2016年8月4日木曜日

黒瀬杜氏とは何者だったのか(その3)

黒瀬杜氏がどうやって始まったのか、はっきりとは分からない。

ただし、黒瀬杜氏の系譜は3人の初代杜氏へと遡れる。黒瀬常一、黒瀬巳之助、片平一(はじめ)の3人である。この3人がどのように焼酎造りを学んだのかということは確たる記録がないものの、様々な証言を突き合わせてみると次のように推測できる。

まず、黒瀬から一番最初に酒造りの出稼ぎへ行ったのは、片平一らしい。おそらく、焼酎の自家製造が禁止された明治30年前後のことと思われる。片平は、阿多の人から杜氏はよい稼ぎになると聞いて酒造りを志したそうだ。彼は最初に宮崎の小林本庄に行って、清酒と米焼酎造りを学んだ。

その少し後、黒瀬常一は加世田の村原にあった「タハラデンゴロウ」の焼酎屋に行って下働きをした。さらに、3人(あるいは、黒瀬巳之助を除く2人)は、一緒に鹿児島の中馬殿(チュウマドン)の焼酎屋で下働きしたが、そこでは沖縄の焼酎造りの技術者も雇っていた。そのうち、加世田の下野焼酎屋というところがその技術者を引き抜いたので、彼らは一緒に中馬殿から暇をもらって加世田に行き、その技術者の下で5〜8年修行して杜氏になったという。3人が杜氏として独り立ちしたのは、明治35年〜38年くらいまでの間のようだ。

ここでのポイントは、中馬殿の焼酎屋にいたという「沖縄の焼酎造りの技術者」の存在だ。明治30年代から大正時代の始めまでは、焼酎業界の激動の時代である。需要に応えられるだけの焼酎産業がまだ成立しておらず、技術的にも確立していなかった。そんな時代、鹿児島には沖縄から泡盛造りの技術者が出稼ぎに来ていて、実際泡盛もたくさん売られていたらしい(当時の新聞に泡盛の広告が結構出てくるし、戦前は沖縄から本土へ泡盛が1万8000石ほど輸出されていた)。

前回述べたように、この時代の芋焼酎造りの技術的変革は主に2点あって、それは「二次仕込み法の確立」と「黒麹(くろこうじ)の使用」であるが、実はこれはどちらも沖縄の泡盛造りの影響を強く受けたものだ。

泡盛というのは、黒麹による米麹のみから出来る焼酎のことで、芋焼酎造りに使う黒麹が泡盛由来であることは明白である。また「黒麹による米麹」で作った泡盛の醪(もろみ)は、芋焼酎の二次仕込み法における一次醪に他ならないのである。つまり鹿児島の芋焼酎というのは、まずは泡盛風の醪(=焼酎の元)を作っておいて、そこにさらに蒸した芋を追加投入して作られる焼酎ということなのである。

黒瀬の3人の男は、おそらくは泡盛造りの技術者から焼酎造りを学んだのだろう。それが、鹿児島の焼酎産業の原型を作った。泡盛造りを応用した焼酎造りによって、芋焼酎の大量生産が可能になったのである。

ところで、ここで一つの疑問が湧く。どうして、泡盛造りが大量生産の技術になりえたのだろうか、ということだ。

実は、泡盛と芋焼酎は、その歴史的位置づけが全く異なる。鹿児島の芋焼酎は、かなり古くから庶民に愛されたお酒であり、自家製造も盛んだった。対して泡盛は、ずっと権力者によって管理されてきた。薩摩藩が琉球を征服した時、泡盛を貢納品として指定したことから、琉球は薩摩藩を通じて幕府に泡盛を毎年献上する必要があった。さらに、泡盛は中国への貢納品としても使われたという。

このように、泡盛は重要な貢納品であったため、琉球では泡盛造りは限られた人にしか許可されなかった。首里の王家のための泡盛造りを行う「焼酎職」が置かれ、その焼酎職となった40の家にしか泡盛造りは認められていなかったのである。焼酎職でないものが泡盛をつくれば、死罪または流罪となったという。泡盛は歴史的に、王家が独占していたものだ。これが自由化されるのは、鹿児島の焼酎と同じく明治の頃である。

つまり、泡盛は鹿児島の焼酎とは違って、自家製造・自家消費の地場産品ではなかった。最初から輸出(貢納)を念頭に置いた、組織的に製造される商品だったのである。しかも貢納品であったために、かなり厳しい品質管理がなされていたのではないかと想像される。おそらくそのために、泡盛造りには大量生産に適した技術が育っていた。大量に、品質が安定した商品を作る技術、それがまさに明治後期の鹿児島の芋焼酎造りに求められていたものだった。沖縄の泡盛と鹿児島の芋が出会って、現代の芋焼酎が生まれたのは歴史的必然とすらいえるかもしれない。

沖縄の、泡盛造りの技術者から焼酎造りの技を学んだ3人の男は、自分たちが杜氏として出稼ぎに出て行くときは、親類縁故の若者を同行させた。これは蔵子(くらこ)といって、要するに焼酎造りのスタッフである。蔵元へは、杜氏一人で出向くのではなくてチームとして働きに行ったわけだ。だが杜氏は、蔵子にはほとんど教えるということをしなかったらしい。それでも蔵子は数年共に働くうちに焼酎造りの技を盗んで、やがて杜氏として独り立ちしていった。

初代の3人の男は、2代目として12人の杜氏を育てた。次の3代目は34人になった。こうして黒瀬には、明治後期から大正にかけて杜氏の技術者集団が急速に形成されてきた。なにしろ、杜氏というのはいい仕事だった。確かに、出稼ぎのつらさはあった。何ヶ月も家族と離れて、夜も寝られない作業が続いた。杜氏は麹や酵母という生き物を相手にする。夜中でも、ちょっとでもおかしいと思えば麹の様子を見なければならない。辛い仕事でもあったが、杜氏は焼酎業界から強く求められていたので、社会的地位も高く、また高級取りでもあった。

当時の給料は、「学校の校長クラス」であったという。昭和37年に鹿児島県が行った調査によれば、杜氏70人の平均給与が他の業種と比較されているが、その時点でも杜氏の給与は他の業種全てを上回っている。明治大正の頃を思うと、黒瀬のような僻地の集落にいれば、儲からない百姓仕事か漁師仕事しかできなかっただろう。 それが杜氏になれば、焼酎造りにおいては絶対的な発言権を持ち、蔵元には家族同然に遇され3度の食事も必ず白米が出て、しかも相当な高給が貰えるとなれば、杜氏は集落の憧れの職業になるのは自然なことだった。

だからこそ、杜氏の技は親類縁故の者以外には決して漏らさなかったという。黒瀬杜氏の系譜において、第6代までの杜氏は、ほとんどが黒瀬、片平、宿里、神渡、久保の5つの姓で占められる。黒瀬が「杜氏の里」となり得たのは、その技術を内に守り続けた、一種の閉鎖性が作用していることも否定できない。別の言葉で言えば、「強烈な同族意識」である。

もともと、黒瀬集落というところは、「強烈な同族意識」のあったところらしい。耕地面積が人口に比べて少なく貧しかったため、「無常講(ムジョコ)」といって相互扶助のためにお金を出し合うのが盛んで、人びとは助け合って生きていた。また、財産の分割を避けるためともいわれる「いとこ婚」が多く、血の結びつきはさながら編み目のようであった。

黒瀬杜氏のことが解説されるとき、「耕地面積が少ない黒瀬集落では冬は出稼ぎに出ざるを得ず、そのために焼酎造りの出稼ぎが盛んになった」などとと言われるが、これは正確とは言えない。(その1)の記事に書いたように、そのような集落は鹿児島には他にもたくさんあったし、実は黒瀬の耕地面積は少なくない。むしろ笠沙において黒瀬は最大の集落であり、人口も一番多かった。ただ、人口が多かった分、冬場に出稼ぎに行かなければならない人間もまた多く、それが大きな杜氏集団が形成できた要因でもあろう。

そして、焼酎造りの技を頑なに外に出さなかった閉鎖性が加味された。技術というのは、その黎明においてはある程度の「密度」を必要とする。J.S.バッハが音楽一族であったバッハ一族の巨星として生まれたように、技術は小さな集団の中でとぐろを巻いているときに花開くことがある。あるいは、コンピュータの黎明においてたった数人の若者が世界を変えたように。芋焼酎造りの技術が確立する過程において、黒瀬集落に生まれた杜氏たちが同族の中で切磋琢磨したことは、おそらく意味があったのではないかと思われる。

しかし、杜氏という職業は、高度経済成長とともに魅力のないものになっていく。他の業種の給料も上がってきたこと。社内育成の杜氏も育ってきたこと。そして醸造学の進歩と機械化の進展。こうしたことで、杜氏の必要性がどんどん低くなっていった。特に自動製麹器の開発が大きかったようだ。これは、例の河内源一郎商店が開発したもので、手間がかかってしかも失敗が多かった製麹(麹造り)を自動化するものである。これにより、焼酎造りの失敗が随分なくなったという。経験と勘、だけに裏打ちされていた杜氏の技術は、醸造学の進展によって微生物の培養ということに還元され、それに基づいた自動化・機械化によって置き換わっていった。

もはや黒瀬杜氏たちは、我が子や親類縁者にも、杜氏を継いでもらいたいとは思わなくなった。今はそれよりも、ずっとよい職業があるはずだ、と。こうして、最盛期には350人以上いた黒瀬杜氏は、今となっては片手で収まってしまう。おそらく、あと10年で黒瀬杜氏は一人もいなくなり、歴史的存在となるであろう。

先だって行われたイベントにおいて、(黒瀬杜氏ではない)ある地元の杜氏は「黒瀬杜氏がなくなっちゃっていいのかなって思うんですよ」と言っていた。九州の焼酎産業の源流となった黒瀬杜氏、それが歴史の中の1ページに綴じられようとしている、今がその時である。

私は、黒瀬の人たちに意見を聞いてみたいと思う。「黒瀬杜氏」は社会的使命を終えたということで、もう終わりになった方がいいと思うか、それとも、例えば黒瀬に生まれた人でない杜氏にも称号を付与するなどして、別の形でも「黒瀬杜氏」という名前が消えない方がいいと思うか。やっぱり、黒瀬のことは黒瀬の人たちの意見が最優先されるべきだろう。

とはいえ、「黒瀬杜氏」というのは南さつまが誇りうる歴史なのでもあり、仮に「黒瀬杜氏」が一人もいなくなったとしても、黒瀬杜氏の系譜を受け継いでいる人や蔵が消えてなくなるわけではない。躍起になって名前だけ残すのはみっともないと思うが、そうした系譜・歴史が有耶無耶になってしまうのはいかにも惜しいことだ。

私は、今回黒瀬杜氏のことを調べてみて痛感した。我々はまだ、黒瀬杜氏が何者だったのか知らないのだと。笠沙には「焼酎づくり伝承館 杜氏の里笠沙」があって、黒瀬杜氏の資料が若干収蔵されている。しかしこれだけでは十分でない。なぜなら、黒瀬杜氏の技が、どこでどうやって花開いたのかがよくわからないからだ。黒瀬杜氏たちは九州一円に出稼ぎに行ったといわれているが、その行き先とその蔵元の製品を一つ一つ訪ねて、黒瀬杜氏がもたらしたものを検証したらいいと思う。

そういう真面目な検証の先に、九州の焼酎産業における黒瀬杜氏の意味が朧気ながらに見えてくるのだと思う。そういう検証を行える時期は、もうギリギリになっているかもしれない。そうだとしても、誰がそんな面倒な検証を行うのか? といわれると私も困る。自然なのは市役所が大学の先生に委託することかもしれないが、そんな地味な仕事は行政も大学の先生もやりたがらないだろう。やはり、「黒瀬杜氏」は歴史の霧に消えていくしかないのだろうか。

ところで最後に、黒瀬杜氏の先輩格である阿多杜氏について、私の仮説を紹介しておく。どうして阿多には、黒瀬より先に杜氏集団が形成されたのか、ということだ。阿多といえば、昔は「阿多んタンコ」が有名だった。タンコすなわち桶である。阿多は、タンコ職人がたくさんいた村だったのである。そして、焼酎造りにはバカでかい桶が必要になる。桶づくりや、桶の補修のために、焼酎屋にはタンコ職人がいつも出入りしていただろう。そういうタンコ職人の中で、「ちょっと手伝ってくれないか」と泡盛の技術者に誘われたものが、最初の阿多杜氏になったのではないかと思う。

これは、検証可能なのかすら分からない仮説である。阿多杜氏についてはわからないことが多いのだ。最後の阿多杜氏、と言われるのが、上堂園孝蔵さんという人だ。「阿多杜氏」は、黒瀬杜氏より一足先に歴史的存在となっていく。阿多杜氏が何者だったのか、よくわからないままに。

私としては、黒瀬杜氏も阿多杜氏も、その名前は消えゆくものだと思っている。黒瀬に生まれた杜氏が「黒瀬杜氏」だというのなら、消えてゆく方が潔い。だが、その歴史は誰かが受け継いでいって欲しい。坂を登り切れば素晴らしい海の景色が見える谷、黒瀬集落に、現代の焼酎産業の源流があったことは、どこかに「記憶」されていって欲しい。その歴史を受け継ぐ杜氏が、例えば「南薩杜氏」のような新しい存在として、また歴史を刻むことがあるのなら、それが一番いいような気がする。

南さつまには7つの焼酎蔵がある。偶然だとは思うが、県内の自治体の中で一番多いらしい。もちろん、黒瀬杜氏や阿多杜氏の系譜を継いだ焼酎蔵である。お隣の枕崎には薩摩酒造があって、こちらも黒瀬杜氏が腕を振るった蔵である。南薩にあるこうした焼酎蔵が、「黒瀬杜氏」や「阿多杜氏」の歴史をどのような形で受け継いで行くのか、興味を持って見ている。

【参考文献】
焼酎杜氏」1980年、志垣邦雄
焼酎の伝播の検証と、その後に於ける焼酎の技術的発展」2010年、小泉 武夫
『現代焼酎考』1985年、稲垣真美
この他「杜氏の里笠沙」の一連の展示を参照しています。
また、「リレーインタビュー」という一連の記事が、杜氏の仕事ぶりについて勉強になりました。

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