2012年2月7日火曜日

「蒲生どん墓」で初代蒲生氏が何者だったか考える~蒲生町めぐり(その4)

蒲生町のひっそりとした墓地の奥に、「蒲生どん墓」がある。

蒲生どん墓は、中世から約400年、この地を治めた蒲生氏の墓所の遺構。1867年の大水による土砂崩れで破壊されたものを、町の有志が昭和13年に復元したものである。

31基も林立する五輪塔は、鎌倉時代から室町中期に及ぶ蒲生氏の歴代当主とその一族の墓石であり、最大のものは高さ2メートルを超える。前列6基は歴代当主のもので、第8代の宗清(1333年)から第13代の忠清(1451年)まで約120年間、ほとんど形式を変えることなく五輪塔が建立されているところを見ると、蒲生氏はその激動の時代において、相当な安定政権を築いていたものと推察される。

この蒲生氏はどこから来たのだろうか? 戦国時代に島津家に滅ぼされてしまったので詳細な歴史を辿ることは不可能なのだが、その来歴は興味深い。

蒲生氏の初代は上総介舜清(かずさのすけちかきよ)といい、要約すれば「藤原氏の子孫で比叡山にいた藤原教清が、宇佐八幡の留守識(るすしき)となって豊前に下向。宇佐八幡の大宮司の娘を娶り舜清が生まれた。舜清は豊前の国から下向し、まずは垂水、次に蒲生に居住した。1123年この地に宇佐八幡神を勧請して蒲生八幡神社を創建した」と解説される。

このように解説されるとわかったような気にはなるが、実際はわからないことだらけである。特に分からないのは、「なぜ舜清は蒲生という辺鄙な田舎までわざわざ来なければならなかったのか?」ということだ。

司馬遼太郎氏は、「街道をゆく 肥薩の道」で蒲生氏に言及し、舜清は山伏であり、蒲生氏の支配は山伏政権だっただろうと推定している。私はこの推定には賛成であるが、でも、どうして舜清は蒲生まで来なくてはならなかったのか。

蒲生氏の古い記録はなく、その事情は推測するしかない。それは、歴史というより、「歴史ロマン」の領域であるが、蒲生氏の濫觴(らんしょう)について空想を広げてみたい。

さて、まずは宇佐八幡宮の話から始めたい。蒲生氏の起源は、まずは宇佐八幡宮にある。豊前の国、今の大分県にある宇佐八幡宮=現・宇佐神宮は全国約4万社の八幡神社の総本宮であるが、律令期(奈良時代)には単なる神社というより、九州最大の荘園領主として権勢を振るった。

荘園というのは、いわば独立小国家・独立経営体である。そこでは農業生産だけでなく防衛機構(僧兵)もあった。荘園制全盛の平安時代では、宇佐八幡は九州各地に別宮を作ったが、これは九州各地に子会社を作ったというイメージになる。その宮司を束ねる大宮司は、独立小国家の元首、あるいは大会社の社長である。その娘が産んだのが蒲生氏初代、舜清だった。

舜清の父は宇佐八幡の留守識(るすしき)だった藤原教清というが、こちらはどうも出自が怪しい。どうやら山伏だったこの父親、藤原氏の自称はよくある家系の誇張としても、宇佐八幡の留守識というのは事実かどうか。一般的には、留守識とは地方組織の駐在の長官である。宇佐八幡は修験道や密教(天台宗=比叡山)との繋がりが深いのは事実だが、この比叡山からきた山伏、本当に長官を務めるほどの人物だったのかどうか。

というのも、教清が本当に宇佐八幡を治める地方長官で、大宮司の娘を娶って舜清が生まれたのなら、舜清はいわゆるエリートである。彼がわざわざ蒲生まで下向してくる必要はなく、宇佐八幡の要職を務めながら安楽な一生を送れたはずだ(なお、宮司は世襲である)。

では、なぜ蒲生まで下向してきたか。それは、父・教清が一介の山伏だったからではないかと思う。素性の知れない山伏と大宮司の娘の子、というのが舜清の実情だったのではないか。大会社の社長の娘が平凡なサラリーマンと結婚して産んだ子、というイメージだ。本社で活躍してもらうほどではないが、捨てておくわけにもいかない。しょうがないから、子会社や地方支部で使う。舜清の下向(つまり田舎への赴任)はそういうことだったのではないか。事実、鹿児島には、宇佐八幡の荘園があった。

ただし舜清は、本社では使えない事情があるにしても、なかなか見込みのある男だったのだと思う。彼は宇佐八幡を勧請し蒲生八幡神社を創建するわけだが、神社の創建に必要な資本はおそらく本社の方から援助されているだろうし、下向にあたって一人で来たわけはなく、少なくとも数十人程度の部下は引き連れていたと思われる。

要は、「資本と部下を少々つけてやるから、地方に行って独力で頑張れ」ということだったのではないか。舜清はこのチャンスを生かし、新たな地方支社=蒲生八幡神社を作り、そこを拠点に植民活動をしたのだろう。現地の住民を服属させ、地方荘園領主になった。

それが、そろそろ平家が天下の春を謳歌しようという平安末期のことだった。蒲生氏の政権は、紆余曲折がありながらもそれから約400年間続くことになる。その濫觴(ことの起こり)が、宇佐八幡神社に現れて大宮司の娘と恋に落ちた、一人の怪しげな山伏だったとしたら、面白い。

【参考】
「蒲生どん墓」は、「かもう どん ばかぁ」と濁って読む。「どん」はもちろん「殿」で尊称。

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