2012年2月15日水曜日

男根信仰としての田の神~蒲生町めぐり(その7)

蒲生町市街地から国道463号線を北上すると、やがて急峻な岩壁にへばりつくような道となる。V字型に深く切り込まれた渓谷を臨みながら15分ほど進むと、漆(うるし)という地区へたどり着く。

ここへやってきたのは、県指定民俗文化財になっている「漆の田の神」の後ろ姿を確認するためだった。これは高さ108cmの大きな田の神(鹿児島では普通「タノカンサァ」という)で、両手にしゃもじを持って舞を踊っており、舞型の田の神としては県内最古といわれる。銘には「享保三」、すなわち1718年とあり、田の神像が作られるようになった18世紀の初期の作例として貴重である。

なぜ、この田の神の後ろ姿を見たかったのかというと、それが男根型であるか確かめたかったのである。

田の神というのは、豊穣の神・子孫繁栄の神であり、鹿児島では身近な存在であるが、その来歴は謎に包まれている。これは旧島津領内にしか見られないもので、どういうきっかけで作られるようになったのか、どうして剽軽な風貌をしているのか、また、どうして化粧させるのかなど分かっていないことが多い。

さて、田の神の起源についての有力な仮説として、田の神は元来、男根の石像だったのではないかというのがある。つまり、田の神は、元は巨大な石造りのペニスだったというのである。

私は「漆の田の神」の後ろ姿を確認して、この仮説が正しいことを確信した。この後ろ姿は、巨大な男根以外の何者でもない。

そもそも、男根と女陰は豊穣と子孫繁栄のシンボルとして長く民間信仰として拝まれてきた。風雪による自然の造形でできた陰陽石(男根・女陰型の石)はいまでも各地に残っているし、明治政府による「淫祠邪教の禁止」により各地の男根石が撤去される前には、ごく普通に見られるものだったのである。また、同種の崇拝形式は世界各地で見られる普遍的なものだ。

現代の私たちは、巨大な男根の石像というと、なんとなくイヤらしいものと思いがちだけれど、性的なものも自然の一部なのであって、元来忌避すべきものではなかったのであろう。

なお、田の神と同様に路傍によく見られる道祖神や地蔵菩薩も、男根像から変形していったものという説もある。さらに、これらはインドにおけるリンガ崇拝(シヴァ神の抽象化された男根を拝むもの)を起源に持つともいう。

豊穣と子孫繁栄の象徴としての男根は、田の神の性格と容易に結びつく。また、元来田植えや稲刈りなどが主に女性の仕事であったために、男根が崇拝されたとしてもおかしくはない(一般的には、男根像は女性が、女陰像は男性が信仰する)。田の神は一見剽軽なおじさんであるが、その造形感覚と扱い方(化粧をさせるなど)がどちらかというと女性的であることも、制作者が女性であったことを示唆する。

では、なぜ男根が剽軽なおじさんに変わってしまったのだろう? これは想像であるが、そのきっかけは、何かの事情で男根をそのまま表現することができなかった時の苦肉の策ではないだろうか。藩の役人(つまり武士)に男根を拝むことを禁止されたのかもしれないし、何らかの事情で遠慮したのかもしれない。

このような形にすれば、堂々と男根が拝めるのである。男根を剽軽なおじさんの後ろ姿として表現する、という革命は、瞬く間に藩内に広まった。おそらく、田の神を置いた田で豊作が続くなどの偶然(?)も重なったのであろう。

そして、いつしかそれが男根であることは忘れられ、田の神はそれ独自の文化を形成してきたのである。

さて、漆地区は、日本の原風景のような過疎の山村であるが、ここは幕末から昭和初期にかけて金山の開発で賑わい、かつて人口2千人以上あったという。今は農村であるが、当時は鉱石の精錬による鉱毒で作物は育たなかったと伝えられる。そんな栄枯盛衰をずっと見てきた田の神が、実は男根像だったかもしれないと地元の人に言ったら、どういう反応をされるだろうか。

【参考文献】
『石の宗教』五来 重、1988年

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