南さつま市大浦町には、なんとマングローブがある。大浦川の河口にあるメヒルギの群落である。
なおマングローブとは、汽水域に成立する森林の総称。様々な樹種で構成されるが、その中でもメヒルギは耐寒性が強く、最も北で自生する種類である。
このメヒルギは、自生の北限がこの大浦町と鹿児島市の喜入ということになっていて、特に喜入の方は国の天然記念物に指定されている。
ところで、この喜入と大浦のメヒルギは、世界的にもマングローブの自生の北限とされていて、さらに南限(つまり南半球で南極に近い方の極限)まで含めて、今発見されているものの中では赤道から最も遠いマングローブなのだ。
では、どうして世界的にも北限という特殊なマングローブが喜入と大浦にあるのだろうか? ここは、緯度に比してそんなに暖かいところなのだろうか?
実は、喜入のメヒルギは正確には自生ではなく、人為的な移植によるものと考えられている。薩摩藩の琉球出兵の折、喜入の領主肝付兼篤が琉球から持ち帰って植えたものとする言い伝えがあるのだという。事実、喜入のメヒルギの系統を分析すると、種子島や屋久島のものとは遠縁で、むしろ沖縄のものと近縁らしい。
では、大浦町のメヒルギはどうなのだろうか? ローカルな話で恐縮だが、蛭子島(という陸続きの小島が河口にあるのです)のメヒルギは、かつてメヒルギの生育環境が悪化し枯死が心配された時に、喜入から移植したもので、実は天然の群落ではない。
問題は、もっと上流側のメヒルギだ。これは大浦川の護岸工事の際に一度群落を取り除き、護岸工事を終えてから種子島から取り寄せたメヒルギとあわせて植え直したものらしいから(※)、そういう意味では人工的な群落だが、護岸工事の前は自生だったのではなかろうか?
古い資料を見てみても、護岸工事前のメヒルギが人工的に移植されたものという話は見当たらない。また、大浦川のメヒルギ群落は、メヒルギが貴重なものということが分かってから保護し増やしたもので、保護する前はわずか1株しかなかったという話もある。ここが逆に本物っぽいところで、もしかしたら、大浦川は正真正銘のメヒルギの自生北限なのかもしれない。
では、人為的な群落と思しき喜入のメヒルギが国の天然記念物に指定されていて、もしかしたら天然かもしれない大浦のメヒルギが「市」の天然記念物という落差があるのはどうしてだろうか。これは、天然記念物という制度ができた大正時代、植物に関しては中野治房という学者が全国を調査し天然記念物に指定すべきものを建白したのだが、彼が「大浦川河口のものはその数甚だ少なく到底喜入村のものに及ばず」と一蹴したことによる。
中野は喜入のメヒルギ群落が人為的なものであることは「掩うべからざる事実なるが如し」としながらも、その規模と保存のしやすさなどから喜入のメヒルギを天然記念物にふさわしいものとして推したのだった。しかしながら現代では、メヒルギは静岡県の伊豆にも植栽されており、天然でなければこちらが北限の群落になる。そういう意味では喜入のメヒルギの価値が揺らいでいる状況だ。
というわけで、大浦川のメヒルギが本当に天然のものなのか、ちゃんと調査してみるとよいと思う(私が知らないだけで既にやっているかもしれないが)。喜入のメヒルギ群落が人為的なものということで、自生の北限は種子島に変更すべき、という主張もあるらしいが、種子島に変更してしまう前に、大浦のメヒルギの価値を明確化してはどうだろうか。
※ ここら辺の経緯が茫洋としていて摑めない。不正確だったらすいません。
【参考】
「薩摩半島(鹿児島県)で「自生最北限のマングローブ」の調査活動を実施」マングローブの保護をしている国際的なNPOが大浦にもきて調査していたようだ。写真があるのでわかりやすい。
→(2016.6.19追記)リンク切れ。だが同団体のWEBサイトに大浦川のマングローブの写真がたくさん掲載されている。「鹿児島・沖縄マングローブ探検|鹿児島」
【参考文献】
「史蹟名勝天然紀念物調査報告. 第8号」1919年、内務省編(中野治房報告)
「大浦町の植物」1973年、浜田 英昭
「マングローブ林の林分解析」1979年、中須賀 常雄
「種子島阿嶽川・大浦川のマングローブ林について」2013年、寺田仁志 他
"Status and distribution of mangrove forests of the world using earth observation satellite data” 2010年、C. Giri他
メヒルギ:大浦のマングローブ
返信削除越路干拓のメヒルギは、干拓出来立ての頃の少なくとも40数年前まで見れる事の無かった樹木だったかと思います。
30年前~20年前と、帰郷の度に大きく茂った越路の群落を見るのは何よりの楽しみだったんですが、今はもうこげんに大きく茂っているんですね。
ず~っと上流の遊濱近く製材所跡の向かいに50年以上前からのメヒルギが、我等の頃の『メヒルギ』でした。
今はもう、白木の標も朽ち果てているかも知れません…。
興味深々なのは、越路の群落の元々は何処から?って事。
製材所向かいの原木が一番濃厚そうな気も致しますが、若しかしたら遥か南の海から流れ辿り着いた物かも?…と。
むか~し、22の頃に、海岸の樹木は全てマングローブだらけのソロモン諸島で半年ほど過ごした事があります。
製材所跡のメヒルギ見た頃からの興味が、南の島で更に拡大されたのかも知れませんが、大事に見守るべき大浦の宝物ですよね。
先日の枇榔もそうですが、こうやって覗かせて頂きながら何が一番嬉しいかって、忘れ去ってしまっている様な郷里のあれこれが、新しいとても新鮮な眼で紹介して貰っている事です。
どうか、これからもよろしくお願い致します。
メヒルギについては、http://www.geocities.jp/nansatukusaki/mehi.html
ポンカン山の案外近くかと思われますよ。
是非、一度お訪ねになってみて下さい。
つよしさん
削除コメントありがとうございます。遊浜館と製材所前のメヒルギが大浦のもともとのメヒルギだったということは、昔の資料にも書かれていました。その資料には、「このメヒルギが枯れそうだから心配している」とあります。今ではどんどん増えているんですけどね。水質や気候がよくなったんでしょう。
ところで、大浦町時代、おそらくつよしさんもご存じの時代ではないかと思うのですが、「めひるぎ」という町内の詩文集が発行されていたようです。編集は教育委員会にいた内匠 進おじさんで、ちいさな冊子ですが、昔は意欲的にいろいろやっていたんだなあと感じさせられました。また同時に、そういう冊子に「めひるぎ」という名称をつけていたのは、この植物を大変大切に思っていたんだなとも感じさせられます。
その進おじさんも、昨年は転居の挨拶に伺ったのですが、今年はどうしてか見かけません。ご病気なのかもしれなません。お元気なうちにいろいろお話を伺っておきたかったなあと残念に思っているところです。
田舎は榊ということで製材所の下のメヒルギを見ながら学校の行き帰りでしたが、私たちが小学校のころ理科の先生(名前を忘れましたが)がメヒルギの種を取ってきて池で大きくして(事実)から移植していたと思います。したがって群生地は人為的ではありますが、正真正銘の純正種と思います。なお、55年ぐらい前は上野材木所の下に2株あったのでは・・・・1株となったときに石垣を積んで白い杭に文字を書いていたと思います。以上です。
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