2021年11月26日金曜日

宝福寺での茶栽培の記録——宝福寺の歴史と茶栽培(その1)

南九州市川辺町清水には、かつて忠徳山宝福寺(曹洞宗)という寺があった。

宝福寺は「山ん寺」として知られた大きな寺院で、往時はお茶が栽培されていたという。その廃寺跡(今寺跡)には、その頃の名残と見られるチャノキが今でも自生しており、このチャノキは中国から渡ってきた原種の形質を保っていると言われている。しかしながら、宝福寺での茶の生産は記録が残っていないためよくわからないことが多い。そこで、既出の情報を整理し、宝福寺の歴史を振り返ってその茶生産がどのように始まったのかを推測してみたい。

まず、藩政時代(またはそれ以前)に宝福寺で茶栽培がされていたことを示す一次史料を見つけることはできなかった。編纂ものとしても、例えば江戸時代後期に編纂された『三国名勝図会』には宝福寺の項目があるが、茶が栽培されていたとは一言も書いていない。その記載の出典である『川邊名勝誌』も同様である。宝福寺跡にチャノキが自生している以上、かつての宝福寺で茶が栽培されていたことは確実と思われるが、名勝誌等になぜ記載がないのかは謎である。

次の二つの史料は、近現代の編纂ものだが宝福寺(または川辺)での茶の生産・流通について触れている。なお文章番号は便宜的につけた(以後同じ)。

【史料一】『川邊村郷土誌』
(一)「延享年間(二四〇四※)煎茶蒸茶各々少し宛(ずつ)江戸御用として買入度に付風味茶として差出べき様寶福寺に申付けらる」
(二)「寛政九年(二四五七)二月十五日茶園仕立方被仰渡候に付苗木二千三百八十株を新に植附其旨届出たり」
(三)「文久三年(二五二二)正月町名子源右衛門の子與八へ茶、卵一手買ひ纏め方差許され錢四十二貫文宛上納することを許可せらる」
(※原文ママ。皇紀による換算。以下同様。西暦換算では、延享年間=1744〜47年、寛政九年=1797年、文久三年=1863年。)
【史料二】『川辺町郷土誌』
(一)「熊ヶ岳の宝福寺では茶を毎年藩に上納して銭一貫文ずつを賜ったという」

これらの記載は、郷土誌編纂の際に何かの史料から抜き出したものと考えられるが、その原典を探し出すことが出来なかった。『旧記雑録』ではないかと考え、該当の年代を一ページずつめくりながら確認してみたがこれらの記事は存在していないようだ。原典史料をご存じの方は御高教いただけると有り難い。

原典史料が不明であるため、本来はこれらの記述はいくらか留保して考えなければならない。正確に原典を転記していないかもしれないし、原典史料の信頼性が低いかもしれない。しかし郷土誌編纂時には多くの人がチェックしたはずであり、ある程度確かなものとみなせると思う。

またこの他、【史料二】には、直接宝福寺に言及したものではないが次の記述がある。

【史料二】『川辺町郷土誌』
(二)「万治元年(一六五八)の検地では、田部田村に茶一斤二百三十匁が記録され、享保九年(一七二四)の内検では両添村に茶九十匁を生産したことになっている」
これらの記述から宝福寺での茶栽培について読み取れることを少し考えてみたい。

まず【史料一】(一)では、延享年間(1744〜47)に「煎茶蒸茶」を「江戸御用」として買い上げたいので「風味茶」を宝福寺に差し出すよう申しつけている。「江戸御用」が、江戸の藩邸における藩主の「御用茶」なのか、将軍に献上する「将軍家御用茶」なのか判然としないが、いずれにしても最高級品の茶が求められることは間違いない。当時の宝福寺では、薩摩藩内において最高級品の茶が生産されていたということになる。ちなみに、鹿児島県内で同じく茶が栽培されていた寺院として吉松の般若寺(真言宗)が知られている。『三国名勝図会』の「吉松」の項(巻之四十一)には次の記載がある。

【史料三】『三国名勝図会』(巻之四十一)
(一)[物産]「茶 當郷諸村の内に多く産す、名品種々あり、本藩の内、茶の名品は吉松、都城、阿久根を以て、上品とす、其の内にても吉松の産は、往古より特に久しく名品を出す、凡そ當郷の地は、茶性に相愜(かな)ひ、茶種を蒔ざれども、山林の間、天然に生じ易し、その名産ある推て知るべし」
(二)[般若寺]「茶園 當寺の境内に多し、名品にして、世に是を賞美す、名を朝日の森と呼へり」

『三国名勝図会』編纂の時点(天保期(1831〜45))では、既に宝福寺の茶は名品ではなくなっていたということなのか、または地域の特産品と呼べるものではなかったからなのか、宝福寺の茶についてはこの記事では触れていない。

なお【史料一】(一)の「煎茶」と「蒸茶」の違いはよくわからないが、少なくともこの頃の宝福寺のお茶は抹茶ではなかったようである(全国的な趨勢としても江戸時代には煎茶が一般的になっていた)。

次に【史料一】(二)を見ると、寛政九年(1797)に茶園の仕立て方について藩から申し渡しがあり、苗木2380株を新に植え付けた旨を届け出ている。これは宝福寺の茶栽培が実質的には藩の支配下にあることを示している。実際、それから数年後の文化期(1804〜18)には、薩摩藩は茶を藩の専売事業に位置づけ、この頃から藩の強力な奨励がなされている。しかしながらこれは逆にいえば自由な取引を禁じることでもあったので、あまりうまくいかなかったと言われている(以上『鹿児島県茶業史』による)。

また茶の苗木を2380株植え付けたということについては、当時は今のような密植が行われることはなかったと考えられるし、現代の茶園の標準的な植え付け本数が反当たり1500〜2000株であることを踏まえると、2反(20a)ほども増産したように見受けられる。機械化が進んだ現代ではこの程度の増産は容易だが、当時は全てが手作業であるためかなり力を入れた新植だったと思われる。

次に【史料一】(三)では、文久三年(1863)に町人と見られる与八が茶・卵の「一手買い」、つまり独占的な買い占めの権利を得て、その許可料が年銭42貫文だったとしている。これは宝福寺の茶とは書いていないので、ここで与八が「一手買い」を許された茶がどこで生産されたものだったのかは明確ではない。しかしながら、薩摩藩では茶を専売品にする以前から、茶には高額な税金がかけられていたので、民間の換金作物としてはあまり生産されていなかったと考えられる。また薩摩藩では、この記事の三年前である万延元年(1860)に茶の専売制度を解いて自由販売品にしている(『鹿児島県茶業史』)。そうした状況証拠からすれば、この記事は町人の与八が宝福寺の茶の卸売りの権利を得たというように読めると思う。

ところで【史料二】(一)では、年代不明ながら宝福寺では毎年藩に茶を上納し「銭一貫文」を賜ったというが、銭一貫文とは銭貨1000文のことで、現代の貨幣価値にするとだいたい1万円強になる。江戸時代のどのあたりを換算の基準にするかにより上下するるにしても、たいした金額ではない。文久三年(1863)に与八が茶の一手買いの権利を年額42貫文で手に入れたのを見ても、藩から下賜される金額としてはいかにも小さい。これは史料の誤記ではないかと考えられる。

最後に【史料二】(二)では、これらの資料中で最も古い年代である万治元年(1658)に、田部田村では茶が一斤230匁=約1.5kgが生産されていたと述べている。田部田村の検地結果であり宝福寺の茶生産ではないが、近世以前において茶の栽培が寺院を中心に行われていたことを考えると、宝福寺での茶栽培はこれに先駆けることは間違いないように思われる。

これまでの史料をまとめると次のように言うことができる。即ち「宝福寺の茶は少なくとも江戸時代の初期には栽培されており、江戸時代半ばには藩内における最高級品であった。しかしやがて『三国名勝図会』等でも特筆されるものではなくなっていき、十八世紀末には藩の強い統制を受けて増産するものの、やがて販売自由化された」ということになろう。そして明治初期の廃仏毀釈によって宝福寺が廃寺になることによって茶栽培も終了したのである。

(つづく)

【参考文献】
『鹿児島県茶業史』1986年、鹿児島県茶業振興連絡協議会編

 ※冒頭写真は宝福寺跡に今も自生するチャノキ

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