2021年1月7日木曜日

「柿本地蔵」と「柿本寺」の謎

加世田の郷土資料館に、「木造地蔵菩薩立像」(将軍地蔵像)が展示されている。

地元では、俗に「柿本地蔵」と呼ばれているものだ。江戸時代の作と見られ、なかなか繊細優美で、鹿児島に残る仏像の中では優品に属する。

この地蔵像は、どういうものだろうか。どういう故事来歴で郷土資料館に展示されているのだろう。なにしろ、鹿児島は幕末・明治初期に徹底的に廃仏毀釈を行っている。

だから、この像が廃仏の影響を全く受けていないのは、何か理由があるはずだ。疑問に思って、以前、加世田郷土資料館の方に聞いてみたことがある。そうしたら、「この像は、設立当初からの収蔵品で、受け入れ時の記録が残っていないので分からない」とのことだった。

そんなわけで、その理由については今も分からないままなのだが、この像が何者なのかを調べてみて面白かったので、ちょっとまとめてみよう。

まず、この地蔵像に関する地元の伝説をザックリとまとめると「これは井尻神力坊(いじり・じんりきぼう)が廻国の過程で手に入れて持ち帰ったもので、加世田の柿本寺に安置されていたものだ。だから柿本地蔵と呼ぶ」となる。

井尻神力坊とは、戦国時代の島津氏中興の祖・島津忠良(日新公(じっしんこう))の家臣である。彼は日新公の命を受けて、諸国を巡って法華経を奉納する修行を行った。所謂「六十六部聖(ろくじゅうろくぶひじり)」である。彼はスパイ的な仕事もしていたらしく、諸国の情報を日新公に伝えていたという。ところが廻国修行を終えて加世田に帰ってみれば、日新公は既に亡くなっていた。そこで木から身を投げて殉死したと伝えられる。ちなみに、元鹿児島件知事の伊藤祐一郎氏も井尻神力坊の末裔である。

さて、井尻神力坊が生きたのは戦国時代であるから、どう見ても江戸時代の作のこの「柿本地蔵」は、神力坊が持ち帰った地蔵そのものだとは思えない。

では、この像は一体何なのだろう。そして柿本地蔵とは何なのだろう。

それを考えるには、いくつかの史料を繙いてみなくてはならない。ちょっと地味な作業だがお付き合い願おう。

まずは『加世田再撰帳』という史料がある。これは19世紀半ば、つまり江戸時代の後期にまとめられたと考えられているもので、加世田郷の地理や産業、名物や名所旧跡を絵入りで紹介したものである。この史料に、「柿本寺」に関する事項が数ヶ所出てくる。

そして鹿児島の名勝旧跡について調べる時の基本資料、『三国名勝図会』である。これも同時期にまとめられたもので、薩隅日の三国(島津領地)の情報を絵入りでまとめ、考察を加えたものである。これには、加世田の「柿本寺」の項目はないが、鹿児島市内にある「柿本寺」の項目の中で加世田の方も触れられる。

以下、以上2つの史料の該当箇所を抜粋引用する。読むのが面倒という方は、史料の後に青字で付したポイントだけ読んで頂いたら大丈夫である。

【史料1】「加世田再撰帳 三ノ二」
一、地蔵堂 一宇    格護 日新寺
 従日新寺子方道程二町五十六間
 一、将軍地蔵    一体 長ヶ二尺四寸木立像蓮台金磨
 一、脇士 性善童子、性悪童子    二体 長ヶ各一尺三寸木立像蓮台彩色
 一、鰐口    一口 差渡六寸無銘
 右将軍地蔵ハ井尻神力坊日本国中廻国ノ節負下リタル地蔵ニテ安置ナリ然処 光久公 御代御城内ヱ召移レシニ変事有之彩色等御取繕ニテ亦々如本召返サレ安置スト云
【ポイント】日新寺(今の竹田神社)の管理下にある「地蔵堂」には、井尻神力坊が持ち帰った将軍地蔵が祀られている。島津光久の時代にこれを城内に移したことがあるが、変事があったので彩色などを繕って元の場所に安置しなおした。
【史料2】「加世田再撰帳 三ノ二」
一、石塔 一基(日新寺界内将軍地蔵堂左側)
  天正三年十二月二十七日
  権大僧都神力宗憲法印
 右井尻神力坊墓ニテ柿本地蔵堂左側ニアリ
 日新公ヨリ神力坊ヱ 御国家繁栄長久ノ為ニ一ヶ国ニ於テ六十六部ノ法華経ヲ御奉納ノ 御誓願ノ由ニテ回国被仰付二十二年ニ至テ四千三百五十六部ノ妙経ヲ奉納成就シ 日新公御逝去ノ後帰国ス天正三年十二月二十七日殉死スト云
【ポイント】「将軍地蔵堂」=「柿本地蔵堂」の左側に、井尻神力坊の墓塔がある。
【史料3】「加世田再撰帳 二」
(麓 柿本)
一、山王権現 一社 格護 今泉寺
 従地頭仮屋未申方道程四町十間
 祭神 大已貴命 大山咋命
  木立像 八体 大破
  猿木座像 二体 大破
 祭日 十一月初申
 右山王宮大永四甲申歳十二月十六日薩摩守忠興御建立其后 日新公 御再興ニテ候上代者柿本寺別当寺ニテ候ヘドモ廃壊ノ后今泉寺格護二相成候
【ポイント】加世田の山王権現は、昔は「柿本寺」が別当寺だったが、「柿本寺」が壊れた後は今泉寺の管理となった。
【史料4】「三国名勝図会 巻之四」(※[]内割注)
能満山、所願院、柿本寺[府城の西]
 西田村にあり、本府大乗院の末にて真言宗なり、本尊虚空蔵菩薩[日秀上人一刀三礼の木座像]、開山典雄法印[元和四年遷化]、当寺の伝へに曰、典雄法印は、加世田日吉山王宮の別当寺、柿本寺[加世田柿本寺は、村原村にあり、今廃して寺地存ず]の住持なりしに、 慈眼公御帰依あり、本府当村窪田に一宇を営て、典雄を移住せしめ給ひ、屢祈祷を命ぜらる、其後当寺を今の地に御建立ありて国家安鎮の為とし、典雄を開基とす、因て寺号は加世田柿本寺の名を用ひしとぞ(後略)
【ポイント】鹿児島の西田村の「柿本寺」は、加世田の村原村にあった「柿本寺」の住持であった典雄法印を島津家久(慈眼公)が鹿児島に連れてきて、同名の寺を建立したものである。
【史料5】「三国名勝図会 巻之二十九」
龍護山日新寺[地頭館より未方三町余]
 (中略)
○梅岳君御石塔
(中略)又井尻神力坊といへる修験(中略)其石塔は、日新寺境内、柿本地蔵堂の側にあり、神力が霊とて、今に奇異あり、諸人是を畏る。(後略)
【ポイント】井尻神力坊の墓塔は、日新寺境内の「柿本地蔵堂」の側にある。

史料中には、相互に用語が一致しなかったり、場所の説明が食い違っている部分があるが、細かいことは気にせずに、この史料に基づいて地蔵像と柿本寺のことをまとめると以下の通りである。

●地蔵像
○日新公の家臣、井尻神力坊は、将軍地蔵像を加世田に持ち帰った。【史料1】
○その将軍地蔵は、「将軍地蔵堂」=「柿本地蔵堂」に安置された。【史料1、2】
○神力坊は日新公に殉死して、その墓は「柿本地蔵堂」の側に建てられた。【史料2、5】
○島津光久の時代に、この地蔵像を城内(鹿児島)に移したことがあるが、変事が起こったので彩色し直して元に返した。【史料2】
○『再選帳』『三国名勝図会』編纂の時点(江戸時代後期)、地蔵像と地蔵堂は現存していた。【史料1、2、5】

●柿本寺
○加世田麓の柿本には、山王権現(日吉山王宮)があり、その別当寺(神社の管理をするお寺)が柿本寺であった。【史料3】
○この柿本寺の住持典雄法印は、島津家久に気に入られて鹿児島に移住させられ、典雄を開基として鹿児島にも柿本寺が建立された。【史料4】
○『再選帳』『三国名勝図会』編纂の時点(江戸時代後期)で、加世田の柿本寺は壊れてなくなっていた。【史料3、4】

さて、2つの史料から読み取った情報では「柿本地蔵堂」と「柿本寺」は全く別のものなのであるが、実は地元では「柿本地蔵堂」=「柿本寺」と考えられている。

竹田神社(元の日新寺)の北側に、「柿本地蔵堂跡」・「柿本寺跡」と見られる竹やぶがあって、そこには井尻神力坊の墓があった標柱も立っている(墓は竹田神社に改葬されている)。

少なくとも、ここが「柿本地蔵堂」であったことは、史料からも、遺物からも確かなことである。ではここは、以前は柿本寺でもあったのだろうか?

【史料4】(『三国名勝図会』)によれば、加世田の柿本寺は「村原村」にあったという。日新寺と村原は2kmくらい離れているので、この情報が正しいならここは柿本寺ではない。

だが『三国名勝図会』が編纂された段階で、柿本寺が廃寺になって100年以上経過している可能性があり、であればこれはさほど信憑性のある情報とも思えない。それに、『三国名勝図会』は「村原村には柿本寺の寺地が今でも存在している」と書いてあるが、それらしき土地もない。

それから、もうひとつ気になるのは、現存の「将軍地蔵」がどうも将軍地蔵っぽくないことである。将軍地蔵は、勝軍地蔵とも書き、甲冑に身を包んだお地蔵様である。愛宕(あたご)修験で重んじられ、軍神として信仰された。また江戸時代は火伏せ(火事除け)の神としても信仰された。

一方、現存の「将軍地蔵」は、どう見ても普通の地蔵である。普通の地蔵が「将軍地蔵」として祀られていることも少なくはないから、全くおかしいとは言い切れないものの、ちょっと違和感がある点である。

また、前述の通り将軍地蔵といえば愛宕修験なのであるが、竹田神社の南側は「愛宕上(かみ)」「愛宕下(しも)」という小字が残っている。とすれば、このあたりに愛宕修験の関係者が住んでいたのかもしれない。村原の方にはそういう形跡はないのである。

というわけで、以上の情報から推測される「柿本寺」と「柿本地蔵堂」について時系列で整理すると、以下のような感じになるだろう。

  • 戦国時代、井尻神力坊は廻国修行から将軍地蔵を持ち帰った。
  • 山王権現の別当寺の「柿本寺」は、元々あったか、将軍地蔵をきっかけに創建され、将軍地蔵は「柿本寺」に安置された。
  • 井尻神力坊は、死後「柿本寺」に埋葬され墓塔が建立された。
  • 戦国時代末期か江戸時代初期、島津家久は、「柿本寺」の住持典雄法印を気に入り、鹿児島に連れて行って西田に柿本寺を建てた(余談ながら今でも「柿本寺通り」の名前で残っている)。
  • これによって、加世田の「柿本寺」は廃寺となった。
  • 柿本寺跡には地蔵堂が建てられ、「柿本寺」の将軍地蔵が安置されて「柿本地蔵堂」と呼ばれた。
  • この地蔵堂の管理を行ったのは、今の「愛宕上、下」のあたりに住んでいた修験者だったかもしれない。
  • 島津光久(家久の息子)の時代、おそらくは鹿児島の柿本寺に安置する目的で、将軍地蔵を鹿児島に持ち去った。しかし何らかの問題が起こったので、彩色しなおしたという名目で別の仏像を加世田に送り元のように「柿本地蔵堂」に安置した。(=地蔵像はここで入れ替わった)
  • 明治初期、「柿本地蔵堂」は廃仏毀釈で取り壊された。この時、修験者たちが地蔵像を隠して破壊を免れたのだろう。

要するに、「柿本寺」が家久によって取りつぶしになった跡に建てられたのが「柿本地蔵堂」ではないかということだ。そして、今の将軍地蔵は、井尻神力坊が持ち帰ったものではなくて、光久の時代に交換されたものと考えられる。

先日、「薩摩旧跡巡礼」の川田さんと一緒に柿本寺跡に行ってみたら、古くて立派な五輪塔の残欠が埋まっているのを見つけた。ここは、少なくともお地蔵さんを安置するだけの「地蔵堂」ではなかったことは確実だと思う。ぜひ柿本寺跡を発掘して、実際にどんな場所であったのかを明らかにしてもらいたい。

ところで、「柿本地蔵」にはもう一つ謎がある。冒頭に述べたとおり、鹿児島は徹底的な廃仏毀釈を行っているので古い仏像があまり残っていない。そんな中で、「柿本地蔵」はつくりもよく、しっかりと保存されてきた優れた仏像である。それなのに、なぜか県指定文化財はおろか、市指定文化財にもなっていないのである。私にとってはそれが一番の謎だ。

そんなわけで、これを市指定文化財にして、故事来歴について研究してもらいたい、というのが私の願いである。

※冒頭の地蔵の写真は、2017年に行われた黎明館企画展「かごしまの仏たち〜守り伝える祈りの造形」の図録から引用しました。

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