2022年2月24日木曜日

幽閉寺としての宝福寺——宝福寺の歴史と茶栽培(その4)

(「元寺と今寺、宝福寺の拡大」の続き)

近世末期に編纂された『本藩人物誌』という史料がある。戦国時代を中心に、15世紀半より17世紀までの約二世紀にわたって活躍した島津氏の一門・家中の諸士のいろは順による略伝集であるが、この史料にいくつか宝福寺が登場する記事があるので管見の限りで抜粋してみよう。

【史料五】『本藩人物誌』({}内は原文では割注)
(一)「新納二右衛門久親{初宮内少輔}(中略)正保三年島津大和守久章川辺宝福寺ヘ寺領ニテ遠島被仰付候得共元来無道人之故御家老衆下知ニ可被致背違モ難計トテ久親并市来備後家尚ヲ宝福寺ヘ差越久章無異議御下知ニ可被相附旨得ト申合候処初ハ承引無之候得共漸ニ屈シ納得ニテ伊東仁右衛門祐昌高崎宗右衛門能延御使ニテ遠島被仰付候旨被仰渡候ニ付久章出寺清泉寺江被差越一宿ニテ候然処久章家来ニ三次ト申者宝福寺ニ罷在候ニ付久親三次ヲ召列清泉寺ヘ差越候於途中三次ヨリ久親ヘ切付候顧帰リ三次ヲ打果シ早速致帰宅候トモ同廿四日右之疵相破レ死ス于時四十四歳也(後略)」(巻之二)
(二)「大野駿河守忠宗{三郎次郎治部大輔}(中略)竜伯公初テ御上洛ノ御供天正十九年四月廿七日於川辺堂尾被誅{川辺宝福寺門前市之瀬トイフ処ニ観音堂アリ忠宗被誅シ地ナリ被誅訳追テ可糺ナリ}」(巻之四)
(三)「荒尾嘉兵衛 但馬カ叔父也但馬ニ与党シテ川辺市ノ瀬ニテ誅セラル」(巻之十三)
(四)「比志島宮内少輔国隆(中略)寛永四年国隆罪科ノ条々被仰出御家老職御免ニテ河辺保福寺ヘ寺領被仰付所領家財没収被仰付同六年種子島へ配流其後切腹被仰付候」(後略)(巻之十三)
【史料五】(一)では、正保3年(1646)に島津久章(新城島津家の当主で島津家久の娘婿)が宝福寺に幽閉されている。なおここでいう「寺領」とは、寺の領地のことではなく寺に幽閉する刑罰の名前らしい。幽閉中の久章は遠島(島流し)を申しつけられたが納得せず、その説得にあたった新納久親らは久章をなんとか清泉寺(谷山にあった宝福寺の末寺)に護送したが、そこで宝福寺にいた久章の家来三次が切り付けてきて、その傷が元で久親は死亡している。

【史料五】(二)では、天正19年(1591)に大野忠宗が川辺の「堂尾」という場所で誅殺されており、割注でそこは宝福寺門前の市之瀬の観音堂がある場所だとしている。なお大野忠宗は川辺の山田2297石を知行する家臣であった。この記事では、大野忠宗は宝福寺に幽閉されていたとか、護送中であったとは書いていないので、宝福寺と大野忠宗の関係は不明であり、また誅殺された理由についても「追って糺(ただ)すべきなり」(=今はわからない)とのことである。

【史料五】(三)に登場する荒尾嘉兵衛は、田尻荒兵衛(但馬)の叔父である。田尻荒兵衛は元百姓であったが武勇に秀でて取り立てられた人物。文禄元年(1592)、梅北国兼が起こした一揆(梅北一揆)に参加して誅殺された。その叔父もこの一揆に参加しており、川辺の市之瀬で誅殺されたのである。本記事でも宝福寺と荒尾嘉兵衛の関係は不明であるが、市之瀬というのはかなり山深いところであり、誅殺の際に偶然にいる場所ではない。【史料五】(二)(三)は、やはり宝福寺と何らかの関係があるものと思われる。

【史料五】(四)では、寛永4年(1627)薩摩藩の家老であった比志島国隆が何らかの罪によって、家老の罷免、「河辺保福寺」(おそらく「川辺宝福寺」の誤記)に「寺領」(幽閉)、家財没収の処分を受けている。さらに2年後には種子島へ配流され切腹を申しつけられている。この記事に依れば、少なくとも1627年には宝福寺は「寺領」を申しつける拘置所・刑務所のような機能を果たしていた。とすれば、その36年前にあたる大野忠宗の誅殺とその一年後の梅北一揆参加者の誅殺も、宝福寺へ幽閉するまでの護送中に行われたと考えるのが自然ではないだろうか。とすると、16世紀末には、宝福寺は「罪人を拘置し、幽閉する寺」とされていたということになる。

宝福寺は二つの点でこうした機能を果たすに適した場所であった。まず、宝福寺は急峻な山中にあり脱走が困難であったということ。そしてより重要なことに、宝福寺は特定の家との関係がないフリーな立場の寺だったということである。この時代の大寺院というものは、広大な領地を持つか、特定の家の菩提寺であるか、その両方であることが多かった。島津本宗家およびその分家、上級家臣などはそれぞれ菩提寺を持って先祖の法要を行い、その見返りとして土地を中心として様々なものを菩提寺に寄進しており、それが寺院の経済を支えていた。そうでない場合も、何らかの経済基盤を持たなければ大寺院を維持していくことができなかったのは言うまでもない。例えば坊津の一乗院は特定の家の菩提寺ではなかったが、島津氏の庇護を受け貿易の後援を行っていたと見られる。しかも広大な寺領を持ち、『三国名勝図会』によれば最盛期には1500石、減じても350石を給与されていたという。一方宝福寺は、『川邊名勝誌』によればわずか59石である。そんな宝福寺が、かつては「薩州三ヶ寺」として知られた大寺院だったというのは奇異な感じがする(他の二つは勝目の「善積寺」、鹿屋市吾平町の「含粒寺」)。

そこで考えたいのは、「罪人を拘置し、幽閉する寺」=幽閉寺にされたことは宝福寺にとってどのようなことだったか、ということである。素直に考えれば、罪人の幽閉場所となることは宝福寺にとっては負担が大きかったと思われる。罪人を監視し面倒を見なくてはならないし、場合によっては門前で切り捨てられることもあったとすれば大迷惑である。であるから、政権側からはそのための相応の見返りをもらっていたに違いない。それが宝福寺の寺院経済を支えていたのであろう。ここではそれが何なのか明らかにすることは出来ないが、もしかしたら茶の栽培も見返りの一つだったのかもしれない。

先にも少し触れたように、藩政時代には茶には高額の税金が課せられていた。伏見の宝福寺が開基される五年前にあたる文禄3年(1594)に、石田三成から薩州奉行にあてた検地書に「茶えん之事、年貢もり申間敷候」とある。これは「茶園への年貢を漏らさないように」との注意であり、既に茶には年貢が課されていたことが知られる。しかも国家権力によって茶への課税は義務づけられていたわけである。この頃の茶への税率がいかばかりであったかは不明だが、慶長年間(1596〜1614)には茶一斤につき籾2升5合の割合で年貢が設定されていたようだ。近代以前の茶産業では、今のような整然とした茶園の仕立てではなく現在の数分の一の生産性しかなかったと考えられている。茶一斤(250匁=約1kg。おそらく荒茶の重さ)の生産にどのくらいの労力がかかったのか分からないが、これにかかる年貢が米2升5合(約4.5kg)ということは、茶も米も今よりもずっと価値が高かったことを考えると大きな負担であったことは間違いない。寛永年間(1624〜43)になるとさらに年貢の割合が上がり、茶一斤につき米3升5合になっている(以上『鹿児島県茶業史』による)。

こうしたことを考えると、宝福寺は幽閉寺になったことの引き換えとして、茶の栽培を無税で行うことが認められていたのかも知れない。『川邊名勝誌』によれば、宝福寺には寺領高59石余りの他に「寺地御免地」が4反9畦9歩、「門前屋敷御免地」が1町7段2畝10歩ある。「御免地」とは免税の土地のことであり、この中で茶の栽培が行われていたとは考えられないだろうか。

しかも織豊政権下においては、茶は単なる嗜好品ではなく非常に重要な役割を負わされていた。茶の湯が外交の舞台となり、また茶器の贈答が政治的な性質を帯びるようになったからである。最高級の茶器は一国の命運を左右するほどの価値を持っていた。茶そのものは消費財であることもあり、それほどの重要性はなかったが、この頃に茶の需要が増したことも確かである。それでは、川辺の宝福寺は、伏見の宝福寺を通じて宇治から茶の種や苗を仕入れて茶栽培を開始したのだろうか。先述のとおり伏見の宝福寺は現存しているため、思い切って薩摩藩や茶栽培との関係を問い合わせてみたところ、ご住職と思われる方から次の回答をいただいた。
「元は真言宗の寺でしたが、本寺宝福寺の住職?が開山となり曹洞宗寺院となったようです。豊臣秀吉の祈願寺として、当時の住職が伏見城内金毘羅堂で祈祷したようです。付近には薩摩藩屋敷跡もありますが、関わる資料は皆無です。当寺は、一代補住ばかりですので資料保存もほとんどありません。」「「茶」に関しては、資料は皆無です。」

このように、推測を裏付ける回答はなかったものの、同時に「現在の本寺跡の写真を見て、一度は拝登したいものだと思っております。」とのコメントをいただき、本末関係が途絶して約150年経過しているにも関わらず川辺の宝福寺に関心を寄せて下さっていることに感激した次第である。なお「豊臣秀吉の祈願寺として」云々については、伏見の宝福寺の開基は秀吉死後であるため、真言宗時代のことと思われる。

以上の通り、伏見の宝福寺から川辺に茶がもたらされたとする仮説は、それを裏付ける史料や遺物が存在せず、空想の域を出ないと言わざるを得ない。しかしながら、宝福寺での茶栽培は江戸時代の初期(17世紀前半)には始まっていたと考えられ、既に考察したように16世紀前半までに始まっていた可能性は低いので、伏見の宝福寺が茶栽培において何らかの役割を果たした可能性はあると考えられる。

<おわりに>

本稿では、宝福寺での茶生産がどのように始まったのかを推測することが目的であったが、その時期についてはある程度絞り込めたものの、それ以外についてはやはり不明であるということが結論である。

とはいえ、茶の伝来については、DNA分析を行えば明らかにすることができるかもしれない。冒頭に述べたように、宝福寺のチャノキは中国から渡ってきた原種の形質を保っていると言われるが、その遺伝子がどの地方のどのチャノキに由来するのかが分析できれば、少なくともどこから伝来したのかは解き明かすことが出来るはずだ。

宝福寺の茶栽培は、現在南九州市で行われている大規模な茶業の直接の祖ではないが、この地域で古くから茶が栽培され、しかもそれが薩摩藩内における最高級品として扱われていたことは注目すべき歴史的事実である。宝福寺の茶栽培の起源を明らかにすることは「知覧茶」の推進にも役立つかも知れない。今後は、文献史学からだけではなく、科学的手法による研究の進展も期待したい。

また本稿を作成するにあたり、『川邊名勝誌』や「覚卍伝」、『本藩人物誌』を読みなおしてみて、字堂覚卍という傑出した僧侶の人生に改めて興味が湧くとともに、宝福寺には茶栽培以外にもまだまだ解くべき謎が残っているということをつくづく感じた。特に伏見の宝福寺の存在は大きな謎である。なぜ豊臣秀吉の死後、政治的に不安定になっていた時期に島津義弘の屋敷の目と鼻の先に宝福寺が開基されたのか、深い理由がありそうである。

2022年、宝福寺は開基600年を迎えたことになる。これを機に多くの人が宝福寺に関心を抱き、宝福寺研究がさらに進展することを期待したい。本稿がその一助となれば望外の喜びである。

最後に、本稿をまとめるにあたり南九州市役所文化財課の新地浩一郎学芸員(役職要確認)に多大なる協力をいただいた。また問合せに快く回答してくださった伏見の宝福寺のご住職にもこの場を借りて改めて感謝の意を表したい。

【参考文献】
足立東平「島津藩政時代の茶の歴史 (I)(II)(III)」
鹿児島県茶業振興連絡協議会編『鹿児島県茶業史』

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