2012年2月1日水曜日

蒲生町の歴史と観光政策~蒲生町めぐり(その2)

鹿児島県姶良市の蒲生(かもう)町は、現在、ごく僅かな中心部以外は田んぼと山林ばかりの寂しい過疎地であるが、なかなかに面白い歴史を持った土地である。

奈良時代、7世紀後半ごろに全国に街道と駅(馬を常備し宿泊施設を設ける)が整備されたが、ここ蒲生にも駅が置かれた。蒲生は薩摩と大隅の中心に位置し、また錦江湾に注ぐ別府川も流れていることから交通の要衝だったと思われる。この時代の「駅」は、現代で言えば高速道路のインターチェンジが置かれたようなもので、古代は宿場として賑わっただろう。

平安時代後期、藤原氏の子孫と言われる上総介舜清(かずさのすけちかきよ)が豊前(大分)からやってきてここに拠点を築き、蒲生姓を名乗った。そして、蒲生氏は室町時代に島津氏の家臣となりながらも、有力な豪族として約400年にわたってこの地を治めることになる。なお、舜清は宇佐八幡を勧請し、ここに正八幡若宮(現・蒲生八幡神社)を創建してもいる。

戦国時代末期、薩摩でも戦乱が繰り返されたが、蒲生氏は近隣の反島津勢力と結んで島津氏と対決した。激戦であったが、当時日本唯一だった鉄砲を使用するなど島津氏の戦力が上で、あえなく敗戦。これから蒲生は島津氏の支配下に入り、島津氏の直轄領となる。

江戸時代、交通の要衝にある蒲生は地域防衛の拠点として多くの武士が住み、美しい武家屋敷が建ち並んだ。また、薩摩藩の家老だった島津久通は藩内の殖産興業に力を入れ、蒲生では和紙の生産(蒲生和紙)、造林(後の蒲生メアサスギ)などが開始された。和紙は清涼な水がなくては出来ないし、造林に関しては当時は運搬に河川が必須であった。これらは、水が豊かな蒲生の特色をよく生かした産業政策だったと言えよう。

明治維新後、蒲生は蒲生村、蒲生町と名を変え、2010年に加治木町、姶良町と合併し姶良市となり、行政区画としての蒲生はなくなった(地名としては残っている)。町には、かつての武家屋敷の名残を留める美しい路地が縦横に走るが、冒頭述べたように現在は過疎の町と化し、明治期には300戸近くあったという和紙生産(紙すき)も今では一戸を残すのみである。

しかし町の人達は今、豊かな歴史を生かし、ここを「日本一の巨樹 蒲生の大クスと武家門の町 蒲生郷」として売り出している(「郷」とは、江戸時代の行政区画の呼称)。蒲生は戦災を受けておらず、幸か不幸か高度経済成長期にも商工業が発達しなかったので、江戸時代の街並みがよく残っている。

江戸時代の町割りの小路には「蒲生郷まちかどミニミュージアム」というちょっとした解説を置き、趣のある観光交流センターには地域の特産を並べ、武家屋敷の通りには古民家を改装したカフェを設けている。また、「フォンタナの丘かもう」という宿泊や産直の拠点もある。小さな町にして、このように積極的に、地道に観光の振興に努めているのには頭が下がる。

未だ観光客で賑わっているわけではないし、上述の取組全てが成功しているかどうかはわからないけれども、来て損はない町だと思う。豊かな歴史的遺産をうまく活用しながら、これからも美しい町であり続けて欲しい。

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