2012年6月5日火曜日

蘖(ひこばえ)の森

放置山林となりはてた自家林を整理し、新たに利用しようとしているところだが、この山には、写真のように根元から分岐している雑木がたくさんある。

ここは、少なくとも30年くらい放置されているが、このような木は、かつてはここが里山として利用されていたしるしである。薪などを採るために伐採した木の根元から蘖(ひこばえ)が生え、それが大きく生長することによって、このように王冠状に広がった幹が形成される。

この写真の木は、それぞれの幹は直径20cmもないが、その根元は、直径が1mくらいある。伸びては切られを何度も繰り返しながら、100年以上人間に利用されてきたのかもしれない。この山は明治か大正のころに、私の曾祖父が果樹園として切り拓いたもののようだが、おそらくそれ以前も里山として長く利用されてきたのだろう。

ところで、里山というと、「日本人の原風景」「心のふるさと」などと言われるように、なぜかとてもいいものという暗黙の前提があるような気がするが、私は里山がそんないいものだったとは思わない。利用可能な資源が限られている環境において、小規模の山林を最大限に活用するための山林管理が里山を生んだのであり、多少厳しい言い方をすれば、閉鎖的で貧しい農山村の象徴であるといえなくもない。

しかし、小規模山林を持続的に利用していくという発想は、今になって、最先端の考え方のような気がする。エネルギー・食糧価格の高騰が予想される中、身近な山から継続的に資源を得ることは、今後合理的になっていくと思われるからだ。

里山に「心のふるさと」のような価値がないとは言わないが、私にとってはそれはセンチメンタル過ぎてピンとこないものだ。むしろ、細く長く自然を活用する技術としての価値の方に興味を持つ。しかし、その技術はもう失われたと言ってもよい。どのように木を切り、植え、育て、何を収穫したのか…。何となくは分かっても、細かい管理技術はぼんやりとした彼方にある。残っているのは、物言わぬ蘖の森だけである。

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