2016年7月25日月曜日

黒瀬杜氏とは何者だったのか(その1)

酒造の責任者を表す「杜氏(とうじ)」という不思議な言葉の語源に、こういう説がある。

かつてお酒というものは、客人を招く際に前もって家庭で刀自(とじ:古い言葉で「奥さん」という意味)が作っておくもので購入するものではなかった。だから、その家庭のお酒の味の良し悪しが、奥さんの評価にも繋がったほどだという。そこから、酒造の任に当たる人を「とうじ」と呼ぶことになったんだとか(他の説もある)。

そういう説があるくらい、近代以前の世界においてお酒というものは家庭で醸(かも)すのが当たり前だった。清酒の方は江戸時代には産業化されて購入商品になっていくが、鹿児島の焼酎は明治に至るまであくまで家庭で作るものであり、産業的にはほぼ全く作っていなかったようである。

つまり、焼酎造りの技は、かつては鹿児島のどこにでもあったものだ。一方で、前回述べたように黒瀬杜氏こそが九州の焼酎産業の源流の一つでもある。一見これは矛盾する事実だ。焼酎造りの技が各家庭にあったのなら、黒瀬杜氏がいなくても九州の焼酎産業は成立しえたのではなかろうか。

またそもそも、なぜこの九州の端っこの黒瀬という小さな集落が焼酎産業の源流となり得たのか。耕地面積が少ない黒瀬の集落では冬期の出稼ぎが普通で、出稼ぎの仕事として焼酎造りが盛んになったというが、耕地面積が少ない貧乏集落というのは鹿児島にはたくさんあったはずだ。黒瀬集落には、焼酎造りの技が育つような特別な巡り合わせがあったのだろうか?

私には、それらの疑問を完全に解く力はないけれども、黒瀬杜氏の成り立ちを振り返って、黒瀬杜氏とは何だったのか、ということを少しでも明らかにしたいと思う。

さて、黒瀬杜氏が生まれた明治30年代、焼酎産業はかつてない激動の時代を迎えていた。それを表す統計資料がある。鹿児島の焼酎製造量と酒造所数を示すものだ。

明治31年(1898年)を境に製造量も酒造所数も激増している。これは一体どういうことなんだろうか?

まずはこの状況を理解することが黒瀬杜氏の誕生を解き明かす一歩になりそうだ。

明治31年から、いきなり鹿児島の人が焼酎をたくさん飲むようになったということは考えられないので、これには統計上のカラクリがある。製造量が激増している(ように見える)わけは、これまで当局が認知していなかった焼酎製造が把捉され、統計上に現れてくるようになった、という社会システム上の変化なのだ。実は明治32年が、焼酎の自家醸造が禁止された年なのである(明治31年から変化があったのは、制度変更を見越しての事前準備のためであろう)。 さらに時代を遡って、このあたりの事情を振り返ってみる。

先述の通り、かつて鹿児島では焼酎は各家庭で手作りする飲み物だった。江戸時代の制度では焼酎造りは鑑札制(許可制)になっていて、形式的には自由な醸造は禁止されていたが、実態としてはさほど取り締まりはなかったようである。それが名実共に自由化されたのが明治4年。廃藩置県とほぼ同時に酒造税の規則が布告されて、免許料を払いさえすれば誰でも醸造ができるようになったのである。

といっても、鹿児島では西南戦争の前で、この頃は明治政府の言うことはあまり聞いていなかったので、この規則変更は鹿児島の社会にあまり影響を与えていなかったと思われる。それどころか、鹿児島では西南戦争前には地租改正もまともに行っていなかった。明治政府にとって、地租(固定資産税)と酒税は国税の2大柱であるが、その徴税システムが確立するのが鹿児島では明治10年代の後半からであろう。

このグラフは、鹿児島県が徴収した国税額であり、酒税の割合は明治44年(1911年)にはほぼ半分にも上っている。この頃、日本は日清戦争(明治27年)、日露戦争(明治37年)と厖大な戦費を用する対外事業のため増税に継ぐ増税を行っていて、その中心はまさに酒税にあったのである。これは鹿児島県だけでなく全国的な傾向であった。

こうした酒税徴収システムを構築するためには、自家醸造はいかにも都合が悪い。お酒(焼酎)を作っても家族や親戚で消費するから帳簿上に製造・消費の記録が残らず、酒税を徴収することができないのである。そのため明治政府は、明治4年に一度は自由化した醸造を、明治32年に禁止することにしたわけだ。徴税を確実にするため、というのが主な理由であった。

このため、醸造免許の仕組みも劇的に変わっていく。

これは鹿児島県内の醸造免許人員の明治24年から昭和2年までのグラフであるが、大正年間に大きなピークがある。明治24年には販売を目的として醸造免許を持っているのは県内にたったの100人程度しかいなかったが、明治34年には3600人に達している。

この劇的な増加のわけは、自家醸造が禁止されたために、多くの人が醸造免許を取得したことによる。つまりこの時代、実際に焼酎造りが大ブームになったというよりも、それまで自家醸造で家族や親戚のために焼酎造りを行っていた人が、自家醸造禁止を受けて販売目的という名目で醸造免許を取ったのであった。

しかしもちろん、その実態はほとんど自家消費であった。いくら販売目的としていても、おそらく帳簿も不完全で、徴税の面では甚だ不十分であったろう。これでは、自家醸造を禁止した意味がないのである。また、これまで家庭で製造・消費していたものがいきなり禁止されても、その需要が減るわけではなく、すぐに製造体制(産業)が育つわけでもない。焼酎を飲みたい人はいるのに、売っているところはないという状況だ。そのため税務監督局は集落での共同醸造を認めていた。実態的には自家製造・自家消費であるものを、集落での共同事業ということで許可したわけだ。これが醸造免許と酒造所の激増(最初に出したグラフ)の理由である。

そこで、明治42年(1909年)に鹿児島税務監督局に局長として赴任してきたのが、勝 正憲というやり手の男だった(勝は後に政治家に転身して逓信大臣まで務める)。勝はこの登録免許・酒造所が乱立する状況を打破するため、その整理を断行する。その主目的は徴税を確実にするためということもあったが、未熟な酒造所が乱立したことによる業界の混乱を収拾するという意味もあったようである。小規模酒造所が品質の悪い製品を売ったり、過当競争で価格が低下したりしており、勝の赴任前から酒造所の淘汰が兆していたのは確かだ。

勝は、将来の発展が望めない小規模な酒造所を中心に免許を取り消し、本当に販売目的でやっていけるところのみを残すことにした。鹿児島に3500以上もあった酒造所は、勝の改革によってほぼ10分の1の300程度まで整理されることになる。この勝がやった改革が、鹿児島の家庭での焼酎造りが終わり、「焼酎産業」が始まったきっかけである。

もちろんこの改革は鹿児島県民に大反発を招くことになった。鹿児島の焼酎造りはこの時点でもおよそ400年の歴史がある。これまで各家庭で醸していたものが急に禁止され、どこかから焼酎を買ってこなければならなくなったわけで、しかもそれが増税のためであったのだから、これはいわば国家による文化の破壊であった。この改革に反対するため、1912年には鹿児島で「酷吏排斥苛税反対大演説会」が行われ、その聴衆は5000人に及んだという。地元紙「鹿児島新聞」や「鹿児島実業新聞」もこの増税には反対し、新聞紙上でも当局糾弾の運動は繰り広げられたが、それも結局は挫折し、酒造所数の整理は断行されていった。

さて、勝の改革により、酒造所の数がこれまでの10分の1になったということは、需要の方が不変とすれば、1つの酒造所あたりの製造量は10倍にならなければならない。これは大変なことである。製造能力を10倍にするということは、ただ甕の数を増やすとか、雇用者の数を増やすということだけでなく、本質的な技術の転換を必要とする。

例えば、お米を炊く、というような単純なことを考えても、3合炊くのと5合炊くのでは火加減が違うし、1升を鍋で炊くとなるとかなりコツがいる。1斗(18リットル)炊くのは普通の人にはほぼ不可能で、大量の米を処理しようとすると炊くのではなく蒸さなければならない。米を蒸すには炊くのとは違った技術と設備がいるわけで、お米を炊くだけでも大規模化は一筋縄ではいかない。

ましてや、焼酎造りは微生物(麹・酵母)を扱う。焼酎を大規模に造ろうとすれば、家庭の味噌・醤油置き場のようなところで細々と作っていた時の技術とは、自ずから違う技術が必要となってくるのである。温度管理一つとっても、大量に作るのは、少量作るのに比べて格段に難しい。何しろ、大量のものというのは、温度をすぐに上げたり下げたりすることが難しいのである。

そして、この頃の焼酎造りというのは、今に比べて失敗が多く、腐ってしまうことが多かったようである。となると、大量に仕込むと腐敗した時の損失も大きいわけだ。家庭で少量ずつ作っていた頃は、焼酎造りに失敗しても「今回は残念だったね」で済むが、産業として作るようになると仕込みの失敗は経営破綻にも通じる。急激な規模の拡大を求められた酒造所は、こうしたリスクとも戦わなくてはならなかった。そのために、焼酎の大量生産のノウハウを持つ技術者の必要性が高まってくるのである。

そしてそのノウハウを確立しつつあったのが、ちょうどこの頃に杜氏集団として形をなしてきた、黒瀬杜氏だったのである。

(つづく)

【参考資料】
『南のくにの焼酎文化』2005年、豊田 謙二
※掲示したグラフは、全て本書より引用しました。
『焼酎』1976年、福満 武雄

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