資源ゴミ回収のたびに思うことがある。
南さつま市の資源ゴミ回収日は月1回。公民館に集まって、集落で協力してゴミを集める。
一ヶ月に1回しかないからかなりの量になるが、中でも分量が多いのがプラスチックゴミ、それからペットボトルと缶——つまり飲み物に付随するゴミだ。
だから思うのである。「私たちはこれだけの飲み物を、地域外からわざわざ買ってるんだよなあ」 と。
鹿児島は、地産地消の観点からみたらかなり恵まれた土地だ。食糧自給率は200%以上ある。肉や魚はほとんど地元で生産されたものばかり。野菜も夏の暑い時期を除いてほとんどは地元産である。
私自身は、農家として「地元で消費しないで大都市圏で高く売って欲しい」と思うこともあるが、わざわざ他所から買ってきて消費するよりは地元にあるものを消費した方が安上がりなだけでなく、資金の流出を防げるのだから合理的である。鹿児島県はただでさえ所得の低い土地柄なので、食べものに貴重な「外貨」を使ってはもったいない。
しかし、飲み物はどうか。鹿児島は焼酎と茶という非常に地産地消的な飲み物があるので、他の地域よりは飲み物も地産地消している割合は高いかもしれない。でも資源ゴミとして回収するペットボトルや缶を見ていると、ほとんどは地域外で生産された、大手飲料メーカーが作ったものばかりだ。
コーラやスポーツドリンク、缶コーヒー、ペットボトルのお茶、そしてもちろんビールや発泡酒、チューハイなどのお酒類。どれもこれも、大手飲料メーカーが作ったものばかりである。こうしたものは「規模の経済」(たくさん作れば作るほど安くつくれて儲かる)がきくので、肉や野菜のような食品よりもずっと大企業に支配されがちである。
もちろん、だからといって「われわれのお金が飲み物を通じて大企業に吸い上げられていく!」と憤る必要はない。なぜなら、こうした飲み物の売価のかなりの部分は流通コストだから、地元のトラック運転手なんかの雇用を生んでいるのである。それに仮にローカルな企業の製品しかなければ、それは割高なものになる可能性が高い。
しかし、地産地消が盛んな鹿児島県なのだから、「飲み物の地産地消」だってもっと進めても良い。大企業の製品を買う代わりに地元産のものを買えば、そのお金は地域内で循環できるのだ。
ところで、「南薩の田舎暮らし」では、このたび「南高梅とりんご酢のシロップ」をインターネットで発売開始した。炭酸や水で5倍〜6倍に割って飲む「ドリンクのもと」である。既に数年販売している「ジンジャーエールシロップ」の姉妹商品だ。
南高梅は同じ集落出身の梅農家から仕入れたもので、夏の暑いときに水で割って飲むとなんとも爽やかで美味しい飲み物になる。ちなみにインターネットでの販売は今年からだが、製品自体は2年くらい前から製造している(地元のみで販売)。
こんな小さな小さな商品で「飲み物の地産地消」を進めたいなんて大それたことは言えないが、私はもうちょっとこういうドリンク系の商品を増やしていけたらなあと思っている。そんなわけで、よろしくお願いいたします!
↓ご購入はこちらから。
【南薩の田舎暮らし】南高梅とりんご酢のシロップ
200ml入りで850円(税込み)です。
2019年6月18日火曜日
2016年2月23日火曜日
「たんかんのオランジェット」と規格外品の有効利用の問題
今日、タンカンの発送作業を行った。
有り難いことに既にたくさんの注文をいただいており、出だしは順調。今年のタンカンは割と味はよいと思うので、ぜひご賞味ください。
【南薩の田舎暮らし】無農薬・無化学肥料のタンカン
ところで、この写真がうちのタンカンだが、タンカンをご注文くださった方は「届いたのはこんなにキレイなやつじゃないぞ!」と思うかもしれない(すいません…)。それもそのはずで、これは収穫した中でもとりわけ大きくて外観のキレイな最上級品だけを選りすぐったものなのである。
市場に出回っているものの中には、それこそ宝石のように美しいタンカンがあるので、この程度で最上級品なんて……と思うかもしれない。というか特に同業者の方はそう思うはずである。でも今の自分の栽培技術の中では、無農薬でこの水準ができたら最高だと思うものを選んだつもりだ。
で、どうして最上級品だけを選りすぐったのかというと、これはそのものを販売するためでなくて、実は「たんかんのオランジェット」という今一番売り出し中のお菓子を作るための材料なのだ。
【参考】オランジェットって何? という方は「南薩の田舎暮らし」のこちら↓の記事をどうぞ。
2月5日のレトロフト金曜市で「たんかんのオランジェット」を販売します
先日、この商品を引っ提げて、商工会がやっている品評会(?)みたいな会に出たら、「規格外品のタンカンを使ってみてはどうか?」という意見が出た。でも皮まで丸ごと使うというこのお菓子の性質上、やはり皮もキレイなものでないと食感も見た目も悪いし、大きさが揃っていないと商品にならないので、やはり大玉で外観秀麗なものを使う以外ないと思う。
最近の農産加工の話題では、「今まで捨てていた規格外品を使って作った」的なものがよく流布されていて、農産加工といえば「青果で流通しにくいB級品の有効利用」という側面ばかりが強調されているように感じる。
しかし、実際に農産加工に取り組んでみればすぐに分かるように、規格外品のように大きさや品質が揃っていない素材を使って加工品を作るのは大変手間がかかる。例えば、ニンジンを作っていると一定割合で又根のニンジンができるものだが、又根のニンジンは洗浄にも皮むきにも手間が余計にかかるし、ニンジンスティックのようなものを作ろうとすれば歩留まりも悪い。加工品づくりの経費がほぼ人件費であるとすれば、そういう扱いにくい素材を無理して使うより、同じ大きさで規格化されたニンジンを使って効率よく製造する方がよほど利益が大きい。
それに、加工品は素材の味次第なところがあり、品質の揃っていない素材を使うのは味の面でも不安が残る。見た目が悪くても美味しい果物や野菜というのがあるのは事実だが、実は美味しい果物や野菜は外観もよいことが多い、というのも事実である。間違いなく美味しい立派な素材を使う方が、品質の高い加工品が楽に作れると思う。
そもそも、今は「農産加工品戦国時代」とでも呼びたくなるような時代である。各地で、オシャレ・今風の農産加工品が次々に開発されている。そんな時に「今まで捨てていたものを有効活用できないか」というような消極的な理由で農産加工をしては成功はおぼつかないような気がする。やはり、「とびきり美味しいものを食べて欲しい」という積極的な理由で開発に入るべきだと思う。
もちろん、それが結果的に規格外品の有効利用になったらなお素晴らしいことである。開発の段階で「廃棄をなくそう」ということを目的の一つにするのもよいことだ。しかし、栽培管理によって収穫物の規格をなるだけ揃える(=規格外品を減らす)という方が農家の本道なのに、規格外品で作った加工品が成功したとすると、むしろ積極的に規格外品を作って材料を確保しなければならないという矛盾が生じる。加工品を作るなら、加工品用の規格を作り、その規格に沿って栽培管理していくという方が結局は効率的であり、規格外品のような量的にも質的にも頼りない存在はアテにするのはリスクである。
規格外品の有効利用は個人の農家レベルで考えてもダメで、やはり経済連(県単位のJA)のような規模で考えなければならない問題だろう。
ちなみに、鹿児島大学の学生がエコスイーツというプロジェクトをやっていて、これは生ゴミからつくった堆肥を使って育てた野菜を使ったスイーツの製造・販売なのだが、これも最初は「捨てられている野菜を救う」ということを考えていたようだ。しかし調査してみると、規格外の野菜などはちゃんと物産館などで売られていて、本当に捨てられているのは思ったほど多くないということがわかった。
こうして、当初は規格外のカボチャの有効利用がメインだったものの、今はむしろスイーツづくりのためにサツマイモを育てるということがメインになっており、やはり「加工品用の規格に沿った栽培管理」の方に重点が移っている。サツマイモ栽培に取り組んだ理由もWEBサイトでの説明によれば「「より高品質な素材を供給したい」という思いを実現するため」とされていて、やはり規格外で品質の安定しない素材を相手にするよりも、高品質な素材を使った方が間違いない、ということを学んだ結果ではないかと思った。
というわけで、農産加工というと「規格外品の有効利用」ということをすぐ思い描きがちであるが、実際にはそういう虫のよい話はそうそうないのである。
話が随分逸れてしまったが、この、私なりに「どこへ出しても恥ずかしくない最高級のタンカン」をつかって作った「たんかんのオランジェット」とクッキーとコンフィチュールのセットが今ネットショップで限定販売中なので、こちらの方もよろしくお願いします!
↓お買い求めはこちらから
【南薩の田舎暮らし】オランジェット入り! 南薩の田舎暮らしのお菓子セット
有り難いことに既にたくさんの注文をいただいており、出だしは順調。今年のタンカンは割と味はよいと思うので、ぜひご賞味ください。
【南薩の田舎暮らし】無農薬・無化学肥料のタンカン
ところで、この写真がうちのタンカンだが、タンカンをご注文くださった方は「届いたのはこんなにキレイなやつじゃないぞ!」と思うかもしれない(すいません…)。それもそのはずで、これは収穫した中でもとりわけ大きくて外観のキレイな最上級品だけを選りすぐったものなのである。
市場に出回っているものの中には、それこそ宝石のように美しいタンカンがあるので、この程度で最上級品なんて……と思うかもしれない。というか特に同業者の方はそう思うはずである。でも今の自分の栽培技術の中では、無農薬でこの水準ができたら最高だと思うものを選んだつもりだ。
で、どうして最上級品だけを選りすぐったのかというと、これはそのものを販売するためでなくて、実は「たんかんのオランジェット」という今一番売り出し中のお菓子を作るための材料なのだ。
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たんかんのオランジェット |
2月5日のレトロフト金曜市で「たんかんのオランジェット」を販売します
先日、この商品を引っ提げて、商工会がやっている品評会(?)みたいな会に出たら、「規格外品のタンカンを使ってみてはどうか?」という意見が出た。でも皮まで丸ごと使うというこのお菓子の性質上、やはり皮もキレイなものでないと食感も見た目も悪いし、大きさが揃っていないと商品にならないので、やはり大玉で外観秀麗なものを使う以外ないと思う。
最近の農産加工の話題では、「今まで捨てていた規格外品を使って作った」的なものがよく流布されていて、農産加工といえば「青果で流通しにくいB級品の有効利用」という側面ばかりが強調されているように感じる。
しかし、実際に農産加工に取り組んでみればすぐに分かるように、規格外品のように大きさや品質が揃っていない素材を使って加工品を作るのは大変手間がかかる。例えば、ニンジンを作っていると一定割合で又根のニンジンができるものだが、又根のニンジンは洗浄にも皮むきにも手間が余計にかかるし、ニンジンスティックのようなものを作ろうとすれば歩留まりも悪い。加工品づくりの経費がほぼ人件費であるとすれば、そういう扱いにくい素材を無理して使うより、同じ大きさで規格化されたニンジンを使って効率よく製造する方がよほど利益が大きい。
それに、加工品は素材の味次第なところがあり、品質の揃っていない素材を使うのは味の面でも不安が残る。見た目が悪くても美味しい果物や野菜というのがあるのは事実だが、実は美味しい果物や野菜は外観もよいことが多い、というのも事実である。間違いなく美味しい立派な素材を使う方が、品質の高い加工品が楽に作れると思う。
そもそも、今は「農産加工品戦国時代」とでも呼びたくなるような時代である。各地で、オシャレ・今風の農産加工品が次々に開発されている。そんな時に「今まで捨てていたものを有効活用できないか」というような消極的な理由で農産加工をしては成功はおぼつかないような気がする。やはり、「とびきり美味しいものを食べて欲しい」という積極的な理由で開発に入るべきだと思う。
もちろん、それが結果的に規格外品の有効利用になったらなお素晴らしいことである。開発の段階で「廃棄をなくそう」ということを目的の一つにするのもよいことだ。しかし、栽培管理によって収穫物の規格をなるだけ揃える(=規格外品を減らす)という方が農家の本道なのに、規格外品で作った加工品が成功したとすると、むしろ積極的に規格外品を作って材料を確保しなければならないという矛盾が生じる。加工品を作るなら、加工品用の規格を作り、その規格に沿って栽培管理していくという方が結局は効率的であり、規格外品のような量的にも質的にも頼りない存在はアテにするのはリスクである。
規格外品の有効利用は個人の農家レベルで考えてもダメで、やはり経済連(県単位のJA)のような規模で考えなければならない問題だろう。
ちなみに、鹿児島大学の学生がエコスイーツというプロジェクトをやっていて、これは生ゴミからつくった堆肥を使って育てた野菜を使ったスイーツの製造・販売なのだが、これも最初は「捨てられている野菜を救う」ということを考えていたようだ。しかし調査してみると、規格外の野菜などはちゃんと物産館などで売られていて、本当に捨てられているのは思ったほど多くないということがわかった。
こうして、当初は規格外のカボチャの有効利用がメインだったものの、今はむしろスイーツづくりのためにサツマイモを育てるということがメインになっており、やはり「加工品用の規格に沿った栽培管理」の方に重点が移っている。サツマイモ栽培に取り組んだ理由もWEBサイトでの説明によれば「「より高品質な素材を供給したい」という思いを実現するため」とされていて、やはり規格外で品質の安定しない素材を相手にするよりも、高品質な素材を使った方が間違いない、ということを学んだ結果ではないかと思った。
というわけで、農産加工というと「規格外品の有効利用」ということをすぐ思い描きがちであるが、実際にはそういう虫のよい話はそうそうないのである。
話が随分逸れてしまったが、この、私なりに「どこへ出しても恥ずかしくない最高級のタンカン」をつかって作った「たんかんのオランジェット」とクッキーとコンフィチュールのセットが今ネットショップで限定販売中なので、こちらの方もよろしくお願いします!
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2015年12月3日木曜日
侘び茶と「鹿児島の食とデザイン」
「鹿児島の食とデザイン」という鹿児島県がやっているプロジェクトがある。平たく言えば「鹿児島の加工食品は美味しくてもデザインがダサいものが多いから、もっとしゃれたデザインにしていきましょう」というもので、セミナーとか講座とか、様々なプログラムによって構成されている。
確かに鹿児島の製品は、食品に限らずあか抜けないものが多い。先日このプロジェクトを企画した県の人の話を直接伺う機会があり、正直いうと最初はちょっと眉唾で聞いていたのだが、全く仰る通りな内容であった。ごく簡単に紹介すると、
例えば、鹿児島の昔ながらのお菓子「げたんは」(九州の各県でいうところの「黒棒」)はもはや鹿児島の若い世代ではあまり食べられていない。その理由は、ベタベタしていて味が今っぽくない(甘すぎる)ということもあるし、一袋に食べきれないくらい入っていてしかも一つが大きいということもある。もちろんパッケージもあか抜けない。要するに消費者のことを余り考えていないように見える(ごめんなさい南海堂さん!)。
こういうちょっと残念な商品を見ると、経営を学んだような人は、「昔ながらの郷土菓子という知名度とブランドがあるのだから、食べやすい形態にして内容量を少なくして若者向けのデザインに変え、都会の人にアピールすればきっと売り上げが伸びるはずだ!」と考えるのも無理はないと思う。いや、私自身が真っ先にそういうことを言いそうなキャラである。
でもそう言いたくなるところをぐっと我慢して、敢えて「鹿児島の食とデザイン」の思想にささやかながら異議を申し立ててみようと思う。私はこう見えて天の邪鬼(あまのじゃく)なのだ。
・・・・・・さて、話が随分飛ぶが、元禄時代に書かれた『茶話指月集』という本に、千利休の逸話が載せられている。こういうものだ。
侘び茶においては、有り合わせはよいが、似つかわしくないものは出さない方がよい)」と結ばれている。 確かに侘び茶の世界に「上等なカマボコ」は似合わない。でもなぜ似合わないんだろうか?
「侘び茶」というのは、元来の意味は「社会的地位が低い、貧乏茶人の茶の湯」ということだったらしく、次第に「世俗的な世界から抜け出し、清浄な境地で楽しむ簡素で精神的な茶の湯」というような意味になってきた。でも私なりに言えば、「侘び」というのは「侘びる」という言葉があるように、「こんなものしかなくてすいません」という申し訳なく思う心を表すもので、それに対して客が「いえいえ、贅沢なものよりも、心ばかりの持てなしが一番有り難いんですよ」と応えるものが「侘び茶」であると思う。
それなのに、「これは大阪から取り寄せた高級カマボコです! どうでしょう、美味いですよね!」みたいな態度が出たから、利休は興ざめて帰ってしまったんだと思う。それは全然「侘び」ていないのである。
贅沢というものは、量的なものから質的なものへ、外面的なものから精神的なものへとだんだん発展していくものである。「侘び茶」はこの贅沢の最終段階に位置していて、一見簡素で貧乏風の茶の湯であるが、その内実は最高度に贅を尽くしたものである。高級カマボコよりも、その場でしつらえた柚味噌の方が実は遙かに有り難いものだという認識がここにある。
利休自身は大・大・大金持ちで、秀吉に取り立てられ社会的な身分も非常に高かった。そういう人が、「こんなものしかなくてすいません」という境地に至るためには、自然とお金では手に入れられない価値を至高のものとして追求する姿勢にならざるを得ない。使う道具一つとっても、吟味に吟味を重ね、そこに金では買えない精神性があるか——、というギリギリの美意識の勝負になる。そうでなくては、大金持ちが「こんなものしかなくてすいません」といってもまるっきり嘘っぱちになる。そういう利休だったから、亭主が出したカマボコ、というよりカマボコを出す亭主の態度には我慢がならなかった。
話を戻して鹿児島の郷土菓子というものは、先ほどの贅沢の発展段階でいえばまだ「量的なもの」の段階に位置しており、「げたんは」などは「大きければ大きい方がよい。甘ければ甘い方がよい」みたいな部分がある。「鹿児島の食とデザイン」は、これを「質的なものへ(味を洗練させよう)」「外面的なものへ(パッケージをおしゃれに)」という方向へ導くものだと言えよう。当然の流れである。
しかし、私自身、最近作られたしゃれた加工品を見ると、あまり触手が伸びないことが多い。もちろん、おしゃれなパッケージは好ましいし、興味も湧く。新しい取組をしていること自体に好感も持つ。というより、「南薩の田舎暮らし」自身がそういう方向性で商品を作っている。でもなぜか、桜井製菓の「アイスキャンデー」(冒頭写真)とか、とも屋の「マドレーヌ」とか、そういうちょっとあか抜けない商品の方に心が惹かれる自分がいる。
そして、「こんなものしかなくてすいません」という気持ちでお客に出すのなら、今のままで十分に魅力的なものが田舎には溢れている。大浦ふるさとくじら館で売っているふくれ菓子の「福麗女房(フクレカカ)」なんか、田んぼのあぜ道で食べるものとしては最高に美味しい。 鹿児島の各地で売ってる「かからん団子」なんか私は大好きである。でもそういうものを、都会から来たお客に「鹿児島の郷土菓子は美味しいでしょう!?」という自慢げな態度で出したらやっぱり興ざめするような気がする。こういうものは「こんなものしかなくてすいません」という調子で出されると、「意外と美味しいじゃん!」となるものだ。そんなもの態度の問題じゃないか、と思うかもしれないが、そこにものの価値の本質があると私は思う。
そして一方で、都市部には既におしゃれで機能的な製品が溢れている。消費者のことをよく考えた、練りに練られた商品がよりどりみどりである。「鹿児島の食とデザイン」は、鹿児島ローカルな食品企業もこうした商品と同じ土俵で勝負して行きなさいという叱咤激励でもあるだろう。
でも本当に、そういうものと同じ土俵で勝負していいんだろうか? ここはせっかく日本の端っこなのに、都市部と同じ「消費社会」の論理で動いて「商品」を作っていいんだろうか? 私はそれが、利休が嫌悪した「上等なカマボコ」を作る方向に行くのではないかと危惧する。ここにはせっかく最高級の贅沢である「柚味噌」を作る環境があるというのに。
利休が「上等なカマボコ」で興ざめたのは、本質的には「上等なカマボコ」が金さえ出せば手に入るものだからだろう。一方、庭に生えていた柚子で作る柚味噌は、柚子のシーズンにしか出来ないもので、季節外れだったら千金を積んでも作ることはできない。そういう「その場、その時」でないとできないもてなしだったから、利休は最初それに喜んだ。それが消費社会における「商品」ではなかったから、最高級の贅沢になりえたのである。
私が「鹿児島の食とデザイン」に僅かに危惧するのは、それが都会の消費社会に迎合するものだからである。だいたい、田舎で売られている魅力ある商品というものは、そもそも消費社会とは違う論理で作られた部分にその良さがあるのではないかと思う。デザインだけに限っても、何十年も変わらない、今風でないちょっとネジが緩んだようなパッケージなんかを見ると、ほっこりした気分になるのは私だけではないはずだ。そういうのこそ、都会では既に絶滅してしまってもう目にすることができない貴重なデザインで、それを今風デザインに変えることは、短期的には売り上げが伸びるかもしれないが、そのかけがえのない部分を自ら捨て去ってしまうことになりそうな気がする。
でもだからといって、ローカル企業はこれまで通りやっていればよいわけでもない。 事実郷土菓子の売り上げが落ちているとするなら、それで生きている企業はやはり何らかの手を打たなければならないからだ。問題は、売り上げを挽回させようとするとき、消費社会の論理で動くMBA(経営学修士号)式のやり方で、本当に田舎ならではの価値を生み出せるのかということだ。
(つづく)
確かに鹿児島の製品は、食品に限らずあか抜けないものが多い。先日このプロジェクトを企画した県の人の話を直接伺う機会があり、正直いうと最初はちょっと眉唾で聞いていたのだが、全く仰る通りな内容であった。ごく簡単に紹介すると、
- 鹿児島のこれまでの加工食品は、作れば売れるという安易な発想で作られたものが多かった。これまではそれでもある程度売れた。
- でもこれからは人口減少等で食品消費が落ち込んでいくので、これまで買ってくれていた(主に高齢の)消費者をアテにしていては危うい。都会の消費者に向けた商品が必要である。
- 今後の商品開発においては、商品のコンセプトを定め、マーケティングを行い、商品のターゲットを明確にして、試作を繰り返し、その上でコンセプトを見直し、それに沿ったパッケージと内容のデザインを行い、粘り強く営業をしていく必要がある。
- しかもその各段階において、社内だけで検討するのではなく、プロの力を借りたりモニターの意見を聞いたりするべきである。
- 内容を変えずパッケージだけを新しくする場合も、ただお洒落にしようということではなく、誰を新しい消費者と考えてそれを販売していくのか考え、消費者の目線でデザインを再考すること。
例えば、鹿児島の昔ながらのお菓子「げたんは」(九州の各県でいうところの「黒棒」)はもはや鹿児島の若い世代ではあまり食べられていない。その理由は、ベタベタしていて味が今っぽくない(甘すぎる)ということもあるし、一袋に食べきれないくらい入っていてしかも一つが大きいということもある。もちろんパッケージもあか抜けない。要するに消費者のことを余り考えていないように見える(ごめんなさい南海堂さん!)。
こういうちょっと残念な商品を見ると、経営を学んだような人は、「昔ながらの郷土菓子という知名度とブランドがあるのだから、食べやすい形態にして内容量を少なくして若者向けのデザインに変え、都会の人にアピールすればきっと売り上げが伸びるはずだ!」と考えるのも無理はないと思う。いや、私自身が真っ先にそういうことを言いそうなキャラである。
でもそう言いたくなるところをぐっと我慢して、敢えて「鹿児島の食とデザイン」の思想にささやかながら異議を申し立ててみようと思う。私はこう見えて天の邪鬼(あまのじゃく)なのだ。
・・・・・・さて、話が随分飛ぶが、元禄時代に書かれた『茶話指月集』という本に、千利休の逸話が載せられている。こういうものだ。
森口(京都と大阪の間)というところに一人の佗び茶人があると聞きつけて、利休はいつか伺いますと約束していた。
ある冬の夜更け、利休は用事で京都に行くついでにその人を突然訪問した。亭主は喜んで利休を出迎え、利休もその侘びた佇まいに好感を持った。主人は(急な訪問だから十分なものがないからということで)庭にあった柚を取ってきて柚味噌をしつらえた。
利休はこの「侘びのもてなし」を大層喜んで、共に酒を傾けたが、次に主人は「大阪から取り寄せました」と言って上等なカマボコを出したので、利休は「さては誰かが私が来ると知らせて準備していたのだろう。ということは先ほどの対応はわざとだったか」と興ざめて、主人が引き留めるのも聞かずさっさと帰ってしまった。この話は「されば、侘びては、有り合わせたりとも、にげなき物は出さぬがよきなり(
侘び茶においては、有り合わせはよいが、似つかわしくないものは出さない方がよい)」と結ばれている。 確かに侘び茶の世界に「上等なカマボコ」は似合わない。でもなぜ似合わないんだろうか?
「侘び茶」というのは、元来の意味は「社会的地位が低い、貧乏茶人の茶の湯」ということだったらしく、次第に「世俗的な世界から抜け出し、清浄な境地で楽しむ簡素で精神的な茶の湯」というような意味になってきた。でも私なりに言えば、「侘び」というのは「侘びる」という言葉があるように、「こんなものしかなくてすいません」という申し訳なく思う心を表すもので、それに対して客が「いえいえ、贅沢なものよりも、心ばかりの持てなしが一番有り難いんですよ」と応えるものが「侘び茶」であると思う。
それなのに、「これは大阪から取り寄せた高級カマボコです! どうでしょう、美味いですよね!」みたいな態度が出たから、利休は興ざめて帰ってしまったんだと思う。それは全然「侘び」ていないのである。
贅沢というものは、量的なものから質的なものへ、外面的なものから精神的なものへとだんだん発展していくものである。「侘び茶」はこの贅沢の最終段階に位置していて、一見簡素で貧乏風の茶の湯であるが、その内実は最高度に贅を尽くしたものである。高級カマボコよりも、その場でしつらえた柚味噌の方が実は遙かに有り難いものだという認識がここにある。
利休自身は大・大・大金持ちで、秀吉に取り立てられ社会的な身分も非常に高かった。そういう人が、「こんなものしかなくてすいません」という境地に至るためには、自然とお金では手に入れられない価値を至高のものとして追求する姿勢にならざるを得ない。使う道具一つとっても、吟味に吟味を重ね、そこに金では買えない精神性があるか——、というギリギリの美意識の勝負になる。そうでなくては、大金持ちが「こんなものしかなくてすいません」といってもまるっきり嘘っぱちになる。そういう利休だったから、亭主が出したカマボコ、というよりカマボコを出す亭主の態度には我慢がならなかった。
話を戻して鹿児島の郷土菓子というものは、先ほどの贅沢の発展段階でいえばまだ「量的なもの」の段階に位置しており、「げたんは」などは「大きければ大きい方がよい。甘ければ甘い方がよい」みたいな部分がある。「鹿児島の食とデザイン」は、これを「質的なものへ(味を洗練させよう)」「外面的なものへ(パッケージをおしゃれに)」という方向へ導くものだと言えよう。当然の流れである。
しかし、私自身、最近作られたしゃれた加工品を見ると、あまり触手が伸びないことが多い。もちろん、おしゃれなパッケージは好ましいし、興味も湧く。新しい取組をしていること自体に好感も持つ。というより、「南薩の田舎暮らし」自身がそういう方向性で商品を作っている。でもなぜか、桜井製菓の「アイスキャンデー」(冒頭写真)とか、とも屋の「マドレーヌ」とか、そういうちょっとあか抜けない商品の方に心が惹かれる自分がいる。
そして、「こんなものしかなくてすいません」という気持ちでお客に出すのなら、今のままで十分に魅力的なものが田舎には溢れている。大浦ふるさとくじら館で売っているふくれ菓子の「福麗女房(フクレカカ)」なんか、田んぼのあぜ道で食べるものとしては最高に美味しい。 鹿児島の各地で売ってる「かからん団子」なんか私は大好きである。でもそういうものを、都会から来たお客に「鹿児島の郷土菓子は美味しいでしょう!?」という自慢げな態度で出したらやっぱり興ざめするような気がする。こういうものは「こんなものしかなくてすいません」という調子で出されると、「意外と美味しいじゃん!」となるものだ。そんなもの態度の問題じゃないか、と思うかもしれないが、そこにものの価値の本質があると私は思う。
そして一方で、都市部には既におしゃれで機能的な製品が溢れている。消費者のことをよく考えた、練りに練られた商品がよりどりみどりである。「鹿児島の食とデザイン」は、鹿児島ローカルな食品企業もこうした商品と同じ土俵で勝負して行きなさいという叱咤激励でもあるだろう。
でも本当に、そういうものと同じ土俵で勝負していいんだろうか? ここはせっかく日本の端っこなのに、都市部と同じ「消費社会」の論理で動いて「商品」を作っていいんだろうか? 私はそれが、利休が嫌悪した「上等なカマボコ」を作る方向に行くのではないかと危惧する。ここにはせっかく最高級の贅沢である「柚味噌」を作る環境があるというのに。
利休が「上等なカマボコ」で興ざめたのは、本質的には「上等なカマボコ」が金さえ出せば手に入るものだからだろう。一方、庭に生えていた柚子で作る柚味噌は、柚子のシーズンにしか出来ないもので、季節外れだったら千金を積んでも作ることはできない。そういう「その場、その時」でないとできないもてなしだったから、利休は最初それに喜んだ。それが消費社会における「商品」ではなかったから、最高級の贅沢になりえたのである。
私が「鹿児島の食とデザイン」に僅かに危惧するのは、それが都会の消費社会に迎合するものだからである。だいたい、田舎で売られている魅力ある商品というものは、そもそも消費社会とは違う論理で作られた部分にその良さがあるのではないかと思う。デザインだけに限っても、何十年も変わらない、今風でないちょっとネジが緩んだようなパッケージなんかを見ると、ほっこりした気分になるのは私だけではないはずだ。そういうのこそ、都会では既に絶滅してしまってもう目にすることができない貴重なデザインで、それを今風デザインに変えることは、短期的には売り上げが伸びるかもしれないが、そのかけがえのない部分を自ら捨て去ってしまうことになりそうな気がする。
でもだからといって、ローカル企業はこれまで通りやっていればよいわけでもない。 事実郷土菓子の売り上げが落ちているとするなら、それで生きている企業はやはり何らかの手を打たなければならないからだ。問題は、売り上げを挽回させようとするとき、消費社会の論理で動くMBA(経営学修士号)式のやり方で、本当に田舎ならではの価値を生み出せるのかということだ。
(つづく)
2015年3月27日金曜日
「椿油」で生きがいづくり
以前ちょっと愚痴を書いた「百寿委員会」について。
百寿委員会は通り一辺倒の役所の審議会とは全然違って、委員の発奮を期待するプロジェクトなので、もう活動は具体的レベルに入って来つつある。
私は、「椿油」のグループに配属されて、椿油を活用した生きがいづくりなどの支援に取り組んでいくことに(行きがかり上)なった。
ちなみに、これは希望を出して配属してもらったもので、勝手に割り振られたわけではない。私自身としても、食用油の世界にはいろいろと思うことがあり、この活動を進める中で油の勉強になるのではないかと思って期待しているところである。
その「椿油」だが、現在南さつまではいくつかのグループが細々と作っているらしい。その中で今回の核となるのは金峰の田布施地区のお年寄りがやっている活動で、百寿委員会の役割としては、これをモデルケースにして南さつま市内の他の地区にも広げたり、あるいはこの活動に田布施地区以外からも参加してもらったりして、参画する人を増やしていくことにあるのだと思う。
というのも、椿油作りの一端を覗かせてもらったが、栽培されているものでなくて道ばたに落ちている種を拾ってくるわけなので、その品質がバラバラであり、それを一粒一粒検品して選別しなくては良質な油がとれないのである。この、小さい種をよく見て選別する作業は、目と手先を使うためお年寄りのボケ防止にもなるし、何人かで世間話をしながらそういう作業をするのはけっこう楽しい。さらには、椿油が売れて手間賃が出れば、同じ生きがいづくりでも、グラウンドゴルフのようなものとはまた違ったやりがいがあると思う。
そういうわけで、この椿油作りを市内にもっと広めたらいいんじゃない? という話になった(と理解しています)。
それで椿油の試食会に先日参加して、初めて椿油の料理を味わってみた。
椿油というのは、化粧品(鬢付け油)としても高価だが、食用油としては極端に高価である。例えば、鹿児島の鹿北製油の椿油は、インターネットではたった25gが1200円くらいで販売されている。 こんなに高価では、普通の料理にはとても使えない。だがその品質の高さから、高級料亭などでは使われることもあるらしい。
そういう高価な食用椿油を、試食会ということでドボドボ使って天ぷらまで食べさせてもらった!(ちなみに料理も自分たちでしました) それで、今まで漠然としたイメージしかなかった椿油のことがだいぶわかってきたような気がする。
椿油の食味を一言でいうと、「全くクセのない油」である。極めてサラっとしている。天ぷらもカラッとしていて油ぎっておらず、全く胃もたれしない。1日経ってもべちゃっとならず、(カラッとはしていなかったが)品質の低下が小さかった。
カルパッチョに使うのもオススメで、口の中が油でヌルヌルする感じがなく魚との相性がよい。意外なところでは卵焼きもよかった。うまく食味の説明ができないが、しっとりふんわりしていて美味しい卵焼きができていた。
しかも驚いたのは食後に食器を洗った時で、油がついたお皿もヌルヌルすることなくサラッと油が落ちるではないか。成分的なことはよく分からないが、ともかく油ぎった感じが全くない高品質油であることは了解できた。
だが逆に言うと、クセがなさすぎて、言われないと「椿油を使っているね」と分からないのが欠点である。要するにオリーブオイルなどと違って「味」がない。味がないものはなかなか普及するのが難しそうである。
椿油の生産・販売を企業的な活動としてやっていくとしたらかなり難しいが、生産するお年寄り(だけとは限らないが)の非営利的な生きがいづくりとして取り組むなら将来性がある。高品質さとかではなく、「南さつまのお年寄りが、一粒一粒選んだ椿の種で絞った椿油」というプロセス自体を主役にして、まずは情報発信から始めて活動の裾野を広げていったら面白いのではないかと考えている。
百寿委員会は通り一辺倒の役所の審議会とは全然違って、委員の発奮を期待するプロジェクトなので、もう活動は具体的レベルに入って来つつある。
私は、「椿油」のグループに配属されて、椿油を活用した生きがいづくりなどの支援に取り組んでいくことに(行きがかり上)なった。
ちなみに、これは希望を出して配属してもらったもので、勝手に割り振られたわけではない。私自身としても、食用油の世界にはいろいろと思うことがあり、この活動を進める中で油の勉強になるのではないかと思って期待しているところである。
その「椿油」だが、現在南さつまではいくつかのグループが細々と作っているらしい。その中で今回の核となるのは金峰の田布施地区のお年寄りがやっている活動で、百寿委員会の役割としては、これをモデルケースにして南さつま市内の他の地区にも広げたり、あるいはこの活動に田布施地区以外からも参加してもらったりして、参画する人を増やしていくことにあるのだと思う。
というのも、椿油作りの一端を覗かせてもらったが、栽培されているものでなくて道ばたに落ちている種を拾ってくるわけなので、その品質がバラバラであり、それを一粒一粒検品して選別しなくては良質な油がとれないのである。この、小さい種をよく見て選別する作業は、目と手先を使うためお年寄りのボケ防止にもなるし、何人かで世間話をしながらそういう作業をするのはけっこう楽しい。さらには、椿油が売れて手間賃が出れば、同じ生きがいづくりでも、グラウンドゴルフのようなものとはまた違ったやりがいがあると思う。
そういうわけで、この椿油作りを市内にもっと広めたらいいんじゃない? という話になった(と理解しています)。
それで椿油の試食会に先日参加して、初めて椿油の料理を味わってみた。
椿油というのは、化粧品(鬢付け油)としても高価だが、食用油としては極端に高価である。例えば、鹿児島の鹿北製油の椿油は、インターネットではたった25gが1200円くらいで販売されている。 こんなに高価では、普通の料理にはとても使えない。だがその品質の高さから、高級料亭などでは使われることもあるらしい。
そういう高価な食用椿油を、試食会ということでドボドボ使って天ぷらまで食べさせてもらった!(ちなみに料理も自分たちでしました) それで、今まで漠然としたイメージしかなかった椿油のことがだいぶわかってきたような気がする。
椿油の食味を一言でいうと、「全くクセのない油」である。極めてサラっとしている。天ぷらもカラッとしていて油ぎっておらず、全く胃もたれしない。1日経ってもべちゃっとならず、(カラッとはしていなかったが)品質の低下が小さかった。
カルパッチョに使うのもオススメで、口の中が油でヌルヌルする感じがなく魚との相性がよい。意外なところでは卵焼きもよかった。うまく食味の説明ができないが、しっとりふんわりしていて美味しい卵焼きができていた。
しかも驚いたのは食後に食器を洗った時で、油がついたお皿もヌルヌルすることなくサラッと油が落ちるではないか。成分的なことはよく分からないが、ともかく油ぎった感じが全くない高品質油であることは了解できた。
だが逆に言うと、クセがなさすぎて、言われないと「椿油を使っているね」と分からないのが欠点である。要するにオリーブオイルなどと違って「味」がない。味がないものはなかなか普及するのが難しそうである。
椿油の生産・販売を企業的な活動としてやっていくとしたらかなり難しいが、生産するお年寄り(だけとは限らないが)の非営利的な生きがいづくりとして取り組むなら将来性がある。高品質さとかではなく、「南さつまのお年寄りが、一粒一粒選んだ椿の種で絞った椿油」というプロセス自体を主役にして、まずは情報発信から始めて活動の裾野を広げていったら面白いのではないかと考えている。
2014年7月9日水曜日
鹿児島の醤油はいつから甘いのか
鹿児島の醤油は、ものすごく甘いことで有名である。
鹿児島県民は、学業や就職で首都圏に出ると醤油が塩辛いことに驚き、故郷の甘い醤油を懐かしんで、わざわざ醤油だけは鹿児島から甘いものを取り寄せる人もいる。そして逆に、県外から鹿児島に来た人は、甘い醤油に驚く。気に入る人もいるし、苦手に思う人もいて、観光地のレストランなどでは甘い醤油と普通の醤油が両方おいてあることも多い。
そして、県外からも、県民からも、甘い醤油は鹿児島の伝統である、と思われている。だが、それは本当だろうか?
実は、甘い醤油の歴史はさほど古いものではない。少し考えれば分かることだが、近代化以前の世界では砂糖はべらぼうな高級品であったから、これを塩辛い醤油に混ぜるというもったいない真似をするわけがない。
ではいつから鹿児島の醤油は甘いのだろうか。
ところで、 醤油や味噌といった調味料は、明治時代くらいまでは全国どこでも各家庭で作るのが普通だった。こうした調味料は各家庭の「味」であって、美味しい醤油や味噌を作れることが、奥方の誇りにもなっていたのである。
明治時代になって、圧搾機とか火入れ釜のような各種機械が輸入されるようになり、醤油醸造が工業的に営まれるようになってくる。依然として醤油や味噌は各家庭で作るものという考え方は根強かったが、次第に共同で作るようになり、やがて購入するものに変わっていった。それには、工業化に伴う、家庭の多忙化が関係している。
例えば味噌の場合、戦前から戦後にかけて購入商品の割合が増えてくるのだが、これは男衆が徴兵されたり、軍需工場で働かされたりしたことで農村が女性ばかりになり、人手が足りなくなったことが遠因である。忙しい中で、手間のかかる味噌づくりを省力化するため、集落共同での味噌づくりが奨励されるようになり、各家庭での味噌づくりが次第に減っていったらしい(鹿児島の場合。他県のことは知りません)。
醤油醸造の場合は味噌よりももっと手間がかかるわけで、味噌に比べると自家生産から工業生産に移り変わるタイミングは早く、 詳しくは分からないながら大正時代くらいには自家生産が下火になってきていたようである(同じく鹿児島の場合です)。
工業生産といっても、最初は家内工業的なものが中心で、村ごとに醤油屋さんがあるような感じだったが、昭和に入ってくると微生物学などに基づいて科学的に醤油が醸造されるようになり、また機械の大型化などで資本力の劣る小規模な醸造所が淘汰されていった。そんな中、太平洋戦争では鹿児島市内は空襲で焼け野原になってしまったので、醤油工場の多くが灰燼に帰してしまった。
戦後になると、食生活の向上に合わせて醤油もより高品質・衛生的なものが求められるようになった。昔ながらの醤油醸造は菌の扱いが職人の勘に頼っていた部分があり、温度管理なども十分に出来なかったので消費者の求める均質な商品を作るのが難しかった。そのため大型の設備を用いた醸造方法が中心になってきて、なおさら小規模な醸造所は生き残れなくなってきた。
そのため、県内の醤油醸造所は製麹・発酵・圧搾までの工程を共同化することにし、昭和42年(1967年)、隼人町に「生揚醤油共同生産工場」を設立した(写真)。現在では、鹿児島の醤油メーカーは数あれど、ほとんどがこの工場で醸造した生醤油を元にして、それぞれの味付けを行って醤油を製造・販売している。鹿児島の醤油は一見多様であるが、ほぼ全てこの工場の醸造がベースとなっているのである。
さて、鹿児島の醤油が甘くなったのは、戦後からこの共同生産工場が設立されるまでの間のようである。県内の多くの醤油工場が罹災してしまったため、この時期にはナショナルブランド(キッコーマン、ヤマサ、ヒゲタ、ヒガシマル、マルキン)が鹿児島に進出してきた。これら大手は、生産の合理化や機械化に積極的に取り組んで高い醸造技術を持ち、しかも安価な製品を生みだしていた。
生産力・販売力に長けるナショナルブランドに対抗するため、県の工業試験場では消費者・業界からの要望でサッカリンやシュガロンといった人工甘味料を用いた甘口醤油造りを研究、昭和32年(1957年)ごろに県内業者が共同して甘口醤油を売り出したのであった。普通の醤油では大手メーカーに対抗できないため、県民の嗜好に合わせた新たな商品として甘口醤油は開発されたのである。
というわけで、鹿児島の醤油が甘いことは50年くらいの歴史はあるが、それ以上ではなくさほど古い伝統とは言えない。しかも醤油の甘さは元々がサッカリンなどの人工甘味料のに由来していて、「鹿児島の甘い醤油の伝統」があるとすれば、それは人工甘味料の甘さである。
でも「元々鹿児島の人は甘口の味付けが大好きで、醤油もその嗜好に合わせて甘くなっているのだから、そのものは古くからのものでないにしても、伝統に沿ったものであるといえるのでは?」と反論する人がいるかもしれない。このあたりでは「甘いは美味い」という、とりあえず料理は甘口にしておけば美味しいという格言(?)すらある。
しかし残念ながら、鹿児島の人は甘口の味付けが大好き、というのもさほど古いことではない。藩政時代の鹿児島の料理の実態はよくわからないが、明治期については若干の資料がある。例えば『薩摩見聞記』という本で、これは当時の鹿児島の庶民社会を知るのに格好の資料である。
この本は、本富 安四郎という人が書いた。本富(ほんぷ)は新潟から教師として明治22年(1889年)に鹿児島に赴任し、数年間滞在。そこで見聞した「異国情緒」ある事柄をまとめたのが『薩摩見聞記』である。
そこには、興味深いことがたくさん書かれていて、現在の鹿児島で伝統だと思われていることが当時には真逆であったり、逆に今と変わらない鹿児島県民の姿もある。この本の興味深い点については機会があればまた書いてみたいが、今注目するのは料理についてである。
『薩摩見聞記』の料理関係の記述を探してみると、「宴会」と「飲食物」という項があり、鹿児島の宴会が独特だ(大規模でくつろいだ雰囲気)ということと焼酎の話題が多い。食材については山海の恵みが豊かだという具体例を様々に挙げるが、料理の味付けについては特に記述がなく、本富は鹿児島の料理が取り立てて甘口だとは感じなかったようである。一言「塩梅(味付け)は鹿児島にては甘けれども村方にてはやや塩辛く」とあるくらいだ。
これについても、そもそも日本料理は世界的に見ればかなり甘口の味付けをする方で、海外から来た人に、「ジャガイモでもニンジンでも日本人は甘い味付けをするんだなあ」と思われるくらいであるから、ことさら鹿児島市街地が他県と比べて甘口の味付けを好んでいたとは思えない。
では、いつから鹿児島県民は料理に甘口の味付けをするようになったのだろうか?
これについては、確たる資料がないので憶測になるが、やはり戦後の現象だと思う。始めの方に述べたように、近代化以前の世界では砂糖そのものが超高級品であるため甘口の味付けには限界があった。ところが戦後、全国的に甘口の味付けが好まれるようになってくる。というのは、海外からの安い砂糖が入ってきて砂糖の価格がドンドン下がってきたからで、砂糖を比較的自由に使えるということに伴っての変化だっただろう。
そのために砂糖の消費量が増大したが、政府は砂糖購入による外貨の流出と国内砂糖産業への打撃を緩和するため砂糖の輸入量を制限。そのために人工甘味料の需要が高まってくるのである。特にサッカリンは砂糖の数百倍の甘みがあるため、砂糖の代用品として工業的に多く使われた。
鹿児島で甘口醤油が開発された1950年代は、ちょど砂糖が供給不足になり、人工甘味料が広く使われた時代と重なっている。これは推測だが、甘口醤油は、醤油自体の味がどうこうというよりも、料理の際の砂糖を節約するために好まれたのではないか。甘みの強い醤油を使えば、砂糖をさほど使わなくても甘辛い煮物ができるということで、節約志向の主婦に喜ばれたであろう。県民所得が低いことにかけては定評がある鹿児島県のことで、貧しさ故の苦肉の策が甘口醤油を生んだのかもしれない。
だが、1963年には粗糖が輸入自由化され、1970年代にはサッカリンに弱い発癌性があるとの疑いがあり発売中止になった(その後解除)。だいたい1960年代までが単純な砂糖の代用としての人工甘味料の黄金時代で、その後は砂糖の価格がかなり下がって供給も安定したため、「甘口醤油」の存在意義もさほどなくなったのではないかと思う。
しかし甘口醤油は鹿児島の新たな伝統となり、最近では観光客が鹿児島の甘い醤油が美味しいということで買い求めることも増えてきた。そもそも、鹿児島の料理自体が甘口醤油を前提として作られるようになり、甘口醤油なしでは「お袋の味」が再現できなくなってしまった。
鹿児島の甘口醤油が真の意味で伝統的でないからといって気後れする必要はない。しかし、鹿児島の醤油は甘くなきゃならない、と決めつける必要もない。私は甘い醤油も好きだし、キッコーマンの醤油も好きで、料理によって使い分けている。あまりよくないのは、ごく最近の現象に過ぎないものを伝統だと思い込み、狭量なナショナリズムに陥ることである。美味しいと感じるものを素直に追求して、新たな鹿児島の食文化をみんなで作っていけたら楽しい。
【参考文献】
『鹿児島の伝統製法食品』2001年、蟹江 松雄、藤本 滋生、水元 弘二著
『薩摩見聞記』1898年、本富 安四郎著
鹿児島県民は、学業や就職で首都圏に出ると醤油が塩辛いことに驚き、故郷の甘い醤油を懐かしんで、わざわざ醤油だけは鹿児島から甘いものを取り寄せる人もいる。そして逆に、県外から鹿児島に来た人は、甘い醤油に驚く。気に入る人もいるし、苦手に思う人もいて、観光地のレストランなどでは甘い醤油と普通の醤油が両方おいてあることも多い。
そして、県外からも、県民からも、甘い醤油は鹿児島の伝統である、と思われている。だが、それは本当だろうか?
実は、甘い醤油の歴史はさほど古いものではない。少し考えれば分かることだが、近代化以前の世界では砂糖はべらぼうな高級品であったから、これを塩辛い醤油に混ぜるというもったいない真似をするわけがない。
ではいつから鹿児島の醤油は甘いのだろうか。
ところで、 醤油や味噌といった調味料は、明治時代くらいまでは全国どこでも各家庭で作るのが普通だった。こうした調味料は各家庭の「味」であって、美味しい醤油や味噌を作れることが、奥方の誇りにもなっていたのである。
明治時代になって、圧搾機とか火入れ釜のような各種機械が輸入されるようになり、醤油醸造が工業的に営まれるようになってくる。依然として醤油や味噌は各家庭で作るものという考え方は根強かったが、次第に共同で作るようになり、やがて購入するものに変わっていった。それには、工業化に伴う、家庭の多忙化が関係している。
例えば味噌の場合、戦前から戦後にかけて購入商品の割合が増えてくるのだが、これは男衆が徴兵されたり、軍需工場で働かされたりしたことで農村が女性ばかりになり、人手が足りなくなったことが遠因である。忙しい中で、手間のかかる味噌づくりを省力化するため、集落共同での味噌づくりが奨励されるようになり、各家庭での味噌づくりが次第に減っていったらしい(鹿児島の場合。他県のことは知りません)。
醤油醸造の場合は味噌よりももっと手間がかかるわけで、味噌に比べると自家生産から工業生産に移り変わるタイミングは早く、 詳しくは分からないながら大正時代くらいには自家生産が下火になってきていたようである(同じく鹿児島の場合です)。
工業生産といっても、最初は家内工業的なものが中心で、村ごとに醤油屋さんがあるような感じだったが、昭和に入ってくると微生物学などに基づいて科学的に醤油が醸造されるようになり、また機械の大型化などで資本力の劣る小規模な醸造所が淘汰されていった。そんな中、太平洋戦争では鹿児島市内は空襲で焼け野原になってしまったので、醤油工場の多くが灰燼に帰してしまった。
戦後になると、食生活の向上に合わせて醤油もより高品質・衛生的なものが求められるようになった。昔ながらの醤油醸造は菌の扱いが職人の勘に頼っていた部分があり、温度管理なども十分に出来なかったので消費者の求める均質な商品を作るのが難しかった。そのため大型の設備を用いた醸造方法が中心になってきて、なおさら小規模な醸造所は生き残れなくなってきた。
そのため、県内の醤油醸造所は製麹・発酵・圧搾までの工程を共同化することにし、昭和42年(1967年)、隼人町に「生揚醤油共同生産工場」を設立した(写真)。現在では、鹿児島の醤油メーカーは数あれど、ほとんどがこの工場で醸造した生醤油を元にして、それぞれの味付けを行って醤油を製造・販売している。鹿児島の醤油は一見多様であるが、ほぼ全てこの工場の醸造がベースとなっているのである。
さて、鹿児島の醤油が甘くなったのは、戦後からこの共同生産工場が設立されるまでの間のようである。県内の多くの醤油工場が罹災してしまったため、この時期にはナショナルブランド(キッコーマン、ヤマサ、ヒゲタ、ヒガシマル、マルキン)が鹿児島に進出してきた。これら大手は、生産の合理化や機械化に積極的に取り組んで高い醸造技術を持ち、しかも安価な製品を生みだしていた。
生産力・販売力に長けるナショナルブランドに対抗するため、県の工業試験場では消費者・業界からの要望でサッカリンやシュガロンといった人工甘味料を用いた甘口醤油造りを研究、昭和32年(1957年)ごろに県内業者が共同して甘口醤油を売り出したのであった。普通の醤油では大手メーカーに対抗できないため、県民の嗜好に合わせた新たな商品として甘口醤油は開発されたのである。
というわけで、鹿児島の醤油が甘いことは50年くらいの歴史はあるが、それ以上ではなくさほど古い伝統とは言えない。しかも醤油の甘さは元々がサッカリンなどの人工甘味料のに由来していて、「鹿児島の甘い醤油の伝統」があるとすれば、それは人工甘味料の甘さである。
でも「元々鹿児島の人は甘口の味付けが大好きで、醤油もその嗜好に合わせて甘くなっているのだから、そのものは古くからのものでないにしても、伝統に沿ったものであるといえるのでは?」と反論する人がいるかもしれない。このあたりでは「甘いは美味い」という、とりあえず料理は甘口にしておけば美味しいという格言(?)すらある。
しかし残念ながら、鹿児島の人は甘口の味付けが大好き、というのもさほど古いことではない。藩政時代の鹿児島の料理の実態はよくわからないが、明治期については若干の資料がある。例えば『薩摩見聞記』という本で、これは当時の鹿児島の庶民社会を知るのに格好の資料である。
この本は、本富 安四郎という人が書いた。本富(ほんぷ)は新潟から教師として明治22年(1889年)に鹿児島に赴任し、数年間滞在。そこで見聞した「異国情緒」ある事柄をまとめたのが『薩摩見聞記』である。
そこには、興味深いことがたくさん書かれていて、現在の鹿児島で伝統だと思われていることが当時には真逆であったり、逆に今と変わらない鹿児島県民の姿もある。この本の興味深い点については機会があればまた書いてみたいが、今注目するのは料理についてである。
『薩摩見聞記』の料理関係の記述を探してみると、「宴会」と「飲食物」という項があり、鹿児島の宴会が独特だ(大規模でくつろいだ雰囲気)ということと焼酎の話題が多い。食材については山海の恵みが豊かだという具体例を様々に挙げるが、料理の味付けについては特に記述がなく、本富は鹿児島の料理が取り立てて甘口だとは感じなかったようである。一言「塩梅(味付け)は鹿児島にては甘けれども村方にてはやや塩辛く」とあるくらいだ。
これについても、そもそも日本料理は世界的に見ればかなり甘口の味付けをする方で、海外から来た人に、「ジャガイモでもニンジンでも日本人は甘い味付けをするんだなあ」と思われるくらいであるから、ことさら鹿児島市街地が他県と比べて甘口の味付けを好んでいたとは思えない。
では、いつから鹿児島県民は料理に甘口の味付けをするようになったのだろうか?
これについては、確たる資料がないので憶測になるが、やはり戦後の現象だと思う。始めの方に述べたように、近代化以前の世界では砂糖そのものが超高級品であるため甘口の味付けには限界があった。ところが戦後、全国的に甘口の味付けが好まれるようになってくる。というのは、海外からの安い砂糖が入ってきて砂糖の価格がドンドン下がってきたからで、砂糖を比較的自由に使えるということに伴っての変化だっただろう。
そのために砂糖の消費量が増大したが、政府は砂糖購入による外貨の流出と国内砂糖産業への打撃を緩和するため砂糖の輸入量を制限。そのために人工甘味料の需要が高まってくるのである。特にサッカリンは砂糖の数百倍の甘みがあるため、砂糖の代用品として工業的に多く使われた。
鹿児島で甘口醤油が開発された1950年代は、ちょど砂糖が供給不足になり、人工甘味料が広く使われた時代と重なっている。これは推測だが、甘口醤油は、醤油自体の味がどうこうというよりも、料理の際の砂糖を節約するために好まれたのではないか。甘みの強い醤油を使えば、砂糖をさほど使わなくても甘辛い煮物ができるということで、節約志向の主婦に喜ばれたであろう。県民所得が低いことにかけては定評がある鹿児島県のことで、貧しさ故の苦肉の策が甘口醤油を生んだのかもしれない。
だが、1963年には粗糖が輸入自由化され、1970年代にはサッカリンに弱い発癌性があるとの疑いがあり発売中止になった(その後解除)。だいたい1960年代までが単純な砂糖の代用としての人工甘味料の黄金時代で、その後は砂糖の価格がかなり下がって供給も安定したため、「甘口醤油」の存在意義もさほどなくなったのではないかと思う。
しかし甘口醤油は鹿児島の新たな伝統となり、最近では観光客が鹿児島の甘い醤油が美味しいということで買い求めることも増えてきた。そもそも、鹿児島の料理自体が甘口醤油を前提として作られるようになり、甘口醤油なしでは「お袋の味」が再現できなくなってしまった。
鹿児島の甘口醤油が真の意味で伝統的でないからといって気後れする必要はない。しかし、鹿児島の醤油は甘くなきゃならない、と決めつける必要もない。私は甘い醤油も好きだし、キッコーマンの醤油も好きで、料理によって使い分けている。あまりよくないのは、ごく最近の現象に過ぎないものを伝統だと思い込み、狭量なナショナリズムに陥ることである。美味しいと感じるものを素直に追求して、新たな鹿児島の食文化をみんなで作っていけたら楽しい。
【参考文献】
『鹿児島の伝統製法食品』2001年、蟹江 松雄、藤本 滋生、水元 弘二著
『薩摩見聞記』1898年、本富 安四郎著
2014年6月27日金曜日
「ペクチン」のお勉強

これには、ペクチンというものの化学反応が関係している。ジャムは、砂糖、ペクチン、酸の3つが適度な割合で存在していないとうまく固まらずドロリとならない。この3者の化学反応によって、元々はサラッとしている材料から、ドロリとしたジャムができるのである。
では、その反応は具体的にどのようなものなのだろうか。また、そのような反応が起きるのはなぜなのだろうか。そして、ジャムの食感を狙い通りに作るにはどうしたらよいのだろうか。そうしたことを知るには、ペクチンの物性を理解しなくてはならない。というわけで、『ペクチン―その科学と食品のテクスチャー』という本を読んで勉強したのでその内容を備忘を兼ねてまとめてみよう。
■ペクチンとは何か?
そもそも、ペクチンは植物の中でどのように存在し、どのような役割を果たしているのだろうか。ところで、「ペクチン」という単語は「ペクチニン酸を主成分とする植物由来の多糖類の混合物」を指していて、物質自体の呼び名ではない。だから、「ペクチンの物性」というような言い方は少しおかしい。正確には、「ペクチニン酸の物性」と言わなくてはならないし、植物の中に存在する状態について述べる時は、「ペクチン質」という単語を用いるのが適切である。
で、ペクチン質が植物の中でどんな役割を果たしているのかというと、大雑把には細胞同士の接着剤と言える。ペクチン質は細胞壁と中葉組織(細胞と細胞の間)に存在していて、細胞と細胞をくっつける役割を持っている。
ペクチン質の主成分であるペクチニン酸は、細胞壁を構成するセルロースと同じような多糖類(糖類が鎖状に連なったもの)である。しかし、種々の点でペクチニン酸とセルロースは異なった性質を持つ。
第一に、セルロースは一度生成されると植物自身にもそれを分解する能力がないのに対し、ペクチニン酸には可逆的な生成機構がある。例えば、青い果実は硬く、熟すると軟らかくなるのはペクチン質が関係している。こうした植物の硬軟化が起こるのは、生成されたペクチニン酸が変化することによるのである。
第二に、セルロースはグルコースという糖だけを材料にした多糖類なのに対し、ペクチニン酸は主成分のガラクツロン酸(ガラクトースという糖が酸化されたもの)に加え、ラムノース、キシロース、ガラクトース、アラビノース、グルコースなど様々な糖を含む複合多糖類である。しかも、直鎖のみならず側鎖(枝分かれした部分)を持っていて、構造は遙かに複雑である。そのために、ペクチニン酸の正確な構造は現在においても解明されていない。そして、こうした複雑な構造があることから、一口にペクチンといってもその機能や性質は植物によって様々であり、リンゴのペクチンとカンキツのペクチンではかなりの違いがある。その違いが、いわばリンゴとカンキツの(特に煮たときの)食感の違いを生むわけだ。
つまり、ペクチン質は細胞間の接着剤として、植物の固さを制御する機能を持っているのである。これは、植物を食品としてみるとペクチン質がその食感を定めている、と言える。
■ペクチンの変化と食感の変化
ペクチンは植物の固さを制御しているから、同じ植物の果実でも、未熟な時と成熟した時、そして収穫後に追熟した時ではその組成が随分と変化する。一般に、ペクチニン酸を構成する糖類の組成がかなり変化し、徐々に水溶性のものへと変わってくことで果実が軟化していく。では、植物組織を加熱すると(肉の場合とは逆に)軟化するのであるが、これもペクチンが関係しているのだろうか? 実はその通りで、加熱によりペクチン質が分解・変質して細胞間の接着がゆるみ、また細胞壁が薄くなることで軟化するのである。
このように、野菜や果物を茹でると軟らかくなる、というごく当たり前の現象の原因にペクチンが関与していることがわかったのは今世紀に入ってからで、本格的な研究が行われ出したのはようやく1940年代になってからである。
しかし、加熱による固さの変化というのは野菜・果物によってかなり違っている。茹ですぎると硬くなる野菜もあるし、一度硬くなってから軟らかくなる野菜もある。ペクチンは加熱によって単純に分解されていくのではなく、pHや溶液中のイオン、そしてペクチン質の組成そのもの次第で複雑な化学変化を伴うのである。そういうわけで、野菜・果物ごとにペクチン質が加熱によってどのように変化するかは未だ十分には分かっていない。
ただ、基本的にはペクチニン酸は加熱によって分解されていく。問題は、それがどのように分解されるかということだ。固さを保持して加熱したいこともあれば、逆にあまり加熱せずに軟らかくしたい時もある。食感を制御しながら加熱するにはどうしたらよいのか?
その答えは植物次第であるから万能の答えはないが、実は、ペクチンはそのメチル化の程度によって加熱の崩壊度が著しく異なることがわかっている。例えば、完全に脱メチルしたカンキツのペクチンはpH6以上で長時間加熱してもペクチン分解を起こさないことが分かっている。つまり、長時間煮ても軟らかくならない。理論的には、ペクチンのメチル化度を調整することで加熱による軟化の影響を操作することができるのである。
これは、「予備加熱(pre-heating)」の基盤となる理論である。予備加熱というのは、植物起源の食品を60〜70℃の低温で長時間予め加熱しておくことで、その後の調理の加熱による軟化を防止する技術である。例えば、加熱殺菌が必要な保存食品の場合、殺菌の際の加熱でふにゃふにゃになりその食感が損なわれてしまうことがある。そういう場合、予備加熱をしておくことで、食感を損なわずに加熱殺菌ができるのである。
例えば、ニンジンを缶詰にするときには、76.7℃で予備加熱しておくとその後加熱してもその硬度が最もよく保持される。
予備加熱は、低温の加熱によってペクチニン酸を脱メチル化することで、その後の高温加熱による分解を阻害して食感を維持する技術なのである。
このように、ペクチン質はメチル化の程度によってかなり性質が異なる。ここで、「メチル化」ということの意味を少しだけ解説しておこう。ペクチン質の主成分、ペクチニン酸の枢要な素材はガラクツロン酸なわけだが、これはガラクトース(糖)が酸化したもので、カルボキシル基を持つ。ペクチニン酸とは、このカルボキシル基のうちいくつかが、メタノールによってエステル化(=メチル化)したものなのである。そして、カルボキシル基がどのくらいの割合でメチル化しているか(メトキシル含量)、ということがペクチンを分類する際の大きな指標となっている。
具体的には、メトキシル基が分子量で全体の何%に当たるかで分類されていて、全てのカルボキシル基がメチル化した場合の最大値が16.32%なので、その約半分の7%を境に、それより大きいペクチンが「高メトキシルペクチン(HMP)」、それより小さいペクチンが「低メトキシルペクチン(LMP)」と呼ばれている。
HMPはジャム、ゼリーなどの製造に用いられ、糖と酸の存在化で水素結合型のゲルを形成する。一方、LMPはカルシウムやマグネシウムなどの多価カチオンの存在下でイオン結合型のゲルを形成する。ただこのゲルは一般のゼリーなどとは異なっているので、普通のジャムなどには用いられない。LMPのゲルは固形料が少なくて済むことや広いpH領域があることで広範囲な利用が可能で、サラダやデザートの調製、食品の被覆(スプレー)、魚の冷凍ヤケの防止などに用いられる。
LMPのことはさておき、普通のジャムを作る材料であるHMPについてもう少し詳しく見てみよう。
■ジャムとペクチン
HMPがゲル化する過程はとても複雑で、ゲル形成を説明するのに種々の理論が提唱されていてまだ完全には解明されていない。とはいえ基本的な考え方は固まっていて、「負の親水コロイドであるペクチニン酸に、糖が脱水剤として作用し、水素イオンがペクチニン酸の負の電荷を減少させ、分子の凝集を促し、網目構造を形成する」というのが定説だ。一般に思われていることとは違い、ジャムの硬化は熱による化学変化によって引き起こされるのではなく、物質の組み合わせに由来するのである。つまり、ペクチンによってジャムを作るためには、脱水に十分な糖と、水素イオンが必要である。水素イオンはすなわちpHで表されるから、糖の濃度とpHの調製がジャム形成に不可欠である。具体的には、ゲル化には最低でも糖度55%以上、pH3.0程度の溶液を作ることが求められる。
pHは酸によって調整するが、pHは酸の濃度そのものでなく、遊離した水素イオンの濃度(の対数)であるから、酸の濃度を高めてもさほど影響が大きくは出ない。ということで、ジャムの強度(固さ)を決めるのは、大雑把にはペクチンと糖の量である。ジャムをパンなどに塗るのに十分な硬度にするには、だいたい糖度は65%くらいは必要である。
事実、1988年にJASが改正される前は、JAS規格ではジャムは糖度65%以上となっていた。それが、健康志向の高まりなどで低糖なものが求められるようになり、実際に65%未満のジャムが主流になってきたことから、現状に合わせる形でJASが改正され、現在の規格では40%以上ということになっている。
しかし、40%の糖度では普通には硬度が求められる水準に満たないことから、様々な添加物が用いられており、どっちが健康なんだかわからないような状況もある。
ところで、糖度が65%のジャムというと、水分が30%程度だとすると、水分と糖で95%なのでその内実はほとんど砂糖水である。ペクチン、酸、そして種々の成分はほとんど1%未満の微量成分ということになる。つまり、どんな種類のジャムであれ、その味はほとんど甘いだけのものだ。だが、酸味や苦みは舌がより鋭敏に感じるので、実はそういう微量成分が大事である。さらに、味覚には直接関与しない香り成分がジャムの味を左右していて、ジャムの味というのは、1%未満の成分をどう調整するかという非常に微妙なところで決まっているのである。
■ジュースとペクチン
最後に、ペクチンのもう一つの重要な側面について触れる。それは、果汁の清澄化である。リンゴの果汁を搾ると白濁したジュースができるが、市販のリンゴジュースは澄んでいて白濁していないものがある。これはどうやって清澄化しているのだろうか。実はこれがペクチンの操作による。ペクチンはコロイドとして果汁中に存在しているから溶液が濁ったように見えるが、このペクチンを分解してやると透き通ったジュースができるわけだ。ではどうやって分解するかということになる。
加熱してもペクチンを分解することができるが、高温が必要なのでジュースが変質してしまう。低温でペクチンを分解するにはどうしたらよいか。
さて、最初の方で触れたように、植物内でペクチンは生成だけでなく分解もされるので、このため植物内にはペクチンの分解酵素がある。この分解酵素を用いてペクチンを分解すればジュースを清澄化することができるのである。
具体的には、工業的にはポリガラクツロナーゼというものが使われている。植物内にもあるが、工業的には微生物培養したものが使用されている。その他、ペクチンの分解酵素にはいろいろなものがあり、これらを調整することによって食品の食感を変えることもできるのである。例えば、粘度の高い果汁に分解酵素を作用させることで、サラッとしたジュースを作ることができる、といった具合である。
ペクチンは、食品の味ではなくて食感を左右するという面白い物質である。しかし、構造が複雑であることや、結晶化などによって純粋なペクチニン酸を取り出せないこともあって、それがどのように食感を左右し、そしてそれをどうやって人間が操作できるか、ということがまだまだ各論レベルではわかっていない。とはいえ、最終的に美味しい食品ができればその化学変化などはある意味どうでもいい。無添加で低糖なジャムを身の回りの食材だけを使って作るにはどうしたらよいのか、そういう単純なことを知るために、少しでも役立ったらよいのである。
2014年1月7日火曜日
たゆカフェの「ゆったり市場」に出店します

今度、このカフェの新しい取組として、有機農産物等を販売する「ゆったり市場」なるマルシェが始まることとなり、縁あって「南薩の田舎暮らし」も現在ちょびちょびと販売している「かぼちゃの生ジャム」を引っさげて出店させていただくことになった。
これを主宰しておられる方にとっても初めての経験ということで、どういう調子になるのか未知数だが、現在予定されている内容は以下の通り。
- マルシェ:有機無農薬野菜・柑橘、ジャム、手づくりのパン、ハンドメイドアクセサリー
- 小さなプレゼントあり☆さわって当てて! この野菜なーんだゲーム(対象:子供)
- ふるまいぜんざい(なくなり次第終了)
- お野菜の試食コーナー
- たゆカフェランチ各500円
- (通常のカフェメニューもあり 10:00〜17:00)
【場所】南さつま市加世田高橋1934−108サンセットブリッジ下
TEL: 0993-78-3239
駐車場あり。
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2014年1月1日水曜日
3種のブルーベリーを植えました
昨年のことであるが、ブルーベリーの苗を50本ばかり定植した。
品種は、ブルーリッジ、ジョージアジェム、サミットという3種類。といっても私自身、これらの品種がどういう特性なのかは十分に理解しておらず、食べたこともない。
ともかくブルーベリーというのは品種の数が膨大であり、収穫時期、味、樹形、樹勢、そして栽培適地の違いによって、千差万別な、そしてある意味では大同小異の品種が生み出されている。正直、訳が分からないくらい品種が多い。その膨大な品種からどうしてこの3つを選定したのかというと、これらは暖地に適していることはもちろん、収穫時期が7月であるということが重要な点で、私の今の作付体系では割合に暇なはずの時期に収穫ができることを見込んだのである。
ところで以前もブルーベリーについては少し触れたが、この作物はジャム作りなどの農産加工と組み合わせることで生産性が高まる。私は比較的マイナーな果樹を中心に農業をやっていこうと思っているが、ブルーベリーというかなりメジャーな作物に取り組んだのは、もちろん「南薩の田舎暮らし」で加工所を開設したということがあるからだ。今時ブルーベリージャムなどというものはどこにでもあるが、だからこそ需要が安定しているとも言えるので、美味しいものができたら販売に期待が持てる。
だがそれと同じくらいに大きいのは、土壌から見てここにブルーベリーが最適ではないかと考えたためだ。ブルーベリーは酸性土壌を好み、根毛がないために水分不足に極端に弱い。ということは、日本の土壌はほとんど酸性土壌なわけだから問題は水で、常に湿り気があって、なおかつ他の園芸野菜等に適さない圃場があればブルーベリーを植える価値がある。今回植えた圃場は、狭く、行きづらいところにある上、日当たりも微妙というところがあるので野菜には使いづらいなあと思っていたところ、昨年の夏の日照りでもさほどカラカラになっていなかったので、ブルーベリーがイケるのではないかと踏んだのだ。
商業的にブルーベリーを作る場合は灌水施設を設けるのが無難、と言われているが、それはそれで投資が必要なので、天水に依存できるならそれに越したことはない。実際に灌水施設なしでブルーベリーを生産している人はたくさんいる。水が切れると割合すぐに枯れてしまう植物だから、来る夏に乾燥すれば怖じ気づいて灌水すると思われるが、そうなるかどうか、実験の1年である。
品種は、ブルーリッジ、ジョージアジェム、サミットという3種類。といっても私自身、これらの品種がどういう特性なのかは十分に理解しておらず、食べたこともない。
ともかくブルーベリーというのは品種の数が膨大であり、収穫時期、味、樹形、樹勢、そして栽培適地の違いによって、千差万別な、そしてある意味では大同小異の品種が生み出されている。正直、訳が分からないくらい品種が多い。その膨大な品種からどうしてこの3つを選定したのかというと、これらは暖地に適していることはもちろん、収穫時期が7月であるということが重要な点で、私の今の作付体系では割合に暇なはずの時期に収穫ができることを見込んだのである。
ところで以前もブルーベリーについては少し触れたが、この作物はジャム作りなどの農産加工と組み合わせることで生産性が高まる。私は比較的マイナーな果樹を中心に農業をやっていこうと思っているが、ブルーベリーというかなりメジャーな作物に取り組んだのは、もちろん「南薩の田舎暮らし」で加工所を開設したということがあるからだ。今時ブルーベリージャムなどというものはどこにでもあるが、だからこそ需要が安定しているとも言えるので、美味しいものができたら販売に期待が持てる。
だがそれと同じくらいに大きいのは、土壌から見てここにブルーベリーが最適ではないかと考えたためだ。ブルーベリーは酸性土壌を好み、根毛がないために水分不足に極端に弱い。ということは、日本の土壌はほとんど酸性土壌なわけだから問題は水で、常に湿り気があって、なおかつ他の園芸野菜等に適さない圃場があればブルーベリーを植える価値がある。今回植えた圃場は、狭く、行きづらいところにある上、日当たりも微妙というところがあるので野菜には使いづらいなあと思っていたところ、昨年の夏の日照りでもさほどカラカラになっていなかったので、ブルーベリーがイケるのではないかと踏んだのだ。
商業的にブルーベリーを作る場合は灌水施設を設けるのが無難、と言われているが、それはそれで投資が必要なので、天水に依存できるならそれに越したことはない。実際に灌水施設なしでブルーベリーを生産している人はたくさんいる。水が切れると割合すぐに枯れてしまう植物だから、来る夏に乾燥すれば怖じ気づいて灌水すると思われるが、そうなるかどうか、実験の1年である。
2013年2月16日土曜日
ぽんかんすドレッシングが販売中
前にもこのブログで触れた「ぽんかんすドレッシング 薫」が発売され、南さつまの物産館で買えるようになった。さらに東京の「かごしま遊楽館」でも販売しており、2月23日(土)には販売イベント(試食)も行われる。
販売イベントでは、(たぶん)唐揚げにこのドレッシングをかけたものが振る舞われるが、唐揚げとこいつの相性は抜群なのでぜひご賞味ありたい。
ちなみに、改めてこの商品の特徴をまとめると、
ところで、日比谷にある「かごしま遊楽館」だが、ぱっとしない(?)外見とは裏腹に、全国のアンテナショップの中で3位の売り上げを誇るらしい。各県が予算をけちってやや奥まったところに店舗を設ける中、日比谷、有楽町の駅前という立地が効いているに違いない。
ついでに書いておくと、同じ2月23日(土)には天文館のベルク広場で、「南薩の食&農フェア」というのが開催されるらしい。とはいえ鹿児島県のWEBサイトにも「南薩地域の農林水産物や加工食品の展示即売会を開催します」とだけあってそれ以上の情報がないため行く価値があるのかどうか不明だ。せっかく開催するのだから、もう少しちゃんとお知らせをしたらいいと思う。
販売イベントでは、(たぶん)唐揚げにこのドレッシングをかけたものが振る舞われるが、唐揚げとこいつの相性は抜群なのでぜひご賞味ありたい。
ちなみに、改めてこの商品の特徴をまとめると、
荒廃するポンカン園を有効活用
荒れたポンカン園を有効活用して生産された加工用ポンカンを使用
環境に配慮した栽培
加工用のみを生産する園地に特化したことで、環境に配慮した農薬不使用の栽培が可能に。
加工専用の青採りポンカン
生食用の余り物や規格外品ではなく、加工専用のポンカンとして、爽やかな酸味と香りが強い「青採りポンカン」を特別に使用。
果汁40%の新感覚ドレッシングというところで、要は「過疎の農村で、環境に配慮して作られた青採りポンカンを使った、果汁たっぷりのドレッシング」である。とはいえドレッシングというにはややあっさりしていて、どちらかというと調味料の領域と思うが、これでカルパッチョなどを作ったら本当に美味しいので是非試して欲しい。
果汁40%というまるでジュースのような新感覚ドレッシング。レモン汁を絞るように爽やかな酸味をプラスします。
ところで、日比谷にある「かごしま遊楽館」だが、ぱっとしない(?)外見とは裏腹に、全国のアンテナショップの中で3位の売り上げを誇るらしい。各県が予算をけちってやや奥まったところに店舗を設ける中、日比谷、有楽町の駅前という立地が効いているに違いない。
ついでに書いておくと、同じ2月23日(土)には天文館のベルク広場で、「南薩の食&農フェア」というのが開催されるらしい。とはいえ鹿児島県のWEBサイトにも「南薩地域の農林水産物や加工食品の展示即売会を開催します」とだけあってそれ以上の情報がないため行く価値があるのかどうか不明だ。せっかく開催するのだから、もう少しちゃんとお知らせをしたらいいと思う。
2012年12月14日金曜日
田舎における農産加工へのハードル
鹿児島県立農業大学校が主催する「農産加工基礎研修」という一泊二日の研修を受けた。
内容は、農産加工の入門編の位置づけで、業務用機器の取扱の説明と実習、農産物加工の基礎知識の講義である。雰囲気的には、農産加工グループなどで活動を始めようという女性を対象とした研修で、私以外の受講者は全員女性であった。ただ、最近ではビジネス的に農産加工に参入したいという男性の参加も少なくないのだという。
私は、加世田かぼちゃをつかったジャムを商品化したいと思っているので、農産加工の基礎的知識を学ぶためにこの研修に参加したのだが、実習ではジャム制作の理論的知識を教えてもらい大変参考になった。こういう研修に参加すると、「こうしなくてはいけない」という基礎の部分とともに、「これくらいで大丈夫」という妥協点というか、現実的な落としどころが分かるのもいいことだ。
南薩地域振興局の方からは、「新規就農者が農産物加工に取り組むのは危険。農業でちゃんと成り立ってから手を出すべき」というアドバイスを頂いたけれども、研修を受けてみた感触としては、小さく始めるなら必ずしも時機を待つ必要もない気がする。
ただ、問題は加工施設を一から建設しなければならないことで、ここはもう少し制度的にハードルを低めることが出来ないかと思う。例えば、大浦には「農村婦人の家」という古風な加工施設があるが、これは既存の加工グループ以外は商品販売の目的では使えない。商用利用では、事故(食中毒)等が生じた時の責任問題などがややこしいということかと思うが、一グループのみには特権的に商用目的で使わせているわけで、ここがネックになっているわけではないと思う。こうした施設を一定の基準を設けて商用目的にも使えるようにすれば、産業興しにもなると思うので市役所の方にはぜひご検討願いたい。
というのも、こうした施設が使えなければ、建屋から作らなくてはならないのが田舎のこわいところである。都会なら、適当な物件が見つかれば借りて内装をいじるだけで済むが、田舎には借りられる物件はほとんど皆無なので、ちょっとした加工所でも100万円単位のお金を使って建てなくてはならない。空き屋はたくさんあるのにバカバカしいことだ。
「産業興し」などというと抽象的だが、要は新しい事業に取り組むハードルを下げ、個人のアイデアが具現化しやすい環境をつくっていくことだと思う。それには予算も必要だが、既存の施設を商用利用できるように変えていくだけでも、随分変わってくるのではないだろうか。もちろん、商用利用を可能にするためには、そのための制度や規則、役所側の覚悟も必要になる。人口減で予算も厳しい世の中なので、県、市町村にはそういう手間のかかるややこしい仕事も面倒くさがらずにやってもらいたい。
内容は、農産加工の入門編の位置づけで、業務用機器の取扱の説明と実習、農産物加工の基礎知識の講義である。雰囲気的には、農産加工グループなどで活動を始めようという女性を対象とした研修で、私以外の受講者は全員女性であった。ただ、最近ではビジネス的に農産加工に参入したいという男性の参加も少なくないのだという。
私は、加世田かぼちゃをつかったジャムを商品化したいと思っているので、農産加工の基礎的知識を学ぶためにこの研修に参加したのだが、実習ではジャム制作の理論的知識を教えてもらい大変参考になった。こういう研修に参加すると、「こうしなくてはいけない」という基礎の部分とともに、「これくらいで大丈夫」という妥協点というか、現実的な落としどころが分かるのもいいことだ。
南薩地域振興局の方からは、「新規就農者が農産物加工に取り組むのは危険。農業でちゃんと成り立ってから手を出すべき」というアドバイスを頂いたけれども、研修を受けてみた感触としては、小さく始めるなら必ずしも時機を待つ必要もない気がする。
ただ、問題は加工施設を一から建設しなければならないことで、ここはもう少し制度的にハードルを低めることが出来ないかと思う。例えば、大浦には「農村婦人の家」という古風な加工施設があるが、これは既存の加工グループ以外は商品販売の目的では使えない。商用利用では、事故(食中毒)等が生じた時の責任問題などがややこしいということかと思うが、一グループのみには特権的に商用目的で使わせているわけで、ここがネックになっているわけではないと思う。こうした施設を一定の基準を設けて商用目的にも使えるようにすれば、産業興しにもなると思うので市役所の方にはぜひご検討願いたい。
というのも、こうした施設が使えなければ、建屋から作らなくてはならないのが田舎のこわいところである。都会なら、適当な物件が見つかれば借りて内装をいじるだけで済むが、田舎には借りられる物件はほとんど皆無なので、ちょっとした加工所でも100万円単位のお金を使って建てなくてはならない。空き屋はたくさんあるのにバカバカしいことだ。
「産業興し」などというと抽象的だが、要は新しい事業に取り組むハードルを下げ、個人のアイデアが具現化しやすい環境をつくっていくことだと思う。それには予算も必要だが、既存の施設を商用利用できるように変えていくだけでも、随分変わってくるのではないだろうか。もちろん、商用利用を可能にするためには、そのための制度や規則、役所側の覚悟も必要になる。人口減で予算も厳しい世の中なので、県、市町村にはそういう手間のかかるややこしい仕事も面倒くさがらずにやってもらいたい。
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