半島民俗文化博物館)

2013年3月12日火曜日

南薩の捕鯨と「くじらの眠る丘」

大浦ふるさと館(物産館)の横に、「くじらの眠る丘」というクジラの骨格標本を展示する施設がオープンした。

14頭のクジラの群れが当地に座礁するという事件が2002年にあったのだが、これはそのうちの1頭の骨格を標本化し、座礁10周年を記念して展示したものである(なお、1頭のみ救出されたが、残り13頭は死亡した)。

どうせ骨だろ、とタカをくくっていたが、実際に見てみるとまるで恐竜の化石のような迫力がある。クジラの骨の展示というのは珍しいそうなので、一見の価値はあろう。

大浦ふるさと館では、この施設が併設されたことを契機としてクジラ関連商品を充実させており、甑島の「くじらカレー」や 「くじらベーコン」も取り寄せられている。近いうちに試してみたい。

実は、南さつま市とクジラは因縁浅からぬものがあり、笠沙沿岸(片浦港)では古くから捕鯨が行われていた。豪壮な捕鯨でクジラを捕まえるだけでなく、定置網にクジラがかかると鯨肉を塩漬けにして肥前や肥後に出荷し浦が潤った、ということでお祭り騒ぎになったらしい。年間数頭から10頭くらいのクジラが獲れたという。

そういうわけで、明治中期から大正中期頃には鯨肉は笠沙の特産品であった。鹿児島で捕鯨を組織的にやっていたことがわかっているのは、笠沙と奄美大島しかないそうだ。

ちなみに、笠沙の赤生木(あこうぎ)というところにクジラキイ(鯨切り)というクジラの解体集団がいて、クジラの解体は漁民ではなく彼らが担当したのだということだ。クジラの解体は、もしかすると山で狩猟をしていた人々が担ったということなのかもしれない。

黒潮がぶつかる笠沙の野間半島は、おそらくクジラの回遊の道にあたっており、南さつまにはしばしばクジラが打ち上げられ、またホエールウォッチングもできる(※)。「くじらの眠る丘」は14頭のクジラ座礁10周年を記念し、新たな地域観光資源とするための施設ということだが、せっかくクジラに注目するのであれば、南さつまとクジラとの歴史的な関わりを掘り起こしたり、気軽にホエールウォッチングが出来る機会を設けたりするというような工夫も有効ではないだろうか。

※以前はやっていたようだが、今やっているのかどうか未詳。

【参考】
鹿児島県の捕鯨」2007年、不破 茂、米原 正晃
笠沙恵比寿の博物館スペースには、笠沙の捕鯨について解説した小さなスペースがある。 「くじらの眠る丘」が出来たことを契機として、内容をさらに充実させてもらえれば有り難い。

2012年10月7日日曜日

笠沙美術館——日本一眺めのいい美術館

南さつま市笠沙町のリアス式海岸を走る国道沿いに、「笠沙美術館(黒瀬展望ミュージアム)」がある。

展示品は笠沙町出身の画家 黒瀬道則氏の寄贈作品がほとんどで、その好き嫌いは分かれるところだと思うが、この美術館からの眺望は文句なく素晴らしい

エントランスからパティオに向かうと、東シナ海に浮かぶ沖秋目島(ビロウ島)が望め、それがさながら一幅の絵画のように建物で切り取られる。赤茶けた直線的な建物と、青い空と海が鋭く対比された風景は、むしろ南欧風ですらある。

聞くところでは、もともとこの美術館は展望所として計画されたものであるということで、絶景なのは当然だ。その建物も作品の展示というより、そこから望む風景を主体として設計されているように見える。ちなみに、建物のデザインは「つばめ」や「指宿のたまて箱」など、JR九州の多くの車両をデザインしたことで著名な水戸岡鋭治氏によるものらしい。そのデザインにただ者でないセンスを感じたが、納得である。

笠沙美術館は南さつま市にとって大きな財産だと思うが、来客もまばらであまり利用されていないのは残念だ。黒瀬氏の絵は、ミステリーの表紙になるような絵で面白味はあると思うが、正直なところ、何度も見たくなるようなものではないし、一般受けするものではない。せっかくの素晴らしい美術館が、郷土出身の画家の紹介だけに終わってしまってはもったいない。

そういうことから、私としては、ここをギャラリースペースとして積極的に活用し、多くの人に来てもらえるようにしたらいいと思う。小さなグループの個展などでも家族友人等でそれなりに人が来るので、この風景の素晴らしさを体感してくれれば口コミによる波及効果も期待できる。

ちなみに、今でもそういう利用ができないわけではないが、WEBサイトにも何も書いていないし、そもそも美術館の存在自体が積極的に広報されていない。なお、賃借料はギャラリーのみだと2100円/日で、全体を借りると5250円/日、展望所と駐車場は無料である。せっかくの素晴らしい資源なのだから、前向きに活用してもらいたいものだ。きっとここは、MOA美術館(熱海)や神奈川県立近代美術館(葉山)を越えて、日本一眺めのいい美術館といえるだろうから。

2012年9月13日木曜日

笠沙野間池の定置網観光

先輩農家のKさんのはからいで、ある農機メーカーの社員+協力農家の研修旅行に同伴させていただいた。

一行は福岡からいらっしゃったが、巡るのは南薩の地元だから私たちにとっては旅行という感じではないけれども、大変貴重な経験をさせていただいたと思う。ベテラン農家の方々ともう少し意見交換できればという不完全燃焼感はあったし、やはり圃場を実際に見てみないとよくわからないことが多かったように思うが、それでも他地域の専業農家の雰囲気を掴むのにはよかった。

ところで、この研修旅行では笠沙の野間池にある網元が経営する舟宿「のま池」に泊まったが、ここでは定置網観光ができる。要は定置網漁に同行できてその様子を見ることができるのだが、今回それを体験させていただいた(追加料金を払えば定置網にかかった魚も購入できる)。

舟には、かごしま水族館の方も乗船していた。定期的に漁船に乗せてもらい、どのような魚がどれくらい獲れているかを記録して、また水族館として欲しい魚が獲れれば譲ってもらうということなのだそうだ。

ちなみに、葛西臨海公園を始めとして、全国の多くの水族館が笠沙漁協から展示飼育用の魚を調達している。時には外国の水族館にも提供するらしい。その理由としては、第1に黒潮に乗って遠方の海からもたくさんの魚が集まり、年間500種もの魚が水揚げされるという笠沙の海の多様性が挙げられる。そして第2に、笠沙漁協は水族館の活動に対して理解があり、水族館へ魚を提供したり調査員を受け入れたりする体制が整っているということもあるのだそうだ。確かに、漁協の協力が得られなくては傷のない元気な魚を調達するのは困難だ。

出航は朝5時45分。海は凪ぎ。天候は快晴。漁船で野間半島を巡って定置網のポイントへ行き、漁師が網をたぐり寄せて網中の魚を追い込み、最後はタモで掬う。約1mくらいのバショウカジキが1匹、サワラが幾ばくか、大量のトビウオ、そしてアオウミガメが2匹 etc.。それが今回の成果(釣果?)だった。ちなみに、ウミガメは調査用のタグをつけて海に戻す。

この「のま池」の定置網はなんと明治のころから設置されており、百年以上の歴史があるのだそうだ。もちろん網自体は定期的に交換しているわけだし、そのやり方も機械化に伴ってどんどん変わってきたのだろうが、作業を見ると極めて合理化されていて、船員の動きには全く無駄がなく、軽々と作業しているように見えた。長い歴史に裏打ちされた作業という感じがする。流れ作業的になってしまって工夫の余地がなくなってしまうと面白くないのかもしれないけれど、仕事は、こういう風にこなしたいものだと思った。