2016年3月11日金曜日

街路樹を育てるという経済政策

先日、南さつま市の下水道問題に関して記事を書いた。

その後下水道問題は、友人のテンダーさんが随分頑張って市議会に意見を届けたが、残念ながらのれんに腕押しというやつで、ほぼ黙殺されてしまった格好である。

【参考】陳情したけど、ガッカリです。南さつま市の公共下水道問題その3(テンダーさんのサイト)

建設自体は既定路線とは思っていたが、1000人近くの署名が集まっていることを真摯に議論しないとは…。それで、論調としては「加世田中心部は税収の中心だからそこに投資するのは当然」というような話になっている模様。かくいう私も、下水道問題にかこつけて書いた2つの記事で述べたように、加世田中心部への重点投資・再開発には賛成である。問題は、それが下水道でいいの? ということだ。

【参考】イケダパン跡地の有効利用
【参考】寄り道と街の発展

でも、上の2つの記事でも、イケダパン跡地を再開発したらどうか、ということ以外には、具体的な再開発の手法についてはほとんど述べていなかった。本町商店街をもっと活性化したら、と言うのは簡単だが、下水道より魅力的な投資が思いつかなかったら絵に描いた餅である。

というわけで、上の2つの記事はネットでもリアルでもとても反響があったので、それに気をよくして、私なりに中心市街地の活性化策を考えてみたいと思う。

さびれた商店街の活性化と聞いてすぐに思いつくのは、イベントとかB級グルメとかコミュニティづくりといった、メディアを賑わすいろいろな事例だろうが、都市計画的に考えると(つまり個別の商店の売り上げを伸ばすということより、賑わいのある地域を作るということを目的に据えるなら)その手法はほとんど一つしかない。それは、集客力のある施設の誘致・創出である。商売というのは、結局人の流れにどう乗るかというところがあるので、集客力がある施設ができさえすれば、そこからどうとでも発展していける。

例えば、加世田本町に市役所の市民課を移転させたらどうだろうか。あるいは、図書館を本町に移転させたらどうだろう? それだけで、人の流れはガラッと変わる。今の南さつま市役所本庁は街の中で孤立していて、人の流れを生みだす力を全く持っていないので、もう少し街の中に入っていって、ヨーロッパにある広場+市庁舎みたいな空間を作っていったら面白いと思う。

しかしながら、集客力のある施設をつくるというのはあまりにも当たり前の活性化策で、面白くもなんともないので、違う観点から提案したいことがある。

それは、街路樹の充実である。

街路樹なんか、ただの飾りじゃないか、というのが大方の反応だろう。もちろん、街路樹を見に街に来る人はいない。街路樹は、集客力のある施設では、全然ない。

それどころか最近は、街路樹なんか邪魔だ、とさえ言われている。 秋に落葉の時を迎えると、バッサリ丸坊主に剪定されてしまう街路樹をたくさん見かける。冒頭写真はちょっと極端な例だが、これくらい無残に剪定された街路樹を見ることは少なくない。どうも、地域住民などから「落ち葉が道路に散乱して汚れる。排水溝が詰まる」といった苦情があるため、このような非情な剪定が行われるそうである。

一見もっともらしい意見だが、美しい樹木をみっともない姿にする方が、ずっと非合理であると私は考える。秋にカサカサと落ち葉を踏みしめる感覚を味わえない方が、よほど損失だ。もちろん、実際には誰かが落ち葉の掃除をする必要はある。しかし多くの地域ではそれくらいのことはやっていけるコミュニティがあると思うし、そうでないにしても、剪定にもお金がかかっているわけで、同じお金をかけるなら、シルバー人材センターに定期的に落ち葉掃除をお願いする方がずっと気が利いている。

でも、街路樹管理者はそう考えていないようだ。やっぱり、街路樹はどんどん剪定されていく。おそらく、あまりに立派になりすぎると電線に邪魔になるという事情もあるのだろう。こうして無残な剪定をされた街路樹は、年々貧相な姿になっていく。本来切るべきでないところを、無配慮に切りまくられるのだから樹勢もどんどん落ちる。樹は年を経るごとに立派になっていくはずなのに、そうならない。樹形が乱れていき、変な形になっていく。それでも管理者は、かえって邪魔にならなくていい、と思っているのかもしれない。

いつからこうなったのだろう。

かつて日本人は、世界でも特異なほど樹を愛する人たちだった。

日本では早くも室町時代から花木の品種改良が始まっており、美しい桜や椿、梅を生みだした。花の品種改良というだけなら、ヨーロッパのチューリップなど様々な事例が歴史に散乱しているが、高木性の花木の大規模な品種改良を行ったのは日本人だけだそうである。

また、植木屋や庭師といった専門業者が出現したのも日本が世界に先駆けており、日本人の樹木の剪定技術は、芸術すら超え、精神修養的な水準にまで到達した。盆栽はその極地である。美しく立派な樹を愛でるということにかけては、日本人は他の人々を圧するところがあったのだ。

さらに、日本語では神を数える助数詞が「柱」であるが、これは太古の昔、樹そのものが神と見なされたことの名残と考える人もいる。神社には必ず「参道」があり、参道には立派な神木が連なっていることが普通であるが、私の考えでは、拝殿や本殿よりも参道の方こそ神社の本体で、聖なる樹の連なる道を歩むという行為が、神社の聖性の本質であると思う。

また、幕末に江戸を訪れた外国人たちは、江戸の街がたくさんの樹に覆われ、あまりに田園的であることに驚き、同時にその美しさに魅了もされた。ヨーロッパの街というのは、森を切り拓いて文明を打ち立てた記念碑的なところがあるが、江戸の街は自然と融和して周りの田園との境がなかったのである。この外国人たちは江戸の街で夥しい数の園芸植物が売られているのを見つけ、買い漁って本国に送った。巣鴨や染井(駒込)は、当時世界最大の花卉・植木栽培センターだったそうである。

このように我々の先祖は、樹木を愛で、それを緻密に管理し、街並みに活かし、また信仰もしてきた。そうした樹との付き合い方は、今の世の中ではほとんど失われてしまったように見える。無残に剪定された街路樹は、その象徴かもしれない。

しかし今でも、我々は立派な樹の下に憩うことを忘れてはいない。縄文杉の前に立てば、それは未だに我々の神であると多くの人は感じるだろう。そんな大げさなものでなくても、立派な樹があるというだけで、そこは何か特別な場所になる。大学のキャンパスには大概立派な並木道があるものだが、大学で学んだことの内容は忘れても、並木道の木陰を歩いた感覚はずっと後まで残るものである。

これは、商店街でも当てはまる。六本木ヒルズ、東京ミッドタウン、丸の内再開発といった近年の東京の大規模再開発事業を見ても、感じの良い街路樹を配置していない事業は皆無である。もちろん、これらの再開発事業において、街路樹が本当に活かされているかというと程度の問題はある。飾り程度の部分もあるだろう。しかし、どんなスタイリッシュなデザインのピカピカのオフィスや、名のあるデザイナーの洒落たテナントがあろうとも、そこに樹の一本もなければなんとなくサマにならないのはなぜか、というのはもっと深く考えてよい問題だ。

東京ですら、街路樹が本当の意味で立派な景観をつくっている商店街というものは少ない。有名なところとしては、原宿の表参道のケヤキ並木くらいだろう。これは文字通り明治神宮の参道であるので、商店街の街路樹というには不適切かもしれないが、この原宿という街に海外のハイブランドが軒を連ねている一因は、このケヤキ並木にあるのではないだろうか。逆に言うと、原宿からケヤキ並木がなくなってしまったら、ただのゴミゴミした街になってしまうかもしれない。表参道の品格を支えているのは、何よりもあの立派なケヤキ並木なのだというのが私の仮説である。

というわけで、加世田の本町商店街を原宿にするのは不可能でも、街路樹を立派にしていったらどうか、というのが私の提案なのだ。

幸いに、既に本町商店街には電柱がなく、街路樹が自由に伸びるスペースがある。今はプラタナスが植わっていたと思うが(間違っていたらすいません)、わざわざ植え替えなくてもこの管理方法を変えて、立派にしていくというだけでも随分変わると思う。プラタナスも古木になるとかなり大きく立派になる樹である。

そんなことで街が活性化するわけないじゃないか、と思うかもしれない。実際、鹿児島市内のボサド通りにはとても立派な街路樹があるのに、人通りはまばらである。確かに、立派な樹があるところに人通りがあるのなら、山の中が人だらけになるはずである。いうまでもなく街路樹はそれだけでは人の流れを変えないし、樹はまちづくりの主役ではない。主役はあくまで人間である。だが、先ほど述べたように、どんなに立派な施設があってもそこに樹の一本もなければそこは完全ではないのである。樹は主役を引き立てる重要な脇役なのだ。

もっと正確に言えば、街路樹は、場の雰囲気を左右する存在だ。それあたかも、「あの人がいるとなんだか場がなごむよね」というあの手の人間のようなものだ。それだけで何かを生むわけではないが、それがあることで「場」の未来が明るくなるのである。立派な街路樹を持つ街は、それだけで品格があり、そして品格ある店を呼び寄せる。街路樹だけでは経済政策にならないとしても、街路樹は街の可能性を広げるものだと思う。実際、私はボサド通りにだって面白い未来があるんじゃないかと思っている。なんなら賭をしてみてもいい。

合併前の加世田市は「いろは歌といぬまきの街」を標榜していた。街路樹のイヌマキも、もう少し立派に育てていくべきである。キオビエダシャク(イヌマキにつく害虫)の問題があるにせよ、貧相な街路樹は、それだけで見識の低さを露呈させているようなものだ。

街ぐるみで街路樹を立派にしてみたら、どんなことが起こるんだろうか。ものすごく面白い街になるような気がしてならない。

かつて鹿児島で実際それをしてみた企業がある。鹿児島では知らない人のいない老舗企業、岩崎産業である。岩崎産業は、そもそも戦前に鉄道レールの枕木で財をなした会社で、奄美に広大な広葉樹の森を作るなど林業が根幹の会社だった。その岩崎産業が、戦後、鹿児島の街にヤシなどの熱帯植物を植えまくったのである。

これは、鹿児島を一大観光地にするべく、熱帯っぽいイメージを作るためだったらしい。鹿児島のヤシやフェニックス(太くて大きなシダ植物)が全て岩崎産業の植林なわけではないが、国道沿いに大きなヤシを植えたのは岩崎産業が始めたことだ。今でもいわさきグループのロゴマークはヤシをあしらったものである。

たくさんのヤシが道沿いに植えられた鹿児島が、良いか悪いかはひとまず措く。しかしヤシを植えるという岩崎産業の戦略は、確かに街の風景を変え、鹿児島のイメージを従来とは異なったものへと変えたのだと思う。

もちろん、加世田が無理に街路樹でイメチェンする必要はない。でも立派な木々の木漏れ日の下で買い物できるような商店街は、日本にいくつもないだろう。もし素晴らしい街路樹の通りができたら、それだけで確固とした価値がある。

立派な街路樹を作るにはそれなりに時間がかかる。人口減少や景気の低迷で待ったなしの地方経済にとって、街路樹を整えるというようなことは、随分と悠長な、ノンビリしすぎた活性化策に見えるかもしれない。

でも待ったなしの時だからこそ、あえて百年の計を練らなければならない。激動する政治経済の荒波を、小手先の操舵で上手く乗り切ることよりも、何があっても失われない価値を作っていく方が結局は近道のように思う。

街路樹を育てるという経済政策。いかがだろうか。

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