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2020年8月9日日曜日

インフラックス社が実現可能性の低い巨大風力発電事業を計画する理由

先日、「吹上浜沖に世界最大の洋上風力発電所を建設する事業が密かに進行中(今なら意見が言える)」という記事を書いた。

その後、いろいろ知恵を下さる方がいて、私もこの事業についての理解が深まり、この密かに進んでいるかに見える巨大事業計画の本当の意味がわかってきた。

まず、この途方もない巨大事業に不安になっている地元の人たちを少し安心させることを書くと、この事業は9割方ポシャるし、仮に実現した場合でも、事業計画通りの規模で建設されることはまずない

なぜ9割方ポシャるのか、というと、この事業は国が定める洋上風力発電の建設プロセスに全く則っていないからである。

再エネ海域利用法

洋上風力発電は、いうまでもなく海上に建設される。しかし海は、誰のものでもない。海洋の土地は私有できないことになっており、市町村の境も明確ではなく、基本的には国の管轄ということになっている。警察権も、県警の担当ではなく、鹿児島県の場合は「第十管区海上保安本部」(海上保安庁)が受け持つ。

そういう、誰のものでもない海に、風車を建てるわけだから、これは公共的なものに限られる。「私は吹上浜に風力発電の風車を作りたい」と考えても、県に書類一枚出して許可される…というような単純な話でない。

元々、日本では発電のための海上利用の権利・方法が明確に規定されておらず、そのせいで洋上風力発電の普及が進まなかった。ヨーロッパでは洋上風力の利用はかなり進んでいて、再エネの主軸の一つとなっているのに、日本では後れを取っていたのである。

そこで昨年(2019年)4月に出来たのが、「再エネ海域利用法」だ。

これによって、日本でも法の規定に則って洋上風力発電を建設することができるようになった。そのプロセスは大雑把には次の通りである。


まず、経産大臣および国交大臣が、「促進区域」を指定する。要するに、「この海域は洋上風力発電に適している」という地域が国によって指定される。もちろん一方的に指定されるのではなく、漁業権や航路・港湾の利用に差し障りがない地域が検討されるし、県知事や市町村長を交えた協議会が設立されて話し合って決める。

次に、「促進区域」における洋上風力発電事業の事業者が公募される。つまり、洋上風力発電事業は国が主体となって行う半公共事業(国がお金を出すわけではないから公共事業そのものではない)である。事業者は、具体的な建設・売電計画(公募占用計画)を立案し公募に応じる。また、売電価格についても、屋根についている太陽光パネルとは違って最初から決まっているのではなく、事業者が「この価格で売電できます」という価格を提示し、それが評価される。もちろん売電価格は安い方がよい。

そして公募に応じた事業者の中で最も優れた計画のものが選ばれ、経産大臣によって売電のFIT(固定価格買取)が認定される。こうしたプロセスを経て、ようやく洋上に風車を建てることができるのである。

※正確には、この方法の他に、港湾法に基づいて港湾管理者が風力発電事業者を公募するやり方があるが長くなるので割愛する。

それなのに、吹上浜沖の巨大風力発電計画は、こうしたプロセスを全く無視しているのである!

まず、吹上浜沖は「促進区域」にすら指定されていない。現在「促進区域」になっているのは長崎県の五島沖のみで、他に「促進地域」の指定に向けて検討されているのが10区域ほどである。だから、いくら吹上浜沖に風力発電所を作ろうとしても、「促進区域」にもなっていないわけで、当然国による公募もなく、事業の実現は不可能である。

「でも、実際、環境影響評価の「配慮書」への意見照会があったじゃないですか! 事業は進んでいるんですよ!」と思う人もいるかもしれない。でも、環境影響評価(環境アセス)というのは、「仮にこういう事業を行うとしたら、どのような影響があるか?」を事前評価するものであって、事業の許可関係・実現性とは全く関係がない。完全に仮定の事業でも環境アセスのプロセスは行える。例えば、私が「吹上浜にディズニーランドを作ります!」という内容で環境アセスをやることも可能だ(実際にディズニーランドが誘致できるかどうかとは関係なく、という意味)。

だから、環境影響評価の「配慮書」があったことで、あたかも事業が動き出したかのような錯覚(私も最初そう思った)を与えたが、実はまだ事業は完全に「仮定」の段階である。

私は何人かとこの事業を話したが「もう決まっちゃったんでしょ? 反対しても無駄かもね?」というような人も少数ながらいた。しかし以上の話で明確になった通り、この事業は、まだまだそんな確定的なものではないどころか、今の段階では実現不可能なものだと断言したい。

仮定の巨大事業計画をぶち上げる理由

では、事業者はどうして、そんな実現不可能なものを、さも計画が決定しているものかのようにぶち上げたのだろうか? どうしてそんな無駄なことをするのだろうか?

私もそこのところがよくわからなかったのである。法の規定を考えると、こんな計画は立てるだけお金の無駄だ。環境アセスの「配慮書」を作製するだけで、1千万円くらいかかるだろうが、どうして実現不可能な事業の環境アセスに金をかけるのか?

そんな折、某風力発電会社の方と知人を通じて知り合うことができたので、その疑問をぶつけてみた。

するとその方は、「多分、事業を売却することを念頭に置いて、この地域にツバをつけているんだと思います」と回答してくれた。

「なるほど!」と思った。

私自身、この計画を初めて見た時に感じたのは、「計画地域が考え得る最大の広さで、風車の大きさも最大、本数もめいっぱいすぎる。あり得る最大の計画を提示していて、”切りしろ”が大きすぎる!」ということだった。

私は、「きっと、地元のご意見を受けて規模を半分に縮小しました。だからこの計画で納得して下さい」というように、規模の縮小を交渉のカードに使うために、最大の計画をぶち上げているのだと思っていた。

しかし「売却を念頭に置く」ということだと、この大きすぎる計画の意味合いがもっと明確になってくる。ちょっとややこしい話になるが順を追って説明したい。

さて、前の記事にも書いたように、この事業を計画しているのは「吹上浜沖洋上風力発電合同会社」、実態は「INFLUX(インフラックス)」という会社である。

【参考】吹上浜沖洋上風力発電合同会社
http://influx-fukiagehamaoki.com/index.html

【参考】INFLUX INC
http://influx-inc.com/wind/
 
このインフラックスという会社は、日本各地で洋上風力発電事業計画を立ち上げていて、WEBサイトをみる限り、吹上浜沖の他に、唐津、平戸沖、鰺ヶ沢(青森県)、石狩・厚田(北海道)の計画があるようだ。特に石狩・厚田の計画は、吹上浜沖をさらに上回る規模の計画である。

そして驚くべきことに、これらの地域は全て、「促進区域」にすら指定されていないのである。実現可能性を無視して巨大計画を次々と立案するインフラックスという会社は、一体何を考えているのだろうか?

実は、これらは実現可能性が低いからこそ、巨大な計画が立案されていると考えられる。というのは、今後「促進区域」はどんどん指定されていくわけだから、これらの地域が指定されるという可能性もあるわけだ。その時に、どんな範囲で指定されるか分からないから、事業計画では考え得る最大の区域を想定して環境アセスを進めていると思われるのである。こうしておけば、どのように「促進区域」が指定されたとしても、それが事業計画区域内に収まるであろう。めいっぱい大きな投網を投げておけば、魚はどこかに入る、というわけだ。

また、日本各地で巨大計画を立ち上げているのも、計画に必要な書類は似たようなものだから、下手な鉄砲数打ちゃ当たる方式でやっていると考えられる。どこが「促進区域」に指定されるかわからないからこそ、いろんなところで立案しているのだろう。宝くじと一緒で、たくさん買えば、当たる確率も大きくなるのである。

そして日本各地で計画を立ち上げているもう一つの理由は、反対運動が弱いところを見極めているという側面もあるかもしれない。住民の反対運動は、どこの地域でも同様に起こるわけではない。特に、反対運動のリーダーがどんな人かによってかなり変わってくる。たくさん立ち上げた計画の中で、特に反対運動が弱いようなところは、今は「促進区域」になっていなくても将来有望である。国交省や経産省も、住民の反対運動が弱い地域を「促進地域」に指定したいに違いないからである。

そして、瓢箪から駒で、インフラックス社が事業計画を立ち上げている海域の一つが「促進区域」に指定されたとしよう。その後はどういうことが起こるのだろうか?

インフラックス社は、他の事業者に比べて有利な立場で公募に臨むことができる。環境アセスのプロセスのいくらかを既にクリアしているからである。環境アセスは、結構時間がかかる。各段階で縦覧をする必要があるし、なにより調査自体に時間がかかる。そういうのを、抜け駆けしてやっているからかなり時間が短縮できる。

しかも洋上発電は、投資マネーの奪い合いみたいな状況になってきている。洋上発電は、太陽光パネルに比べ、一般論として事業規模がかなり大きい。1000億円単位の事業だって珍しくない。そういう規模のお金を集めるには、速さも大事である。なぜなら、一度どこかに投資されたお金は、それよりよい条件のところにしか動かないからである。後発者は、「よりよい条件」を準備しないといけないから先発者の方が有利だ。

だから、インフラックス社が抜け駆けして各地で環境アセスを進めていることは意味がある。もしそのうち一つの地域でも運良く「促進地域」に指定されれば、他の地域の計画がポシャったとしてお釣りが来るのかもしれない。まさに「時は金なり」である。

そしてインフラックス社としては、その有利な立場(事業計画)自体を、国が公募する洋上発電事業へ応募しようとしている会社に売ることも出来る。実現可能性がなかった、仮定の事業の環境アセスが、時間短縮ツールとして有用なものとなるのである。ありえないほどの巨大計画で環境アセスを進めているのは、事業売却を考えた時に、売却先の会社による事業計画がどのような規模でもそれを包含するように、ということなのであろう。言うまでもなく、環境アセスの手続きとしては、計画を縮小するのは全くたやすいのである。巨大計画の環境アセスは、小さな計画の環境アセスにも使えるわけだ。

なお、環境アセスは、「配慮書」から次の「方法書」の段階の間は、継承できるという規定になっているが、それ以後のことは法には規定がないので不明である。だが、少なくとも「配慮書」提出後の段階で、事業継承(売却)することは可能だし、なんなら「吹上浜沖洋上風力発電合同会社」のような、会社ごと売却すればいかようにもできる。そのためにわざわざ子会社を作って事業を計画しているのかもしれない。

ちなみに、事業を売却することのメリットは、すぐに儲けを手にすることができる、ということである。おそらくは、事業を売却せずに自ら発電事業を手がけた方が、利益は大きいと期待できる。しかしそのためには、20〜30年間事業を運営し続けなくてはならない。もしかすると、台風で風車が壊れるなどして、結局赤字ということだってありえる。だから、事業売却によってその時にキャッシュが手に入るということに意味がある。

これまで、「インフラックス社は、事業売却を念頭に置いて、日本各地で巨大計画を立案している」という想定の下で書いてきた。でも、もちろん、邪推と言われれば邪推である。インフラックス社に問い合わせたら「そんなことはありません。計画通り実施することを考えております」と回答するであろう。

しかし、 間違いなく言えることは、インフラックス社は「再エネ海域利用法」に定められたプロセスを無視して事業を立案し、地元はそのせいで混乱しているということである。

これは、洋上風力発電の健全な発展を阻害することであり、その意味では、国交省や経産省といった洋上風力発電の推進行政に対する挑戦と言える。

いいかげんな再エネ事業者は、再エネ推進に有害

そもそも、九州では太陽光発電がかなり普及したこともあって、電源が不安定な状況にある。太陽光発電は天気次第でかなり発電量が上下するからだ。脱原発を考えても、安定的な再エネ電源の需要は大きく、発電量が安定しているという洋上風力は有望である。今回の吹上浜の風力発電計画のように、海岸から5kmというような近さだととても「洋上」とは言えないが、もっとずっと沖合の人の活動が少ないところで、しかも風の安定している場所ならば、洋上風力発電は悪くないと思う。

ところが、インフラックス社のような会社が、沿岸の人々に甚大な影響を与える巨大洋上風力発電事業を、何の説明もなく、法も無視し、あたかもカネのためだけのように見える形で立案するとなると、洋上風力発電自体が、なんだか怪しいものだと思えてくるのである。

いや、既に、「洋上風力発電は15兆円産業になる」とか言われ、バスに乗り遅れるな式でたくさんの有象無象な計画が立案され、バブル的な様相を呈しているのを見ると、「洋上風力発電も結局はマネーゲームの一つなのか」と思わざるを得ない。

しかし、地域に入って地道に合意形成に取り組んでいこうとする真面目な再エネ会社もあるし、再エネの普及を進めて、脱原発やゼロカーボンに向かって進んでいきたいという人々の声もあるのである。インフラックス社のようなやり方が横行することで、一番割を食うのは、そういう真面目な人々なのである

私はこの記事の冒頭に「この事業は9割方ポシャるし、仮に実現した場合でも、事業計画通りの規模で建設されることはまずない」と書いた。でもそれは、だからといってこの事業計画を無視しておればよい、ということではないのである。

逆だ。インフラックス社のやり方は、再エネの推進を希望する人々こそ反対しなくてはならないと私は思う。彼らが進めてきた再エネ推進の気運は、洋上風力が胡散臭くみえることによって、しぼんでしまうかもしれないからだ。

それに、こういう仮定の計画を平然とぶち上げて、住民の間に混乱をもたらすことを屁とも思っていない会社には、断固として反対の意志を表示しなくてはならない。しかも日本全国でこのような混乱が生まれていることを考えると、単に吹上浜の計画がポシャるだけでは十分ではなく、この会社は社会的制裁を受けるべきだと思う。

「法を無視して巨大計画を立ち上げ、住民に不安を与え、健全な洋上風力発電の発展を阻害した」ということで、県知事(か経産大臣)から「遺憾の意」を表明するくらいのことがあってもいいのではないだろうか。ぜひそういう形での制裁をやっていただきたい。

また、吹上浜沖(沿岸の近く)が、万が一にも「促進区域」に指定されないよう、沿岸の自治体では共同して「景観保全条例」などを作ったらよい。「吹上浜の景観は我々にとって大事なものだから、このまま未来に引き継いでいきましょうね」というような内容だ。自治体の権限は法的には遠い沿岸には及ばないかもしれないが、住民の意思が条例というはっきりとした形で表明されていれば、仮に国がここを「促進区域」に指定しようとしても撥ね付けることが出来るだろう。

ともかく、吹上浜沖の巨大風力発電事業の計画は、私が最初に思っていたよりも、もっといいかげんで、斟酌の余地のない、ひどいものだ。そしてそのような計画が日本中で立案されていることに悄然たる思いがする。

私は、再エネの推進に賛成である。だからこそ、適正なプロセスによって住民との合意形成を行い、環境と調和した形で再エネを導入していくことが必要だと思っている。そういう気が全くないような事業者は、正直、再エネに関わってほしくないのである。

再エネは、みんなを黙らせる「錦の御旗」ではないのだ。

2016年7月19日火曜日

納屋リノベーション、お披露目!

お知らせしていた「納屋リノベーション」が先日完了したので、その結果を報告して自慢したい!

元が牛の肥だめ部分の改修ということで、「このきったない納屋を子ども部屋にしようというのは忸怩たるものがある」と先日の記事にも書いていたのだが、やってみるとこれが想像以上のリノベーションで、見違えるどころではなく、別世界になってしまった。
というのは、リノベーションをお任せした工務店のcraftaさんが、工事が進むにつれてやる気が出てきたのか(!)、見積もりにない作業をどんどんやりだし、また別の現場で出た端材なども使って赤字覚悟で素晴らしい施工をしてくれたからである!

というわけでその素晴らしいリノベーションぶりを披瀝したい。

これが、部屋全体のイメージである。そんなに広くはなくて、大体10畳くらい(3m×6m)。下半分の石積みと上部の木組みがよく調和して素晴らしい空間になった。天井と床は白木の杉材で張ってくれて、それだけで雰囲気が軟らかい。照明はLEDだが白熱電球みたいに見えるものを使い、また天井向きの間接照明もある。

で、同じ場所の工事前の写真が(同じアングルというわけではないけど)これ。

手前にあった石積みを崩して、(この写真ではその石積みの裏に隠れて見えない)下の肥だめを埋め、床のコンクリを塗り直して、その上で内装工事をしてもらった。

元が汚い納屋なので、「居住するには問題ないレベル」くらいにはキレイになるかと思っていたが、むしろ「本宅よりステキな空間」にグレードアップしてしまった。

うちの本宅は築百年の古民家で、こちらもそれなりに居心地の良いいい家である。 だが、このリノベーション納屋は、伝統的な納屋建築と現代的なセンスが見事に融合した空間になっており、オシャレなカフェのための部屋みたいである。

この納屋は元々2階建てだったから、この梁もとても立派で、工務店さんも「今じゃこんな梁の家は作れないですよ」とのこと。湾曲した松が加重を支えるフォルムが何とも言えない。かなり低いので頭はぶつけそうであるが。

ちなみに、その上の黒い部材は、以前納屋の2階を撤去したときに屋根を載せるためにつくった木造トラスを、敢えて見せるようにして、しかもそのトラスに筋交い部材を追加して黒々と塗ってくれたもの。(さっきの写真とは反対側から撮った写真)

入り口部分はこんな感じ。壁の古材は、北米のスノーフェンスというもので、30年間風雪に耐えた木材のヴィンテージ品。これはかなり味がある木材で、わざわざ北米から運んでくるので高級品である。インターネットでは1本3000円くらいで販売されている。古びた納屋のリノベーションにぴったりということで入り口部分にあしらってくれたのである。本当にいい雰囲気だ。

その足下の、入り口の小さな土間部分には桜島の溶岩タイルが使われている。私の思っているリノベーションのテーマは、「木と石」なので、そのテーマにぴったりの素材。しかも桜島の溶岩タイルなので、鹿児島の人間としては最も親しみと崇敬を抱くものだと思う。

入り口から見る石積みと木口(こぐち)。新築の住宅には見られない荒々しい造形が心を躍らせる。そしてやっぱりポイントは石積み! こういう不整形な木材は、新築住宅でもあり得るのかもしれないが、新築の住宅では絶対にあり得ないのがこの石積みである。

この石を外から見たらこんな感じ。このあたりの古い納屋では、だいたいこの写真と同じ赤っぽい石が使われている。この石はかつて枕崎で採石されたもので、軟らかくて加工がしやすいことからこのあたりではよく使われたものである。ただし、現在では既に採石が終了しているらしく、今この石を使って建築しようと思っても簡単には使えない。再利用しようとしても、脆くて壊れやすいのでリユースも難しいと思う。

ところで、石積みと言えば、鹿児島で最近話題になったのが鹿児島港の石蔵倉庫の取り壊し。
【参考】地域のシンボル的な石蔵が取り壊されたことに対する反応を参考に、対話に必要な2つの軸を考える(OFFENSIVE-LIFE!!)
【参考】日本建築学会九州支部『建築九州賞 業績賞』(レトロフト blog)
鹿児島港には、古い石蔵群が残っていて、景観の面でも文化財の面でも大事なものなはずなのに、その一つが取り壊されてコンビニになっちゃった、という話である。

このケースで、一体どういうことで石蔵が取り壊しの憂き目に遭ったのかは知らない。でも多くの人が推察しているように、結局はオーナーがその価値をよく理解していなかったのだろうと思う。

でも、仮にオーナーがその価値を分かっていたとしても、実は古い建物を残していくのは大変である。というのは、建築基準法の問題があるからだ。

新たに建築物を作る時は持ちろん、既存の建築物を改修する時にも建築基準を満たす必要があるが、石積みや湾曲した梁などの昔の構造は、その基準に適合するかの判断が難しい。構造計算をしようにも、湾曲した梁なんかは構造計算ソフトで計算できない場合がありそうである(近似的には可能だろうから、結局は近似値でやると思う)。石積みもまた、構造計算ソフトに普通には入っていない素材だろう。

また大きな(軒が9メートル以上の)石造りの構造物の場合は特に満たすべき基準が厳しくなっていて(建築基準法第二十条第一項第三号)、全部の基準を法の通りに満たそうと思ったらかなりの耐震改修が必要になるので、「そんなに鉄骨の筋交いを入れないといけないなら、もう取り壊しちゃおうか」となりそうなくらいである。

また、この建築基準は文化財保護の面でもかつて問題になって、神社仏閣の改修の際に防火シャッターをつけなくてはならないとか(雰囲気が台無し!)、建築基準法では木造の高層建築が認められていないので五重塔のような高層木造建築の改修の時に鉄骨で補強しなくてはならないとか(何百年もしっかり建ってるのに!)、そういう話があったようだ(方々から批判があって最近はかなり改善されたのではないかと思うが、今の状況は知らない)。

要するに、建築基準法は居住の安全性・機能性だけを見ていて、文化財保護に関してはあまり熱心でないから、古い建築を残していくことの障壁になる場合があるのだ。だいたい、古い基準では耐震や機能性が十分でないということで基準が改まっていくわけだから、古い建築物はそれを満たしていないことが多い。だから建築基準を満たそうとすると、雰囲気をぶち壊しにする鉄骨筋交いを入れないといけないとか、内装を防火素材に変えないといけないとか、元の建築をかなり変えた形にしないといけない。そうなると、内装だけやりかえる、みたいな手軽な改修とはコストも全然変わってくるし元の雰囲気も犠牲になる。結局、大きなコストをかけてまで無様な改修をしたくない、ということで改修を諦めるケースもありそうである。

では、今回のうちの納屋リノベーションではそのあたりをどうクリアしたのかというと、なんと、うちの周りはド田舎で都市計画地域ではないため、建築許可を取る必要がない! なので構造計算も行っていない。改修に際しては筋交いを入れたり、壁を作ったりしているので、実際には耐震性も向上しているとは思うが、正直に言えば耐震基準も満たしていない、と思う(計算していないので本当のところはわからないが)。だから、リーズナブルに、元の構造と意匠を最大限に活かしたリノベーションができたのである。これが納屋リノベーションの秘訣といえば秘訣である。

さて、鹿児島港の石蔵は、今回は残念な結果になったとはいえ、貴重なものであることはある程度共通認識があるだろうから、全部が全部取り壊されてしまうということはなさそうである。しかし、このあたりの納屋はどうだろう。どんどん朽ち、取り壊されていっているのが現状だ。昔の納屋は今の農業をするには適していないし、肥だめがあって湿気もこもるから利用しづらい。それに、そういう納屋が貴重なものか、というと実は今はまだそうでもなくて、まだ結構残っている。

でもあと50年くらいしたら、さすがに多くの納屋は朽ちてきて、かつてこのような石積みの納屋がこの地方には存在した、ということが博物館の中でしかわからなくなるかもしれない。そうなったとき、初めて我々はこの石積みの納屋の価値を理解するんだろうか?

考古学の基本的な視点として、「ありふれたものはなかなか後世に残らない」というものがある。ありふれたものは誰も敢えて残そうとしないからだ。後の世に残るのは、良くも悪くも飛び抜けたものとか、異常なものである。だが、暮らしの有様を再現しようとしたとき、そういうものはあまり役に立たない。暮らしの再現には、その時代のありふれたものこそが重要である。ありふれたものこそ、暮らしに不可欠な、社会にとって大事なものなのである。

私がこの納屋をリノベーションしたのは、単純には将来の子ども部屋問題を解決するためである。でももうちょっと大げさに言えば、この石積み納屋のかっこよさをなくしてしまわないための抵抗でもある。我々の今の社会では、もう、作ろうと思っても、こんな石積み納屋は作ることはできない。かなりコストをかけたら似たようなものはできるかもしれない。でも木材や石の切り出しと加工、建築基準法の問題、工法の問題、いろいろあって、現実的には難しいだろう。

こうして、納屋が私の思っていた何倍もステキにリノベーションされて、ちょっとはその抵抗も実のあるものになったのではないかと思う。これに触発されて、これよりももっとステキな納屋リノベーションが続くことを期待している。

ただ、この納屋リノベーションには一つだけ問題がある。子ども部屋にするにはあまりにステキになりすぎて、子ども部屋にしてしまうのがもったいなくなってきた、ということだ。とはいっても、子どもたちにはもう約束しているし、将来の子ども部屋問題は現実的に存在するので、さしあたりは子ども部屋にするしかない。でもこの部屋を子ども部屋としてだけ使うのはあまりに惜しい。

せめて、子どもたちにめちゃくちゃ汚されてしまう前に、お披露目会を行って生まれ変わりを祝してやらねば、と思っている。




2016年4月21日木曜日

花と情緒

大浦の玄関口「くじらの眠る丘」では、芝桜が満開である(でももう盛りは過ぎた感じ)。

この芝桜がどうしてここに植えられたのかは知らない。地域の要望があったわけでもないようだ。植えられた時は、(工事に随分とお金がかかったようなので)芝桜を植える予算があるんなら、別のことに使った方がいいような…と思っていたが、こうして花が満開になってみると、なかなか悪くない風景である(でも、以前の芝生もそれはそれでよかったと思う)。


せっかくこうしてキレイな芝桜の風景が出現したので、これを活かして何かしてもいいかもしれない。

隣にある大浦ふるさとくじら館(物産館)で物販イベントをしたらどうかと思ったが、この時期にはちょうどめぼしい農産物がなく、また春先ということで農家も春作の準備で忙しい。その上、3月半ばには「たんかん祭り」が開催されているのでイベント後ということもあり、「くじら館」全体の物販イベントを企画するのは難しいかもしれない。

でも満開の花があると、自然とそこに人は集まってくるものだ。最近は、ひねた(?)地域おこしなんかより、花を植える方がよっぽど効果があるという話もある。

例えば、お隣の川辺に大久保集落という所があって、毎年晩秋に一面のヒマワリを咲かせている。ここは川辺の山の中にあり、見るべきものはヒマワリ以外何もないのだが、季節になるとけっこう大勢のお客さんが訪れる。ただヒマワリを見るだけのために。かくいう私も昨年子ども2人を連れて行った。

もうその頃はヒマワリも終わりの頃だったが、多くの車が路駐してあり(駐車場らしきものがない)、たくさんの人たちがヒマワリの中で写真を撮っていた。だが、そこで何かを売っているとかそういうことはなくて、基本的にはただヒマワリを見て帰るだけのところである(盛りの頃は何かしているのかもしれません)。

要するにこれは、ヒマワリで客寄せして何かしようということではなく、ここへ来てもらってヒマワリを見てもらうだけでいい、というような活動らしい。なぜ大久保集落がこのような奉仕活動をしているのかは知らない。種代や圃場準備のための燃料代もバカにならないと思うが、基本的には持ち出しで活動しているようだ。でも結果的に、これは「地域おこし」になっていると思う。

ヒマワリを植えるという、たったそれだけのことで、「地域おこし」になるのである。お金にはならなくても、来なかったはずの人がそこへ訪れ、出会う、というだけでも素晴らしいことであるし、ステキな風景を作るために地域の人が協力するということ自体が、既に「地域おこし」だろう。

いや、それどころか、特産品づくり、観光振興、地域のブランド化、箱物整備、ゆるキャラといったありがちな「地域おこし」よりも、こちらの方がずっとよいのではないかとすら思う。大久保のヒマワリは経済効果という点ではほぼゼロだと思うので、経済至上主義的地域おこし(結局はお金儲けにならないと意味ない、という立場)からは評価されないと思うが、地域に住む人が元気になるだけでも十分に意味がある。

……ところで、以前書いたように今年は「風景」についていろいろ考えている。もちろん「花のある風景」についても。

例えば、どうして花畑を見ると人は元気になるのか? というようなことだ。

打ちひしがれている人を少しでも元気づけるというのは、本当に難しいことで、千言万語をつくして励ましても、気が滅入っている人を笑顔にさせるのは普通できない。むしろ、千言万語をつくすほど、元気づけることから遠ざかるような気さえする。

今、熊本・大分の被災地には精神的に辛い人がたくさんいると思う。近親の方を亡くしたり、地震の恐怖に怯えたり。悲しみと恐怖、不安と絶望。被災して何もかも奪われるということは、途方もない精神的負担を強いられる。

それで、最近は被災者の精神的ケアということがいわれるようになって、例えば東日本大震災の時は「傾聴ボランティア」というものが実践された。これは、「被災者の気持ちをとにかく聞いてあげる」というような活動で、辛いことでも人に話すとちょっとは楽になるということから行われたものだ。

しかし本当に辛い時にはなかなか人に心を開けないもので、カウンセリング(心理療法)などにおいても、具体的なアドバイスより、クライアント(患者)に心を開いてもらう「聞く」技術の方が難しい。バーバル・コミュニケーション(言葉によるコミュニケーション)は理屈的なものを解決していくには適しているが、情緒的な問題を扱うにはあまりに生硬すぎて遠回りな問題解決しかできない面がある。

では、花はどうか? 滅入っている人が、一面の花畑を見たら?

広島の世羅高原というところは花と果樹で有名で、菜の花と菊桃のすごい観光農園があるそうだ(私は行ったことない)。そこでは「挫折した人生をもう一度やり直してみる」と泣く人がいたり、仕事を辞めようと思っていた人が思い直したり、ただキレイというだけでなく人の心まで変わるようなところらしい(少し誇張はあるでしょうが)。

風景には人の心を変える力が確かにあるのだ。

「挫折した人生をもう一度やり直してみる」という人は、どうして花畑を見ただけで気持ちが切り替わったのか。これはよく考えてみないといけない問題である。心理療法の理論では、気が滅入った状態にある人がそれから回復するためには、おおよそ(1)問題の自覚、(2)混乱した状態を解きほぐし、個別の問題に分割、(3)それぞれの問題への対処・気持ちの整理、というような道筋を辿る必要がある。カウンセラーは、クライアントの話を聞きながら問題の本質に迫り、その根本原因が解決するように導いていく。しかし、風景による心の癒しは、そういうものとは全く違う。

問題を解決させるとか、そういうことは全くないのに、なぜか心が癒され、気持ちが整理されるのが風景である。もちろん、万人に通用するわけではない。同じ風景でも、ある人にとってはなつかしい故郷の風景で、ある人にとっては縁もゆかりもないただの地方都市の風景であったりするわけで、同じように花畑を見ても何も感じない人もいる。

しかし、東日本大震災の時に「奇跡の一本松」がどれほどの人に希望を与えたのか、ということを思い起こしてみよう。一本の松には、実利的な価値はほとんどない。一本松の保全なんかにお金をかけるなら、もっと他の実用的なものにお金を使ったらどうかと思った人もいるだろう。だが、ある種の植物は象徴的な価値を持ち、人の情緒を代弁することがある。特に松は、擬人化されたり気持ちが託されたりしやすい植物だ(たぶん、一本残ったのが杉や檜だったらああはならなかっただろう)。

一方、花は情緒を伝える性格を持つ植物で、花が贈り物になるのはそのせいだ。だが、「一面の花畑」には一つ一つの花とはまた違った性格があるようで、私にもそれははっきりとはわからないが、「普段の生活をしばし忘れ、あるがままの自分を回復させる」とでもいいたいような機能があるように思う。だから、「人生をもう一度やり直してみる」という気持ちの変化が起こるのではないだろうか。

今から考えると、東日本大震災の時の復興支援ソングが「花は咲く」だったのは象徴的である。「心の復興」というのは、「家が建つ」でも「街が活気づく」でも十分ではない。もちろんそういったものは絶対必要で、それがないと復興とはいえない。だが、その上で「花が咲く」までいかなくては人間の復興にならないのかもしれない。

これから、熊本・大分の人たちは長い復興の道のりを歩かなくてはならない。今は緊急的に必要なものすらない状態で、花についてどうこう言うタイミングではないと思う。

でも、被災した人たちに早く「花が咲く」よう祈っています。