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2016年9月10日土曜日

草を刈る、という単純な観光政策

いつも気にはなっているが、特に夏には気になることがある。

景観のよいところにはびこる、雑木や雑草だ。

この写真は、南さつま市イチオシの観光ルート「南さつま海道八景」の最初の展望所「高崎山展望所」の眺めである。

ここは、(当たり前だが)昔から眺めのよいところで藩政時代には魚見櫓(うおみやぐら)という見張り番がおかれていたほど、高い位置から縹渺と広がる東シナ海を見下ろせる雄大な絶景の地である。

でも、展望所のすぐ前にある雑木と雑草のせいで、その絶景の価値はかなり殺がれてしまっていると言わざるをえない。そしてこういう残念な場所は、高崎山に限らない。

確かに「南さつま海道八景」は、南さつまの自画自賛ではなくて、本当に素晴らしい名勝の地揃いだ。まだ見たことがない人は、一度ドライブしてみたらいい。鹿児島に、こんな圧倒的な景観の続く場所があったのかと驚くはずだ。国道226号線の、高崎山から耳取峠までがそれに当たる。

海側に広がる絶景、また絶景——。ここは日本屈指の眺望を持つ道路だと誇ってよい。

おそらくこれが南さつま市最大の「観光資源」で、事実自転車レースの「ツール・ド・南さつま」やウォーキングイベントの「鑑真の道歩き」といった各種の催しが開催されるなど、行政もこの道の売り出しに頑張っている。

だが、そういうイベントには予算を掛ける一方で、肝心の眺望の維持にはさほど関心がないようである。除草作業をやっていないわけではない。時々は、草払いはされてもいる(雑木の除去はやっているのかいないのかよくわからないが……)。でも私の目から見たら十分ではない。特に夏季には、南薩の雑草の勢いは怖ろしいほどになる。草払いしても、2週間後にはまた伸びてくる。相当頻繁に除草作業をしなくてはならない。でもそれが、ここへ来てくれた人への一番大事な「おもてなし」なんじゃないかと思う。

観光政策というと、最近はいろいろな手法が開発されていて、アニメとの連携とか道の駅の活性化とか、一昔前の観光政策には全然出てこなかったような新しい発想による取組が実際に成功してきている。もちろん、そういうものにも積極的に取り組んでいい。しかし観光の要(かなめ)の価値、ここでは「風景の価値」をしっかりと守り、高める努力をするというのが最も重要な観光政策だと私は思う。別にこれといったことをしなくても、「南さつま海道八景」を訪れた人が、しっかりとその風景を堪能できるように草払いを頻繁化する、それだけで立派な観光政策だ。

もちろん、雑木の除去とか草払いといったものは、簡単そうに見えていろいろ難しいことがある。道沿いの土地が公有地とは限らない。私有地の方が多い。地権者にいちいち許可を得ないといけないし(その上不在地主も多い)、土地の管理は地権者が行うべきものだから、それを行政が代わって行うことの是非もある。

また、私は地元大浦の亀ヶ丘にある「星降る丘展望台」というところの雑木を大胆に伐採して眺望を改善してもらいたいと思っているが、これは坊野間県立自然公園の一部で保護区域なので、たとえ雑木でも伐採には県の許可がいる。でも、そういう許可を地道に取って徐々に伐採を進めることこそ、真面目な観光政策だろう。

このくらいのことは、別に私が声高に求めなくても市役所の担当者は分かっているだろう。でも観光交流課というのは、イベントに次ぐイベントに駆り出され、席の温まる暇もないほどである。こういう地味なことは、ついつい後回しになっていくのが世の常だ。だからこそ、市民の声として言い続けていきたい。つい先日も観光交流課に行って、直接要望してきたところである。

草を刈るなんて単純なことだが、大事なことはいつも単純だ。せっかく来てくれた人が、雑草に邪魔されずに素晴らしい風景を堪能できること。道にゴミが落ちていないこと。街が清潔であること! 結局、観光というのは美しいものに触れるためにやってくるのだから、街も自然も、美しくあらねばならない。そしてそれは観光客だけでなく、現に今ここに住んでいる私たちの生活の質をも向上させる。真の観光政策は、観光客のためだけでなく、住民の暮らしをもよくしていくものであると思う。

2016年8月27日土曜日

自転車を安全に楽しく、そしてかっこよく! 利用できる街へ

南さつま市が、旧加世田市から受け継いだ「自転車によるまちづくり」を再びてこ入れするということで、地域おこし協力隊を募集している、という記事を先日書いた。

【参考】南さつま市が「サイクルツーリズムの実現」で地域おこし協力隊を募集中

実は、その記事にコメントしてくれた方が実際に応募するということがあり、惜しくも採用にはならなかったものの、こうしてブログを通じてご縁を頂けたのはとても有り難いことである。

そういう縁もあり、サイクルツーリズムというのには未だにピンと来ていないのだが(というのは、私自身は自転車に乗って観光したことがないので)、「自転車によるまちづくり」について、しばらくいろいろ考えていた。

市役所の思惑としては、イベントなどにサイクリストたちにたくさん来てもらって、南さつま市を売り込みたい! ということにあるだろう。でも自分としては、「自転車によるまちづくり」を標榜するのであれば、まずは市内にいる自転車に頼らざるを得ない人たち、というのに注目する。つまり、中高生である。

それでいつも思っているのが、自転車通学の中学生のあのみっともないヘルメット! 旧日本軍の鉄兜か! と思うようなダサいデザインの! あれを普通の、かっこいいヘルメットに変えたらどうか、ということだ。

←南さつま市内の中学校では、こういうやつ(画像はこちらのサイトからお借りしました)を共通で使っているが、中学生自身からも大変評判が悪く、このヘルメットを被りたくないから自転車通学はしたくない、というレベルである。たぶん日本の多くの中学校で同じ現象が生じていると思う(都会ではどうなんでしょうか)。

こういう前時代的なヘルメットを使っているから、「ヘルメットはダサい→ヘルメットつけたくない→自転車も乗りたくない」となっているような気がする。中学を卒業するときに、「ようやくこのダサいヘルメットとお別れできる」とホッとした気になる子どもも多そうである。実際、高校に上がってこういうヘルメットをつけて自転車に乗っている子を見たことがない。高校になるとノーヘルが基本になっていないか。

しかし、実際には自転車に乗る上ではヘルメットは大事である。というか安全性が最優先である。こんな、つけたくもないヘルメットをつけさせて、逆教育(ヘルメットはできればつけたくないもの、ということを教えている)している場合ではない。このヘルメット、頭が蒸れるし重いし、機能性もよくない。こんな時代遅れのヘルメットを被らせるより、むしろ、中学校を卒業してもつけたくなるような格好いいヘルメットを支給するべきだ(もちろんデザインも選べるようにすべき)。

だいたい、思春期の若者に、こういうダサいものを強制的に身につけさせるというのは、大げさに言えば一種の虐待であると私は思う。(自分の娘には絶対つけさせたくない!)

というわけで、南さつま市が「自転車によるまちづくり」を掲げるのであれば、まず、自転車に頼らざるを得ない中学生が、気持ちよく自転車通学できるよう、学校指定のヘルメットを機能的でカッコイイものに変えるべきだ。そして、自転車に乗るときはヘルメットをつける方がクールである、ということを認知させるべきだ(中学校の先生自体が分かっていないような気がする)。

しかも実は、ダサい鉄兜のヘルメットと、今ドキの普通にクールなヘルメットは、(エントリーモデルなら)価格的にもほとんど変わらないし、やらない理由がない。これをやれば、「自転車によるまちづくり」が本当に実のあるものになるし、全国的にも注目されるのではなかろうか。ぜひ検討して欲しい。

それから、自分が自転車でどこかへ出かけて行く時のことを考えると、結局キモになるのは自転車の運搬である。今南さつま市がやろうとしている「サイクルツーリズム」だとこれがとても重要になるだろう。つまり、結局は車で観光地まで自転車を運んでこなくてはならず、車が拠点になる。でもそれでいいんだろうか。

私は、一度野間池まで自転車で行ってみたいなあと思っているが、行きはいいとしても帰りは疲れるからイヤである。だから自転車で行って、バスで帰って来られたら便利だ。でも、バスに自転車を乗せられるのかがよくわからない。

中学生や高校生なんかも、バスで南さつま中心部(加世田)に行くときに、自転車をバスに乗せられたら行動範囲が広がるので喜ぶと思う。

というわけで、南さつま市内を走るバス(路線バスとコミュニティバス(つわちゃんバス))は、全部自転車と一緒に乗っても構わないです! ということにしたらとてもいいと思う。全路線ほぼ利用者が低迷しているので、特に設備をいれなくてもできることだ。

ついでに言うと、路線バスもコミュニティバスも、詳細な時刻表が市のWEBサイトには掲載されているが、バス路線というのは地元住民以外にはかなりわかりにくいもので、観光にはほぼ使えないものである。こういう詳細な時刻表も、地元民でないと読み解けない。それにそもそも便数が少ないので、実際観光客が利用できるかというと怪しい。でも時々は使いたい人というのがいる。

例えば、昨年私が開催したイベント「海の見える美術館で珈琲を飲む会」に来てくれたあるお客さんは、鹿児島市内からバスで来たそうで、5時間もかかったそうである(加世田まではすぐ来られるが、そこから会場の美術館までが便数がない)。

田舎にいると「自家用車を持っている人以外は相手にしなくてよろしい」みたいな態度になりがちだが、観光をする上ではやっぱり公共の交通機関が基本だ。電車が通っていない南さつま市は、タダでさえそこに負い目があるわけだから、せめてバスくらいわかりやすく使えるようにして欲しい。

具体的には、(私も詳しくないので見当外れかもしれないが)ナビタイムのような時刻表検索サイトにコミュニティバスの時刻表をちゃんと提出し、スマホで検索できるようにするくらいのことはしたらいい。しかもそれが、先述のように自転車も積めるということだったら、これで喜ぶ人がいるんじゃないかと思う。「サイクルツーリズム」で南さつまに来るような人は、自転車で長距離を移動するのでバスなんか使わないと思うかもしれないが、自転車がパンクしたり、自分が負傷した時にはバスで帰りたくなるはずなので、やっぱり公共の交通機関を使えるという安心感は欲しいはずだ。

そもそも、公共政策である以上、たとえ観光であったとしても、ごく一部の「サイクリスト」を相手にすべきではなく、最も弱い立場にある人に裨益する形で政策を考えなければならないと私は思う。もちろん観光客向けの、打ち上げ花火的なイベントもあっていい。でも街はまずは住民のものである。住民が、自転車を安全に楽しく、そしてかっこよく! 利用できる街になることが、「自転車によるまちづくり」の目標ではないだろうか。そしてそれは結局、観光で南さつま市を訪れた「サイクリスト」の利益にもなるはずだ。

【情報】
秋に行われる南さつま市の自転車の一大イベント「ツール・ド・南さつま」が現在参加者を募集中。受付は8月31日まで。

2016年1月13日水曜日

「風景」について

こちらへ越してきてから、風景のことをよく考えるようになった。

南さつま市に地域資源と呼ばれるものはたくさんあるが、その中でも一番すごいのは間違いなく景観である。国道226号線沿いの「南さつま海道八景」、金峰の「京田海岸」、そして大浦の「亀ヶ丘」。こういう場所の景観は、鹿児島の本土では有数だし、全国的に見ても誇れるものだと思う。

だから、地域の発展のことを考えると、この風景という地域資源を活かそう! という話になっていく。私自身、この風景をもっと活かせないかと南薩のポストカードを作ったくらいである。

【参考】 南薩の風景ポストカード5種セット「Nansatz Blue」


実際、素晴らしい風景には大きな価値がある。国内旅行の主要目的は、風景と食事と温泉ではないかと思われるが、その中でも風景の存在は大きい。素晴らしい風景には、ただそれだけで人をそこへ連れてくるという力がある。

しかし、風景の価値というものをジックリと考えてみると、なかなか一筋縄ではいかない。

例えば、我が大浦町の越路浜という海岸で、バブル期に地元企業がリゾートホテルを建てる計画が持ち上がったことがある。結局その計画は実現しなかったが、もしステキなリゾートホテルが建っていたらどうなっただろう。

そうなっていたら、素晴らしい景観に惹かれて、今頃多くの観光客が大浦町を賑わせていたかもしれない。そしてその観光客のために飲食店や土産物屋がたくさんできて、その経済効果は年間10億円くらいになっていたかもしれない。

仮にそうなっていたとしたら、越路浜の風景の経済的価値は、10億円相当だと言えるんだろうか。 もしそうなっていたら、今の縹渺とした静かな海岸ではなくて、人や建物に溢れた全く違う海岸になっているかもしれないのに。

これは全く仮定の話だが、実際に似たようなことが起こっている地域もある。人があまり来なかったからこそ残っていた素晴らしい風景が、多くの人が来るようになるとどんどん変わって行く。自動販売機が置かれ、看板が乱立し、ゴミが捨てられる。風景を活かそうとして、逆に殺してしまうことになる。

風景を活かそうとしていろいろ活動することが、皮肉なことにその風景自体を変えていってしまうのだ。

だからといって、風景を手つかずのまま、人跡未踏のまま残しておくとしたら、その風景がいかに絶景であったとしても、その価値を活かすどころか、その価値そのものを考えることすらできない。誰も行けないアフリカの奥地の奥地に、どんなに素晴らしい風景が待っていたとしても、誰にも行けないなら風景としての価値はない。やはり、人が行けて、そこで五感で眺望を体験する、ということがなくては風景としての価値は考えようがない。

つまり「景観」は、人間社会となんらかの接点がなくては、そこからその価値を取り出すことはできないのである。しかし人間社会が関わる以上、絶対に手つかずにはならない。その風景は人間が手を加えたものにならざるをえない。

もちろん、これは程度問題である。しっかりと風景を守り、マネジメントすれば、最小限の人工物でほとんど自然そのままの景観を維持することはできる。風景との関わり方には、そういう節度が求められるのだ。

ではそういった風景への節度を保ちつつ、観光客を呼び寄せて、何億だかの経済効果がもたらされたら、その何億だかが風景の価値ということになるんだろうか。もしかしたら、風景の経済的価値、ということに限ったらそうなのかもしれない。でも、風景は人の心の中にあるものだから、経済的価値だけではその価値を考えることはできない。もっと多面的に考える必要がある。

南さつまにとっての素晴らしい風景の価値、いや、人間にとっての風景の価値、それをもうちょっとちゃんと考えてみたい。

(いつかにつづく)

2015年10月26日月曜日

南さつまの観光政策への放言

前回の記事にも書いたように、南さつま市観光協会のメンバーになった。というわけで、今のうちに南さつま市の観光政策について思うことを書いておきたい。

というのは、私自身観光業に携わっていなくても、観光協会のメンバーとしていろいろな活動に関与していけば、ブログで好き放題論評するというわけにもいかなくなりそうなので、まだ何も役目をいただいていないうちに、観光政策の問題点についてつれづれなるままに放言しておこうという次第である(関係者の皆さんは気分を悪くされると思うので読まないで下さい。すいません)。

まず第1に、インターネットでの情報発信がヘタすぎる。

例えば、本市の最大のウリだと私が思っている「南さつま海道八景」だが、市役所のWEBページには写真だけしか載っておらず、「海道」といいながら全く道について触れられていない。これだけだと、海道八景がどこにあるのかすら分からないという有様。

観光協会のWEBページには、若干の説明があるが、この説明がマウスオーバーで現れる(マウスが写真の上にあるときだけ説明が読める)といういただけない仕様になっている。HTMLをいじるのが面白いとついこういう仕掛けをやってしまうものだが、シンプルに写真とテキストが書いてあった方がよい。なぜなら、実際に観光に来る人が、このページを印刷する可能性があるからで、マウスオーバーテキストだとそれが印刷できない(その上リンク先があるかどうかわかりにくい)。しかも、なんと観光協会のWEBサイトにも「南さつま海道八景」がどこにあるのか、その説明が全くない! せめて国道226号線沿いだというだけでも説明しないと、このページだけでは観光に行きたい人に役立たない。

「南さつま海道八景」については、それなりにちゃんとしたパンフレットを作っているので、パンフレットをそのまま掲載するくらいはしたらよいと思う。

でももしかしたら、「南さつま海道八景」を「本市最大のウリ」だと思っているのは私だけなのかもしれない。「砂の祭典」こそ最大のウリでは? と思う人もいるだろう。しかし、市役所のWEBページを見ても、観光協会のWEBページを見ても「砂の祭典」が本市の一大イベントであるとは全然わからない。観光協会のWEBページなんか、公式ページへのリンクもなく(なぜ?)、随分あっさりした書きぶりになっている。数万人を動員する「砂の祭典」からしてこうだから、他は推して知るべしで、必要な情報、必要なリンク先が全く出てこないというのを強く感じる。

要するに、市役所も観光協会も、インターネットで「南さつま市へ観光に来たい人」に対して必要な情報をほとんど提供していない。何が書いてあるかというと「南さつま市にはこんな観光スポットがあるんですよ!」というアピールである。

しかもそのアピールもヘタクソで、アピールである以上、「押し」や「ウリ」といったものが明確に分からなくてはならないのに、それがなくてあらゆる情報が並列的に載っている。要するに、何かのついでがあれば観たらいいよ、という「田の神」のようなものと、南さつまに来たら是非観るべき、という「南さつま海道八景」のようなものがほぼ同列に並んでいる。これではアピールにならない。

観光というのは、「あれも行きたいこれも行きたい」といってどこかへ行くわけではなく、目的地は大抵一つである。例えば群馬県の水上温泉に行きたい、というときは、まず温泉を調べる。そして温泉だけだと子どもたちが楽しめないから他にないか、といってロープウェイなど近場のレジャー情報を調べ、さらに何か美味しいものが食べられないか、といってグルメ情報を調べる。この場合最も重要なのは「温泉」の情報で、それ以外は「温泉」に付随しているに過ぎない(温泉がなかったら調べなかった情報だということ)。だからアピールするなら、観光地の核となる情報を発信し、それ以外の観光情報はその下に付随する形にしているべきだ。要するに観光情報の階層化が必要なのだ。もっと簡単に言えば、「そのためだけに南さつま市に来る価値がある所」はどこかをしっかり見極めて、アピールはそこだけに注力したらよいと思う。

なお余談ながら、私の考えでは、それは「南さつま海道八景」「亀ヶ丘」「吹上浜(京田海岸)」の3つである。

しかし、実のところを言えば、こうした公の機関は、インターネットで観光スポットをアピールする必要は全然ない。なぜなら、こうしたサイトを訪問している以上、そのページを見ている人は既に何かのきっかけで「南さつま市に行きたいな〜」と思っているはずで、その人は、どの季節に訪問するのがよく、どこをどう巡ったら楽しいか、という具体的な情報を欲しているからである。

そもそも観光協会も市役所も、どこかにアピールポイントを置いた公報というのは苦手である。役所が作った「南さつま海道」のプロモーションビデオにも、金峰町の人から「金峰が入ってない」という意見があったそうだから、役所でこういうのを作るのは本当に難しいと思う。だからやりにくいアピールをやるよりも、既に南さつまに行きたいと思っている人に対して、そういう人が必要とする情報を愚直に出して行く方がよいと思う。

具体的には、観光マップをしっかり作るべきだ。観光協会のWEBサイトは、情報はいろいろあるのに肝心な観光マップがないのが最大の問題だと思う。市役所のWEBサイトも、一応観光マップと銘打っているものはあるが、全く使えないもので残念である。「ちゃんとパンフレットでは観光マップを用意しています。来て頂ければお渡しできます」と考えているとしたらそれは傲慢である。あるならばそれをインターネットに載せるくらいのことはするべきだ。

ついでに言うと、インターネットでの発信はぜひ英語でもすべきだと思う。英語で発信したって見る人はいないでしょ、と思うのは間違いで、日本の観光情報は外国の人にとって常に不足しているので需要はある。他の自治体がなかなか英語での発信ができていない中、南さつま市が英語発信に積極的に取り組めばすぐに頭一つ抜け出ることができるはずだ。

第2に、今あるものを大事にしよう・活用しようという考えが希薄で、イベント的な一過性の取組が多すぎる。

南さつま市は他の観光地に比べて、景観はかなり勝れていると思う。だがその肝心の景観を大事にしようという考えが希薄である。といっても、これは日本の観光地一般に言えることであって、実は南さつま市だけではない。歴史ある京都の街並みでも電柱の埋設が進んでいないし、品のない看板が多い。京都駅の駅舎は街並みとは異質なデザインだし、京都タワーは景観を乱していて本当にない方がいいと思う。京都の人は景観をどう考えているのだろうか。

 「南さつま海道八景」も、道脇の草がボウボウである、朽ちた看板がある(しかも内容が「海や川をきれいにしましょう」みたいなものだったりする。看板自身が景観を乱しているというのに)、人工物が邪魔している(ガードレールや電線や廃屋)、といったことで非常に惜しい状況である。

海道八景沿いだけでも、「老朽化した看板の撤去」「新たに設置する看板への規制」「道路清掃作業の頻繁化(国道なので市がやれる範囲で)」「景観を乱す人工物を目立たなくする(例えばガードレールを周囲の環境と調和したものに)」「景観の邪魔になる木の伐採」といった景観の向上への取組が必要だと思う。

他にも、例えば「笠沙美術館」は素晴らしい立地の美術館で、ここだけでも観光の目的地になりうる場所だと思うが、観光に全く役立っていない。私は個人的にここがすごく気に入っているので「海の見える美術館で珈琲を飲む会」を今年も企画しているが、市役所も積極的に使ったらよい。しかしここも、建設以降ほとんど改修が行われていないので各所の扉がさび付いて開けなくなっており、施設を適正に使うことができない。

また、非常につまらないことと思うかもしれないが、公共施設のトイレを清潔に保ったり、現代的に改修したり、入りやすいようにするといったこともすごく大事である。田舎に越してきてつくづく思うことは、トイレに関しては鹿児島は東京に20年遅れているということである。

行く先のトイレにおむつ替えシートがあるかどうかというようなことが、子連れでどこか行くときにすごく重要だし、それ以前に利用したいと思うトイレであることが大事で、「できれば入りたくない」というようなトイレが存在していること自体が(実際に入らなくても)観光客にとっては負担である。

「南さつま海道八景」沿いだけでも、今一度公共トイレの施設設備や清掃体制をチェックすべきだ。例えばトイレが県の施設で管理できないという場合は、県から施設を譲渡・購入して市が管理できるようにし、ストレスなく使えるトイレに変えていったらよい。そして、インターネットやチラシでどこにどのようなトイレがあるかちゃんと発信したらよい。こういう地味なことをするのが本当の観光政策だと私は思う。

しゃかりきになってイベントを企画しなくても、こうした今ある施設や観光スポットをちゃんと維持管理・整備し、ポテンシャルを引き出すことが十分に魅力づくりになるのではないだろうか。

第3に、観光の拠点となる場所がよく分からない。

鹿児島の北の方に蒲生(かもう)という町があって、そこは「蒲生の大クス」という日本一大きなクスノキがあるのが最大のウリなのだが、大クスがある蒲生八幡神社の入り口に蒲生観光交流センターがある。ちょっとしたお土産品とか、観光パンフとかが置いてあって、そのもの自体はどうということはない所だが、こういう施設が最大の観光スポットに付随しているのはうまいと思う。

というのは、まだまだ日本ではインターネットの情報は現実の後追いであることが多く、紙のパンフレットなどの方が情報豊富で正確である。だからパンフレットを各所で配布することは重要なのだが、観光客は律儀に市役所に寄ったりしないし、それ以上に土日は市役所が閉まっている。だから観光協会での配布が重要になるが、南さつま市の観光協会は加世田の市街地にあって観光スポットとは縁がなく、観光ルートと離れている。というより、今の観光協会のオフィスは(リアルの)情報発信の拠点と位置づけられていないから、WEBサイトに開館日や開館時間すら書いていないので観光客には全く使えない。

南さつま市で唯一観光ルート上にあるそういう施設は、坊津の観光案内所だがここも有効に活用されているとは言えない。

私としては、「南さつま海道八景」のちょうど入り口に立地している物産館「大浦ふるさとくじら館」の一部を観光案内所と位置づけて、観光協会が間借りし、そこを情報発信の拠点にしたらよいと思う。物産館は年末・正月を除いてほぼ年中無休なので今の観光協会のように人が居ない日があるという問題も回避できる。そもそも「大浦ふるさとくじら館」は、合併前の大浦町時代に観光案内所的な意味合いもあって作ったものだと聞く。それがいつの間にか物産館だけの施設になっているので、もう一度原点に返るべきだ。これは第2に述べた「今あるものの活用」という話とも繋がる。

観光客というものは、意外と無計画に観光地へとやってくるものなので(私も観光に行くときは大概そうしている)、観光の拠点へと自然と足が延びるというのは大事である。南さつま市の場合、そういう場所がどこなのか私自身判然としないので、わかりやすい観光の拠点を作って、そこを中心としてリアルでの情報発信をしていくのがいいと思う。

第4に、観光の基盤となる歴史と文化に対し、ほとんど関心が払われていない。

多くの観光客は、美しい風景や気持ちの良い温泉、美味しい料理があれば満足すると思われているがそれは大きな間違いで、確かにそういうことは観光の中心ではあるがそれが全てではない。旅行というのは、ただ上質なサービスを受けるためだけに行くのではない。もの凄く美味しい料理を食べたいなら東京の一流レストランに行く方が間違いないし、圧倒的な絶景を観たいなら手つかずの自然が残る外国に行く方がいい。じゃあ、あまりお金をかけないで行く国内旅行が貧乏人のための次善のものかというと実はそうではない。

旅行というものは、自分の生きる土地と違う風土に触れて、暮らしやなりわいの多様性を体験するということも重要な目的だから、国内旅行だって十分に贅沢なのである。つまり風景や温泉や料理そのものも重要だが、それが自分とは異質な風土の元に営まれていることに一層の価値がある。

そして風土というのは、気候や地勢ももちろんだが、それ以上に独自の歴史と文化が重要な構成要素である。歴史とか文化とかは一部の好事家のためのもので、多くの観光客には無縁と考えるのは早計で、そうしたものを是非学びたいと言う人は少数派でも、旅先で聞く風変わりな(歴史の教科書に出てこない)歴史話は多くの人が耳を傾けて「へ〜」と頷くものだ。なぜならそれは「自分は今、違う文化圏に来ているんだ」と確認できることだからである。

そういう意味で、土地の神社仏閣は言うに及ばず、博物館や埋蔵文化財センターといった地味な施設も実は観光にすごく重要な意義を有している。それは直接観光客が訪れる所ではないかもしれないが、観光に深みを与え、ただの街歩きを歴史の重みを感じる散策に変える基盤を提供するものだからである。

南さつま市には、そういう施設として「歴史交流館 金峰」「坊津歴史資料センター 輝津館」「笠沙恵比寿(の展示室)」があるが、最も博物館として充実している「輝津館」ですらWEBサイトを持っていないのが残念だ。「輝津館」は学芸員も擁しているし、企画展も意欲的に開催しているので、その情報を実直に発信していけば南さつまの観光にもっと寄与すると思う。

さらに言えば、こうしたものの裾野を成す各地の「史談会」なんかも意外と重要で、観光ガイドの質は「史談会」を抜きにしては語れないと私は思う。これまでの行政は「史談会」を良くて文化活動、ひょっとすると年寄りの暇つぶしと見ていた節があるが、公益的な価値があるものとして取り上げ、史談会誌の発行を助成するなどの支援をしたらいい。

ともかく、今の南さつま市は「どんな歴史や文化を持っているのか?」という観光客の疑問に対してぴったりとした答えを持っていないように感じる。鑑真が上陸したとか、島津日新公の拠点であったとか、断片的なことしか語られていない。市制施行10周年でもあることだし、簡単でもよいから「南さつま市の歴史と文化」についてまとめたらよいと思う。

・・・というわけで、とりあえず4点述べたが、真面目に考えたらもっとたくさん出そうな気がする。でも最初に「関係者の方は読まないで下さい」と書いたように、私としては「この意見を採り上げろ」とは全然思っていない(というかブログの記事なんか現実的に影響力が全然ないので)。


でも間違えて関係者の方が読んでしまった場合、何かの参考になれば幸いである。

2015年10月23日金曜日

「すべての人が楽しめるよう創られた旅行セミナー in 南さつま」へ参加

ほとんど観光に関する活動はしていないが南さつま市観光協会のメンバーになった。

それで先日、「すべての人が楽しめるよう創られた旅行セミナー in 南さつま」という講演会に参加してきた。

正直、このセミナータイトルがなんだか胡散臭い感じで、あんまり期待はしていなかったのだが、意外と面白かったので内容を紹介したい。

講師は日本バリアフリー観光推進機構の理事長であり、また「水族館プロデューサー」でもある中村 元さん。中村さんは「バリアフリー観光」の日本での提唱者であるらしい。「僕がバリアフリー観光が大事だと言ってるのは、集客のためです!」という身も蓋もない話からスタート。中村さんは福祉系の人たちとはかなり違う風貌で、良くも悪くも「プロデューサー」らしい怪しげな雰囲気がある。

「バリアフリー観光」なるものの発端は15年ほど前に遡る。当時、三重県の北川知事が「伊勢志摩への集客のためにイベントばっかりやってるけど全然成果ない。これまでと違った考えで観光推進やってみよう」ということで若手を集めて議論させた。その時集められた一人が、当時鳥羽水族館の副館長をしていた中村さんである。

中村さんはひょんなことから海外のリゾート地で「バリアフリー観光」が行われていることを知り、これを伊勢志摩への集客に使えないかと考えた。だがメンバーは大反対。障害者への偏見なども強い時代(その後『五体不満足』でだいぶ変わったという)で、「障害者から金取らないとやっていけないくらい伊勢志摩は落ちぶれたのかっ!」という意見まで出たという。

そのため中村さんは水族館のお客さんのデータをとって障害者の市場がどれくらいあるのか推定してみた。結果、水族館の入館者数に占める障害者の割合は0.5%に過ぎないが、介助者と一緒に来るため障害者には4人連れが多く、結果0.5%×4人=2%が障害者に関係するお客さんだということがわかった。

一方、全日本人に占める障害者の割合は3%なので、水族館に来る障害者もこの割合にまで上がったとして、やはり介助者と一緒に4人組で入館すると仮定すれば、この2%は3%×4人=12%まで増やすことができる。こうなると集客の可能性としてはかなり大きい。

しかも障害者に優しい施設は、高齢者にも優しい。特に後期高齢者は歩行や排便に障害者と同じような困難を抱えている場合がある(和式便器は使えないとか)ので、なかなか外に出たがらないということがある。後期高齢者が人口に占める割合は12%もあるので、この人たちがお客さんになってくれるとすればマーケットとしてはかなり有望だ。

そういうことで中村さんはメンバーを説得し、伊勢志摩で「バリアフリー観光」に取り組むこととなったのであった。

中村さんはまずバリアフリーマップを作ることにしたが、障害を持つ友人から「バリアフリーマップなんか信用できない!」と言われた。その理由は、バリアフリーマップは障害者が作っていないから、実際にはバリアフリーでないのに「バリアフリートイレ」があるというだけでバリアフリーと表示されていたり(トイレ自体はバリアフリーなのだが、トイレに行くまでに障害があるとか)、バリアフリーを謳うとトラブルを誘発するということで実際にはバリアフリーの部屋があるホテルがそう書いていなかったり(何か問題があったときに「バリアフリーって書いてるのに対応してないじゃないか!」みたいなクレームがある)、 要するに全然使えないというわけである。

ということで、中村さんはちゃんと障害者と一緒に実地で見て回ってマップを作ることとし、しかもバリアフリーかバリアフリーでないか、という2項対立ではなく、どこにどの程度のバリア(障壁=段差の高さ、傾斜の角度、などなど)があるのかというマップを作った。要するに、「バリアフリー観光」を謳ってはいるが「バリアフリー」という概念はここにはなく、人は何をバリア(障壁)と思うのかはそれぞれ違うのだから、全てのバリア(になりうるもの)を網羅して調査したのである。

しかもそれをマップ化するだけでなく、そこで収集した情報を集積させて、障害の程度に応じてどの施設・観光地が利用可能かをアドバイスする拠点「伊勢志摩バリアフリーツアーセンター」をつくった。マップを作るところまではある意味では誰でも思いつく話だが、このセンターを作ったのが中村さんのイノベーションであると思う。

というのは、全てのバリアを網羅するというような野心的な情報収集になってくると、「ここに10cmの段差、その次に5cmの段差・・・」というような内容になって、とてもじゃないがマップどころかWEBサイトでもこれをわかりやすく案内することはできない。どうしても、そこに人が介在して「あなたの障害の程度ならここなら大丈夫」というような案内が必要になる。そしてそれ以上に、ホテルは旅館業法で宿泊客を拒否することは事実上できないから、実際には対応できない障害者を泊めてしまうというトラブルを防ぐため、こうしたセンターが必要なのである。

しかしこのセンターの真の価値は、障害の程度や介助者の状況によって利用可能な施設を差配する、ということにあるわけではない! そうではなく、その障害を持ったお客さんの、こんな観光をしたい、という気持ちを叶えることを中心に考えていることがこのセンターのすごいところである。例えば、温泉に入りたいというお客さんならば、「ここの温泉宿は段差があって介助者が2人必要だけど、段差を乗り越えれば露天風呂の家族湯に入れる」というような案内をする。ただ施設が整っていて、「バリアフリー」なホテルを案内するだけでない、というところがミソだ。

そもそも、「バリアフリー」なところを巡るだけだったらそれは福祉施設の視察みたいなもので観光とはいえない。観光にはバリアはつきもので、旅から全てのバリアを取り除こうとする方がおかしい。というより、ある程度のバリア=障壁がなかったら、美しい風景も残っていないわけで、観光の醍醐味はそのバリアを乗り越えて、美しい景色とか温泉とかにたどり着くところにある。そういう意味では「バリアフリー観光」は自己矛盾な言葉で、観光は全行程がバリアフリーであったら成り立たないのである。

だったら「バリアフリー観光」は何がバリアフリーなのか? ということである。歩道の段差をなくし、トイレをユニバーサルトイレにし、 エレベーターを設置する、それはもちろんバリアフリー化ではあるが、バリアフリーの本体ではない。バリアフリーの本体は、そうした情報を発信し、旅行の計画段階で、どこそこにバリアがあって、それを自分なら超えられるかどうか事前に検討できる、という状態を作ったことである。人間、行ったら困るかもしれない場所には行きたくないものだ。だが、それがどのくらいの困難さなのか事前に分かっていたら、介助者の準備も出来るし、少なくとも行けるかどうかの検討ができる。

つまり、障害者にとっての真のバリアとは、段差とかトイレとかいうことよりも、そうしたことが事前にわからないという「情報不足」だったのである。

そして、障害者が行きやすい場所は、「障害者が行けるんなら自分達も大丈夫だろう」ということで後期高齢者も行きやすい。そして多くの人が行く場所は、もっと多くの人を呼び寄せる。このようにして、伊勢志摩では非常なる集客増を成し遂げたのである。

中村さんは、施設をバリアフリーに改修するコンサル的な仕事も請け負っており、その際のアドバイスもちゃんと障害者の人たちの意見を聞いて行っている。というか多分、中村さんは人の意見を聞き出すのが上手で、「バリアフリー観光」がうまくいったのも、そのコンセプトがどうこうというより、中村さんの人の意見を聞き出す力に依っている部分が大きいような気がした。

例えば、最初のコンサルの仕事を請け負った時、ホテルの一室をバリアフリーに改装するにはどうするか、というのを障害者同士のワークショップ形式で議論してもらったそうだが、そこで出た最初の意見が「テレビは大きい方がいい」だったという。 「車イスだと一度部屋に入ると出るのが億劫、だからテレビを見ていることが多いが、そのテレビが家のテレビより小さかったらイヤだから」というのがその意見。私は、この意見が最初に出たということを聞いてナルホドと唸った。

というのは、こういう話し合いをすると、最初はどうしても優等生的な意見が出がちである。「段差をなくす」など真面目で当たり障りのない意見が出てから、そういう意見が尽きたときに「ところで、テレビは大きい方がいいんだけどね」みたいに冗談めかしていう意見が「本当の意見」であることが多い。そして、大抵そういう「本当の意見」は笑い話として処理され黙殺される。私は行政が住民の意見を聞く会議、みたいなものに結構参加している方だと思うが、そういう場面は何度も見て来た。

だがこの場合、「テレビは大きい方がいい」という個人の欲望に基づいた「本当の意見」がまず最初に出てきているわけで、それは中村さんの人柄によるのか、雰囲気作りのうまさによるのか分からないが、とにかくすごい。しかもこの意見は即採用された。こうなると「本当の意見」はドンドン出てくる。

人の意見を聞いてプロジェクトを動かして行くというのは簡単そうに見えて実に難しいことで、油断していると真面目で形式的な意見しか出ないつまらない場になったり、逆に「そうだよねー」「それもいいね〜」みたいに出た意見が全肯定される馴れ合いの場になったりする。 こうなるといくら「意見を聞く場」を設定しても「本当の意見」が出てこない。様々な場面において、障害者の「本当の意見」を聞いて、それに基づいてバリアフリー観光を進めたことが成功の秘訣だったのではないかと思う。

そして、中村さんのプロジェクトの核には、障害者の意見であったり、実地で調べたバリアの情報であったり、実直な情報収集があるということも重要だ。観光政策というと、すぐに「アピールが足りない!」とかいう人が出てきて、イベントをしたりゆるキャラを作ったり、要するに「露出度競争」に勝たないといけないと考える人が多いが、これは全くの愚策だと思う。もちろんアピールは大切だが観光地がやる自己アピールは往々にして自画自賛のオンパレードになりがちであり、一般の観光客に対してさほど価値を提供しない。

それよりも、観光地の情報を実直に収集してわかりやすく発信し、それを集積する拠点を設けるという地味な仕事の方に価値がある。中村さんの話も、「バリアフリー観光」というコンセプトに騙されて、「いやー南さつまにはまだバリアフリーは早い」みたいに誤解する人がいないか心配だ。バリアフリー云々は全く重要ではなく、大事なのは、「来て欲しい人がちゃんとこちらまで来やすいように、その人たちの意見をちゃんと聞いた上で時間と手間をかけて情報収集し、整理・発信し、対話し続けていく体制を整えること」なのである。つまり中村さんは、観光政策におけるごくごく当たり前のことを実直にやるべしと言っているだけなのだ。

しかし、その当たり前のことが出来ていない自治体のなんと多いことか! イベント、ゆるキャラ、B級グルメ。「起死回生のグッドアイデア」を探して手近な成果を求める観光地は多い。そしてその多くが一過性の成果しか得られないのは当然だ。こんな自治体ばかりの中で、地味でも実直な観光政策の王道を行けば、きっと道は開けるはずだ。王道こそ往き易し。妙案など何もなくても、南さつま市へと足を運んでくれる人はきっと増えるだろう。