2012年2月8日水曜日

竜ヶ城磨崖一千梵字仏蹟と修験道〜蒲生町めぐり(その5)

蒲生氏の本城だった蒲生城(別名竜ヶ城)があった竜ヶ山、その城山の北東の岸壁に、「竜ヶ城磨崖一千梵字仏蹟」がある。これはあまり知られていないが、全国的にも貴重で、不思議な遺跡である。

竜ヶ山は標高160mあまりの小山ながら急峻な崖と巨石に囲まれ、蒲生城は中世、天然の要塞として難攻不落を誇ったという。磨崖一千梵字仏蹟も、近年ウッドデッキができてやや整備されたものの、足を踏み外せば命を落としそうな場所にある。

付近には特産の蒲生メアサ杉が林立し、幽邃な雰囲気の中に岩壁が広がる。約120メートルの岩壁には、1700字もの梵字と線刻の五輪塔や仏像などが刻まれており、1カ所に石刻された梵字の数としては日本最多という。その他、擬人化された不動明王の種字(不動明王を表す梵字)という特異な磨崖梵字もある。また、岩壁にも関わらず数カ所から湧水があり、特に中心付近の湧水の洞窟には梵字による阿弥陀三尊が描かれた石板も納められている。

この壮大な磨崖梵字は、いつ、誰が、何のために作ったのか全く分かっていない。

これを調査した黒田清光氏によれば、石造物鑑定家の藤田青花氏から「鎌倉時代中期またはそれ以前に作られたもの」という評価を得たという。少なくとも700年以上昔だ。ある時は讃仰され、ある時は忘れられつつも、こうして磨崖梵字は現代まで残った。

一般的に、磨崖仏などは密教や修験道の修行者が彫ることが多い。修験道では自然の巨石や岩壁に神を感じ、そこで超人的な力を得るため、敢えて危険を冒して仏や梵字を刻するのである。この梵字も、まさか足場を組んで彫られたものではなく、おそらく岩壁の上から綱でつり下げられた状態で、命を賭して刻されたものと見える。

なお、梵字とはサンスクリット語の文字(ブラーフミー文字)だが、日本ではこれに神秘的な力を感じたのか、真言や呪符にも使われた。乱暴に言えば、魔術・呪術の文字である。

ちなみに、磨崖には「高橋義盛」という名も見える。この高橋義盛が何者なのかわからないが、願主の一人だとしても、全てがこの一人の依頼によるものとも思えない。磨崖梵字は一様ではなく、明らかに品質の違いが認められる。最初に命がけの山伏(修験者)が精悍で秀麗な梵字を刻し、それにあやかって、高橋義盛が配下の山伏に命じて供養塔や願掛けを刻させたものかもしれない。

また、黒田清光氏は、これを元寇の調伏を願って刻されたものと推測しているが、そういうこともあるかもしれない。蒲生氏が山伏であったなら、こうして城下の岩壁を梵字で守護するということは自然である。

そういえば、蒲生町には「アッカサァー」と呼ばれる火の神が小路に祀られている。これは、正式名称を秋葉山大権現といい、修験道で信仰された神である。蒲生町のアッカサァーのご神体は、孔雀に乗り火焰を背負った写実的な烏天狗の石像であるが、秋葉山大権現の姿が烏天狗で表されることを、私はこれで初めて知った。

そもそも、南九州は急峻な山岳に恵まれ、かつて修験道の行者(山伏)がたくさんいたのである。「さつま山伏」は鹿児島文化の基層とさえ言われる。明治の廃仏毀釈の際には(一応仏教に分類されていた)修験道も禁止され、ほとんどの修験道の寺は廃仏の憂き目を見た。そして、人々の暮らしに密着しつつも、厳しい修行を行い、自然と一体化する修験道は、他の体系だった仏教宗派とは違い、一度その伝統が失われてしまうと、二度と元に戻ることはなかった。

私は、修験道こそは完全に日本化した仏教だと思う。そして、かつて修験道は、上は大名から下は庶民にいたるまで、身近な存在として文化を支えていた。だからこそ、人々の生活が変わってしまうことで廃れるのも早かった、と言えるかもしれない。壮大な磨崖梵字を臨み、山伏たちが活躍した時代を思うと、改めて失われた伝統が惜しまれた。

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