2021年1月10日日曜日

秋目からルソンへ——秋目の謎(その3)

(「隠さなければならない繁栄」からの続き)

前回、秋目は「貧乏で疲れた郷」を自称しながら、少なくとも享保年間以降のしばらくの間はかなり豊かだった、と述べた。

では、その前はどうだったのだろう。陸の孤島である秋目は、今と同じ、寂しい港町だったのだろうか。

そのことを考えるにあたって、面白い史跡が秋目に残っている。「持明夫人行館跡」である。場所は、今「がんじん荘」がある所の道向かい。昔は史跡の説明板があったが(看板の写真は過去のもの)、今は何もないので知らない人はわからない。冒頭の写真の場所である。

鹿児島の人は、持明夫人こと「ジメサア」のことを一度は聞いたことがあると思う。鹿児島市立美術館の敷地内にあるおしろいをした石像が「ジメサア」と呼ばれて女性の守り神みたいに扱われ、化粧の塗り直しをするのが報道される。

「ジメサア」とは「持明様」が訛った呼び方で(一部に「持明院様」とする説があるが「院」をつけるのは誤解だと思う)、持明様こと持明夫人は島津家久(忠恒)の室(正妻)、島津亀寿(かめじゅ:1571-1630)のことである。

秋目には、この持明夫人が逗留した屋敷(行館)があったというのである。なぜこんな辺鄙なところに持明夫人は来たのだろうか。どういう意味があったのだろう。

通説では、持明夫人がここに来たのは、不仲だった夫家久と離れ、気晴らしをするためだったという。秋目には持明夫人がそこで納涼したという「持明夫人納涼石」なるものも残っている。確かに今の秋目の辺鄙な様子を考えると、ここは夫と離れて気晴らしするにはよいところだ。まるで別の国に逃げてきたような気分になるかもしれない。だが当時からそうだったのだろうか。ここはただの寂しい港町だったのか…?

そんな、当時の秋目を考える上で興味深い記事が『旧記雑録』という資料にある。

「慶長9年(1604)、秋目から呂宋(ルソン)へ小田平右衛門という人の船が出航し、慶長11年(1606)に片浦に帰航した」というのがそれだ。 

ルソンとは、言うまでもなくフィリピンにある最大の島である。秋目から、はるばるルソンまで貿易に行っていたというのだ。この記事だけを見れば、この頃の秋目は寂しい港町どころではなく、国際貿易港だった、ということになるだろう。

ただ、話はそれほど単純ではない。実は、ルソンへの渡航というのは特殊な意味合いがある。この記事をさらに理解するために、ちょっと長くなるが、当時の対外関係や国際貿易についておさらいしてみよう。

話は時代を200年ほど遡って、日明貿易から始めなくてはならない。足利義満は「日本国王」として日明間に国交を開き、公式には長く途絶えていた大陸との関係を再建した。日本は明の冊封体制に組み込まれ、定期的に朝貢を行うことになる。

朝貢は、もちろんいろいろな贈り物を献上する。だが明からはその返礼として日本にとってはそれ以上に価値ある品が下賜されるため、これは実質的に官営貿易と同じ意味があった。こうして日本は日明貿易の時代を迎えた。何しろ明と日本は互いに貿易の必要性が大きかったのである。

日明貿易の主役となったのは、大坂の堺の商人と結んだ細川氏と、筑前博多商人と結んだ大内氏であったが、やがて両者は対立するようになって、細川氏の貿易船は北九州を経由しないルートを取るようになった。それが、南九州をぐるっと経由して東シナ海を渡るルートであったため、島津氏はその警護を担当するようになり、また次第に貿易の仲介を行うようになった。

大内氏と細川氏の対立は明の寧波にまで持ち込まれ、1523年、「寧波の乱」という騒動を起こしてしまう。これによって明との関係が冷え込み、日明貿易は途絶する。そこで日明間の国交回復のためにキーマンになったのが島津氏である。というのは、島津氏は琉球と国交がある。そして琉球は明と国交がある(冊封体制に入っている)、ということは、島津氏→琉球→明という形で国書をやりとりすることができるのである。島津氏はこのハブ的な立場を利用して、貿易立国として発展していった。

そして、この時代、さらに大きな商機が訪れていた。南蛮との交易である。スペインのフラシスコ・ザビエルが鹿児島に来るのが1549年。16世紀には、たくさんの南蛮人、すなわちスペイン・ポルトガルの商人が日本に訪れ、物珍しいものをもたらした。彼らが携えていた最新の道具や科学技術はそれはそれで日本に大きな影響を与えていくが、貿易において重要なのは、東南アジアを拠点にした貿易体制が出来上がったことだった。

つまり、スペインやポルトガルは東南アジアをハブにして中国や日本と貿易を行ったのである。ということは日本から見ると、東南アジアを通じて中国の商品を手に入れられるということになる。日明貿易が再開されなくても、南蛮貿易が中国へのパイプになるのだ。しかもややこしい朝貢の手続きなどなしに。

こうして、日本は「朱印船貿易」の時代を迎える。幕府(や権力者)から与えられる貿易の許可状が「朱印状」(御朱印)である。「日明貿易」の場合は、実質的には大内氏や細川氏の私貿易の性格があったが、形の上ではあくまでも国家による通商であった。ところが「朱印船貿易」は、圧倒的に私貿易の性格が強い。国家は貿易の許可(朱印状)を与えるだけで、あとは商人や大名の自己責任に任されていた。

こうなると、貿易がもたらす莫大な利益のために大勝負を打つ者が出てくる。ちょうどスパイスを求めてアメリカ大陸を発見したコロンブス、地球を一周したマゼランのように。そんな冒険人的な商人の代表が、伝説的な堺の豪商、呂宋助左右衛門こと納屋(なや)助左右衛門である。

正確な事績は不明ながら、彼は安土桃山時代にルソンに渡海して貿易商となり、巨万の富を得、秀吉の保護を得て活躍したらしい。ともかくこの時代、一財産築くことを夢見て南の海に漕ぎ出していった者は多いのである。

そしてこのために、日本の造船技術は長足の進歩を遂げる。日本は四方を海に囲まれているにもかかわらず古来から造船技術が未熟で、操舵が不完全で難破も多く、しかも大船を作ることができなかった。それがこの時代、ヨーロッパ人たちの船やその航海技術を学ぶことで、乗員数200〜300人程度の大船を製造することが可能になったのである。

こうして、日本にとっての「大航海時代」が訪れた。 多くの日本人がアジア各地の交易都市へ赴き、アモイ(中国・福建省)、バンデン王国(インドネシア)、アユタヤ(タイ)、ホイアン(ベトナム)などには日本人街も生まれるのである。そんな中でも、ルソン島マニラ(スペイン領)の日本人街は最大規模のもので、16世紀から17世紀にかけては3000人もの日本人が居住していたという。

呂宋助左右衛門も、ルソンでの貿易で財をなしたというし、1604年に秋目から出航したのもルソン往きの船であった。この頃のルソンと交易するというのはどういうことだったのだろうか。

実は、ルソンには莫大な利益を生む商品があった。それが「ルソン壺」(「真壺」ともいう)である。 「ルソン壺」とは陶製の耳付きの壺で、「ルソン」と名がついているが実は南中国からルソンに輸出された実用品の廉価な壺だった。この別に高級品ではない地味な壺が侘び寂びを旨とした茶人たちに評価され、日本に持ってこられると茶器としてとんでもなく高価な宝物に化けたのである。

現地では極めて安く手に入り、超高価で売れる「ルソン壺」はまさに一攫千金の夢が詰まった壺だった。こういうものがルソン島にあるとなると、まさに「蟻が群がる」(ペドロ・バウティスタ第4号文書)ように日本人がルソン島に押し寄せたのも無理はない。

そして薩摩は、当然ながらこの南蛮貿易に地の利があった。中継点としての琉球との国交もあるし、何より日本国土の南端で南蛮世界には一番近いのである。さらに、薩摩人たちは「倭寇」として非合法の貿易で東シナ海を縦横に駆け回っているものも多くあった。薩摩人たちにとって、東南アジアはいつでも行ける土地と認識されていたに違いない。マニラの日本人街には、多くの薩摩人がいただろう。

ところが、ルソン壺交易はやがて大きな転換点を迎える。豊臣秀吉が、ルソン壺を独占する姿勢を見せたのである。先述の通り、ルソン壺は南中国からルソンに輸出された品だったのであるが、実はこの時代には既にその輸出は停止しており、南中国のどこからやってきたのか不明になっていた。現地の人はこれを生活雑器として使っていたが、日本人がルソン壺を高く買い上げるので手近にある品は根こそぎ日本人に売った。こうなると供給はもうないのだから、ルソン壺は消滅する運命にあった。

しかも茶人たちは、ルソン壺だったらなんでもよいというのではなく、その美意識から傑作と駄作を峻別していたから、ルソン壺の名品は超貴重品だった。こういうものを、権力者が独占しようとするのも無理はない。秀吉はルソン壺の輸入を統制下に置き、ルソン壺を買い占めたものは厳罰に処するという非常に強烈な意志を持って独占を図るのである。

そして、秀吉の没後を引き継いだ徳川家康もこの姿勢を踏襲。ルソン壺の交易は並みの大名には決して許されない、非常にデリケートな交易品となっていく。

具体的には、徳川幕府はルソンへの渡航の「朱印状」を大名には与えていない(唯一の例外は平戸藩の松浦鎮信)。カンボジアやアユタヤ(タイ)、安南(ベトナム)といった東南アジアの他の国には大名へも「朱印状」を与えているのに、ルソンだけは特別なのだ。ルソン渡航が許可されたのは、大名の配下にない独立の有力商人たちにだった。

もちろん島津氏にもルソン渡航の「朱印状」は発給されていない。当時の藩主、島津家久にとってルソンへの「朱印状」は喉から手が出るほど欲しいもので、家康に対してたびたび公布願いを出し、さらには神仏への祈願すら行っている。それでも遂に、島津家久にはルソン渡航が認められることはなかった。

さて、ここでようやく秋目の話に戻ってくる。家久がルソン渡航の「朱印状」をもらっていないというのに、なぜ秋目からルソン往きの船が出航できたのだろうか。

そもそも、薩摩藩が南蛮貿易の拠点港としたのは山川港である。持明夫人の父、島津義久(家久の伯父)が頴娃氏から領主権を剥奪して山川港を我がものとしたのが天正11年(1583)。藩営の貿易船であれば、秋目ではなく山川から出発するのが自然なのだ。

答えはただ一つ。秋目から出航したこの船は、藩営の貿易船ではなくて、私船だったのである。

改めて『旧記雑録』の該当箇所の原文を引用しよう(用字を現代のものに改めた)。

去々年秋目呂宋へ罷渡候小田平右衛門尉舟、頃片浦へ帰朝仕候、勿論、御朱印船ニて候間、此方よりハかもいなく候
(慶長11年(1606)6月5日付 島津家久宛、島津義弘書状)
『旧記雑録後編』巻60、4、215号(鹿児島県資料)

義弘から家久への書状で、「一昨年、秋目から呂宋へ渡った小田平右衛門の舟が、この頃片浦に帰朝した。もちろん御朱印船なので、こちらからはどうすることもできない」という内容である(※「かもいなく」は「かいもなく」の誤り?)。

書状中に明確なように、藩とは全く別個に「朱印状」を得て、秋目から呂宋へ渡っていた商人がいるのである。しかも、その存在を苦々しく思いながらも、島津義弘も家久も、それをどうすることもできない。

なお、この船と同船かどうか不明だが、同様の事案が家久から義弘への書状でも触れられている。該当箇所を引用する。

次従秋目致出船候渡唐船帰朝候哉、直ニ被下御朱印たる舟之由候間、其段山駿州迄申置候
(慶長11年(1606)6月24日付 島津義弘宛、島津家久書状)
『旧記雑録後編』巻60、4、232号(鹿児島県資料)

これは「次に、秋目から中国に渡った船については帰朝しました。朱印状を直接発給された船であるため、山口駿河守直友(幕臣)に申し伝えて置きました」という内容である。

ここで「朱印状を直接発給された(直に御朱印下されたる)」といっているのは、これが島津氏(=薩摩藩)を素通りして、江戸幕府から直接もらったものであるためで、だからこそ島津氏はこの船と無関係であるにもかかわらず、幕臣に報告する義務があるのである。

というわけで、この時期の秋目港は、どういうわけか島津氏の支配の及ばない場所で、しかもなぜか独自に江戸幕府から「朱印状」をもらう力がある商人がいる場所であった。さらには、島津氏の直轄港である山川港はどうしてもルソン交易に参画できないのに、秋目からはルソン往きの船が出ていた。秋目とは、一体全体、どういう港だったというのか。

そしてこの時期、秋目を私領地として領有していたのが、持明夫人こと島津亀寿だったのである。「持明夫人行館」が、不仲だった夫家久と離れ、気晴らしをするための場所であったとはありそうもないことだ。ではここで何が行われていたのか?

(つづく)

【参考文献】
「初期徳川政権の貿易統制と島津氏の動向」2006年、上原兼善
「ルソン壺交易と日比通交」2016年、伊川健二
海洋国家薩摩』2011年、徳永和喜
火縄銃から黒船まで—江戸時代技術史』1970年、奥村正二
『大ザビエル展 図録』1999年
「歴史講座「戦国島津」第8回「16世紀前半の南九州海域と対外関係」」2020年、新名一仁(ビデオ及びレジュメ)

2 件のコメント:

  1. 過去記事まで遡って1,2,3話まとめて読みました。
    面白い!
    秋目が国際港だったという壮大な史実に興奮します。
    次回記事を楽しみにしています。

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    1. マツケンさん、コメントありがとうございます。
      こんな長くて読みにくい記事を読んでいただき恐縮です!

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