先日の南さつま市議会で、本坊市長は笠沙恵比寿について「来年4月からの休館もやむを得ない」という認識を示した。
報道によればその理由は、第1に来年4月からの指定管理者が見つかっていないこと、第2に利用者数が低迷していること、第3に今後の施設の維持管理に多額の予算がかかると見込まれること、である。
2015年から指定管理者をしていたのはJTBコミュニケーションズ。旅行会社大手のJTBがテコ入れをしてくれるなら、きっと笠沙恵比寿も黒字経営になるだろうと市は考えていたのだが、実際にはやはり経営は厳しく、JTBは来年4月からの契約を更新しないと言ってきた。
要するに、JTBが経営しても利益が出なかった。これではまた指定管理者を公募しても無理そうだ。そこで市は、今年の3月、笠沙恵比寿の活用に関して「サウンディング型市場調査」というものをやった。
【参考】「笠沙恵比寿」をどうするか
https://inakaseikatsu.blogspot.com/2019/03/blog-post.html
この調査は、今までと違ったやり方で笠沙恵比寿の活用方がないか探るものだったと思う(あわよくば買い取りますという提案を期待していたのかも)。しかし妙案はな出なかった。というか、今から考えると最初からダメもと調査みたいな感じで、休館を見据えた手順の一種だったのかもしれない。
そりゃあそうだ、という気もする。JTBはいろいろ頑張って経営していたように見える。それでも損失が出るのなら、やはり施設自体に無理があったと考えざるを得ない。このまま笠沙恵比寿を維持していくのは、税金をドブに棄てることになるのかもしれない。
でもちょっと待って欲しい。
ここに一冊の報告書がある。昨年2018年の3月に南さつま市がまとめた『南さつま市観光ビジョン「わくわく!サンセット 南海道」』だ(「みなみかいどう」と読む)。
【参考】南さつま市観光ビジョン「わくわく!サンセット 南海道」(PDF)
http://www.city.minamisatsuma.lg.jp/shisei/docs/kankoubijonminamikaidou3003.pdf
これは観光に関して「南さつま市が、今後、的を絞って取り組むべき方向性についての検討」を行ってまとめたもので、「今後、この観光ビジョンを参考にしながら、行政と観光協会が中心となり、多くの関係団体と連携しながら、食や体験、人を絡めた観光振興を図ってまいります」と述べている。
これは残念ながら一般の市民にはあまりお知らせされなかったものの、結構頑張ってつくられた報告書で、地域の主立った人達だけでなく、頴娃の加藤潤さんや「美山商店」の吉村祐太さんなどこういう分野ではキーマンと言える人も参画してまとめられたものである。
その内容を一言でまとめれば、「海」「夕日」をキーワードに食や体験、人を絡めたわくわくするような観光地づくりを進めていこう! というものだ。
国道226号線(南さつま海道八景)を中心とした海岸の圧倒的な景観、とくに東シナ海に沈む夕日をシンボルに、ただ景色を見るだけでなくスキューバダイビングやカヌー、ヨット、シーカヤックといったマリンスポーツ、そして定置網体験やトレッキング、自転車などの体験活動を売りとして、農産物・海産物を生かした食を提供して地域の魅力を高めていこうというものである。
私としても、南さつま市の最大の観光資源は海岸線の景観だと思っているから、この方向性はとても理解できる。そして景観を見るだけではなくて、体験活動と絡めて楽しんでもらおうというのはぜひやって欲しい。
しかし、である。
実はこのコンセプト、笠沙恵比寿設立のコンセプトと全く同一なのである! 2000年に旧笠沙町が笠沙恵比寿をオープンさせるにあたって考えたのが、「海」を総合的に楽しむ上質なレジャーを目指す、ということで、まさに海の景観だけでなく体験活動(釣りやクルージング)、食(地域の相場より高価だが上質な食を提供)を組み合わせたレジャーの拠点施設となるよう設計されていた。
ということは、この『南さつま市観光ビジョン「わくわく!サンセット 南海道」』の実現にあたって中心となるのも、笠沙恵比寿であるはずなのだ。いや、私は『南さつま市観光ビジョン』を読んで、てっきり「これは低迷している笠沙恵比寿をテコ入れしていこうっていうことなんだろうな〜」と思っていたのだ。
しかも『南さつま市観光ビジョン』には、考えられる観光プランがいくつか参考で載っているのだが、「笠沙恵比寿」を使うとは明示されていないとはいえ、その中の多くが実際には笠沙恵比寿を拠点として考えるのが自然なプランなのである。
だから、今回の笠沙恵比寿、休館やむなし、の報を聞いて私が思ったのは、「南さつま市観光ビジョンは、一体何だったんだろう?」ということだった。休館やむなしの判断は、理解できるとしても、それにあたって『南さつま市観光ビジョン』が何も考慮されていないとすれば、あれは何のためにつくったのだろう?
そもそも、笠沙恵比寿は人気が低迷しているから経営が厳しいわけではない。笠沙恵比寿の経営の足かせは、たった10部屋しかない客室である。大型バスで来ても全員は泊まれない。シーズン中は断られる客も多いらしい。だから人気はあるのにかき入れ時にたくさんのお客を泊められない。
旅館業は、シーズン中にたくさんのお客を受け入れて儲け、オフシーズンには従業員に暇を出して出費を抑える、というビジネスモデルが普通だ。それなのに10部屋しか客室がないと、そういうことができない。その意味では、笠沙恵比寿設立の際の高級志向というコンセプトに元々無理があったのだ。
しかし笠沙恵比寿自体の人気はある。今からでもお手頃なファミリー・団体向けへと路線変更し、30部屋くらい簡易な客室を増設すれば十分経営がやっていけそうな気がする。客室の増設とはオオゴトに思うかも知れないが、最近の安普請の客室ならさほど予算もかからず、客の利便性はいい(現在の笠沙恵比寿の客室は凝った作りだがあまり機能的ではない)。実際、垂水にある「薩摩明治村」なんかはそういう安普請の客室で賑わっている。
そう考えると、笠沙恵比寿を休館(というより廃止)するというのは、経営的に考えても「やむを得ない」ものではない。これまでの失敗を踏まえて経営戦略を練り直し、体験活動を中心としたファミリー・団体向け施設として再出発すればやっていけそうだし、『南さつま市観光ビジョン』の実現にもすごく役立つ。いや、『ビジョン』の実現にあたって間違いなく要(かなめ)になるのは笠沙恵比寿なのだ。
それなのに、笠沙恵比寿の休館という観光政策上重要な決定に、『南さつま市観光ビジョン』は全く影響力を及ぼしていないように見える。これでは『南さつま市観光ビジョン』は無駄だったということになる。私は、今後の観光政策は全て『ビジョン』に基づくべきだ、と言いたいわけではないし、その内容を全面的に支持しているわけでもない。そもそも『ビジョン』は政策の方向性を定めたものというよりは参考書の位置づけでしかない。
しかし南さつま市(だけでなく近隣の町)の熱い人達がまとめた報告書が、現実の政策に影響力を及ぼしていないらしいのが悲しいのである。笠沙恵比寿の休館まであと3ヶ月。それまでの間に、行政から『南さつま市観光ビジョン』と笠沙恵比寿の関係について一言でも説明があってほしい。「あれにはこう書いてありますけど、実際はなかなか経営が厳しくて…」という程度の内容でもいい。
それが、行政に求めらえている誠実さだと、私は思う。自らがまとめた『ビジョン』を自らが見て視ぬ振りをしているようでは、行政の信頼性は大きく損なわれる。
こういうことを気にしているのは南さつま市でも私一人なのかもしれない。笠沙恵比寿をどうするのか、は多くの人の関心事だとしても、『ビジョン』との整合性をとやかくいっているのは。
でもこれは、本質的には整合性の問題ではないのである。言葉に対して誠実であるかどうか、という姿勢を問いたいのだ。笠沙恵比寿は旧笠沙町の観光政策の集大成だ。これまでたくさんの人たちが理想の実現に向かって努力してきた。それを廃止するというのであれば、数字で説明するのはもちろんのこと、「誠実さ」によって納得させなくてはならない。
2019年12月20日金曜日
2019年3月12日火曜日
「笠沙恵比寿」をどうするか
今、南さつま市は「笠沙恵比寿」の活用に関して「サウンディング型市場調査」というものをやっている。
笠沙恵比寿というのは、南さつま市の笠沙町の、端っこにある野間池(のまいけ)という小さな港町にある宿泊施設である。
【参考】笠沙恵比寿
http://www.kasasaebisu.com/
笠沙恵比寿を作ったのは当時(合併前)の笠沙町。私は直接にはその頃を知らないが、かなり力を入れて作られた施設だったようだ。
笠沙町は、昭和40年代には既に過疎問題が始まっていたという過疎地域であり、主要産業である漁業も後継者問題に悩まされ、町の将来への危機感があった。一方で、東シナ海の壮大な景観や豊かな漁業資源に恵まれているという強みもあった。そうしたことから、町は観光による地域振興を模索し、様々なことに取り組んできた。
例えば、海岸沿いを巡る道(当時の県道笠沙枕崎線)を国道226号に昇格させた(1993年頃)。この道は、昔は「この道をよくぞバスが通れたなあ」というような、離合の出来ない、崖をへばりついて進む狭い道だったが、国道昇格後は整備が進み、今ではすばらしいドライブコースになっている。226号線沿いの写真スポット「南さつま海道八景」は、間違いなく日本有数の景観群である。
【参考】これぞ絶景!南さつま海道八景|南さつま市観光協会
https://kanko-minamisatsuma.jp/feature/8038/
また、笠沙には明治以来、数多くの杜氏(とうじ:焼酎づくりの職人)を排出してきた黒瀬という集落がある。この技術の伝承を行い地域おこしにも役立てるため、焼酎造り展示館である「杜氏の里 笠沙」も設立(1992年)。ここのつくる「一っどん(いっどん)」という焼酎は抽選でしか手に入らないほどの人気商品になった。
【参考】杜氏の里 笠沙
http://www.toujinosato.co.jp/
さらに1998年には、杜氏の里 笠沙の近く、沖秋目島という無人島を望む最高の立地に、「笠沙美術館」を設立。景観自体が美術作品のような素晴らしい美術館であり、私自身、南薩で一番好きなのがこの美術館からの眺めで、好きが高じて「海の見える美術館で珈琲を飲む会」というイベントを毎年開催しているくらいである。
そして2000年、こうした取組の集大成として作られたのが「笠沙恵比寿」なのである。
笠沙恵比寿は単なる宿泊施設ではなく、「海」を総合的に楽しむ上質なレジャーを目指すものであった。ホテルやレストランだけでなく、海の博物館までも併設し、釣りやクルージングはもちろん、昔はホエールウォッチングまで楽しめた(記憶があやふやですが)。
設計したのは、今では鉄道車両デザインで著名な水戸岡鋭治氏。館内には水戸岡氏が描いた笠沙に生きる生き物たちの絵がたくさん掲げられ、博物館部分だけでなく施設全体にアート的な雰囲気が横溢する(ちなみに笠沙美術館も水戸岡氏のデザインである)。
笠沙恵比寿は、遠くから「ホンモノ」を求める客を呼び込もうという構想だった。
それはある程度成功したのだと思う。このあたりの相場からは高い宿泊費や食事でも、最初は客が入った。しかし第三セクターによる運営は、どうしても民間的な競争の中ではやっていくことができなかった。
次第に客足は遠のき、売上は右肩下がりになった。客室が10部屋しかないというのもホテルとしては大きな足かせで、上質を求める少数の客を相手にする戦略が裏目に出た。2015年からは指定管理者としてJTBが切り盛りしたものの、どうも挽回とまではいかなかった模様である。こうして、テコ入れを図る必要が生じた。
そういうわけで、この 「サウンディング型市場調査」が行われることになったようである。「サウンディング型市場調査」というのは私も初めて聞いた。要するに、「どうやったら活用できそうか、ゼロベースで意見や提案を下さい」というものらしい。ただし、意見を言えるのは実際にその施設を利用していく可能性がある法人・個人なので、例えば私なんかが意見を出すことはできない。
【参考】笠沙恵比寿の活用に関するサウンディング型市場調査の実施について|南さつま市
http://www.city.minamisatsuma.lg.jp/jigyosha/shigoto-sangyo/shokogyo-kigyo/e021494.html
こういう調査を行うこと自体はよいと思う。何しろ、高級路線の施設というのが公共施設として異色であり、行政による運営に向いていないというのは明白である。笠沙恵比寿の当初のコンセプトを貫徹するならば、民間に売却するのが最も自然かもしれない。
しかし、何にせよいえることだが、「何を」やるかよりも、「どう」やるかの方がずっと重要である。「民間に意見を聞く」のはいいとして、この調査に関する説明会も何もないようだし(参加申し込みした事業者に対する説明会はあるが、「こういう調査をやっているのでぜひ参加して下さい」という説明会がない)、WEB以外のどこで広報しているのか不明である。まさかWEBのみということはないだろうが、積極的に広報している感じがなく、誰に提案してほしいのかという意志をあまり感じない。
先日、鹿児島市が「鹿児島市ブランドメッセージ&ロゴマーク」をみんなの投票で決めようというイベントをしたが、そこにモデル・YouTuberの“ねお”さんを呼んでいたのを見習うべきだ。これは、ただ投票をお願いするだけといえばだけなのであるが、人に意見を聞くためにはどれだけ工夫が必要かというのをまざまざと見せつけられた思いである。「意見を言わない人が悪い」などと言っている時代ではなく、人の意見を聞くためにコストをかけなければ、後で大変な目に合うのが現代である。
【参考】みんなで選ぼう!鹿児島市ブランドメッセージ&ロゴマーク|鹿児島市
https://www.city.kagoshima.lg.jp/kouhousenryaku/citypromo/logo/ivent.html
笠沙恵比寿の場合は、このブランドロゴの場合よりもずっと意見・提案の必要性が大きいわけだから、もっとずっとコストをかけてもいいのである。例えば、東京や大阪などに職員が出張していって、大手デベロッパーやコンサルに話を聞くということから始めてもよいと思う。まずは星野リゾートのようなやり手リゾート運営業者に意見を聞いてみたらどうか。
さらに、些末なことと人はいうかもしれないが、参加した事業者からのヒアリングが1事業者あたり30分〜1時間だそうである。せっかく提案に来てくれた業者に、話を30分にまとめろというのはさすがに短すぎないか。こういうことは言いたくないが、ちょっと「上から目線」を感じる調査なのである(私のこのブログ記事だって上から目線じゃねーか、と言われればその通りなんですが…)。
そしてもう一つ付け加えるべきなのは、民間業者からの意見・提案を聞くのと並行して、やはり地域住民の意見ももっと聞くべきだということだ。これには役所の方も「今までさんざん意見は聞いてきました」と反論するに違いない。それはそうである。しかも住民の方では笠沙恵比寿の高級路線を理解せず、「もっと手頃な価格にしてほしい」といったような意見もあったそうだし、住民の総意に基づいた運営にしたら、たぶん笠沙恵比寿はやっていけない。
しかし、である。公共施設である以上、住民の「こういう町になってほしい」「こうなったらいいな」という夢に基づいていなければならないと私は思う。そのためには、今までさんざん意見は聞いてきたとしても、やはり住民の意見を聞く必要がある。そして、「住民の意見」なるものは、実はもっとも聞き取りづらいもので、本当にホンネの意見を聞こうと思ったら、大げさに言えば「合宿」をしなければならない。少なくとも、WEB上のパブリックコメントなんかでは本当の住民の声は集めることができないと思う。
もちろん役所にしてみれば、生産的かどうかもわからない「住民の声」なるもののためにそんな時間は割けないと言うだろう。それでなくても人が減らされて忙しいのに。でも私は、そういう一見無駄な作業こそが真に生産的なものになると信じている。
笠沙恵比寿をスマートな施設にするだけなら、たぶん星野リゾートに売却するだけで十分だ。きっと今よりは繁盛して、雇用も生まれて、住民も満足するだろう。人が羨むステキな施設になるに違いない。でもたぶん、それでは「こうなったらいいな」という住民の夢を紡ぎ出すという作業は、どこにも介在する余地がない。
南さつま市は「夢を紡ぐまち」を掲げていて、「夢を紡ぐ」という市民歌もある。私は、このスローガンは割とよいと思っている。経営に行き詰まった施設をどう処分するか——というような話では夢がなさ過ぎる。行き詰まった時こそ、理想を語らねばならない。1990年代からの笠沙町の意欲的な観光振興施策の集大成としてできたのが笠沙恵比寿だ。ぜひ前向きに話が進んで欲しい。
笠沙恵比寿というのは、南さつま市の笠沙町の、端っこにある野間池(のまいけ)という小さな港町にある宿泊施設である。
【参考】笠沙恵比寿
http://www.kasasaebisu.com/
笠沙恵比寿を作ったのは当時(合併前)の笠沙町。私は直接にはその頃を知らないが、かなり力を入れて作られた施設だったようだ。
笠沙町は、昭和40年代には既に過疎問題が始まっていたという過疎地域であり、主要産業である漁業も後継者問題に悩まされ、町の将来への危機感があった。一方で、東シナ海の壮大な景観や豊かな漁業資源に恵まれているという強みもあった。そうしたことから、町は観光による地域振興を模索し、様々なことに取り組んできた。
例えば、海岸沿いを巡る道(当時の県道笠沙枕崎線)を国道226号に昇格させた(1993年頃)。この道は、昔は「この道をよくぞバスが通れたなあ」というような、離合の出来ない、崖をへばりついて進む狭い道だったが、国道昇格後は整備が進み、今ではすばらしいドライブコースになっている。226号線沿いの写真スポット「南さつま海道八景」は、間違いなく日本有数の景観群である。
【参考】これぞ絶景!南さつま海道八景|南さつま市観光協会
https://kanko-minamisatsuma.jp/feature/8038/
また、笠沙には明治以来、数多くの杜氏(とうじ:焼酎づくりの職人)を排出してきた黒瀬という集落がある。この技術の伝承を行い地域おこしにも役立てるため、焼酎造り展示館である「杜氏の里 笠沙」も設立(1992年)。ここのつくる「一っどん(いっどん)」という焼酎は抽選でしか手に入らないほどの人気商品になった。
【参考】杜氏の里 笠沙
http://www.toujinosato.co.jp/
さらに1998年には、杜氏の里 笠沙の近く、沖秋目島という無人島を望む最高の立地に、「笠沙美術館」を設立。景観自体が美術作品のような素晴らしい美術館であり、私自身、南薩で一番好きなのがこの美術館からの眺めで、好きが高じて「海の見える美術館で珈琲を飲む会」というイベントを毎年開催しているくらいである。
そして2000年、こうした取組の集大成として作られたのが「笠沙恵比寿」なのである。
笠沙恵比寿は単なる宿泊施設ではなく、「海」を総合的に楽しむ上質なレジャーを目指すものであった。ホテルやレストランだけでなく、海の博物館までも併設し、釣りやクルージングはもちろん、昔はホエールウォッチングまで楽しめた(記憶があやふやですが)。
設計したのは、今では鉄道車両デザインで著名な水戸岡鋭治氏。館内には水戸岡氏が描いた笠沙に生きる生き物たちの絵がたくさん掲げられ、博物館部分だけでなく施設全体にアート的な雰囲気が横溢する(ちなみに笠沙美術館も水戸岡氏のデザインである)。
笠沙恵比寿は、遠くから「ホンモノ」を求める客を呼び込もうという構想だった。
それはある程度成功したのだと思う。このあたりの相場からは高い宿泊費や食事でも、最初は客が入った。しかし第三セクターによる運営は、どうしても民間的な競争の中ではやっていくことができなかった。
次第に客足は遠のき、売上は右肩下がりになった。客室が10部屋しかないというのもホテルとしては大きな足かせで、上質を求める少数の客を相手にする戦略が裏目に出た。2015年からは指定管理者としてJTBが切り盛りしたものの、どうも挽回とまではいかなかった模様である。こうして、テコ入れを図る必要が生じた。
そういうわけで、この 「サウンディング型市場調査」が行われることになったようである。「サウンディング型市場調査」というのは私も初めて聞いた。要するに、「どうやったら活用できそうか、ゼロベースで意見や提案を下さい」というものらしい。ただし、意見を言えるのは実際にその施設を利用していく可能性がある法人・個人なので、例えば私なんかが意見を出すことはできない。
【参考】笠沙恵比寿の活用に関するサウンディング型市場調査の実施について|南さつま市
http://www.city.minamisatsuma.lg.jp/jigyosha/shigoto-sangyo/shokogyo-kigyo/e021494.html
こういう調査を行うこと自体はよいと思う。何しろ、高級路線の施設というのが公共施設として異色であり、行政による運営に向いていないというのは明白である。笠沙恵比寿の当初のコンセプトを貫徹するならば、民間に売却するのが最も自然かもしれない。
しかし、何にせよいえることだが、「何を」やるかよりも、「どう」やるかの方がずっと重要である。「民間に意見を聞く」のはいいとして、この調査に関する説明会も何もないようだし(参加申し込みした事業者に対する説明会はあるが、「こういう調査をやっているのでぜひ参加して下さい」という説明会がない)、WEB以外のどこで広報しているのか不明である。まさかWEBのみということはないだろうが、積極的に広報している感じがなく、誰に提案してほしいのかという意志をあまり感じない。
先日、鹿児島市が「鹿児島市ブランドメッセージ&ロゴマーク」をみんなの投票で決めようというイベントをしたが、そこにモデル・YouTuberの“ねお”さんを呼んでいたのを見習うべきだ。これは、ただ投票をお願いするだけといえばだけなのであるが、人に意見を聞くためにはどれだけ工夫が必要かというのをまざまざと見せつけられた思いである。「意見を言わない人が悪い」などと言っている時代ではなく、人の意見を聞くためにコストをかけなければ、後で大変な目に合うのが現代である。
【参考】みんなで選ぼう!鹿児島市ブランドメッセージ&ロゴマーク|鹿児島市
https://www.city.kagoshima.lg.jp/kouhousenryaku/citypromo/logo/ivent.html
笠沙恵比寿の場合は、このブランドロゴの場合よりもずっと意見・提案の必要性が大きいわけだから、もっとずっとコストをかけてもいいのである。例えば、東京や大阪などに職員が出張していって、大手デベロッパーやコンサルに話を聞くということから始めてもよいと思う。まずは星野リゾートのようなやり手リゾート運営業者に意見を聞いてみたらどうか。
さらに、些末なことと人はいうかもしれないが、参加した事業者からのヒアリングが1事業者あたり30分〜1時間だそうである。せっかく提案に来てくれた業者に、話を30分にまとめろというのはさすがに短すぎないか。こういうことは言いたくないが、ちょっと「上から目線」を感じる調査なのである(私のこのブログ記事だって上から目線じゃねーか、と言われればその通りなんですが…)。
そしてもう一つ付け加えるべきなのは、民間業者からの意見・提案を聞くのと並行して、やはり地域住民の意見ももっと聞くべきだということだ。これには役所の方も「今までさんざん意見は聞いてきました」と反論するに違いない。それはそうである。しかも住民の方では笠沙恵比寿の高級路線を理解せず、「もっと手頃な価格にしてほしい」といったような意見もあったそうだし、住民の総意に基づいた運営にしたら、たぶん笠沙恵比寿はやっていけない。
しかし、である。公共施設である以上、住民の「こういう町になってほしい」「こうなったらいいな」という夢に基づいていなければならないと私は思う。そのためには、今までさんざん意見は聞いてきたとしても、やはり住民の意見を聞く必要がある。そして、「住民の意見」なるものは、実はもっとも聞き取りづらいもので、本当にホンネの意見を聞こうと思ったら、大げさに言えば「合宿」をしなければならない。少なくとも、WEB上のパブリックコメントなんかでは本当の住民の声は集めることができないと思う。
もちろん役所にしてみれば、生産的かどうかもわからない「住民の声」なるもののためにそんな時間は割けないと言うだろう。それでなくても人が減らされて忙しいのに。でも私は、そういう一見無駄な作業こそが真に生産的なものになると信じている。
笠沙恵比寿をスマートな施設にするだけなら、たぶん星野リゾートに売却するだけで十分だ。きっと今よりは繁盛して、雇用も生まれて、住民も満足するだろう。人が羨むステキな施設になるに違いない。でもたぶん、それでは「こうなったらいいな」という住民の夢を紡ぎ出すという作業は、どこにも介在する余地がない。
南さつま市は「夢を紡ぐまち」を掲げていて、「夢を紡ぐ」という市民歌もある。私は、このスローガンは割とよいと思っている。経営に行き詰まった施設をどう処分するか——というような話では夢がなさ過ぎる。行き詰まった時こそ、理想を語らねばならない。1990年代からの笠沙町の意欲的な観光振興施策の集大成としてできたのが笠沙恵比寿だ。ぜひ前向きに話が進んで欲しい。
2016年7月13日水曜日
現代焼酎産業の源流、黒瀬杜氏
黒瀬海岸(神渡海岸) |
山あいの、耕地面積が少なく、今では耕作放棄地と空き家が目立つ、一見どこにでもあるさびれた集落。でもこの黒瀬という集落こそが、鹿児島、というより九州の現代焼酎産業の源流の一つなのである。
時は明治30年代、後に「黒瀬杜氏(とうじ)」と呼ばれることになる、焼酎造りの技術集団がこの集落に育っていた。彼らは、鹿児島、そして九州一円、時に四国にまで赴き、杜氏として焼酎を造ったのだという。焼酎造りは季節労働である。彼らが各地の焼酎蔵に赴いたのは、出稼ぎの季節労働者としてだった。
杜氏といえば、焼酎づくりの製造責任者である。出稼ぎの風来坊に製造責任者をお任せする、というのが今から考えると奇妙かもしれないが、焼酎造りの各種機械化が行われる前は、この出稼ぎの技術者に焼酎造りを委ねるのが普通だった。鹿児島の焼酎は、この黒瀬集落から焼酎蔵に赴いた人たちが作ったものだったのだ。いや、鹿児島だけでなく、九州のかなりの焼酎蔵が黒瀬杜氏を招いていた。もし黒瀬杜氏がいなかったら、九州の焼酎製造業の様子はかなり違ったものになっていたかもしれない。
とはいっても、鹿児島の焼酎は約500年の歴史がある。たかが明治時代に勃興した杜氏集団が、「焼酎産業の源流の一つ」とは少し大げさ過ぎるのではないかと思うかもしれない。実は、私自身がつい最近までこのことには懐疑的だった。「たくさんある源流の一つ」なのではないか、よくあるご当地自慢のたぐいではないのか、と疑っていたのである。本当に、黒瀬杜氏は鹿児島の焼酎造りに中心的な役割を果たしていたのだろうか。
そんな疑問を抱いていたとき、一つの調査報告を見つけた。1983(昭和58)年に、鹿児島経済大学教授(当時)の豊田謙二らが行った焼酎業界の現況調査である。これは鹿児島県内62の酒造所を対象に杜氏の状況などを調査しており、それによると、杜氏を置いている酒造所(41軒)の約60%にあたる24軒の酒造所で黒瀬杜氏が働いていた。また別のヒアリング調査の結果も加味すると、この時点で鹿児島県内で働いていた黒瀬杜氏は35人と推測されるという。
杜氏がいなかった酒造所はほとんど規模の小さいところであるから、大規模な酒造所の半数以上では黒瀬杜氏が焼酎造りを担っていたわけだ。黒瀬杜氏は、その最盛期の1960年頃には約350人の杜氏・蔵人(くらこ:杜氏の部下)を擁したという。焼酎造りの機械化や理論的な解明(醸造学)が進むにつれて黒瀬杜氏の存在感は小さくなっていくが、最盛期の350人からかなり人数が減少した1983年時点でも60%の酒造所で黒瀬杜氏が活躍していたことを考えると、最も活躍が大きかった時代においては、鹿児島の県内のかなり多くの酒造所で黒瀬杜氏が焼酎造りを担っていたと推測できる。
確かに、黒瀬杜氏は鹿児島の焼酎造りを支えた存在だった。それは誇張でもご当地自慢でもなんでもない。事実、今でも黒瀬杜氏を売りにした焼酎蔵はこの地元以外にもたくさんあって、例えばそのものずばりの「黒瀬杜氏伝承蔵」を銘打っている阿久根の鹿児島酒造や「野海棠」の祁答院蒸留所などが挙げられる。
一方、地元笠沙には、この黒瀬杜氏という存在を文化遺産として継承・発信するために「杜氏の里 笠沙」という施設が作られ、展示だけでなく、まさに黒瀬杜氏が腕を振るった焼酎の製造・販売も行っている。ここで作られている、なかなか手に入らない銘酒「一どん(いっどん)」は鹿児島県内では有名な焼酎だ(抽選でしか手に入らない)。
だが、黒瀬杜氏とはどんな存在なのか、地元の人にもあまり知られていないのが実情かももしれない。私自身、ほとんどアルコールを飲まないこともあり、つい最近までよく知らなかった。せっかく地元に「焼酎産業の源流」があるのにも関わらず、それを地元の人自身があまり認識していなかったらちょっともったいない。
というわけで(なのかどうかホントのところは知らないが)、今般、南さつま市観光協会の女性グループ(mojoca)が主催して、「ゆかたまつり in南さつま with焼酎杜氏」または「浴衣フェス〜黒瀬杜氏 vs 南薩女子〜」というイベントが7月24日(日)に開催されることになった(なぜイベントタイトルが2種類あるのかは不明。ネット上は前者で、チラシでは後者でお知らせされている模様…)。
このイベントは、普段は焼酎とはちょっと縁が遠い女性が中心になって、浴衣でオシャレをしながら杜氏に焼酎の手ほどきを受けてしまおうという趣旨、なんだと思う。当日いらっしゃる杜氏2人は、実は黒瀬杜氏ではないが、地元本坊酒造と宇都酒造の若手の杜氏であり、若いプロの視点から南さつまの杜氏や焼酎を語っていただけるのではないかと楽しみだ。そして実は、「南薩の田舎暮らし」もちょっとだけこれに参画する予定である。
で、その申込〆切がなんと明日7月14日(木)らしい(申込フォームにはそう書いていないが、チラシにはそうある)。浴衣のレンタルなんかも用意されている模様。気になったら即申し込みありたい。
ところで、このイベントのことはさておき、黒瀬杜氏が現代の焼酎産業を彩ってきた歴史は、それ自体がとても興味深いものである。また、どうしてこんな薩摩半島のすみっこにある集落が源流になりえたのか、他の地域ではありえなかったのか、といった疑問は尽きない。私は焼酎を飲むということもほとんどないし、焼酎の歴史にも門外漢なのであるが、この身近な地元の近代史を自分なりに紐解いてみたい。
(つづく)
2013年4月23日火曜日
ビロウという奥深い植物
南薩に越してきてから、ビロウの木をよく見かけるので気になっていた。田中一村の「ビロウとアカショウビン」で有名な、あのビロウ(蒲葵)である。
ヤシ科の植物というのは大体が不思議な形をしているが、ビロウは細かく切り込まれた長い葉が垂れ下がっている様子が魁偉であり、見た目のインパクトが大きい。
笠沙美術館の前には沖秋目島という無人島が横たわっているが、これも別名枇榔島(ビロウ島)という。おそらくビロウが繁茂していたからそういう名前がついたのだろう。枇榔島という島は鹿児島では志布志や佐多にもあるし、宮崎にもある。ビロウ島という地名が各地にあることは、昔の人が、これの繁茂していることを捨てておけない特徴として見た証左に感じられる。
このビロウという植物、調べてみるとなかなか奥深い。
古代、ビロウは神聖視されたと考えられていて、現在でも沖縄では多くの御嶽(ウタキ)の神木となっているし、天皇即位に伴う神事である大嘗祭では、ビロウで葺いた屋根の仮屋(百子帳)が重要な役割を果たす。当然天皇の身近にはビロウは存在していなかったわけで、わざわざ南方からビロウの葉を取り寄せて大嘗祭に使ったのであるが、どうしてこの重要な神事でビロウを使わなくてはならなかったのか、非常に気になるところである。
また、このビロウは古代日本が誇る発明品である「扇」の起源であるとも考えられている。能、舞踊、落語など多くの日本芸能において扇が重要な役割を果たす淵源には、かつてビロウが神聖視された名残では、という説もある。
ところが、今の鹿児島ではこれを神聖視するような姿勢は感じられないし、魁偉な見た目は神聖というより不気味な感じで受け取られているように思う。ありふれていることもあり、特に大事にしなくてはならないものという意識もないだろう。しかし上述のように、少なくともかつては神聖で重要な植物であったのは間違いなく、昔の人がビロウにどのように接したのか、というのは興味深い問題だ。そして同時に、それがいつのまにか特別でない木に零落してしまったのはどうしてか、というのも気になるところである。
先日、「南薩の田舎暮らし」では新たな取り組みとして千日紅のアクセサリーの販売を開始したが、私としてはこのビロウの葉もアクセサリーなどに加工してもらいたいと思っている。とても南っぽさを感じるものであるし、かつては神聖なものであったわけで、もし作れたら言われも面白く、ユニークなものになるはずだ。
【参考文献】
『扇―性と古代信仰』1970年、吉野 裕子
ヤシ科の植物というのは大体が不思議な形をしているが、ビロウは細かく切り込まれた長い葉が垂れ下がっている様子が魁偉であり、見た目のインパクトが大きい。
笠沙美術館の前には沖秋目島という無人島が横たわっているが、これも別名枇榔島(ビロウ島)という。おそらくビロウが繁茂していたからそういう名前がついたのだろう。枇榔島という島は鹿児島では志布志や佐多にもあるし、宮崎にもある。ビロウ島という地名が各地にあることは、昔の人が、これの繁茂していることを捨てておけない特徴として見た証左に感じられる。
このビロウという植物、調べてみるとなかなか奥深い。
古代、ビロウは神聖視されたと考えられていて、現在でも沖縄では多くの御嶽(ウタキ)の神木となっているし、天皇即位に伴う神事である大嘗祭では、ビロウで葺いた屋根の仮屋(百子帳)が重要な役割を果たす。当然天皇の身近にはビロウは存在していなかったわけで、わざわざ南方からビロウの葉を取り寄せて大嘗祭に使ったのであるが、どうしてこの重要な神事でビロウを使わなくてはならなかったのか、非常に気になるところである。
また、このビロウは古代日本が誇る発明品である「扇」の起源であるとも考えられている。能、舞踊、落語など多くの日本芸能において扇が重要な役割を果たす淵源には、かつてビロウが神聖視された名残では、という説もある。
ところが、今の鹿児島ではこれを神聖視するような姿勢は感じられないし、魁偉な見た目は神聖というより不気味な感じで受け取られているように思う。ありふれていることもあり、特に大事にしなくてはならないものという意識もないだろう。しかし上述のように、少なくともかつては神聖で重要な植物であったのは間違いなく、昔の人がビロウにどのように接したのか、というのは興味深い問題だ。そして同時に、それがいつのまにか特別でない木に零落してしまったのはどうしてか、というのも気になるところである。
先日、「南薩の田舎暮らし」では新たな取り組みとして千日紅のアクセサリーの販売を開始したが、私としてはこのビロウの葉もアクセサリーなどに加工してもらいたいと思っている。とても南っぽさを感じるものであるし、かつては神聖なものであったわけで、もし作れたら言われも面白く、ユニークなものになるはずだ。
【参考文献】
『扇―性と古代信仰』1970年、吉野 裕子
2013年3月31日日曜日
ボタンボウフウ=長命草の栽培振興
長命草ことボタンボウフウが大浦ふるさと館裏の海岸に自生していると聞き見に行ってみた。そこら中に、たくさん生えている。
ボタンボウフウとは、資生堂が錠剤やドリンクにして「長命草」の名で商品化しているが、ポリフェノールを始めとして各種の栄養成分に富むということで、近年注目されている沖縄や離島の健康野菜である。
南さつま市では2012年度に「畑の学校」を実施したが、この校長を務めた濱田さんという方がこのボタンボウフウに惚れ込んでいた(?)ことを契機として、市民の健康増進などのため、この栽培を広めようとしているようだ。
この植物は寒さには弱いが、もともと波に洗われる岩壁など厳しい環境に自生するということで、海岸が近い暖地では栽培は容易である。実際海岸に自然に生えているくらいなので、南さつま市の環境は栽培に適しているのだが、問題は活用法だ。
濱田さんはバナナと牛乳を合わせてジューサーでジュースにして毎朝飲んでいるということだったが、これを実行するのは一部の人だろう。天ぷらにすると結構美味しかったが、相当なキャンペーンをしないと天ぷらの具材として浸透しないと思われる。不味いものではないが特別美味いわけでもなく、料理法にも今のところ幅がないのでサプリメント的に加工して使うのがよいと思うが、言うは易くというやつで実際には商品化は困難だ。
さらには、与那国島のボタンボウフウが資生堂により商品化されていることを始め、他にも屋久島や徳之島、また大手健康食品メーカーでもこれがサプリメントとして商品化されていることを鑑みると、既に商品化は真新しくもなく競争が激しい。やはり本土の強みを活かして、加工しない、生食のボタンボウフウの活用法を切り拓くべきかもしれない。
ともかく、市がどこまで本気なのかは分からないが、せっかく自生までしているという好立地を活かすなら、この利用が商業的に広まることが不可欠で、住民の自給自足的な栽培に期待しても将来の展望がない。その呼び水とするため、今年度市では苗の無料配布を行ったが、認知自体を広げることも必要だ。
例えば、このボタンボウフウはその豊富な栄養成分によって美肌効果が高いらしいが、実際に2ヶ月くらい定期的に食べてもらうことで、肌がどれくらいきれいになるか確かめたり、できればそれを美人コンテストにするなど、まずは話題作りが有効ではないかと思う。それにあたっては、「長命草」などという高齢社会的な雰囲気でなく、「美肌草」くらいのフレッシュなイメージで売っていくのがよいのではないだろうか(※)。
また、ご当地グルメはなぜか最近ファーストフード的ないわゆるB級グルメが多いが、健康的なご当地グルメというのも異色だと思うし、それが美肌にもよいともなれば女性客が見込める。ボタンボウフウの栽培振興にあたって、南さつま市は市民の健康増進のため、という大義名分を掲げていたが、「南さつま市に美人を増やす」というくらいの高遠な目的を掲げてもらいたいものである。
ところで、実は南さつま市でこのボタンボウフウ入りの食品が既に商品化されており、二見屋(味の石燈籠(いずろ))がこれが練り込まれた餃子を販売している(限定品かもしれない)。まだ栽培も始まっていないうちから商品化するあたり、対応が素早い。最近うちでは餃子が食卓に上ることが多いので、餃子のローテーションに加えたいと思う。
※ ググってみたらすでに「美肌草」と呼ばれている草があった(ローズゼラニウム)。
ボタンボウフウとは、資生堂が錠剤やドリンクにして「長命草」の名で商品化しているが、ポリフェノールを始めとして各種の栄養成分に富むということで、近年注目されている沖縄や離島の健康野菜である。
南さつま市では2012年度に「畑の学校」を実施したが、この校長を務めた濱田さんという方がこのボタンボウフウに惚れ込んでいた(?)ことを契機として、市民の健康増進などのため、この栽培を広めようとしているようだ。
この植物は寒さには弱いが、もともと波に洗われる岩壁など厳しい環境に自生するということで、海岸が近い暖地では栽培は容易である。実際海岸に自然に生えているくらいなので、南さつま市の環境は栽培に適しているのだが、問題は活用法だ。
濱田さんはバナナと牛乳を合わせてジューサーでジュースにして毎朝飲んでいるということだったが、これを実行するのは一部の人だろう。天ぷらにすると結構美味しかったが、相当なキャンペーンをしないと天ぷらの具材として浸透しないと思われる。不味いものではないが特別美味いわけでもなく、料理法にも今のところ幅がないのでサプリメント的に加工して使うのがよいと思うが、言うは易くというやつで実際には商品化は困難だ。
さらには、与那国島のボタンボウフウが資生堂により商品化されていることを始め、他にも屋久島や徳之島、また大手健康食品メーカーでもこれがサプリメントとして商品化されていることを鑑みると、既に商品化は真新しくもなく競争が激しい。やはり本土の強みを活かして、加工しない、生食のボタンボウフウの活用法を切り拓くべきかもしれない。
ともかく、市がどこまで本気なのかは分からないが、せっかく自生までしているという好立地を活かすなら、この利用が商業的に広まることが不可欠で、住民の自給自足的な栽培に期待しても将来の展望がない。その呼び水とするため、今年度市では苗の無料配布を行ったが、認知自体を広げることも必要だ。
例えば、このボタンボウフウはその豊富な栄養成分によって美肌効果が高いらしいが、実際に2ヶ月くらい定期的に食べてもらうことで、肌がどれくらいきれいになるか確かめたり、できればそれを美人コンテストにするなど、まずは話題作りが有効ではないかと思う。それにあたっては、「長命草」などという高齢社会的な雰囲気でなく、「美肌草」くらいのフレッシュなイメージで売っていくのがよいのではないだろうか(※)。
また、ご当地グルメはなぜか最近ファーストフード的ないわゆるB級グルメが多いが、健康的なご当地グルメというのも異色だと思うし、それが美肌にもよいともなれば女性客が見込める。ボタンボウフウの栽培振興にあたって、南さつま市は市民の健康増進のため、という大義名分を掲げていたが、「南さつま市に美人を増やす」というくらいの高遠な目的を掲げてもらいたいものである。
ところで、実は南さつま市でこのボタンボウフウ入りの食品が既に商品化されており、二見屋(味の石燈籠(いずろ))がこれが練り込まれた餃子を販売している(限定品かもしれない)。まだ栽培も始まっていないうちから商品化するあたり、対応が素早い。最近うちでは餃子が食卓に上ることが多いので、餃子のローテーションに加えたいと思う。
※ ググってみたらすでに「美肌草」と呼ばれている草があった(ローズゼラニウム)。
2013年3月12日火曜日
南薩の捕鯨と「くじらの眠る丘」
大浦ふるさと館(物産館)の横に、「くじらの眠る丘」というクジラの骨格標本を展示する施設がオープンした。
14頭のクジラの群れが当地に座礁するという事件が2002年にあったのだが、これはそのうちの1頭の骨格を標本化し、座礁10周年を記念して展示したものである(なお、1頭のみ救出されたが、残り13頭は死亡した)。
どうせ骨だろ、とタカをくくっていたが、実際に見てみるとまるで恐竜の化石のような迫力がある。クジラの骨の展示というのは珍しいそうなので、一見の価値はあろう。
大浦ふるさと館では、この施設が併設されたことを契機としてクジラ関連商品を充実させており、甑島の「くじらカレー」や 「くじらベーコン」も取り寄せられている。近いうちに試してみたい。
実は、南さつま市とクジラは因縁浅からぬものがあり、笠沙沿岸(片浦港)では古くから捕鯨が行われていた。豪壮な捕鯨でクジラを捕まえるだけでなく、定置網にクジラがかかると鯨肉を塩漬けにして肥前や肥後に出荷し浦が潤った、ということでお祭り騒ぎになったらしい。年間数頭から10頭くらいのクジラが獲れたという。
そういうわけで、明治中期から大正中期頃には鯨肉は笠沙の特産品であった。鹿児島で捕鯨を組織的にやっていたことがわかっているのは、笠沙と奄美大島しかないそうだ。
ちなみに、笠沙の赤生木(あこうぎ)というところにクジラキイ(鯨切り)というクジラの解体集団がいて、クジラの解体は漁民ではなく彼らが担当したのだということだ。クジラの解体は、もしかすると山で狩猟をしていた人々が担ったということなのかもしれない。
黒潮がぶつかる笠沙の野間半島は、おそらくクジラの回遊の道にあたっており、南さつまにはしばしばクジラが打ち上げられ、またホエールウォッチングもできる(※)。「くじらの眠る丘」は14頭のクジラ座礁10周年を記念し、新たな地域観光資源とするための施設ということだが、せっかくクジラに注目するのであれば、南さつまとクジラとの歴史的な関わりを掘り起こしたり、気軽にホエールウォッチングが出来る機会を設けたりするというような工夫も有効ではないだろうか。
※以前はやっていたようだが、今やっているのかどうか未詳。
【参考】
「鹿児島県の捕鯨」2007年、不破 茂、米原 正晃
笠沙恵比寿の博物館スペースには、笠沙の捕鯨について解説した小さなスペースがある。 「くじらの眠る丘」が出来たことを契機として、内容をさらに充実させてもらえれば有り難い。
14頭のクジラの群れが当地に座礁するという事件が2002年にあったのだが、これはそのうちの1頭の骨格を標本化し、座礁10周年を記念して展示したものである(なお、1頭のみ救出されたが、残り13頭は死亡した)。
どうせ骨だろ、とタカをくくっていたが、実際に見てみるとまるで恐竜の化石のような迫力がある。クジラの骨の展示というのは珍しいそうなので、一見の価値はあろう。
大浦ふるさと館では、この施設が併設されたことを契機としてクジラ関連商品を充実させており、甑島の「くじらカレー」や 「くじらベーコン」も取り寄せられている。近いうちに試してみたい。
実は、南さつま市とクジラは因縁浅からぬものがあり、笠沙沿岸(片浦港)では古くから捕鯨が行われていた。豪壮な捕鯨でクジラを捕まえるだけでなく、定置網にクジラがかかると鯨肉を塩漬けにして肥前や肥後に出荷し浦が潤った、ということでお祭り騒ぎになったらしい。年間数頭から10頭くらいのクジラが獲れたという。
そういうわけで、明治中期から大正中期頃には鯨肉は笠沙の特産品であった。鹿児島で捕鯨を組織的にやっていたことがわかっているのは、笠沙と奄美大島しかないそうだ。
ちなみに、笠沙の赤生木(あこうぎ)というところにクジラキイ(鯨切り)というクジラの解体集団がいて、クジラの解体は漁民ではなく彼らが担当したのだということだ。クジラの解体は、もしかすると山で狩猟をしていた人々が担ったということなのかもしれない。
黒潮がぶつかる笠沙の野間半島は、おそらくクジラの回遊の道にあたっており、南さつまにはしばしばクジラが打ち上げられ、またホエールウォッチングもできる(※)。「くじらの眠る丘」は14頭のクジラ座礁10周年を記念し、新たな地域観光資源とするための施設ということだが、せっかくクジラに注目するのであれば、南さつまとクジラとの歴史的な関わりを掘り起こしたり、気軽にホエールウォッチングが出来る機会を設けたりするというような工夫も有効ではないだろうか。
※以前はやっていたようだが、今やっているのかどうか未詳。
【参考】
「鹿児島県の捕鯨」2007年、不破 茂、米原 正晃
笠沙恵比寿の博物館スペースには、笠沙の捕鯨について解説した小さなスペースがある。 「くじらの眠る丘」が出来たことを契機として、内容をさらに充実させてもらえれば有り難い。
2012年10月7日日曜日
笠沙美術館——日本一眺めのいい美術館
南さつま市笠沙町のリアス式海岸を走る国道沿いに、「笠沙美術館(黒瀬展望ミュージアム)」がある。
展示品は笠沙町出身の画家 黒瀬道則氏の寄贈作品がほとんどで、その好き嫌いは分かれるところだと思うが、この美術館からの眺望は文句なく素晴らしい。
エントランスからパティオに向かうと、東シナ海に浮かぶ沖秋目島(ビロウ島)が望め、それがさながら一幅の絵画のように建物で切り取られる。赤茶けた直線的な建物と、青い空と海が鋭く対比された風景は、むしろ南欧風ですらある。
聞くところでは、もともとこの美術館は展望所として計画されたものであるということで、絶景なのは当然だ。その建物も作品の展示というより、そこから望む風景を主体として設計されているように見える。ちなみに、建物のデザインは「つばめ」や「指宿のたまて箱」など、JR九州の多くの車両をデザインしたことで著名な水戸岡鋭治氏によるものらしい。そのデザインにただ者でないセンスを感じたが、納得である。
笠沙美術館は南さつま市にとって大きな財産だと思うが、来客もまばらであまり利用されていないのは残念だ。黒瀬氏の絵は、ミステリーの表紙になるような絵で面白味はあると思うが、正直なところ、何度も見たくなるようなものではないし、一般受けするものではない。せっかくの素晴らしい美術館が、郷土出身の画家の紹介だけに終わってしまってはもったいない。
そういうことから、私としては、ここをギャラリースペースとして積極的に活用し、多くの人に来てもらえるようにしたらいいと思う。小さなグループの個展などでも家族友人等でそれなりに人が来るので、この風景の素晴らしさを体感してくれれば口コミによる波及効果も期待できる。
ちなみに、今でもそういう利用ができないわけではないが、WEBサイトにも何も書いていないし、そもそも美術館の存在自体が積極的に広報されていない。なお、賃借料はギャラリーのみだと2100円/日で、全体を借りると5250円/日、展望所と駐車場は無料である。せっかくの素晴らしい資源なのだから、前向きに活用してもらいたいものだ。きっとここは、MOA美術館(熱海)や神奈川県立近代美術館(葉山)を越えて、日本一眺めのいい美術館といえるだろうから。
展示品は笠沙町出身の画家 黒瀬道則氏の寄贈作品がほとんどで、その好き嫌いは分かれるところだと思うが、この美術館からの眺望は文句なく素晴らしい。
エントランスからパティオに向かうと、東シナ海に浮かぶ沖秋目島(ビロウ島)が望め、それがさながら一幅の絵画のように建物で切り取られる。赤茶けた直線的な建物と、青い空と海が鋭く対比された風景は、むしろ南欧風ですらある。
聞くところでは、もともとこの美術館は展望所として計画されたものであるということで、絶景なのは当然だ。その建物も作品の展示というより、そこから望む風景を主体として設計されているように見える。ちなみに、建物のデザインは「つばめ」や「指宿のたまて箱」など、JR九州の多くの車両をデザインしたことで著名な水戸岡鋭治氏によるものらしい。そのデザインにただ者でないセンスを感じたが、納得である。
笠沙美術館は南さつま市にとって大きな財産だと思うが、来客もまばらであまり利用されていないのは残念だ。黒瀬氏の絵は、ミステリーの表紙になるような絵で面白味はあると思うが、正直なところ、何度も見たくなるようなものではないし、一般受けするものではない。せっかくの素晴らしい美術館が、郷土出身の画家の紹介だけに終わってしまってはもったいない。
そういうことから、私としては、ここをギャラリースペースとして積極的に活用し、多くの人に来てもらえるようにしたらいいと思う。小さなグループの個展などでも家族友人等でそれなりに人が来るので、この風景の素晴らしさを体感してくれれば口コミによる波及効果も期待できる。
ちなみに、今でもそういう利用ができないわけではないが、WEBサイトにも何も書いていないし、そもそも美術館の存在自体が積極的に広報されていない。なお、賃借料はギャラリーのみだと2100円/日で、全体を借りると5250円/日、展望所と駐車場は無料である。せっかくの素晴らしい資源なのだから、前向きに活用してもらいたいものだ。きっとここは、MOA美術館(熱海)や神奈川県立近代美術館(葉山)を越えて、日本一眺めのいい美術館といえるだろうから。
2012年4月9日月曜日
鹿児島でも貴重な美味しくおめでたいエビ、タカエビ
4月1日にタカエビ漁が解禁された。というわけで、近隣にある博物館併設の宿泊施設「笠沙恵比寿」でタカエビ会席を食べたのだが、このエビ、非常に美味である。
タカエビというのは、鹿児島でもあまり知られていないが、日本に数多いエビの中でも相当に美味しい部類に属すると思う。
このエビは所謂「甘エビ」であって、熱を通さなくても美しいピンク色をしており、刺身で食べることができる。食感は、甘エビよりもぷりぷりとしていて、甘味はよりさっぱりしている。
これは甘エビと同じように深海(300〜600m)に棲むエビであるが、一般に言われる甘エビ=ホッコクアカエビとは種類が違う。ホッコクアカエビは死後の自己消化の過程でアミノ酸が生じるために甘くなるらしく、捕獲後しばらく経ってからでないと甘味が感じられないのだが、タカエビは新鮮な状態でも甘いので、甘さの原因が違うのかもしれない。この違いが、ぷりぷりとした食感と甘味が両立するタカエビの優れた形質の根本にあるのだと思う。
また、タカエビと甘エビの見た目の違いとして大きいのは、タカエビは長い髭が紅白になっているということだ。髭が紅白というのは大変おめでたい姿だが、髭はデリケートなために輸送途中に取れてしまうことが多く、市場ではなかなかお目にかかれないものらしい。そもそも、タカエビは鹿児島でも東シナ海側の限られた漁港でしか獲れないもので、タカエビ自体が希少であり、あまり市場に流通していないのだが。
なお、タカエビは地方名で、正式な種名はヒゲナガエビだと解説されることが多いが、これは本当だろうか。ヒゲナガエビとタカエビには形態や味に微妙な違いがあるので、どうもこれは疑わしい。私はこれを地方の亜種であると思っているが、どうだろうか。
ちなみに、笠沙恵比寿のタカエビ会席は、前菜からご飯ものに至るまで全てタカエビづくしである。タカエビは甲殻類らしいクセがあまりなく、食感もあっさりとしているので、最後まで美味しい。だが、正直に言えば、メニューにもう少し工夫が必要かとも思った次第である。例えば、途中でエビ以外のものを一品挟むといった箸休めが必要であろう。
タカエビというのは、鹿児島でもあまり知られていないが、日本に数多いエビの中でも相当に美味しい部類に属すると思う。
このエビは所謂「甘エビ」であって、熱を通さなくても美しいピンク色をしており、刺身で食べることができる。食感は、甘エビよりもぷりぷりとしていて、甘味はよりさっぱりしている。
これは甘エビと同じように深海(300〜600m)に棲むエビであるが、一般に言われる甘エビ=ホッコクアカエビとは種類が違う。ホッコクアカエビは死後の自己消化の過程でアミノ酸が生じるために甘くなるらしく、捕獲後しばらく経ってからでないと甘味が感じられないのだが、タカエビは新鮮な状態でも甘いので、甘さの原因が違うのかもしれない。この違いが、ぷりぷりとした食感と甘味が両立するタカエビの優れた形質の根本にあるのだと思う。
また、タカエビと甘エビの見た目の違いとして大きいのは、タカエビは長い髭が紅白になっているということだ。髭が紅白というのは大変おめでたい姿だが、髭はデリケートなために輸送途中に取れてしまうことが多く、市場ではなかなかお目にかかれないものらしい。そもそも、タカエビは鹿児島でも東シナ海側の限られた漁港でしか獲れないもので、タカエビ自体が希少であり、あまり市場に流通していないのだが。
なお、タカエビは地方名で、正式な種名はヒゲナガエビだと解説されることが多いが、これは本当だろうか。ヒゲナガエビとタカエビには形態や味に微妙な違いがあるので、どうもこれは疑わしい。私はこれを地方の亜種であると思っているが、どうだろうか。
ちなみに、笠沙恵比寿のタカエビ会席は、前菜からご飯ものに至るまで全てタカエビづくしである。タカエビは甲殻類らしいクセがあまりなく、食感もあっさりとしているので、最後まで美味しい。だが、正直に言えば、メニューにもう少し工夫が必要かとも思った次第である。例えば、途中でエビ以外のものを一品挟むといった箸休めが必要であろう。
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