2016年10月10日月曜日

オリンピック、万博、高速鉄道

先日、菅官房長官から、2018年が明治維新から150年の節目に当たるということで政府として記念事業を実施するとの発表があった。

【参考】官房長官 明治維新から150年で事業検討…閣僚に要請(毎日新聞)

私も明治維新とは縁が深い鹿児島の住人であるし、記念事業の内容には、明治期に関する資料の収集・整理、デジタル化の推進なども計画されているそうで、喜ばしく思う部分もある。しかし、この建国記念行事は、戦中に行われた「紀元2600年記念行事」と重なるところがあって一抹の不安を覚える。

紀元2600年記念行事」とは、1940年に実施された国民的な祝賀行事で、この年が神武天皇の即位より2600年に当たる(とされた)ことから計画されたものだが、要するに国威発揚のために行われたものである。内容も、今から見ると歴史的・考古学的事実を無視した無意味な顕彰碑が多く建立されるなど真面目さに欠き、ただ「大和民族の優秀さ」だけを称揚する非常に無残なものだったと思う。

もちろん来るべき明治維新150年の記念事業は、この戦中の大規模祝賀行事とは社会情勢も目的も、規模も水準も異なるものであることは明白だが、「明治の精神に学び、日本の強みを再認識することは極めて重要だ」(菅官房長官)というようなコメントからは、国威発揚という点では似たものを感じてしまう。

でもそれ以上に、今の日本の状況は、戦前・戦中と重なって見える。

紀元2600年記念事業では、東京オリンピック(夏季)、札幌オリンピック(冬期)、万博が招致され、なんと開催が決定していた。これらは、戦況の悪化により実際には開催されず返上されることになるが、日本は1940年の時点で、アジア初のオリンピックと万博の招致に成功していたのである。

さらには、記念事業の一環ではないが、この頃「弾丸列車」というものが計画されていた。これは朝鮮や満州などとの物流を改善するために東京−下関間に高速鉄道を敷設するというもので、太平洋戦争の戦線が拡大するにつれ順次計画が延伸され、朝鮮・満州のみならずシンガポールまで鉄道を繋げるという壮大な鉄道構想まで膨らんでいた。

こちらも戦況の悪化と敗戦によって事業は途中で頓挫し、そのものは実現することはなかったが、この高速鉄道計画は違った形になって戦後の「新幹線」へと繋がっていく。

翻って今の時代を見てみると、2020年には再びの東京オリンピックが開催予定であり、2025年には大阪万博を招致しようと活動が行われている。 さらには、3兆円もかけて東京−大阪間にリニア鉄道を敷設しようという大計画が進行中である。何か、戦中と似ていないか。

当時の社会の趨勢も、今と似ている。大正時代には急激な経済成長・グローバル化の時代があって、その後世界恐慌などで景気が減速、戦争とその遂行のために物資を統制してなおさら景気が悪くなって日本は長期不況に陥っていた。東京オリンピックや万博というものは、そういう停滞感を打破するためにも計画されたものだった。高度経済成長期からバブル景気を経て、その後の長期不況に陥っている現代日本が東京オリンピックや万博に頼るのも全く同じ心境であろう。

リニア鉄道と弾丸列車は同列には比較できないが(というは弾丸列車は需要に基づいて計画されたもので、リニア鉄道はほぼ需要を無視した事業だから)、現代に高速鉄道計画がまた動き出しているのは歴史の妙と言わざるをえない。

ここまで読んで、読者の方は思うかもしれない。「オリンピックも万博も、新幹線だって戦後に実現したもので、ことさら戦中との類似性を取り上げるのはおかしい」と。確かに、東京オリンピックと新幹線開通は戦後復興の、万博も経済発展の象徴としての意味を持つ。オリンピックや万博、高速鉄道を、不況期の苦し紛れの公共事業としてだけ見るのは公平な見方とは言えない。

しかし戦後に行われた東京オリンピックや万博ですら、景気と無関係には考えられない。日本では、余剰労働力の吸収力がある産業がほぼ土木・建設業に限られることから、経済政策を考える上で、公共事業に大きなウエイトが置かれることはやむを得ないのである。

そのおかげで、日本の土建業の施工規模は巨大なものとなっており、少し古い統計だが「1994年の日本のコンクリート生産量は合計9160トンで、アメリカは7790トンだった。面積当たりで比較すると、日本のコンクリート使用量はアメリカの約30倍になる」というくらいの現状だ(参考文献 アレックス・カー『犬と鬼』)。

民主党政権下では「コンクリートから人へ」というかけ声の下、この傾向を是正する方針が示されたが、別段「人」への投資を増やすということもなく、単に「コンクリート」を削るだけのマイナスの政策であったためうまくいかず、東日本大震災によって土木業界の重要性が再確認されたこともあって、今になって大規模公共事業が再び安易に肯定される雰囲気になってきている。

しかしながら、大規模公共事業は社会に非常なる禍根を残すものでもある。というのは、大きな工事をする時にはたくさんの人間が必要になるが、工事が終わってしまえばその人間は不要になるからだ。戦後の東京オリンピックや万博の場合もそうだった。これらの開催のために、工事が急ピッチで進められ、たくさんの人間が東京や大阪に集められた。「国の威信」をかけた事業だからということで工期が最優先となり安全対策は軽視され、多くの人間が犠牲になった。しかし会場やインフラが完成してみると、それらの労働者は全く不要な人間になってしまったのである。

こうして出現・拡大したのが、東京の山谷、大阪のあいりん地区といったドヤ街、すなわちスラム街だったのである。都合よく集められ、そして捨てられた人々の行き着くところがこうした街だった。さらには、こうした街に蟠(わだかま)った余剰労働力が、次の大規模開発を支え、さらに人が集められるという循環が起きた。今、またこうした街に人々が都合よく集められようとしていないか。

私自身は、公共工事には否定的ではない。日本はなにしろ雨の多い土地柄であるので、舗装されていない道路はちょっとの坂でも梅雨時にはぬかるんで4DWの車でないと通れなくなる。一日に数台の車しか利用しないようなところでもアスファルトで舗装しているのは、一見無駄だがやっぱり必要なことだ。災害が起こった時も、ある程度の遊軍的な土木事業者がいないと復旧が遅れる。狭い国土にたくさんの土建業者が犇(ひし)めいているのは非効率的だとしても、「コンクリート」の使用量が非常識だとしても、やはり土建業は日本の生命線であることも確かなのではないか、と思う。

だが問題は、やり方である。日本が世界一「コンクリート」の使用量が多いのだとしたら、「コンクリート」を使う技術力でも世界一であってほしい。公共事業に頼らざるをえない社会なのだとしたら、世界の国が見習うべき公共事業をする国であってほしい。

公共事業を行う前の事前評価(環境アセスメントや費用対効果の検証)、住民説明や合意形成、環境と調和したデザインや効率的で美しい構造、設計や施工の進め方も公明正大かつスマートに、そして完成後の運用とメンテナンスのノウハウも。こうした公共事業の全てのフェーズにおいて、世界最高水準の仕事が遂行されて欲しいのである。

もちろん、田舎のデコボコ道を舗装するために、世界最高水準の技術を使うというのは、それ自体がある種の無駄である。年度末に予算が余ったときに片手間でやればいいような公共事業もあるだろう。しかし「美しいインフラを作る」、ということは国土保全の上でとても重要であるから、田舎のデコボコ道と忽(ゆるが)せにせず、住民説明や事前評価といったことはいちいちキッチリやって欲しいと思う。

そして、そうしたことをやれる土建業界であるためにとても重要なことがある。それは、コンスタントに仕事があるということだ。オリンピックや万博は、確かに土建業界を活性化する。でもそれはほんのいっときのことである。工事が終わったら、また多くの人間は不要になるのだ。質の高い仕事をするには、そういう業界の構造であってはいけない。細くてもいいから、確実に長期間仕事があるとわかっていれば、正社員を登用できるし、徐々に技術を高めていける。リニア鉄道の建設に3兆円ドカーンと使うより、その3兆円を長く確実性を持って費消していく方が、土建業界の成長に役立つのではないか。

日本の技術力と公共事業の規模を考えると、他の国が「公共事業によって何か作りたい」となったとき、真っ先に日本へと研修に来る、というような国になってもおかしくない。「コンクリート」を扱う技術力だけではない。それの基盤になる社会と人間を扱う技術でも世界最高水準を目指して欲しい。それが日本の土建業界の進むべき道だと私は思う。

軍事国家日本は、景気浮揚・国威発揚のためにオリンピックや万博を安易に利用した。でも今では、同じオリンピックや万博をするのでも、全く違うやり方が可能なはずである。イベントが終わったら大量の人間が不要になってしまうようなやり方をしなくても済むはずだ。建国の記念事業をするのでも、自画自賛と中身のない打ち上げ花火ばかりをするようなみっともない真似をしなくて済むはずなのだ。

そして我々は、無謀な戦いをした先祖よりも、賢くなっているはずである。

私は、そう信じたい。

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