2013年3月19日火曜日

かぼちゃの花芽分化のはなし

かぼちゃが交配期を迎えた。というわけで連日午前中はかぼちゃの交配作業である(かぼちゃの花粉はウリ類の中でも最も寿命が短いため、作業は開花当日の午前中に行わなくてはならない)。

具体的には、雄花を摘み取ってその花粉を雌花につけ受粉させる作業なのであるが、ここにひとつ問題がある。雌花は次々に咲くのに、雄花はあまり咲かないので、雄花不足に陥るということだ。

そんな時は先輩農家の圃場へ雄花をもらいにいくわけだが、これは頼れる先輩がいるからできることで、もし一人で作っていたら、受粉ができず収穫が遅れてしまうわけで大問題である。

では、なぜ雌花は咲くのに雄花は咲かない、という現象が生じるのだろうか? これは仕組み的には花芽分化の際の温度による。カボチャの花芽分化(花になる細胞が出来る現象)は温度によって起こるが、低温だと雌花に、高温だと雄花になる性質がある。今咲いている花は苗の時に花芽分化したものなので、要は苗の時の温度によって雄花と雌花のどちらが咲くのかが決まるということだ。

そして当然ながら、同じハウス内では温度はどの株も似たようなものとなるので、雄花と雌花をバランスよく咲かせるのは意外に難しい。このため、ベテラン農家は苗の時にあえて高温で管理した株を作っておき、雄花を確保することもある。

では、かぼちゃがそういう性質を持っている究極的な理由は何なのだろうか? 疑問に思って少し調べたが、ウリ科植物全体がこのような性質を持っているのかも不明で、これに関してはよくわからないというのが正直なところである。昼夜の寒暖の差を利用して雄花と雌花を(原産地の気候では)バランスよく咲かせているのかもしれないし、自家受粉を避けるためにこのような仕組みが発達しているのかもしれない。

とはいうものの、栽培する側はそれに合わせてやるだけなので、究極的な理由に関心を持つ必要はないのかもしれない。しかし、それが分かれば栽培技術がより発展するという可能性もあるので、そういう基本的な事柄をちゃんと解明してもらえれば有り難い(単に私が知らないだけという可能性が大きいが)。

2013年3月17日日曜日

果樹園を拡充。アセロラ栽培に挑戦。

いろいろな人のはからいで、果樹園を借りることができた。笠沙の赤生木(あこうぎ)というところで、面積は3反弱、25aくらいだろうか。

この園地は地主のSさん夫妻が半世紀をかけてつくり上げた素晴らしいカンキツ園の一部で、非常によく管理されている。また、赤生木のこのあたりは無霜地帯ということでカンキツにとって環境は最高である。

現在の樹種構成としては、1/3がタンカン。1/3が不知火(いわゆるデコポン)で、残りの1/3はキンカンとタンカンが混植されているが、枯損木が多い。この1/3のスペースは、元はタンカンが全面に植えられていたそうだが、なぜか植えても植えても枯れてしまったということで、今ではほとんど生産能力がない。土壌の問題なのかなんなのかわからないが、ともかくこの園地の弁慶の泣き所というわけで、ここがあるからこそ私のような若輩者に貸して頂けたのだと思う。

というわけで、この園地のポイントはこの1/3を有効利用することであろう。最初はタンカン以外のカンキツを植えようと思っていたが、もしかするとカンキツ全般にとって何か都合が悪いことがあって次々に枯れてしまったということなのかもしれないので、思い切って全く違う樹を植えてみることにした。

それは、「アセロラドリンク」でおなじみの、あのアセロラである。私自身、アセロラの生の実を食べたことがないのだが、ビタミンCが豊富で健康そうなイメージと、そして未だほとんど流通していないという点を買っての冒険である。

昨年、アセロラの苗を試験栽培してみたが、樹勢が旺盛で昆虫の食害もなく、樹としては非常に強い。だが寒さには極端に弱く、12月くらいまでピンピンしていたのに、霜が降りたらすぐに枯れてしまった。こいつは霜が降りるところでは全くダメな果樹で、現在、日本での生産は沖縄が中心であり、本土の露地栽培では経済生産の実績がないと思われる。しかし、この赤生木が本当に無霜地帯なのであれば、可能性はある。

もう一つアセロラには弱点があって、それは実の痛みがやたらと早いことである。収穫後2〜3時間で痛み始め、次の日くらいには食べられなくなるという。これではほとんど流通は不可能だ。冷蔵・冷凍食品の流通王手であるニチレイが、畑違いの飲料事業となるアセロラドリンクを発売したことの背景も、傷みやすいアセロラを劣化させずに冷凍する技術を持っていたことが関係しているのである。

ということで、アセロラは普通には売れない商品なのであるが、ジャムなどに加工することで商品化できるかもしれない。先行きは不透明であるが、今年には加工施設も作りたいと思っているので、見込みがないわけではない。他の人がやらなそうなことをやってみる、ということが新参者に期待されていることだと思うので、失敗覚悟で取り組んでみる所存である。

ところで、アセロラドリンクは今でも「ニチレイ」の名を冠して販売されているが、実は事業はサントリーに売却されている。ニチレイは飲料事業をアセロラドリンクしか持っていなかったので、経営の効率化を図るために飲料事業を切り離したのである。今でも原材料の供給はニチレイが担っているが、サントリーになってからどうも品質が劣化したようで残念だ。昔の濃厚なアセロラドリンクを、もう一度飲みたいものだ。

2013年3月16日土曜日

世界史から見るタンカンの来歴

鹿児島や沖縄ではメジャーだが、全国的にはマイナーなカンキツにタンカンがある。今南薩の田舎暮らしでは美味な「狩集農園のタンカン」を販売中だが、この商品説明を用意するにあたっても、「そもそもタンカンとは何か?」ということから説明する必要を感じた次第である。

そこでタンカンの来歴を調べると「ポンカンとネーブルオレンジの自然交雑種。中国広東省原産」などと出てくるのであるが、その説明を掘り下げていくと近代の世界史を垣間見る思いがしたので紹介したい。

さて、先ほどの説明だが、ネーブルオレンジと広東省の組み合わせに若干の違和感を感じないだろうか? ポンカンはアジア原産だから広東省にあるのは自然だが、ネーブルオレンジはどうだろう?

ネーブルオレンジはオレンジの突然変異で産まれた品種であり、実は19世紀の初めのブラジルに発祥したものだ。ではブラジルにはもともとオレンジがあったかというとそうではなく、南北アメリカ大陸にはそもそもカンキツ類が存在していなかったのである。

南北アメリカ大陸にオレンジを持ち込んだのは、大航海時代のヨーロッパ人である。だが、話がどんどん遡って恐縮だが、このオレンジというのも元からヨーロッパにあったものではない。よく「古代ギリシアでオリーブとオレンジが作られていた」などと説明されるが、このオレンジは今の甘いオレンジではなくて、日本で言うところのダイダイ(橙)であり酸っぱいオレンジだ。

甘いオレンジの原産は東アジアで、15世紀から16世紀にポルトガルの商人によって中国からヨーロッパに伝播したとされる。最初は気候が合わず生産は奮わなかったらしいが、次第にヨーロッパの気候風土に合致した品種が産まれ、大航海時代にヨーロッパから世界へ広まった。

というのも、オレンジなどのカンキツ類は、当時は嗜好品である以上にビタミンCの補給のために重要だった。長い航海中は生野菜が採れないため、保存食ばかり食べていると壊血病になってしまう。それを防止するためにレモンやオレンジといった保存性のよいカンキツが重要だったのである。

ポルトガルのリスボンは伝統的なレモンの産地であるが、当時のヨーロッパの主要港の近くでレモンやライムの栽培が盛んに行われていたのはそういう理由がある(今でも産地となっている地方も多い)。オレンジがそのレパートリーに加わってからはオレンジも栽培されるようになり、またヨーロッパ外の寄港地においても、食糧補給のためにカンキツを栽培させたのであった。

ポルトガルはブラジル(と今呼ばれている地域)を16世紀に植民地化して砂糖の大規模なプランテーションを作ったが、実は植民地の建設にあたってオレンジも植えさせたらしい。当初はどうやら補給用の細々とした生産だったようだがこれが拡大し、ブラジルでは一大オレンジ産業が成立することになる。ちなみに、ブラジルは今でもオレンジ生産が盛んであり、世界第一位の生産量を誇っている。

このブラジルにおいて、オレンジが突然変異しネーブルオレンジが産まれたのは、植民地化より約300年後のことであった。この食味に優れた新品種の最大の特徴は種がないことで、食べるには便利だが、増やすには挿し木か接ぎ木しかない。つまり、ネーブルオレンジの樹というのは全て、19世紀初頭にブラジルで産まれた最初の樹のクローンなのである。

話がようやく戻ってきたが、このネーブルオレンジが広東省にあったというのはどういうことだろうか? 19世紀というと、アヘン戦争でイギリスが香港を手に入れるのが1842年、ポルトガルがマカオの港を我がものにするのが1845年であり、まさに広東省(の沿岸地域)が植民地化される時代である。

このような時代にネーブルオレンジが広東省で自発的に栽培された可能性はない。というのも、先述のようにネーブルオレンジは接ぎ木か挿し木でしか増やせないため、導入のためにはブラジル(あるいはヨーロッパ)から生きた樹を長い航海により中国へと運んでくる必要があり、そのような事業を当時の中国人が行うはずがないからである。

ということで、この時代に広東省にネーブルオレンジがあったとすれば、ポルトガル商船への食糧補給のため、ポルトガル人によって強制的に栽培させられたものである可能性が極めて高い。15世紀に中国からポルトガルに伝えられたオレンジが、19世紀にはネーブルオレンジとなって中国を「侵略」したことになる。

以上の推測が正しいとすれば、タンカンはせいぜい19世紀に産まれた新しい果実であり、しかも中国の植民地化の産物ということになる。ただし、タンカン(短桶)の語源は中国で行商人が桶に入れて売り歩いたからともいい、この語源説と以上の推測はやや齟齬も感じるところである。もしタンカンが植民地化の産物であるとすれば、そんなのどかなイメージで語られる果物ではないだろう。

さらに、タンカンが中国本土から台湾へ伝播したのが18世紀という話もあるので、タンカンの誕生にネーブルオレンジは関係なく、もっと古くからある果物なのかもしれない。実は、タンカンがネーブルオレンジとポンカンの自然交雑種であるというのも一説に過ぎず、ポンカンとミカン、あるいはポンカンとオレンジではないかという説もあり、正直なところその起源は茫洋としているのである。

ちなみに、タンカンが日本へ伝播するのは、日本が台湾を植民地化したことを契機とする。カンキツだけに言えることではないが、食材の伝播はまさにグローバリゼーションの産物であり、グローバリゼーションの形が植民地化であった時代は、食材の伝播や品種改良は植民地の建設と切り離すことが難しい。タンカンという一つの果物の来歴を探るだけでも、15世紀からの世界史を眺める必要があるのである。

【参考】
Orange History
History and Development of the Citrus IndustryHerbert John Webber, Walter Reuther, and Harry W. Lawton

2013年3月14日木曜日

カタバミを食べる文化

庭のカタバミ(片喰)が満開である。

当然植えたものではなくて、勝手に生えてきたもの。地下茎で広がっていくので増殖力が強く、いわゆる難防除雑草。

しかしうちの庭の場合、別段何も栽培していないスペース(スモモの樹下)に生えているので特に駆除する必要もない。むしろきれいに花の絨毯ができて有り難いと思っている。

このカタバミ、花も葉も食べることができる草で、葉は噛むと酸っぱくてピリッとした刺激的な味がする。よく「レモンの様な」と形容されるが、風味としてはレモンというより香草のような感じである。使い方も香草と同じく、魚やサラダに合わせると美味いらしい。また、これを5〜10分煮出して砂糖を入れるとレモネードのような飲み物になるという。これはまだ試していないが、いずれやってみたいと思う。

カタバミはビタミンCが豊富だということからか、英語圏やインドでは「食べられる雑草」として認知されているらしく、検索するとけっこうレシピが出てくる。一方、日本ではこれが食べられる草である記述も少ないし、具体的なレシピとなるとほとんど見かけない。 それどころか、カタバミはシュウ酸(蓚酸)を多く含むので食べると体に悪い、などと書いてある。だが実際は、健康に影響するほど大量に食べる草ではないので、それが理由で食べないわけでもないような気がする。

ところでカタバミは五大紋の一つのモチーフでもある。それくらい身近な草であったのに、なぜ日本ではカタバミを食べる文化が発生しなかったのだろうか? 刺激的な香草は日本料理には好まれなかったから、というのがありそうなことだ。だがそうだとすると、家庭料理もかなり洋食化しているので、もしかするとカタバミが普通の食卓に上る日も近いのかもしれない(既にレストランなどでは香草として使っているところがあるようだが、どうやって調達しているのだろう?)。

2013年3月13日水曜日

無名のアーティストの仕事

田舎に越してきてから、行政が配布する地元のお知らせチラシなどをよく見るようになった。というか、田舎のそういうチラシは面白い。

首都圏では、行政が全戸に配布するタイプのチラシは少数だと思うし、他方で民間の地域情報フリーペーパーは充実しているが、そのイベント欄は微細な字で情報が羅列してあるという無味乾燥なもので、眺めていてそれほど楽しいものではない。そもそも、そういう情報はインターネットでいくらでも手に入る。

一方で、田舎では多くのイベントがインターネットではお知らせされていないということもあって(これはこれで問題だが)、チラシというのは情報源として非常に貴重であり、これを眺めるのは楽しい。

そんなチラシの中でも、月例で発行される「南さつまロマンの里づくりネットワーク会議」のチラシはピカイチだ。この冗長な名前の会議が何なのか未詳だが、このチラシは地域の商業的なイベントのお知らせが主な内容である。

このチラシの何がいいかというと、手書きの紙面構成がすこぶる奮っている。今時手書きということだけで価値があるが、これはヘタウマではなく丁寧・実直に作られていて、それだけで読む気になる。さらに肩の力の抜けた絵がいい味をだしているのだが、その内容もいちいち適切で、単に空きスペースに絵を描いたというわけでなく、購読者のイメージを喚起する素材の取捨選択が上手く、また図案が正確である(施設外観とか商品の絵とかが)。

そして情報の編集が非常にうまい。こういうチラシは、実施団体に原稿を出させてそれをそのまま掲載するというケースが多いが、このチラシの場合は(本当にそうしているかは不明だが)主催者に話を聞いて内容を咀嚼した上で、情報を大胆に削り、最適な表現に編集して掲載しているように見える。

そういうわけで、これはなかなかに職人芸的なチラシなのである。作っているのは市役所の職員の方かと思うが、相当にセンスがある人だなと思う。でも逆に言えば、その方が異動などで担当から外れれば、どうなってしまうのだろうという気もしなくもない。いわばこのチラシは、無名のアーティストの仕事なのである。

2013年3月12日火曜日

南薩の捕鯨と「くじらの眠る丘」

大浦ふるさと館(物産館)の横に、「くじらの眠る丘」というクジラの骨格標本を展示する施設がオープンした。

14頭のクジラの群れが当地に座礁するという事件が2002年にあったのだが、これはそのうちの1頭の骨格を標本化し、座礁10周年を記念して展示したものである(なお、1頭のみ救出されたが、残り13頭は死亡した)。

どうせ骨だろ、とタカをくくっていたが、実際に見てみるとまるで恐竜の化石のような迫力がある。クジラの骨の展示というのは珍しいそうなので、一見の価値はあろう。

大浦ふるさと館では、この施設が併設されたことを契機としてクジラ関連商品を充実させており、甑島の「くじらカレー」や 「くじらベーコン」も取り寄せられている。近いうちに試してみたい。

実は、南さつま市とクジラは因縁浅からぬものがあり、笠沙沿岸(片浦港)では古くから捕鯨が行われていた。豪壮な捕鯨でクジラを捕まえるだけでなく、定置網にクジラがかかると鯨肉を塩漬けにして肥前や肥後に出荷し浦が潤った、ということでお祭り騒ぎになったらしい。年間数頭から10頭くらいのクジラが獲れたという。

そういうわけで、明治中期から大正中期頃には鯨肉は笠沙の特産品であった。鹿児島で捕鯨を組織的にやっていたことがわかっているのは、笠沙と奄美大島しかないそうだ。

ちなみに、笠沙の赤生木(あこうぎ)というところにクジラキイ(鯨切り)というクジラの解体集団がいて、クジラの解体は漁民ではなく彼らが担当したのだということだ。クジラの解体は、もしかすると山で狩猟をしていた人々が担ったということなのかもしれない。

黒潮がぶつかる笠沙の野間半島は、おそらくクジラの回遊の道にあたっており、南さつまにはしばしばクジラが打ち上げられ、またホエールウォッチングもできる(※)。「くじらの眠る丘」は14頭のクジラ座礁10周年を記念し、新たな地域観光資源とするための施設ということだが、せっかくクジラに注目するのであれば、南さつまとクジラとの歴史的な関わりを掘り起こしたり、気軽にホエールウォッチングが出来る機会を設けたりするというような工夫も有効ではないだろうか。

※以前はやっていたようだが、今やっているのかどうか未詳。

【参考】
鹿児島県の捕鯨」2007年、不破 茂、米原 正晃
笠沙恵比寿の博物館スペースには、笠沙の捕鯨について解説した小さなスペースがある。 「くじらの眠る丘」が出来たことを契機として、内容をさらに充実させてもらえれば有り難い。

2013年2月27日水曜日

芋焼酎は柑橘の香り

私はあまりお酒が飲めないので焼酎を飲まないが、先日面白い話題を見つけたので紹介する。

本格焼酎というと、水以外の成分はほとんどエタノールで、それ以外の成分は約0.2%しか含まれていない。 そして蒸留酒なので当たり前だが、全ての成分が揮発性のものであり、厳密な意味での(エタノール以外の)味覚成分は含まれていない

では焼酎の味は何かというと、その0.2%の中の香り成分にある。つまり、焼酎の味というのは、科学的には(舌で感じる)味ではなく香りのことなのである。これは蒸留酒一般に言えることであるが、アルコールのテイスティングを生業とする方が、実際に飲むことなく香りだけで判断することがあるのは、理に適ったことなのだ。

さて、その0.2%の成分とは具体的には何かというと、高級アルコール類、脂肪酸エステル類、有機酸、ミネラルなどだが、ここに香りを形作る微量香気成分が含まれる。焼酎の銘柄は数多いが、この0.2%の中の非常に微妙な成分の違いが銘柄の違いになるわけだ。

というわけで、焼酎の「味」を作る微量香気成分だが、例えばネロール、リナロール、α-テルピネオール、シトロネオールといったモノテルペンアルコール類、そしてβ-ダマセノンといった物質らしい。とはいっても、私自身門外漢なのでこれらの物質それぞれについて特性を知っているわけではない。

だが、ネロール等のモノテルペンアルコール類というのは、実は柑橘や花に含まれている物質なのである。柑橘特有の爽やかな香気の成分はこれらなのだが、焼酎の香りのかなりの部分がこれらの香りなのだ。少し大げさに言えば、芋焼酎は柑橘的なお酒であると言えるだろう。ちなみに焼酎の甘さを作っているのはβ-ダマセノンである(これは柑橘系ではない)。

しかしこれらの柑橘的な香気成分、どこから来たのだろうか? サツマ芋は柑橘的な香りがしないし、事実芋にはこれらの香りは含まれていない。これが面白いところだが、実はサツマ芋の中では、モノテルペンアルコール類が配糖体(つまりグルコシドと結合している)の形で存在していて不揮発性なため香りにならないのである。

これらモノテルペン配糖体が醸造の過程で分解され、揮発性のアルコール成分となることによって焼酎の香りが形作られる(※)。ということは、焼酎の香りを「芋の香り」と形容することがあるが、芋そのものの香りが焼酎の香りになるわけではなく、芋に内在していた香りの元が麹菌によって顕在化させられて焼酎の香りになるということだ。

ついでに言うとこれら香気成分はアロマテラピーなどでも使用されるものらしくリラックス効果があると言われる。鹿児島では伝統的に焼酎はお湯割りにするが、香気成分をより揮発させて味を鮮明にし、リラックスするためにそうするのかも知れない。

柑橘類はジンライムに代表されるように蒸留酒との相性がよく、焼酎も(本格焼酎ではなく甲類の方)酎ハイで柑橘系とよくアレンジされるが、元々芋焼酎の香りが柑橘系であったことは驚きである。ただ、芋焼酎で柑橘系のカクテルを作ったら合うのかと思ったら、それぞれの香りがケンカしてなかなかうまく作れないのだそうだ。

※ このことは1990年に太田剛雄によって解明された。割と最近まで焼酎の香りがどこから来るのかわかっていなかったということだ。

【参考】
「芋焼酎原料サツマイモ品種と焼酎の香気成分との関係」2013年、高峯 和則