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2016年8月20日土曜日

マングローブふたたび

7月に行われた「大浦 ”ZIRA ZIRA" FES 2016」では、昨年に引き続きポスターとタオルのデザインを担当させてもらったのだが、実は、隠れた(?)オフィシャルグッズとしてサンダルがあり、そのデザインも担当した。

このサンダル、あんまり広くお知らせしなかったようで、購入したのはほぼ関係者のみだったみたいだ。別に広報に手を抜いたわけではなくて、元々関係者グッズの位置づけだったみたいである。

でも、これは原価が高いだけあって結構丈夫で、履き心地もよく、(デザインのことはともかくとして、)よいノベルティグッズになったように思う。

ところで、私がここにドギツいピンクのベースでデザインしたのは、大浦のマングローブ、メヒルギ群落である。メヒルギというのは、マングローブ(汽水域に成立する森林の総称)を構成する代表的な樹種だ。

大浦には、このメヒルギの群落が河口付近に何カ所かあり、これは世界的に見てマングロブ自生の北限なのかもしれない。鹿児島では、喜入(きいれ)というところにあるメヒルギ群落が国の天然記念物になっているが、喜入の群落はどうやら人工的なものであり、大浦の方は自生の可能性が非常に高い。サンダルには思い切って「the northernmost wild mangrove in the world=世界最北端の自生マングローブ」の文字を入れてみた。

【参考】大浦町には、世界最北限のマングローブ自生地があります

というわけで、大浦町はかつてこのメヒルギを町の宝(たぶん、今の言葉でいえば「地域資源」)として、いろいろな場面であしらっていた。例えば、随分古い話で申し訳ないが、1960年代くらいに大浦町には市民文芸誌があって、その題名が「めひるぎ」だった、といったようなものである。

もちろん、保護の活動もやられていて、枯れそうになったら心配して増殖したりといったことをしていた。護岸工事や干拓のためにメヒルギ群落が破壊されるということもあったようだが、そのたびに移植して保全するという活動もわき起こったそうだ。

だが、いつの頃からかメヒルギはさして注目を浴びなくなり、保護らしい活動もされなくなった。おそらく、喜入の方に特別天然記念物のメヒルギがあるため、それに比べると行政的に打ち出しづらいものであることや、メヒルギを見に来る観光客なども想定されなかったためではないかと思う。一応、「市」の天然記念物になっているので、完全に忘れられているというわけではないと思うものの、南さつま市内にこれに関心がある人はごく僅かだろう。

私が、サンダルにメヒルギをあしらったのは、もう一度、この忘れられている存在に注目してもいいんじゃないかと思ったからである。今、蛭子島(えびす島)というところにあるメヒルギの群落は、ゴミが散乱して雰囲気も悪く、外から来た人にはとてもじゃないが案内できない。ここがもう一度きれいになり、誇るべき風景が甦って欲しいと密かに希望する。

…と思っていたら、「鹿児島&沖縄マングローブ探検」というWEBサイトで、大浦のマングローブがしっかり紹介されているではないか。

【参考】 鹿児島&沖縄マングローブ探検|鹿児島

しかも、大浦川越路川榊川蛭子島と、ちゃんと4箇所のメヒルギが地図と写真つきで公開されている。地元なのに越路川のメヒルギは知らなかったので今後見に行ってみたい。

実はこのサイト、自力で見つけたのではなくて、私が大浦町のメヒルギについてブログで紹介しているのを読んで、運営組織(マングローバル)の代表の方が、わざわざ電話してきて教えてくれたのである。この組織は沖縄にあるが、ちゃんと大浦まで調査に来て写真や地図をまとめており、その熱意には頭が下がるばかりである。

でも、こうした地域にある珍奇なものは、まずは地域住民が大切にしないかぎりそれが活かされることはない。活きるといっても、もちろんそれで観光客がたくさん来るとか、関連グッズが売れるとか、そういうことは考えられない。でも、町の象徴、町の顔、というようなものは住民のアイデンティティの形成などに意外に大きな影響を及ぼしていて、最近の大浦町でいうとそういう存在に「くじら」があるが、こうしたものは心の奥底で人々を結わえ付けるような力を持っているから侮れない。

大浦には「くじら」だけでなく、「亀ヶ丘」「磯間岳」「干拓」など他にもいろいろな象徴があり、あえてそこに「メヒルギ」を追加しなければならない必然性はない。しかしその南国的なムードや、外から見た時の価値のわかりやすさなどから、私としては「メヒルギ」には可能性があるんじゃないかと思っている。

というわけで、「メヒルギ」が、古くて新しい、大浦の象徴的な植物として再び注目される日を期待して、このサンダルを履いているこの夏である。

2016年3月11日金曜日

街路樹を育てるという経済政策

先日、南さつま市の下水道問題に関して記事を書いた。

その後下水道問題は、友人のテンダーさんが随分頑張って市議会に意見を届けたが、残念ながらのれんに腕押しというやつで、ほぼ黙殺されてしまった格好である。

【参考】陳情したけど、ガッカリです。南さつま市の公共下水道問題その3(テンダーさんのサイト)

建設自体は既定路線とは思っていたが、1000人近くの署名が集まっていることを真摯に議論しないとは…。それで、論調としては「加世田中心部は税収の中心だからそこに投資するのは当然」というような話になっている模様。かくいう私も、下水道問題にかこつけて書いた2つの記事で述べたように、加世田中心部への重点投資・再開発には賛成である。問題は、それが下水道でいいの? ということだ。

【参考】イケダパン跡地の有効利用
【参考】寄り道と街の発展

でも、上の2つの記事でも、イケダパン跡地を再開発したらどうか、ということ以外には、具体的な再開発の手法についてはほとんど述べていなかった。本町商店街をもっと活性化したら、と言うのは簡単だが、下水道より魅力的な投資が思いつかなかったら絵に描いた餅である。

というわけで、上の2つの記事はネットでもリアルでもとても反響があったので、それに気をよくして、私なりに中心市街地の活性化策を考えてみたいと思う。

さびれた商店街の活性化と聞いてすぐに思いつくのは、イベントとかB級グルメとかコミュニティづくりといった、メディアを賑わすいろいろな事例だろうが、都市計画的に考えると(つまり個別の商店の売り上げを伸ばすということより、賑わいのある地域を作るということを目的に据えるなら)その手法はほとんど一つしかない。それは、集客力のある施設の誘致・創出である。商売というのは、結局人の流れにどう乗るかというところがあるので、集客力がある施設ができさえすれば、そこからどうとでも発展していける。

例えば、加世田本町に市役所の市民課を移転させたらどうだろうか。あるいは、図書館を本町に移転させたらどうだろう? それだけで、人の流れはガラッと変わる。今の南さつま市役所本庁は街の中で孤立していて、人の流れを生みだす力を全く持っていないので、もう少し街の中に入っていって、ヨーロッパにある広場+市庁舎みたいな空間を作っていったら面白いと思う。

しかしながら、集客力のある施設をつくるというのはあまりにも当たり前の活性化策で、面白くもなんともないので、違う観点から提案したいことがある。

それは、街路樹の充実である。

街路樹なんか、ただの飾りじゃないか、というのが大方の反応だろう。もちろん、街路樹を見に街に来る人はいない。街路樹は、集客力のある施設では、全然ない。

それどころか最近は、街路樹なんか邪魔だ、とさえ言われている。 秋に落葉の時を迎えると、バッサリ丸坊主に剪定されてしまう街路樹をたくさん見かける。冒頭写真はちょっと極端な例だが、これくらい無残に剪定された街路樹を見ることは少なくない。どうも、地域住民などから「落ち葉が道路に散乱して汚れる。排水溝が詰まる」といった苦情があるため、このような非情な剪定が行われるそうである。

一見もっともらしい意見だが、美しい樹木をみっともない姿にする方が、ずっと非合理であると私は考える。秋にカサカサと落ち葉を踏みしめる感覚を味わえない方が、よほど損失だ。もちろん、実際には誰かが落ち葉の掃除をする必要はある。しかし多くの地域ではそれくらいのことはやっていけるコミュニティがあると思うし、そうでないにしても、剪定にもお金がかかっているわけで、同じお金をかけるなら、シルバー人材センターに定期的に落ち葉掃除をお願いする方がずっと気が利いている。

でも、街路樹管理者はそう考えていないようだ。やっぱり、街路樹はどんどん剪定されていく。おそらく、あまりに立派になりすぎると電線に邪魔になるという事情もあるのだろう。こうして無残な剪定をされた街路樹は、年々貧相な姿になっていく。本来切るべきでないところを、無配慮に切りまくられるのだから樹勢もどんどん落ちる。樹は年を経るごとに立派になっていくはずなのに、そうならない。樹形が乱れていき、変な形になっていく。それでも管理者は、かえって邪魔にならなくていい、と思っているのかもしれない。

いつからこうなったのだろう。

かつて日本人は、世界でも特異なほど樹を愛する人たちだった。

日本では早くも室町時代から花木の品種改良が始まっており、美しい桜や椿、梅を生みだした。花の品種改良というだけなら、ヨーロッパのチューリップなど様々な事例が歴史に散乱しているが、高木性の花木の大規模な品種改良を行ったのは日本人だけだそうである。

また、植木屋や庭師といった専門業者が出現したのも日本が世界に先駆けており、日本人の樹木の剪定技術は、芸術すら超え、精神修養的な水準にまで到達した。盆栽はその極地である。美しく立派な樹を愛でるということにかけては、日本人は他の人々を圧するところがあったのだ。

さらに、日本語では神を数える助数詞が「柱」であるが、これは太古の昔、樹そのものが神と見なされたことの名残と考える人もいる。神社には必ず「参道」があり、参道には立派な神木が連なっていることが普通であるが、私の考えでは、拝殿や本殿よりも参道の方こそ神社の本体で、聖なる樹の連なる道を歩むという行為が、神社の聖性の本質であると思う。

また、幕末に江戸を訪れた外国人たちは、江戸の街がたくさんの樹に覆われ、あまりに田園的であることに驚き、同時にその美しさに魅了もされた。ヨーロッパの街というのは、森を切り拓いて文明を打ち立てた記念碑的なところがあるが、江戸の街は自然と融和して周りの田園との境がなかったのである。この外国人たちは江戸の街で夥しい数の園芸植物が売られているのを見つけ、買い漁って本国に送った。巣鴨や染井(駒込)は、当時世界最大の花卉・植木栽培センターだったそうである。

このように我々の先祖は、樹木を愛で、それを緻密に管理し、街並みに活かし、また信仰もしてきた。そうした樹との付き合い方は、今の世の中ではほとんど失われてしまったように見える。無残に剪定された街路樹は、その象徴かもしれない。

しかし今でも、我々は立派な樹の下に憩うことを忘れてはいない。縄文杉の前に立てば、それは未だに我々の神であると多くの人は感じるだろう。そんな大げさなものでなくても、立派な樹があるというだけで、そこは何か特別な場所になる。大学のキャンパスには大概立派な並木道があるものだが、大学で学んだことの内容は忘れても、並木道の木陰を歩いた感覚はずっと後まで残るものである。

これは、商店街でも当てはまる。六本木ヒルズ、東京ミッドタウン、丸の内再開発といった近年の東京の大規模再開発事業を見ても、感じの良い街路樹を配置していない事業は皆無である。もちろん、これらの再開発事業において、街路樹が本当に活かされているかというと程度の問題はある。飾り程度の部分もあるだろう。しかし、どんなスタイリッシュなデザインのピカピカのオフィスや、名のあるデザイナーの洒落たテナントがあろうとも、そこに樹の一本もなければなんとなくサマにならないのはなぜか、というのはもっと深く考えてよい問題だ。

東京ですら、街路樹が本当の意味で立派な景観をつくっている商店街というものは少ない。有名なところとしては、原宿の表参道のケヤキ並木くらいだろう。これは文字通り明治神宮の参道であるので、商店街の街路樹というには不適切かもしれないが、この原宿という街に海外のハイブランドが軒を連ねている一因は、このケヤキ並木にあるのではないだろうか。逆に言うと、原宿からケヤキ並木がなくなってしまったら、ただのゴミゴミした街になってしまうかもしれない。表参道の品格を支えているのは、何よりもあの立派なケヤキ並木なのだというのが私の仮説である。

というわけで、加世田の本町商店街を原宿にするのは不可能でも、街路樹を立派にしていったらどうか、というのが私の提案なのだ。

幸いに、既に本町商店街には電柱がなく、街路樹が自由に伸びるスペースがある。今はプラタナスが植わっていたと思うが(間違っていたらすいません)、わざわざ植え替えなくてもこの管理方法を変えて、立派にしていくというだけでも随分変わると思う。プラタナスも古木になるとかなり大きく立派になる樹である。

そんなことで街が活性化するわけないじゃないか、と思うかもしれない。実際、鹿児島市内の大門口通り(金生通りの先)にはとても立派な街路樹があるのに、人通りはまばらである。確かに、立派な樹があるところに人通りがあるのなら、山の中が人だらけになるはずである。いうまでもなく街路樹はそれだけでは人の流れを変えないし、樹はまちづくりの主役ではない。主役はあくまで人間である。だが、先ほど述べたように、どんなに立派な施設があってもそこに樹の一本もなければそこは完全ではないのである。樹は主役を引き立てる重要な脇役なのだ。

もっと正確に言えば、街路樹は、場の雰囲気を左右する存在だ。それあたかも、「あの人がいるとなんだか場がなごむよね」というあの手の人間のようなものだ。それだけで何かを生むわけではないが、それがあることで「場」の未来が明るくなるのである。立派な街路樹を持つ街は、それだけで品格があり、そして品格ある店を呼び寄せる。街路樹だけでは経済政策にならないとしても、街路樹は街の可能性を広げるものだと思う。実際、私は大門口通りにだって面白い未来があるんじゃないかと思っている。なんなら賭をしてみてもいい。

合併前の加世田市は「いろは歌といぬまきの街」を標榜していた。街路樹のイヌマキも、もう少し立派に育てていくべきである。キオビエダシャク(イヌマキにつく害虫)の問題があるにせよ、貧相な街路樹は、それだけで見識の低さを露呈させているようなものだ。

街ぐるみで街路樹を立派にしてみたら、どんなことが起こるんだろうか。ものすごく面白い街になるような気がしてならない。

かつて鹿児島で実際それをしてみた企業がある。鹿児島では知らない人のいない老舗企業、岩崎産業である。岩崎産業は、そもそも戦前に鉄道レールの枕木で財をなした会社で、奄美に広大な広葉樹の森を作るなど林業が根幹の会社だった。その岩崎産業が、戦後、鹿児島の街にヤシなどの熱帯植物を植えまくったのである。

これは、鹿児島を一大観光地にするべく、熱帯っぽいイメージを作るためだったらしい。鹿児島のヤシやフェニックス(太くて大きなシダ植物)が全て岩崎産業の植林なわけではないが、国道沿いに大きなヤシを植えたのは岩崎産業が始めたことだ。今でもいわさきグループのロゴマークはヤシをあしらったものである。

たくさんのヤシが道沿いに植えられた鹿児島が、良いか悪いかはひとまず措く。しかしヤシを植えるという岩崎産業の戦略は、確かに街の風景を変え、鹿児島のイメージを従来とは異なったものへと変えたのだと思う。

もちろん、加世田が無理に街路樹でイメチェンする必要はない。でも立派な木々の木漏れ日の下で買い物できるような商店街は、日本にいくつもないだろう。もし素晴らしい街路樹の通りができたら、それだけで確固とした価値がある。

立派な街路樹を作るにはそれなりに時間がかかる。人口減少や景気の低迷で待ったなしの地方経済にとって、街路樹を整えるというようなことは、随分と悠長な、ノンビリしすぎた活性化策に見えるかもしれない。

でも待ったなしの時だからこそ、あえて百年の計を練らなければならない。激動する政治経済の荒波を、小手先の操舵で上手く乗り切ることよりも、何があっても失われない価値を作っていく方が結局は近道のように思う。

街路樹を育てるという経済政策。いかがだろうか。

2014年6月27日金曜日

「ペクチン」のお勉強

ペクチン―その科学と食品のテクスチャー (Food Technology)
唐突だが、どうしてジャムはドロリとしているのだろうか? ジャムの原料となる果物や砂糖はドロリとはしていないのに、ジャムがドロリとしているのはなぜなのか?

これには、ペクチンというものの化学反応が関係している。ジャムは、砂糖、ペクチン、酸の3つが適度な割合で存在していないとうまく固まらずドロリとならない。この3者の化学反応によって、元々はサラッとしている材料から、ドロリとしたジャムができるのである。

では、その反応は具体的にどのようなものなのだろうか。また、そのような反応が起きるのはなぜなのだろうか。そして、ジャムの食感を狙い通りに作るにはどうしたらよいのだろうか。そうしたことを知るには、ペクチンの物性を理解しなくてはならない。というわけで、『ペクチン―その科学と食品のテクスチャー』という本を読んで勉強したのでその内容を備忘を兼ねてまとめてみよう。

■ペクチンとは何か?

そもそも、ペクチンは植物の中でどのように存在し、どのような役割を果たしているのだろうか。

ところで、「ペクチン」という単語は「ペクチニン酸を主成分とする植物由来の多糖類の混合物」を指していて、物質自体の呼び名ではない。だから、「ペクチンの物性」というような言い方は少しおかしい。正確には、「ペクチニン酸の物性」と言わなくてはならないし、植物の中に存在する状態について述べる時は、「ペクチン質」という単語を用いるのが適切である。

で、ペクチン質が植物の中でどんな役割を果たしているのかというと、大雑把には細胞同士の接着剤と言える。ペクチン質は細胞壁と中葉組織(細胞と細胞の間)に存在していて、細胞と細胞をくっつける役割を持っている。

ペクチン質の主成分であるペクチニン酸は、細胞壁を構成するセルロースと同じような多糖類(糖類が鎖状に連なったもの)である。しかし、種々の点でペクチニン酸とセルロースは異なった性質を持つ。

第一に、セルロースは一度生成されると植物自身にもそれを分解する能力がないのに対し、ペクチニン酸には可逆的な生成機構がある。例えば、青い果実は硬く、熟すると軟らかくなるのはペクチン質が関係している。こうした植物の硬軟化が起こるのは、生成されたペクチニン酸が変化することによるのである。

第二に、セルロースはグルコースという糖だけを材料にした多糖類なのに対し、ペクチニン酸は主成分のガラクツロン酸(ガラクトースという糖が酸化されたもの)に加え、ラムノース、キシロース、ガラクトース、アラビノース、グルコースなど様々な糖を含む複合多糖類である。しかも、直鎖のみならず側鎖(枝分かれした部分)を持っていて、構造は遙かに複雑である。そのために、ペクチニン酸の正確な構造は現在においても解明されていない。そして、こうした複雑な構造があることから、一口にペクチンといってもその機能や性質は植物によって様々であり、リンゴのペクチンとカンキツのペクチンではかなりの違いがある。その違いが、いわばリンゴとカンキツの(特に煮たときの)食感の違いを生むわけだ。

つまり、ペクチン質は細胞間の接着剤として、植物の固さを制御する機能を持っているのである。これは、植物を食品としてみるとペクチン質がその食感を定めている、と言える。

■ペクチンの変化と食感の変化

ペクチンは植物の固さを制御しているから、同じ植物の果実でも、未熟な時と成熟した時、そして収穫後に追熟した時ではその組成が随分と変化する。一般に、ペクチニン酸を構成する糖類の組成がかなり変化し、徐々に水溶性のものへと変わってくことで果実が軟化していく。

では、植物組織を加熱すると(肉の場合とは逆に)軟化するのであるが、これもペクチンが関係しているのだろうか? 実はその通りで、加熱によりペクチン質が分解・変質して細胞間の接着がゆるみ、また細胞壁が薄くなることで軟化するのである。

このように、野菜や果物を茹でると軟らかくなる、というごく当たり前の現象の原因にペクチンが関与していることがわかったのは今世紀に入ってからで、本格的な研究が行われ出したのはようやく1940年代になってからである。

しかし、加熱による固さの変化というのは野菜・果物によってかなり違っている。茹ですぎると硬くなる野菜もあるし、一度硬くなってから軟らかくなる野菜もある。ペクチンは加熱によって単純に分解されていくのではなく、pHや溶液中のイオン、そしてペクチン質の組成そのもの次第で複雑な化学変化を伴うのである。そういうわけで、野菜・果物ごとにペクチン質が加熱によってどのように変化するかは未だ十分には分かっていない。

ただ、基本的にはペクチニン酸は加熱によって分解されていく。問題は、それがどのように分解されるかということだ。固さを保持して加熱したいこともあれば、逆にあまり加熱せずに軟らかくしたい時もある。食感を制御しながら加熱するにはどうしたらよいのか

その答えは植物次第であるから万能の答えはないが、実は、ペクチンはそのメチル化の程度によって加熱の崩壊度が著しく異なることがわかっている。例えば、完全に脱メチルしたカンキツのペクチンはpH6以上で長時間加熱してもペクチン分解を起こさないことが分かっている。つまり、長時間煮ても軟らかくならない。理論的には、ペクチンのメチル化度を調整することで加熱による軟化の影響を操作することができるのである。

これは、「予備加熱(pre-heating)」の基盤となる理論である。予備加熱というのは、植物起源の食品を60〜70℃の低温で長時間予め加熱しておくことで、その後の調理の加熱による軟化を防止する技術である。例えば、加熱殺菌が必要な保存食品の場合、殺菌の際の加熱でふにゃふにゃになりその食感が損なわれてしまうことがある。そういう場合、予備加熱をしておくことで、食感を損なわずに加熱殺菌ができるのである。

例えば、ニンジンを缶詰にするときには、76.7℃で予備加熱しておくとその後加熱してもその硬度が最もよく保持される。

予備加熱は、低温の加熱によってペクチニン酸を脱メチル化することで、その後の高温加熱による分解を阻害して食感を維持する技術なのである。

このように、ペクチン質はメチル化の程度によってかなり性質が異なる。ここで、「メチル化」ということの意味を少しだけ解説しておこう。ペクチン質の主成分、ペクチニン酸の枢要な素材はガラクツロン酸なわけだが、これはガラクトース(糖)が酸化したもので、カルボキシル基を持つ。ペクチニン酸とは、このカルボキシル基のうちいくつかが、メタノールによってエステル化(=メチル化)したものなのである。そして、カルボキシル基がどのくらいの割合でメチル化しているか(メトキシル含量)、ということがペクチンを分類する際の大きな指標となっている。

具体的には、メトキシル基が分子量で全体の何%に当たるかで分類されていて、全てのカルボキシル基がメチル化した場合の最大値が16.32%なので、その約半分の7%を境に、それより大きいペクチンが「高メトキシルペクチン(HMP)」、それより小さいペクチンが「低メトキシルペクチン(LMP)」と呼ばれている。

HMPはジャム、ゼリーなどの製造に用いられ、糖と酸の存在化で水素結合型のゲルを形成する。一方、LMPはカルシウムやマグネシウムなどの多価カチオンの存在下でイオン結合型のゲルを形成する。ただこのゲルは一般のゼリーなどとは異なっているので、普通のジャムなどには用いられない。LMPのゲルは固形料が少なくて済むことや広いpH領域があることで広範囲な利用が可能で、サラダやデザートの調製、食品の被覆(スプレー)、魚の冷凍ヤケの防止などに用いられる。

LMPのことはさておき、普通のジャムを作る材料であるHMPについてもう少し詳しく見てみよう。

■ジャムとペクチン

HMPがゲル化する過程はとても複雑で、ゲル形成を説明するのに種々の理論が提唱されていてまだ完全には解明されていない。とはいえ基本的な考え方は固まっていて、「負の親水コロイドであるペクチニン酸に、糖が脱水剤として作用し、水素イオンがペクチニン酸の負の電荷を減少させ、分子の凝集を促し、網目構造を形成する」というのが定説だ。一般に思われていることとは違い、ジャムの硬化はによる化学変化によって引き起こされるのではなく、物質の組み合わせに由来するのである。

つまり、ペクチンによってジャムを作るためには、脱水に十分な糖と、水素イオンが必要である。水素イオンはすなわちpHで表されるから、糖の濃度とpHの調製がジャム形成に不可欠である。具体的には、ゲル化には最低でも糖度55%以上、pH3.0程度の溶液を作ることが求められる。

pHは酸によって調整するが、pHは酸の濃度そのものでなく、遊離した水素イオンの濃度(の対数)であるから、酸の濃度を高めてもさほど影響が大きくは出ない。ということで、ジャムの強度(固さ)を決めるのは、大雑把にはペクチンと糖の量である。ジャムをパンなどに塗るのに十分な硬度にするには、だいたい糖度は65%くらいは必要である。

事実、1988年にJASが改正される前は、JAS規格ではジャムは糖度65%以上となっていた。それが、健康志向の高まりなどで低糖なものが求められるようになり、実際に65%未満のジャムが主流になってきたことから、現状に合わせる形でJASが改正され、現在の規格では40%以上ということになっている。

しかし、40%の糖度では普通には硬度が求められる水準に満たないことから、様々な添加物が用いられており、どっちが健康なんだかわからないような状況もある。

ところで、糖度が65%のジャムというと、水分が30%程度だとすると、水分と糖で95%なのでその内実はほとんど砂糖水である。ペクチン、酸、そして種々の成分はほとんど1%未満の微量成分ということになる。つまり、どんな種類のジャムであれ、その味はほとんど甘いだけのものだ。だが、酸味や苦みは舌がより鋭敏に感じるので、実はそういう微量成分が大事である。さらに、味覚には直接関与しない香り成分がジャムの味を左右していて、ジャムの味というのは、1%未満の成分をどう調整するかという非常に微妙なところで決まっているのである。

■ジュースとペクチン

最後に、ペクチンのもう一つの重要な側面について触れる。それは、果汁の清澄化である。リンゴの果汁を搾ると白濁したジュースができるが、市販のリンゴジュースは澄んでいて白濁していないものがある。これはどうやって清澄化しているのだろうか。

実はこれがペクチンの操作による。ペクチンはコロイドとして果汁中に存在しているから溶液が濁ったように見えるが、このペクチンを分解してやると透き通ったジュースができるわけだ。ではどうやって分解するかということになる。

加熱してもペクチンを分解することができるが、高温が必要なのでジュースが変質してしまう。低温でペクチンを分解するにはどうしたらよいか。

さて、最初の方で触れたように、植物内でペクチンは生成だけでなく分解もされるので、このため植物内にはペクチンの分解酵素がある。この分解酵素を用いてペクチンを分解すればジュースを清澄化することができるのである。

具体的には、工業的にはポリガラクツロナーゼというものが使われている。植物内にもあるが、工業的には微生物培養したものが使用されている。その他、ペクチンの分解酵素にはいろいろなものがあり、これらを調整することによって食品の食感を変えることもできるのである。例えば、粘度の高い果汁に分解酵素を作用させることで、サラッとしたジュースを作ることができる、といった具合である。

ペクチンは、食品の味ではなくて食感を左右するという面白い物質である。しかし、構造が複雑であることや、結晶化などによって純粋なペクチニン酸を取り出せないこともあって、それがどのように食感を左右し、そしてそれをどうやって人間が操作できるか、ということがまだまだ各論レベルではわかっていない。とはいえ、最終的に美味しい食品ができればその化学変化などはある意味どうでもいい。無添加で低糖なジャムを身の回りの食材だけを使って作るにはどうしたらよいのか、そういう単純なことを知るために、少しでも役立ったらよいのである。

2013年6月11日火曜日

大木場山神のナギの大木

大浦の大木場山神(やまんかん)、いわゆる大山祇神社に、大浦で唯一のナギ(梛)の大木があるというので見に行った。

ナギということでてっきり御神木だと思っていたが、御神木っぽいものは樹齢200年ほどのクス(たぶん)の大木で、ナギは見当たらない。よく探してみるとクスの陰に控えめにあるのがナギの木だ。

大木と聞いていたが、意外に周囲は太くない。でも樹高は高くて、多分20mくらいある。樹齢は(あまり大きなナギを見たことがないので)全く不明だが、生長の遅いナギのことであるからゆうに100年以上はあるのだろう。

ナギというと、九州には自生していたのではという説もあるが基本的には人が植えないと単体で存在する植物ではないので、100年か200年、あるいはもっと前に誰かがここに植えたということになる。

ナギを御神木とするのは熊野信仰が有名だ。熊野速玉大社(和歌山県)には樹齢1000年を越えるナギがあって、今でも信仰を集める。江戸時代には熊野詣でのお土産に神社がナギの葉を配っていたとか、勧進(寄附集め)にナギの葉を配ったという話もあり、神聖な近寄りがたい樹、というより、その葉が親しまれる身近な樹である。

というのも、ナギは針葉樹ながらまるで広葉樹のような幅広の葉を持っている変わった植物で、非常に独特なその葉は一見してナギと分かるアイコンだ。ナギ以外にこんな葉を持つ植物を私は知らない。

さらに葉の繊維がとても丈夫なことから、男女の結びつきを強めるという信仰もあり、今では縁結びのアイテムにもなっている。また少し眉唾だが、ナギ=凪ぎと通じることから航海安全を願う漁民もこれを崇めたともいう。

とまあ、ナギという植物は古来より信仰を集め、また実用性もあった樹だけにネット上にも様々な情報がある。興味のある向きは検索すれば沢山出てくるので調べて見て欲しい。

さて、このナギがどうして大木場山神にあるのだろうか? 昔のことなので実際のところは分からないが、かつて山伏たちが熊野信仰を積極的に広めていた折、ナギの実か苗を持ってこのあたりを回っていたのではないかと想像する。それで、山伏からもらったそれを神社に植えたのだと思う。

このあたりだと、未見だが加世田の益山八幡神社にもナギの大木があるという。もしかしてこれは同じ山伏が配ったものなのではないか、だとすれば話が出来すぎだが、向こうのナギも特に御神木ではないらしい。「これはありがたいものだから」という山伏に勧められて半信半疑で植えたナギ、というのが、クスの陰に追いやられている、特に尊崇も受けていない(らしい)大木場山神のあのナギの真相ではないかと思っている。

2013年5月1日水曜日

大浦町には、世界最北限のマングローブ自生地があります

南さつま市大浦町には、なんとマングローブがある。大浦川の河口にあるメヒルギの群落である。

なおマングローブとは、汽水域に成立する森林の総称。様々な樹種で構成されるが、その中でもメヒルギは耐寒性が強く、最も北で自生する種類である。

このメヒルギは、自生の北限がこの大浦町と鹿児島市の喜入ということになっていて、特に喜入の方は国の天然記念物に指定されている。

ところで、この喜入と大浦のメヒルギは、世界的にもマングローブの自生の北限とされていて、さらに南限(つまり南半球で南極に近い方の極限)まで含めて、今発見されているものの中では赤道から最も遠いマングローブなのだ。

では、どうして世界的にも北限という特殊なマングローブが喜入と大浦にあるのだろうか? ここは、緯度に比してそんなに暖かいところなのだろうか?

実は、喜入のメヒルギは正確には自生ではなく、人為的な移植によるものと考えられている。薩摩藩の琉球出兵の折、喜入の領主肝付兼篤が琉球から持ち帰って植えたものとする言い伝えがあるのだという。事実、喜入のメヒルギの系統を分析すると、種子島や屋久島のものとは遠縁で、むしろ沖縄のものと近縁らしい。

では、大浦町のメヒルギはどうなのだろうか? ローカルな話で恐縮だが、蛭子島(という陸続きの小島が河口にあるのです)のメヒルギは、かつてメヒルギの生育環境が悪化し枯死が心配された時に、喜入から移植したもので、実は天然の群落ではない。

問題は、もっと上流側のメヒルギだ。これは大浦川の護岸工事の際に一度群落を取り除き、護岸工事を終えてから種子島から取り寄せたメヒルギとあわせて植え直したものらしいから(※)、そういう意味では人工的な群落だが、護岸工事の前は自生だったのではなかろうか?

古い資料を見てみても、護岸工事前のメヒルギが人工的に移植されたものという話は見当たらない。また、大浦川のメヒルギ群落は、メヒルギが貴重なものということが分かってから保護し増やしたもので、保護する前はわずか1株しかなかったという話もある。ここが逆に本物っぽいところで、もしかしたら、大浦川は正真正銘のメヒルギの自生北限なのかもしれない。

では、人為的な群落と思しき喜入のメヒルギが国の天然記念物に指定されていて、もしかしたら天然かもしれない大浦のメヒルギが「市」の天然記念物という落差があるのはどうしてだろうか。これは、天然記念物という制度ができた大正時代、植物に関しては中野治房という学者が全国を調査し天然記念物に指定すべきものを建白したのだが、彼が「大浦川河口のものはその数甚だ少なく到底喜入村のものに及ばず」と一蹴したことによる。

中野は喜入のメヒルギ群落が人為的なものであることは「掩うべからざる事実なるが如し」としながらも、その規模と保存のしやすさなどから喜入のメヒルギを天然記念物にふさわしいものとして推したのだった。しかしながら現代では、メヒルギは静岡県の伊豆にも植栽されており、天然でなければこちらが北限の群落になる。そういう意味では喜入のメヒルギの価値が揺らいでいる状況だ。

というわけで、大浦川のメヒルギが本当に天然のものなのか、ちゃんと調査してみるとよいと思う(私が知らないだけで既にやっているかもしれないが)。喜入のメヒルギ群落が人為的なものということで、自生の北限は種子島に変更すべき、という主張もあるらしいが、種子島に変更してしまう前に、大浦のメヒルギの価値を明確化してはどうだろうか。

※ ここら辺の経緯が茫洋としていて摑めない。不正確だったらすいません。

【参考】
薩摩半島(鹿児島県)で「自生最北限のマングローブ」の調査活動を実施」マングローブの保護をしている国際的なNPOが大浦にもきて調査していたようだ。写真があるのでわかりやすい。
→(2016.6.19追記)リンク切れ。だが同団体のWEBサイトに大浦川のマングローブの写真がたくさん掲載されている。「鹿児島・沖縄マングローブ探検|鹿児島

【参考文献】
史蹟名勝天然紀念物調査報告. 第8号」1919年、内務省編(中野治房報告)
大浦町の植物」1973年、浜田 英昭
マングローブ林の林分解析」1979年、中須賀 常雄
種子島阿嶽川・大浦川のマングローブ林について」2013年、寺田仁志 他
"Status and distribution of mangrove forests of the world using earth observation satellite data” 2010年、C. Giri他

2013年4月23日火曜日

ビロウという奥深い植物

南薩に越してきてから、ビロウの木をよく見かけるので気になっていた。田中一村の「ビロウとアカショウビン」で有名な、あのビロウ(蒲葵)である。

ヤシ科の植物というのは大体が不思議な形をしているが、ビロウは細かく切り込まれた長い葉が垂れ下がっている様子が魁偉であり、見た目のインパクトが大きい。

笠沙美術館の前には沖秋目島という無人島が横たわっているが、これも別名枇榔島(ビロウ島)という。おそらくビロウが繁茂していたからそういう名前がついたのだろう。枇榔島という島は鹿児島では志布志佐多にもあるし、宮崎にもある。ビロウ島という地名が各地にあることは、昔の人が、これの繁茂していることを捨てておけない特徴として見た証左に感じられる。

このビロウという植物、調べてみるとなかなか奥深い。

古代、ビロウは神聖視されたと考えられていて、現在でも沖縄では多くの御嶽(ウタキ)の神木となっているし、天皇即位に伴う神事である大嘗祭では、ビロウで葺いた屋根の仮屋(百子帳)が重要な役割を果たす。当然天皇の身近にはビロウは存在していなかったわけで、わざわざ南方からビロウの葉を取り寄せて大嘗祭に使ったのであるが、どうしてこの重要な神事でビロウを使わなくてはならなかったのか、非常に気になるところである。

また、このビロウは古代日本が誇る発明品である「扇」の起源であるとも考えられている。能、舞踊、落語など多くの日本芸能において扇が重要な役割を果たす淵源には、かつてビロウが神聖視された名残では、という説もある。

ところが、今の鹿児島ではこれを神聖視するような姿勢は感じられないし、魁偉な見た目は神聖というより不気味な感じで受け取られているように思う。ありふれていることもあり、特に大事にしなくてはならないものという意識もないだろう。しかし上述のように、少なくともかつては神聖で重要な植物であったのは間違いなく、昔の人がビロウにどのように接したのか、というのは興味深い問題だ。そして同時に、それがいつのまにか特別でない木に零落してしまったのはどうしてか、というのも気になるところである。

先日、「南薩の田舎暮らし」では新たな取り組みとして千日紅のアクセサリーの販売を開始したが、私としてはこのビロウの葉もアクセサリーなどに加工してもらいたいと思っている。とても南っぽさを感じるものであるし、かつては神聖なものであったわけで、もし作れたら言われも面白く、ユニークなものになるはずだ。

【参考文献】
扇―性と古代信仰』1970年、吉野 裕子

2013年3月14日木曜日

カタバミを食べる文化

庭のカタバミ(片喰)が満開である。

当然植えたものではなくて、勝手に生えてきたもの。地下茎で広がっていくので増殖力が強く、いわゆる難防除雑草。

しかしうちの庭の場合、別段何も栽培していないスペース(スモモの樹下)に生えているので特に駆除する必要もない。むしろきれいに花の絨毯ができて有り難いと思っている。

このカタバミ、花も葉も食べることができる草で、葉は噛むと酸っぱくてピリッとした刺激的な味がする。よく「レモンの様な」と形容されるが、風味としてはレモンというより香草のような感じである。使い方も香草と同じく、魚やサラダに合わせると美味いらしい。また、これを5〜10分煮出して砂糖を入れるとレモネードのような飲み物になるという。これはまだ試していないが、いずれやってみたいと思う。

カタバミはビタミンCが豊富だということからか、英語圏やインドでは「食べられる雑草」として認知されているらしく、検索するとけっこうレシピが出てくる。一方、日本ではこれが食べられる草である記述も少ないし、具体的なレシピとなるとほとんど見かけない。 それどころか、カタバミはシュウ酸(蓚酸)を多く含むので食べると体に悪い、などと書いてある。だが実際は、健康に影響するほど大量に食べる草ではないので、それが理由で食べないわけでもないような気がする。

ところでカタバミは五大紋の一つのモチーフでもある。それくらい身近な草であったのに、なぜ日本ではカタバミを食べる文化が発生しなかったのだろうか? 刺激的な香草は日本料理には好まれなかったから、というのがありそうなことだ。だがそうだとすると、家庭料理もかなり洋食化しているので、もしかするとカタバミが普通の食卓に上る日も近いのかもしれない(既にレストランなどでは香草として使っているところがあるようだが、どうやって調達しているのだろう?)。

2012年9月10日月曜日

一品種のスーパーマーケット:四角豆

ようやく四角豆が収穫できるようになった。

四角豆は、本土ではあまりなじみがないが、沖縄料理では「うりずん」とか「シカクマーミー」と言われて親しみのある食材。切り口が四角なので四角豆の呼び名がある。

原産はニューギニアで、耐暑性に優れ赤道直下の気候でもよく育つ上、大豆と同様タンパク質やビタミンが豊富で栄養素に富むことから、熱帯の国々ではメジャーな食材らしい。さらに、害虫や病気も深刻な被害を及ぼすことはなく、無農薬での栽培が容易だ。

しかも、英語で俗に「one species supermarket(一品種のスーパーマーケット)」というように、豆のみならず、根、葉、花など茎を除く植物体全てが可食で、いろいろな利用が可能である。特に根はイモ状になり、ジャガイモに似た味がして豆よりうまいらしい。葉は熱帯植物としては最高レベルのビタミンAを有するし、種を乾燥させるとコーヒーのような飲み物になるということだ。

豆は、若いサヤを食べるのだが、味を楽しむというよりパキッとした歯ごたえを楽しむ野菜で、あっさりとしていて味付けしやすいので、サラダなどにはちょうどいいと思う。一番美味しいのは天ぷらで、パキッとした四角豆をカリッと揚げれば最高だ。

栽培は容易と聞いていたが、今年は雨が異常に多かったせいか開花・着果が悪く、本来7月末には収穫可能になる予定が9月までずれ込み、さらに着果量も想定より少なく当てが大きく外れているが、例によって「大浦ふるさと館」で多少売ってみたい。

ちなみに、インターネットで検索すると、四角豆のレシピとしてカレーがけっこう多く出てきた(英語)。まだカレーにして食べてみたことはないが、イケるのだろうか。ちなみに、スライスした四角豆を茹でて冷やして冷やし中華に入れてみたが、麺に絡めて食べるとうまかった。

2012年8月19日日曜日

地味な雑草ヤブラン、実は有用?

ポンカン園の下草払いをしたら、雑草の合間にたくさんのヤブラン属の花が咲いていた。ヤブランにしては小さく、また群落が小規模なのでコヤブランかヒメヤブランだろうか。辞典での知識しかないのでよくわからない。

ヤブランは藪蘭と書くが、ランの仲間ではなくユリの仲間(※1)で、日本全国に自生する可憐な花の野草。斑入りの栽培種もあって園芸として育てている人もいる。しかし、見た目の派手さがなく地味なため、あまり好んで植えられているものではないと思う(もしかしたらこれが人気の地域もあるかもしれないが)。

私のポンカン園でも勝手に生えてきているわけで、さらにそれを時々下草払いしているので全く生長が奮わない。私はこういう何気ない小さな花が好きなので、できればこれを残したいと思うが、下草払機をブンブン振り回している時に、小さな草を保護する心の余裕はない…。

そもそも、林床など光の少ないところでよく育つだけでなく、幅広い気候に対応したヤブラン属は日本ではありふれた雑草で、ほとんど有り難がられていない。特に農業ではそうだろう。

しかしこのヤブラン、150〜200年前に日本から米国に移入されており、米国の特に南西部では被覆植物として非常にメジャーな存在になっている。米国での使われ方は、芝と似ており、芝の生やしにくい場所や歩道との境界などに植えているケースが多いようだ。そのため、ヤブランは英語ではlilyturf(ユリ芝)とかborder grass(境界草)という(※2)。芝よりも手入れの手間が少なく、花も楽しめて、土壌と気候の適応性が大きいということで、ヤブランは公園整備やガーデニングの脇役として重要な地位を占めているのだ。

より身近なはずの日本でそのような使われ方があまり見ないのは不思議だ。私はポンカン園の林床をヤブランにしてしまったら、下草刈りの手間が激減するのではないかと思っているが(※3)、具体的にはどうやって増やすかがちょっと課題だ。ジワジワと拡大させるのは可能だが、ヤブランは実生で増やすのが難しく、確実には株分けで増やすらしいが、これは現実的ではないからだ。

さらについでに書くと、ヤブランの種子は進化的に面白い存在だ。被子植物なのに果実の部分がなくて、黒くてまん丸い、まるで実のような種だけがついている。これは果実を作るエネルギーを節約し、種を果実に擬態させることで、鳥が果実と間違えて食べることを期待しているのではないか、と言われている。具体的にはイヌツゲとかアオツヅラフジの実に似ているというが、全体像が違いすぎるのでこんなのに騙される鳥がいるのか疑問もある…。

以前イネ科植物はほぼ果実を作らないということを書いたのだが、ヤブランの場合は果実を完全に捨て去っていて種は剝きだしであり、被子植物の果実進化の極北ともいうべき存在であると思う。ヤブランは進化的にも面白く、ガーデニングにも有用なのに、ほとんど注目されないのである。ちなみに、その根は大葉麦門冬という漢方薬にもなるらしいのだが。


※1 APG植物分類体系では、ユリ科ではなく、スズラン科またはクサスギカズラ科に分類されており、まだ確定していないものと見受けられる。

※2 細かい話だが、grassは正確にはイネ科の雑草を指すので訳がちょっと不正確…。

※3 カンキツのヤブランによる草生栽培というのは既に試験した人がいるらしいが、その結果は知らない。(『農業技術体系』の8巻に記載があるらしい)

2012年7月21日土曜日

苔庭を目指して、コケ植物を知る

勝手に生えてきた庭の苔
「京都の寺みたいに、庭がコケで覆われたらかっこいいなあ…」と思って、まずコケ植物について勉強することにし、『苔の話―小さな植物の知られざる生態』(秋山弘之著)という本を読んだのだが、コケ植物はなかなか面白い。

まず、コケ植物の著しい特徴は、普通に私たちが見るコケというのは配偶体であるということだ。シダ植物も裸子植物も被子植物も、いわゆる植物体は胞子体である。配偶体というのは精子と卵子(配偶子)を作るため(だけ)の世代をいい、染色体を1セット(n)しか持っていない(胞子体は染色体を2セット(2n)持っている)。コケ植物の場合、これらが受精して作られる胞子体は配偶体に寄生して一時期しか存在しないのだが、普通の植物ではこれが逆で、配偶体こそ胞子体に寄生しているのである。つまり、コケ植物の生活環は、普通の植物と完全に逆転しているのである。

これを読んだ時、私は大きな衝撃を受けた。これまで、(藻類→)コケ植物→シダ植物という具合に直線的かつ連続的な植物の進化を考えていたのだが、コケ植物とシダ植物には非常な断絶があったということになる。コケ植物が維管束と根を獲得してシダ植物になったのではなくて、シダ植物はそれまでと全く違う仕組みで植物体を構築したということになり、俄然シダ植物の起源にも興味が湧いてくるところだ。ちなみに、最初に陸上に進出したのがコケ植物の祖先なのかシダ植物の祖先なのかはまだわかっていないそうである。

さらに、コケ植物は苔類蘚類ツノゴケ類の3系統(綱)で構成され、これらは高い確率で独立系統なのだという。つまり、コケ植物というまとまったグループがあるわけではなくて、3つの植物グループの便宜的な総称が「コケ植物」ということらしい。こうなってくると、「そもそもコケ植物とは何なのか?」ということも曖昧になってくる。

このほかにもびっくりするような事実がたくさんあり、例えば
  • 極寒の極地から熱帯雨林まで広く適応しているだけでなく、実は乾燥にも強く、乾燥した場所に生えているコケの方が多い
  • コケ植物には一般に抗菌性があり、黴が生えることはほとんどない。
  • 地球上の陸地面積の少なくとも1%がミズゴケの湿原で占められているらしい。
といったところだ。

しかし一番びっくりしたのは、「コケ植物の専門家は日本にほんのわずかしかいません。アマチュアの詳しい人を含めても、せいぜい30人程度でしょう」という記載だ。日本には苔庭や苔玉など苔を楽しむ文化もあり、温暖湿潤な気候もあって苔は非常に身近なものなのに、こんなに狭い業界だったなんて…。海外ではどうなんだろう?

ところで、元々の目的だった庭を苔庭にする方法だが、一言でいうと「自然に生えてくるまで1、2年間は毎日水を撒くこと」らしい。苔を植えるなどはよくなく、自然に生えてきた苔を大切にするほうが合理的だということだ。このため、苔が生えやすい環境を整えるのは大事で、常緑樹を植えて日陰を作るとか、肥料を与えず排水をよくするといったことが必要になる。

しかし、1、2年間も毎日水を撒くのは一苦労だし、そもそもその間生えてくる雑草をどうするのかという気になる。苔は生えるところには勝手にどんどん生えてくるのに、生やしたいところに生やすのは結構大変だということがわかった。