2022年7月10日日曜日

山内多門「中国西国巡幸鹿児島著御」を巡って

拙著『明治維新と神代三陵—廃仏毀釈・薩摩藩・国家神道』が発売されて約1ヶ月。

売れ行きを出版社に聞いてみたところ、「小社ではなかなかの実績」とのことだった。それなりに売れているようである。

そして、読んだ方からはポツポツとご感想も寄せられている。「知らないことばかりでビックリ」「これまで神代三陵がなぜか閑却されてきたことに気付かされた」など肯定的に評価していただいた。

そんな中で、意外と多いのが「表紙の絵がかっこいい」という感想。

実はこの表紙の絵、私から出版社に「表紙はこの絵にしてほしい」とお願いしたものだ。意外とすんなりその要望を聞いてくれて、バッチリ表紙にあしらってくれた。なので表紙の絵が好評なのは私としても喜ばしい。

この絵は、山内多門という人が描いた「中国西国巡幸鹿児島著御(之図)」という作品。明治神宮外苑の聖徳記念絵画館に展示されているものだ。

聖徳記念絵画館には、この作品も含め、日本画40枚・洋画40枚の明治天皇・皇后の歴史にまつわる絵画が展示されている。これらは、明治天皇崩御をきっかけに、その顕彰のための壁画として(といっても壁に直接描くのでなく、和紙・キャンバス製で)製作されたもので、全ての絵画が奉納されたのは25年後の昭和11年。そしてその画題も、明治天皇の個人的な事績というよりは、国家の歴史と密接に関わったものが選ばれ、国使編纂事業(←これは拙著でも触れています)とも関連して制作された、まさに国家的大事業としての壁画制作であった。

大げさに言えば、これらの一連の壁画は「建国の神話」を表現したものであったといえる。

当然、この制作に関わった画家は、当時最高の技倆を持っていた人ばかりである。「中国西国巡幸鹿児島著御」を描いた山内多門もその一人だ。

山内多門(たもん)は、木村探元から続く南九州の狩野派の掉尾を飾る人物である。

山内多門は明治11年、宮崎県都城市に生まれ、少年の頃に郷里の狩野派絵師・中原南渓に入門。21歳までは小学校教師などをしていたが一念発起し周囲の反対を押し切り上京、川合玉堂に入門した。また玉堂の紹介で橋本雅邦(狩野派の絵師で川合玉堂の師でもある)に師事。そして発足間もない日本美術院に参加し、日本美術院の公募展に第2〜10回と連続で出品して華々しい成績を収めた。また帝展では2〜10回の審査委員をつとめるなど当時の日本画壇の中核的存在だった。

「中国西国巡幸鹿児島著御」は、そんな山内多門が絶頂期に制作した大作である。

島津氏の居城だった鶴丸城(今の黎明館があるところ)に天皇の一行が到着した、明治5年6月22日の様子を描いている。ちなみに明治天皇は、騎馬している人物の前から3番目である。

どうして明治天皇がわざわざ鹿児島まで来たのかというと、西国・九州の各地を回って人心を収攬するための一環だったが、特に鹿児島については当時政府と敵対していた島津久光の慰撫が念頭にあったとするのが通説である。

この鹿児島行幸の際、明治天皇は行在所(あんざいしょ)で神代三陵を遙拝(遠くから拝む)し、これが神代三陵の治定にあたって決定的な役割を果たすことになった。まさに、神代三陵の治定において象徴的な場面が描かれているのが、この作品なのだ。だからこそ私はこの絵を表紙にしたかったのである。

ところで、明治11年生まれの山内多門がどうやって明治5年の出来事を絵に描いたか?

この絵には、鶴丸城の城門である御楼門(ごろうもん)が描かれているが、実は御楼門は巡幸の一年後の明治6年に火災で焼失している。なので山内多門が絵画を制作していた時は影も形もなかったし、当然見た事もなかった。設計図なども残っているわけもない。そもそも、鶴丸城自体が、明治10年の西南戦争で焼失しているのである。

そこでこの絵の重要な参考資料となったのが、明治5年の西国・九州巡幸の際に撮影された写真である。この巡幸には、長崎出身の写真師・内田九一(くいち)が同行していた(なお内田九一は最初の明治天皇の肖像写真を撮影した人物)。彼は各地で名所旧跡の写真を撮っており、そのうちの55点が確認されている。

そして幸いなことに、そこに鹿児島の御楼門の写真も入っていた。

この写真をよく見れば、山内多門の絵に描かれた石垣にせり出す松が、事実に基づいているものであることがわかる。

もちろん、この写真がなかったら御楼門の構造も詳細な点は不明だっただろう。

内田九一の写真のおかげで山内多門は「中国西国巡幸鹿児島著御」を史実に基づいて完成させることができたのである。

余談だが、鶴丸城の前が「城下」のイメージとは違うだだっ広い平野になっているのも興味深い。さらに、城郭の中もほとんど森のようである。鶴丸城には元々天守閣がなかったが、私たちがイメージする城郭とはかなり隔たった姿だったわけである。

さらに余談になるが、令和2年(2020)、御楼門は明治維新150年事業の一環で官民協力のもとに復元された。

その復元にあたって重要な資料となったのが内田九一の写真であったことはいうまでもない。出土品や江戸時代の補修時の史料などは残っていたが、全体的なフォルムについてはこの写真がなければ正確に復元するのは到底不可能であった。

だから、貴重な記録写真をもたらしたという意味でも、西国・九州巡幸には大きな意味があったと言えるだろう。明治維新では廃仏毀釈という破壊運動が起こり、多くの貴重な文化遺産が失われるという負の側面があったが、写真によって当時の社会が記録され、それが後の文化財の再建に繋がるという面もあったわけだ。

ところで、この大作「中国西国巡幸鹿児島著御」を完成させた後、山内多門は病気がちとなり、2年後には54歳で死去してしまった。弟子には宮之原譲、山下巌、野添草郷らがいるが多門が早死にしたこともあって、その後は大きな流れとはなっていない。

ちなみに、明治5年に御楼門の写真を撮った内田九一も、その3年後には31歳という若さで肺結核により死亡している。もし巡幸のタイミングがずれていたら御楼門の写真は残らなかっただろうし、また内田九一も生きていなかったということだ。同じことは山内多門にも言える。文化財というものは、様々な偶然や幸運に恵まれて生まれ、残されたものだということをつくづく感じる。

さらに蛇足だが、山内多門「中国西国巡幸鹿児島著御」の模写が黎明館に所蔵されている。元々山内多門の絵は、鹿児島市が依頼して製作したものだが、これを神宮外苑に奉納するにあたり、その模写を制作していたもののようだ。模写したのは石原紫山。入来町出身の画家である。これは時々展示されるようなので、機会があれば是非見ていただきたい(私自身も未見)。

御楼門が描かれた絵画を表紙にあしらったにのはもう一つ理由がある。元々、この本が自分の中での「明治維新150年事業」だったからでもある。

鹿児島県では2010年代後半、明治維新150年(2018年)に向けて大河ドラマ「西郷(せご)どん」や御楼門再建といった記念事業に官民挙げて取り組んでいた。もちろん明治維新の主役である西郷隆盛や大久保利通、小松帯刀といった人たちの顕彰はやるべきことだ。しかし明治維新には廃仏毀釈という負の面もある。私は、主流の人たちがやりづらい、負の面の明治維新150年事業を自分一人でやってみたかった。薩摩藩出身者たちが明治政府に残した、負の遺産を見直してみたかったのである。

その結果が、『明治維新と神代三陵』である。

明治維新には、その後の日本が破滅に進むことになった兆しが内包されていた。その一つが「神代三陵の治定」であると思う。これは一見、重箱の隅をつつくようなマニアックなテーマだが、これを通じて明治以降の150年を自分なりに見直すことができたと自負している。

というわけで、拙著のご高覧、よろしくお願いいたします。

【参考文献】
金子 隆一「内田九一の「西国・九州巡幸写真」の位置
※内田九一の写真は、同論文から転載しました。東京都写真美術館の収蔵品です。同作品は同美術館のデジタルアーカイブでは公開されていませんが、著作権は既に消滅しています。
都城市立図書館「山内多門 生誕130年展」パンフレット
みやこのじ南日本新聞社編『郷土人系』
※現在の御楼門の写真は県のWEBサイトより借用しました。

【2022.7.12追記】
御楼門復元にあたっては、別の「正面から撮った写真」があり、そちらの方も参考にしている…という情報をいただきました。ということで、内田九一の写真がなかったら御楼門も復元できなかったのでは、というのは私の早合点だったようです。こちらの写真も明治初期に撮影されたものらしいですが、誰の撮影なのかがわかりません。これも内田九一なのでしょうか…?


0 件のコメント:

コメントを投稿