2021年12月31日金曜日

元寺と今寺、宝福寺の拡大——宝福寺の歴史と茶栽培(その3)


前回からのつづき)

覚卍が無一物の暮らしを貫いていたとすれば、宝福寺での衣食住はどうまかなわれていたのだろうか。覚卍自身は「寒暑を避けず、草を編み衣となし、飢えれば則ち菓蓏を食べる」という自然と一体化した生活が出来たとしても、その頃の宝福寺には覚卍を慕ってきた人々が三渓を為すほど多く、しかも彼らは覚卍と同様の頭陀行に徹していた。

しかし覚卍的な自然からの採集生活ができるのは深山幽谷にあってもせいぜい十人程度のものであろう。普通、「頭陀行」と言えば普通は托鉢を示すが、険阻な山奥にある宝福寺から街へ托鉢に出るのは毎日できることではなかったように思われるし、毎日街へ托鉢に行くとすれば山奥で修行する意味も薄い。そう考えると、覚卍の魅力に引かれ多くの人が宝福寺を訪れたことは事実だろうが、覚卍が健在な時にはその滞在は一時的なものであったのだろう。おそらく当時の宝福寺には立派な伽藍もなく、山岳寺院本来の自然と一体化した暮らしが行われていたのではないかと思われる。

だが覚卍という偉大なカリスマの死後、宝福寺はこのような在り方で存続していくことはできなかった。宝福寺は、覚卍の理想とは違う、立派な七堂伽藍を備えた大寺院として発展していくのである。

それを象徴するのが、寺院の移転である。宝福寺には覚卍が開いた「元寺」跡と、移転後の「今寺」跡という二箇所の遺構が残されている。「元寺」にも立派な石積みなどが残されているが、急峻な山に囲まれているところで、大規模な寺院建築には適さず、あまり多くの人が暮らせそうな場所はない。一方「今寺」の方は、同じく山中にあるものの割と平坦な土地が広がっていて、寺院の建設にはずっと適している。宝福寺の経営規模が拡大したため、よりその経営に適した土地に移転したというのが「今寺」の建設であったと考えられる。

とはいえ、それは覚卍の理想を忘れて堕落した結果だということはできない。というのは、宝福寺には覚卍の遺徳を慕って多くの人が訪れていたに違いない。そうした人々全員が覚卍風の頭陀行を行うことは現実的でない以上、覚卍を嗣いだ住持にとっては、集まってくる人々を養っていく手立てを講じる必要があっただろうからだ。覚卍たった一人ならば無一物の暮らしは理想的であったのだろうが、多くの人がその教えを学ぼうとする以上、宝福寺は組織的な経営を行わざるをえなかったのである。

「本寺」から「今寺」への移転は、『川邊名勝誌』や『三国名勝図会』には詳細な記載がないが、『川辺町郷土誌』によれば六代雲岳和尚(天文16年(1547)示寂)の時とされており、経営方針転換後の宝福寺はその規模をさらに拡大させたようである。今の企業と同様に、規模が拡大することでさらに強固な経営基盤が必要となっていくからだ。

こうしてこの時代、宝福寺には急に寄進が続いている。特に七代南室和尚は、日新公(島津忠良)により重んじられたらしく、加世田村小湊の田(10石5合2勺1分)と「中之塩屋一間」、「御分国勧進」(の権利)が寄進されている。特に注目されるのは加世田小湊の塩田「中之塩屋一間」が寄進されていることだ(だだし「一間」がどのくらいの広さ・単位を表すのか不明)。

赤穂の塩田が東大寺の庄園だったように、製塩業と寺院とは古代から深いつながりがある。『川邊名勝誌』に掲載された伝説では、宝福寺が山深い場所にあって塩の入手に苦労しているため日新公は塩田を寄進した、となっているが、そもそも宝福寺と小湊ではかなり距離がある。ほかの寺領が清水にあって宝福寺の近くにあるのに、なぜ宝福寺に小湊の土地を寄進したか。それは宝福寺の経営が拡大し、すでに多くの場所に拠点があったからであろう。そして塩の販売による現金収入が必要だったからではないかと思われる。そしてこうした経営の拡大に伴って宝福寺は各地に末寺を増やしていったのだろう。小湊の「中之塩屋」が寄進されたのが天文21年(1552)。どうやら宝福寺の拡大時期は1500年代半ばからということのようである。

そうして増えていった末寺の一つに、京都伏見の宝福寺がある。これは宝福寺と茶の繋がりを考える上で看過できないことである。伝説的な部分が多いとはいえ、藩政時代における鹿児島の茶産地は全て宇治から茶栽培が伝わったとされているからである。宇治と伏見は目と鼻の先にある。宝福寺には、伏見にあった末寺を通じて茶の栽培が導入されたのではないだろうか。

『川邊名勝誌』によれば、「伏見 宝福寺」は末寺の筆頭に掲げられ、「右開山覚卍禅師開基之寺ニ而御座候」とされている。同誌にはそれ以外の情報はなく、どういった経緯で宝福寺が同名の末寺を伏見に持つに至ったのか不明というほかない。しかしながら、その情報にしても、覚卍が伏見に宝福寺を開くことはまずあり得ない。確かに覚卍は南禅寺時代には京都にいた。しかし転宗して薩摩に帰郷してからは京都に出向いたという記録はなく、また覚卍のライフスタイルから推して考えても京都に出張していくことはないだろう。

実はこの宝福寺は現在でも「久祥山寶福寺(曹洞宗)」として京都市伏見区西大文字町に存続している。この「伏見の宝福寺」に伝わる開基の由来はこうなっている。

【史料四】久祥山寶福寺の「歴史や由緒」(抜粋)
「当寺は、元「瑞応院」と号し、「伏見九郷森村」にあったが、応仁の乱(1467~77)によって兵火に遭い、末寺に寺号を移した。永禄2年(正親町天皇御宇=1559)に、出雲国野﨑浦城主・野﨑従五位備前守(久祥院殿太雄覺山大居士)が国を譲り、当地に閑居して開基となり、「久祥院」と改名し真言宗・冨明法印を開創開山とした。その後、豊臣秀吉公が「伏見九郷」を開拓して文禄3年(1594)に伏見城を築城し、慶長4年(1599)に薩摩国川邉郷曹洞宗寶福寺11代目住職・日孝芳旭大和尚を特請し、曹洞宗開山となり「久祥山寶福禅寺」と改名し、大本山永平寺(福井県・道元禅師開山)と大本山總持寺(神奈川県・瑩山禅師開山)の両本山とする曹洞宗の法脈・法燈を現在も継承している。」

(※久祥山寶福寺WEBサイトより、2021年10月取得 
https://sotozen-navi.com/detail/article_260049_1.html#art1

これによれば、伏見の宝福寺は、元来は瑞応院という真言宗の寺院だったが、慶長4年(1599)に川辺の宝福寺の11代日孝芳旭大和尚により曹洞宗開山となり宝福寺と改称した、ということである。この1599年という年代は、先ほど考察したように川辺の宝福寺の拡大期とも合致している。

ところが川辺に伝わる伝承と食い違うのは、第一に伏見の宝福寺を開基したのが覚卍ではなく「 11代日孝芳旭」という人物になっていること(すなわち開基の年代が大きく異なる)、第二に川辺での伝承では11代は「海雲(または「海雲呑」)という人物であるということだ。これはどのように考えればいいのか。なお11代だけでなくその前後にも「日孝芳旭」という住持は川辺側の記録には存在していないようだ(『川邊名勝誌』および『川辺町郷土誌』に引用された「万延元年寺院由来書上帳」による)。

しかしながら、伏見の宝福寺は現在まで存続しており伝承が連続していると考えられること、開山の人物を間違える可能性は小さいということから、ここでは伏見の宝福寺の伝承の方が正しそうだとしておきたい。日孝芳旭は伏見の宝福寺に移籍したため、川辺の宝福寺の法統から除外されたのかも知れない。

それでは、伏見の宝福寺が曹洞宗として開山した1599年とはどのような時期だったのか、再び茶からは逸れる部分もあるが概観してみることとする。

文禄2年(1593)、天下人・豊臣秀吉は本拠地である大阪城を秀次に譲り、自身は築城中の伏見城(指月伏見城)へ隠居した。しかし同時期、秀吉にとっても思わぬことであったが実子秀頼が誕生したため、伏見城はやがて隠居所の性格が薄れていくこととなる。秀吉は一度は隠居したものの、権力を秀頼に継承させるべく引き続き政務の実権を保持し続けることになったからである。文禄4年(1595)には関白秀次が失脚し一族もろとも処刑され、権力は再び秀吉の一極集中となっていく。

文禄5年(1596)には指月伏見城が同年の慶長大地震で倒壊してしまい、伏見城は北東に1㎞ほど離れた木場山へ全国の大名を動員して再建された。慶長2年(1597)に天主が完成し秀吉が移徙(いし=引っ越し)。この間、伏見には全国の大名屋敷が建築され政治的中心となった。「西尾市岩瀬文庫」収蔵の「伏見図」(慶長年間に製作されたと思われる)によると、伏見城を取り囲むように諸大名の屋敷が配置されているが、このような都市がたった数年という短い期間に造成されたことに驚きを禁じ得ない。秀次失脚の以前は、大名屋敷は秀次の居館である聚楽城の周辺に造営されていたのであるが、秀次失脚の後に聚楽城は派却されてその一部が伏見に移転された。おそらくそれと同時期に大名屋敷も伏見に建築されたのだろう。このようにして、一時期ではあったが伏見は日本の政治的中心になったのである。

慶長3年(1598)、豊臣秀吉が死亡すると伏見城は五大老の筆頭であった徳川家康に引き継がれる。しばらくは豊臣政権は存続の構えを見せたものの、絶対権力者であった秀吉が死亡したことは全国の大名に動揺を与え、島津家でも新たな権力闘争の動きに入っていくことになる。事実、翌1599年には島津家の家老伊集院忠棟が島津忠恒(後の第19代当主島津家久)によって伏見において誅殺されている。伊集院忠棟は島津家の家臣であるとともに、秀吉から直接知行を安堵された「御朱印衆」(つまり秀吉の家臣)でもあり、島津家領国における太閤検地を石田三成とともに推進した人物である。伊集院忠棟を誅殺したことは、島津家として豊臣政権から距離を置こうとしていることの表れといえよう。やや長くなったが伏見の宝福寺が曹洞宗開基となった1599年はこのような時期であった。

先述の「伏見図」では、島津関係として「嶋津但馬守」「嶋津右馬守」「嶋津右馬頭」「嶋津兵庫」の四つの屋敷が掲載されており、宝福寺も「嶋津兵庫(島津義弘)」の屋敷のそばに「禅 寶福寺」としてしっかり書かれている。

この図を見てすぐに理解できることは、秀吉の意向によって急ごしらえで作られた政治都市伏見において寺院の新設が自然発生的に行われるはずもなく、宝福寺の末寺開基にも政策的必要性があったに違いないということだ。ではどのような必要性だったのかということについては残念ながら史料からは明らかでない。

ところで以前から、宝福寺は琉球とのパイプを持っていたらしき形跡がある。「覚卍伝」において宝福寺には「琉球」「筑前」「豊後」の三渓があったとされているが、琉球から多くの人が訪れていたのである。また琉球禅林の祖であり首里円覚寺の開山である芥隠承琥(かいいん・じょうこ)は、琉球渡海前に宝福寺に滞在し覚卍に師事したとされている。16世紀末、文禄・慶長の役後の明との国交回復のために琉球国との外交が非常に重要になっており、そのために伏見の宝福寺が開基されたのかもしれない。しかも、宝福寺はそれ以前からも島津氏によって政治的に利用されていたフシがある。

宝福寺は罪人が幽閉される寺だったようなのである。

(つづく) 

※画像(伏見図)は西尾市岩瀬文庫/古典籍書誌データベースより。注釈は著者が挿入。原図では東が上になっているが、北が上になるよう改変している。

【参考文献】
『「不屈の両殿」島津義久・義弘—関ヶ原後も生き抜いた才智と武勇』新名 一仁 著

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