坂本家正面玄関 |
秋目は、かつては貿易で栄えた港町だった、と地元の人は誇る。
いくら史料の中で「秋目は貧乏で疲れた郷だ」と言われていても、秋目に残る遺物を見れば、それを額面通り受け取っていけないことが分かる。かつての貿易の跡がそこかしこに残っているからだ。
例えば、秋目には漢方医をしていた坂本家の屋敷がある。
この屋敷は、秋目の集落を見下ろす位置にあり、本宅、土蔵、そして庭園の跡が残る。本宅の怖ろしく立派な正面玄関だけでもかつての威風を窺うのに十分だが、大きな土蔵と巨大で手の込んだ石灯籠(中国製のように見える)が残る庭園跡は、有り余っていた富を感じさせる。
坂本家の石灯籠 |
それはさておき、このような立派な邸宅がある以上、秋目が貧乏な土地だったとは言えないのは明らかだ。確かに秋目には石高の大きな武士はいなかった。というよりも、水田が耕作可能な土地がほとんどなかったので、秋目全体の石高がとても少なかった。「石高制」の下では、少なくとも帳面上、秋目は石高の低い、貧乏な土地にならざるをえなかった。
だがそれを補って余りあったのが、貿易の利益であった。
薩摩藩は、鎖国体制下にあっても琉球を通じて中国と貿易を行っていた。その拠点が、山川港であり坊津港であった(「坊津」は、史料上では坊津諸港(坊、泊、久志、秋目)の総称として使われていることが多い)。
坊津諸港 |
琉球は、元々は独立国であり、中国の冊封国であった。冊封国というのは、中国王朝を宗主国として奉ずる臣下の国ということである。例えば冊封国は、中国の暦(元号)を使う。また臣下として、定期的に中国に産物を進貢しなくてはならない。しかしこの進貢に対する返礼として、中国は貢納品以上の価値があるものを下賜してくれる。すると、この進貢は実質的には中国との官営貿易であるということになる。薩摩藩が目をつけたのはここである。
薩摩藩は琉球侵攻(1609年)によって琉球国を実質的には属国(植民地)としつつ、中国に対しては琉球を独立国にしつらえて中国の冊封体制に留まらせた。こうすることで琉球の進貢貿易を裏であやつって秘密裡に中国の産物を手に入れ、それを闇ルートで売りさばいて莫大な利益を得たのである。
この貿易は、秘密であっただけに史料上は明らかでないことが多いが、流通には藩営のものと私的な(民間の貿易商人による)ものがあったらしい。琉球〜中国間の貿易(進貢貿易)は国家間のものであったし、薩摩藩が厳密に管理していたはずだが、それ以外にも唐船(中国船)との私的な交易が散発的に行われたようだし、琉球〜薩摩、薩摩〜全国の流通は必ずしも藩営に限らなかった模様である。今であっても、公営の営利事業はほとんど決まって非効率で鈍重であり、思ったように利益が得られない。多分藩政時代でも似たようなものだったのだろう。その空隙を縫って貿易商品はいつの間にか民間に流出し(「抜け荷」)、全国に流通していった。
もちろん、藩としては貿易の利益を独占したかったので、民間の密貿易は好ましくなかっただろう。それに、琉球に薩摩からの民間の商船が自由に行き交っていれば、薩摩が琉球を植民地化したことが中国にばれてしまう危険がある。実際、明代には琉球と薩摩の関係は明に強く疑われていた。そのため、琉球に就航する薩摩船については、「あれはトカラの船で、薩摩の船ではありません」という苦しい言い訳をしていたのである。 もちろんトカラも薩摩の領土だったのであるが、トカラ(七島、宝島などと呼んでいた薩南諸島)も独立国であると薩摩藩は説明していたのだった。
しかしこのような無茶な言い訳がいつまでも通用するわけもない。トカラには独立国としての体裁がなく、虚構の国だったのだから当然だ。また琉球には薩摩藩から在番奉行などの役人も赴任しており、中国には薩摩藩の虚偽の説明は看破されていた。そこで薩摩藩は、琉球から薩摩藩の存在を完全に隠蔽する方策へと段階的に移っていった。
その隠蔽体制が完成するのが、享保3年(1718)頃である。そして翌年享保4年、密貿易の一大拠点だった坊津に「享保の唐物崩れ」と呼ばれる大事件が起こった。これは密貿易の大規模摘発事件である。これまでは民間の密貿易は黙認の状態にあったと見られる。しかしこの大規模摘発によって坊津で行われていた民間の密貿易は潰滅させられ、伝説では坊津は一夜にして寒村と化し、残ったのは婦女ばかりだったという。
この大規模摘発は、直接には幕府の密貿易対策に応える形で行われた。時の幕府では新井白石が「海舶互市新例」(正徳5年(1715))を定めて貿易制限を打ち出し、密貿易を徹底的に摘発する姿勢を見せていた。こうなると薩摩藩としても民間の密貿易を野放しにすることはできない。しかも先述の通り薩摩藩は中国に対しても琉球から薩摩船の存在を消し去らねばならないという事情があり、結果的に坊津の密貿易を潰滅させるという決断に至ったものと思われる。こうして、薩摩藩の海外貿易は、山川港における藩直轄の官営密貿易に一本化されることとなった。
なお「享保の唐物崩れ」は史料上には直接の証拠がないが、「坊村ノ内本坊下浜商漁姓氏録」という史料を見ると、享保を境として坊には海商の名が見えなくなるので、少なくとも坊の浦の民間貿易が大きな規制を受けたのは事実と考えられる。
ところが、である。
不思議なことに、秋目の墓地に残された墓石をつぶさに見てみると、古い墓石はあまりなく、享保あたりから急に高級で手の込んだ墓石が建立されているのである。明らかに、秋目は享保の頃から活況を迎えている。これはどういうことか。
答えは一つしかない。坊の港の密貿易が潰滅させられて、密貿易は「秋目」に移ったのである。
密貿易の一番の中心だったと思われる坊の浦には、坊津街道(薩摩街道)も通っており、表立って違法な貿易を行うにはあまりにも目立ちすぎた。一方秋目は、文字通り「陸の孤島」である。秋目からは隣の「久志」にすら明治時代まで道は通っていなかった。同じ「久志秋目郷」なのにもかかわらず。孤立した立地は、幕府の目、藩の目を避けるにはぴったりなのだ。
この、秋目に移ってからの密貿易は、それまでの密貿易とは性格が違った。それまでの密貿易は、確かに幕府には秘密だった。一方薩摩藩はこれを厳しく取り締まっていたわけではなかったので、藩に対してはあまり気を遣う必要はなかったと思われる。だが「享保の唐物崩れ」以降の民間の密貿易は、幕府と薩摩藩の両方に対して秘密にしなくてはならなかった。この二重の秘密貿易をここでは仮に「闇貿易」と呼ぼう。
この「闇貿易」こそが、おそらく秋目が「貧乏で疲れた郷」を装っていた理由なのである。石高の低い秋目にたくさんの富があれば、貿易で儲かっていることがバレてしまうからだ。そのため秋目の人たちは表立って富を誇示することはなく、少なくとも帳面上は貧乏であるように見せかけ続けた。
だが、今も残る豪華な墓石から判断すれば、享保以降の100年程度の間、秋目は空前の繁栄を享受した。ひょっとすると、瞬間的にはかつての坊の浦以上の繁栄だったのかもしれない。しかし坊の一乗院が度外れた貴重品を集積したようには、秋目には富の痕跡がない。墓石から判断する限り非常に裕福だったにもかかわらず、それを窺えるものは秋目にはそれほど多く残っていない。それが、闇貿易による隠さなければならない繁栄だったからだろう。それでも坂本家が坊津諸港の中で唯一残った漢方医屋敷だというのは偶然ではなく、秋目が「享保の唐物崩れ」以降にも貿易で賑わっていたことの傍証のように思える。
そもそも漢方医の存在自体が、貿易の存在を前提とする。漢方薬の原料は日本では採れないからだ。おそらく、秋目は闇貿易によって漢方薬を安く大量に入手し、それを富山の薬売りたち(「薩摩組」という富山の薬商が藩許を得て出入りしていた)へ売りさばいていたに違いない。
享保以降の闇貿易のことは、私の推測であって、これまでの研究では言われていないことである。秋目の墓石をもっと詳細に調査すれば、ちゃんと裏付けが取れるかも知れない。秋目の墓地は度重なる墓地整備(特に国道226号の拡幅工事の際の整理と鑑真記念館の建設)によって本来の墓域の数分の一に縮小されているので、 実は享保以前の墓石もたくさんあったのにそれが失われたという可能性もある。公的機関による詳細な調査が望まれる。
とはいえ、少なくとも秋目が貿易によって享保以降に活況を迎えたことは揺るがしがたい事実である。にもかかわらず、「秋目は貧乏で疲れた郷」だと自称していたというのは、その貿易が公にできないものだったから、以外には考えづらいのである。
(つづく)
【参考】正法寺|薩摩旧跡巡礼
http://nicool0813.blog.fc2.com/blog-entry-340.html
秋目の豪華な墓塔についてレポートしています。
【参考文献】
『海洋国家薩摩』2011年、徳永和喜
「坊津一乗院の成立について」2005年、栗林文夫
『鹿児島県の歴史』1973年、原口虎雄
秋目の墓石群、30年前まだ鑑真館が出来る前に訪問してびっくり感動した墓石たちでした。どこかのPCに取り込んだ写真があるはず!探してみます。取り壊し前だと思います。
返信削除コメントありがとうございます。この記事を書くにあたり、鑑真記念館の方(地元秋目の人)に、墓地整理前の資料はありませんか?と伺ったのですが、「さあねえ」みたいな感じで手に入れることができませんでした。整理前の墓石群、すごく興味あります! PCの中からぜひ発掘して下さい!!
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