明治初年に、全国各地で廃仏毀釈が起こった。
寺院や神社から仏像が撤去されて無造作に打ち捨てられ、あるいは打ち砕かれた。寺院は取り壊されたり、その建物が別の目的に転用された。僧侶たちは還俗させられ、盂蘭盆会のような行事までもが仏教的だからと取りやめさせられた。追って、葬儀も仏式で行ってはいけないとされ神式の葬儀(神葬祭)を行うよう指導された。千年以上にわたって日本文化に根付いてきた仏教が急に否定されたのである。
しかし、これは明治政府の政策ではなかった。明治政府の目的は廃仏毀釈ではなく「神仏分離」であった。それまで神道と仏教は分かちがたく結びついており、例えば神社のご神体が仏像であったり、神社への祈願にお経を奉納することもあった。逆に仏教でも神々が仏法を守護するという考えで神社への信仰が位置づけられ、いわば仏教と神道は地続きのものであった。神社の境内には寺が建てられ(神宮寺)、寺院の中に鎮守が置かれることも多かった。そういった、神道と仏教が混じり合っている状態を「神仏習合」という。
明治政府が問題視したのはこの状況だ。
明治政府は「復古」を旗印にして出発した。明治政府は江戸幕府を打倒して政権を樹立することの正統性を神話的な古代に求め、将軍ではなく天皇が日本を治める状態があるべき姿なのだとした。明治政府の実質的な出発点となった「王政復古の大号令」では、「諸事 神武創業之始ニ原(もとづ)キ」と宣言し、神武天皇の治世を今の世に再現することを高らかに謳った。それが「復古」だった。
この「復古」という考えに沿えば、仏教は元来の日本にはなかったものであるから、仏教を取り除いた状態に戻さなくてはならないということになる。また神道も仏教と入り交じった状態になっているから、仏教が伝来する前の状態へと純化しなくてはならない。国学者たちはそういう純化した神道を「復古神道」——古代にそうであったはずの神道——として構想した。彼らの構想はそのまま実現したわけではないし、実際にはそう単純に仏教を排除しようとしたのでもないが、少なくとも神社や神道から仏教的な要素を取り除く、という神仏分離政策は実行に移された。慶応4年(1868)、明治政府の出発直後のことである。
後に「神仏分離令」と呼ばれることになる一連の布告は、全国で様々に解釈された。ある場所では寺院の全面的な破壊を意味するものと曲解され、別の場所ではそれほどの破壊は起こらなかった。また破壊が起こった場所でも、地方政府の主導によって粛々と寺院の整理が実行された場所もあれば、路傍の石仏までたたき壊されるなど民衆的な暴動へと発展したところもある。そうした仏教・寺院の破壊運動を「廃仏毀釈」と呼んでいる。
しかし明治政府の意図は、あくまでも神社から仏教的な要素を取り除くということにあり、廃仏毀釈は意図するところではなかった。明治政府は総じて、そうした破壊活動をたしなめ、強引な廃仏を行わないように指導した。とはいえ、明治政府があからさまに神道を優遇し、仏教を冷遇する傾向を有していたのは否定し得ない。 政権の中枢には国学者たちが入り込み、首脳陣にも国学的な素養を有していたものが多かった。政権の基本コンセプト「復古」は、神道を国教化することを求めていた。神話の時代の日本を再現するのが「復古」だったからである。
当然、こうした明治政府の動きには仏教界は反発した。彼らは最初のうちは政府に従ったが、徐々に政府のやり方に釘を刺すようになっていく。そして政府の方としても、仏教界を敵に回すよりは、彼らの協力を得て政権を運営する方がずっと効果的だと考えるようになった。また国学者たちの構想した神道国教化政策は、実際にはあまりうまくいかなかった。仏教は日本社会の基層をなすほど人々の生活に浸透していたし、仏教の代わりとなるはずの新しい神道の教えは急ごしらえ過ぎた。
そうしたことから、神道国教化政策は明治5年3月に終わりを告げる。政府は神道を国教化することを諦め、神道と仏教が共同して国民強化に邁進する体制(教部省・大教院体制)へと移行したのである。政府はもはや仏教を一方的に排斥することはなくなった。全国的には、明治5年以降にも廃仏毀釈が続いた地域はある。しかしそれはあくまでも地方政府や神官、あるいは住民の暴走であったといえる。大まかに言えば、廃仏毀釈は明治5年3月までで終了したのである。
ところが、明治5年に前後して、それまでとは全く異質の廃仏毀釈が動き出していた。 それまでの廃仏毀釈は、政府の「神仏分離令」に触発されてはいたものの、政府の政策そのものとは見なせない。ところがこの廃仏毀釈は、厳然たる政府の政策として行われたものだったのである。
具体的には、明治4年10月に「六十六部廻国聖」と「普化宗」を明治政府は禁止した。また明治5年9月には「修験宗」を廃止する。その他、僧侶の身分を解体するような諸政策が矢継ぎ早に打たれるのである。一般には「六十六部廻国聖」や「普化宗」はあまり馴染みのないものであろうし、当時であってもこれらは比較的小集団であり社会的な影響は大きくなかった。しかしながら、実はこうした宗派の禁止は日本の仏教が受けた被害のほんの一部で、その裏では仏教の在り方を変えてしまうような変革があったのである。
従来、これらの遅れて行われた廃仏毀釈はさほど注目されず、研究書において語られる場合も神仏分離政策の延長線上として理解され、その余波とされることが多かった。しかし2000年代に入ってから、この「もうひとつの廃仏毀釈」は必ずしも神仏分離政策の結果ではなく、それとは異なる原理によって行われたものであることを明らかにする研究が発表されるようになった。
そうした研究結果は、未だ広く知られているとは言えない。それどころか、この「もうひとつの廃仏毀釈」自体がほとんど認識されておらず、それを統一的に記述した本もまだ出版されていないのが現状である。
そこで私なりに、この「もうひとつの廃仏毀釈」を語ってみたいと思う。
(つづく)
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