2016年3月17日木曜日

農村婦人、婦人部、農業女子

最近、「保育園落ちた日本死ね!!!」というブログ記事が物議を醸している。

私としては、なぜこのブログ記事が賛否両論を巻き起こすのか分からない。日本の子育て支援が薄弱なのは明白で、「そうだそうだ!」となりそうなのに。

この頃は、「保活」なる言葉もあるそうだ。「保育園に入れるようにするための準備活動」のことらしい。希望する人誰でもが簡単に保育園を利用できるようにすべきであり、保育園に入れるために知恵を働かせないといけないというのは異常である。

そんな中、政府は移民労働者の活用も検討しているそうだ。そんなことよりも、働きたいと思っている人が誰でも働けるように、保育園の整備を進めて利用制限の緩和を行い、保育士の待遇改善に努めるという当然のことをやるべきだ。

…という話を枕に持ってきたのは、このところ「農村における女性」ということについて考えているからである。

「女性が活躍できる社会」は実はずっと言われてきたことで、今になって出てきた話題ではない。かつて農村においても「農村婦人」はもっと活躍すべきだという趨勢になったことがある。各地で「農村婦人の家」のような施設(集会所や食品加工所)が出来たり、婦人学級(成人女性の勉強会)の活動が奨励されたり、「今後の農業の発展には女性の力が不可欠だ!」と叫ばれたりもした。

例えば、女性は農産物の加工に取り組め、といったようなことは少なくとも昭和20年代から言われてきた。今の農産加工とはちょっと意味合いが違う部分もあるが、それでも言われていることの変わらなさには驚くものがある。

ところで先日、先進的な取組をしている有名な農事組合法人のリーダーの講話を聞く機会があった。ここは、素晴らしい集落営農の取組と、企業とのコラボによる食品加工、そして自前の物産館の経営などによって農業関係者が全国各地から研修に訪れるところである。

そのリーダーが強調するには、企業とコラボしたり、物産館でイベントをしたり、要するに社会に関わって行く活動をするには、女性の力をいかに活用するかが大事だということである。そのためこの農事組合法人では、婦人部(という名前ではなくもうちょっと今っぽい名前にしていたが、要は婦人部)を設け、その活動を重視しているんだそうだ。

これは(少なくとも鹿児島の)農村で何か事を起こす時には鉄則で、男衆は飲み会の席では「こうしたらよいああしたらよい」と調子のいいことをいうが、実際に何かやることになったら意外と戦力にならず、女性の方がテキパキと事をこなすことが多い。難しいことでなくても、お客さんに対してお茶とお茶請けを出すような地味だが大切な仕事をこなすのが女性で、まさに縁の下の力持ちという感じがする。

うちの集落でもそうで、例えば集落の新年会、鬼火焚き(どんど焼き)、敬老会といったような行事で食事やお酒を準備するのは婦人会であり、自治会組織の一部である婦人会がこうしたイベントでの骨の折れるほとんどの仕事を担っているように感じられる。

しかしながら、先進的な農事組合法人でも「婦人部」があるということには、相当衝撃を受けた。例えば、名のある企業が女性の社員だけまとめて「婦人部」という部署を作っているとしたら、どんな旧態依然とした組織かと愕然とするであろう。それと同じような衝撃を受けたのである。

組織は、あくまでも適材適所で人事をなすべきであって、性別で部署を決めつけるようなことがあってはならないと思うし、それは既に常識だ。女性は婦人部に属してサポート役に回りなさいというような話をしたら、相当な時代錯誤だと思われるだろう。

これは企業だけの話ではない。例えばイベントの実行委員会のような有志組織を作る場合にも、男性と女性で別の組織になっていたとしたら強い違和感があるだろう。少なくとも名目上は、男女を対等なものとして扱う文化がかなり根付いてきた。

それなのに、全国的に見ても先進的な農事組合法人でも、全く自然に「婦人部」が成立していることを見て、農村組織の意識の遅れに暗澹たる気持ちになったところである。

もちろん、この農事組合法人で女性がサポート役として虐げられているかというとそういうことはない。むしろ組織の重要なメンバーとして様々なことに取り組んでいるようで、収益も上げており、この活動にやりがいを見いだしているようだった。それはよいことだと思う。別に女性が搾取されているとは思わない。私が問題とするのは、女性を「婦人部」に所属させて当然とする意識の方である。

集落の場合は、婦人会的なものがあるのはしょうがないことだ。集落全員が参加する活動であれば、属性で分けて組織を作るのが合理的だ。婦人会、青年団、老人会、などなど。本人のやる気とか、適材適所ということを考えると組織が破綻する。なぜなら、集落自治の活動を積極的にやりたいという人は少数派なので、属性によって強制的に人を集めるのでなければ現実的に人が集まってこないからである。

だが企業の場合は違う。基本的には人はそこに所属して何事かをするという意志を持っているわけだから、それを無視して「女性は婦人部へ」というのはおかしいのである。この農事組合法人の場合は集落営農を営んでいるので、半ば自治会的な側面があるのだろう。そう考えると「婦人部」の存在も理解はできる。しかしそうであっても、話を聞くかぎり「婦人部」の必然性は感じられなかった。

組合のリーダーが言うように「婦人部」は活動の要であり、もし「婦人部」的なものがなかったら組織がうまく回らないということがあるのかもしれない。特に九州の女性は、公的な面で表立って動くというのを避けたり、役職を持たないようにする傾向があるから、あえて「婦人部」を設けて、その枠内で活動してもらう方が、当の女性にとってもやりやすいのかもしれない。つまり実際「婦人部」があったほうが効率的なのかもしれない。「婦人部」だからといって軽視されていることはなく、むしろそれが組織の心臓部になっているのなら、これは一種の「女性の活躍」なのも間違いない。

しかし、「婦人部」という言葉からは、どうも「農村組織にとって都合のよい女性の働き」を称揚しているような響きを感じる。

かつての「農村婦人」の運動もそうだった。「今後の農業の発展には女性の力が不可欠だ!」といくら叫んでも、その実は「農業の発展のために女性にはこんなことが期待されている」というだけで、女性を都合の良い駒みたいに扱うことが多かった。正直いうと私自身にもこの発想があるので他人事のように批判してはいけないが、当時(昭和30〜40年代)の資料を読むと、「農家の嫁が果たすべきつとめ」みたいなトーンで物事が書いてあるので、さすがにそれは押しつけすぎなんじゃないかと思う(でも今でもこういうことを考えている人は多い)。

最近の「農業女子」はこれとは違って、「これまで男性の領域と思われていたことも女性がやっていいんだ」という雰囲気があるのでとてもいいことだ。「農業女子」のムーブメントがこれまでの「農村婦人」と大きく違うのはそこで、「農村における女性の仕事はこうあるべき」という押しつけがましいところがなく、「やりたいことがたまたま農業でした」という本人の自発性を基本にしていることである。

「今後の農業の発展には女性の力が不可欠だ!」というなら、女性に期待されるいろいろなことを列挙するのではなく、そもそも女性が働きたいような職場を作っていくことが必要である。そして女性に期待するのではなく、むしろ女性の期待に応えるものでなくてはならない。農業という職場(?)はあまり女性向きでないところがある。畑にトイレはないし、日に焼けるし、オシャレな服を着る機会もない。そういうことを気にしない人だけが「農業女子」になればいいんだ、というのは傲岸というものだ。こういう残念な点を補う魅力を作ったり、できるだけ改善していく努力は必要だ。

そして私は、かつて「農村婦人」に向けられていた押しつけがましい眼差しが、今でも女性に注がれているのではないかと危惧している。いくら「女性の活躍」といっても、あくまで男性にとって都合の良い「女性の活躍」だけが期待されているのではないかと。女性は「婦人部」に所属してやりがいのある仕事をやってください、というような、何かちぐはぐなメッセージがあるような気がする。

私も今後の農業の発展には女性の力が不可欠だと思っているし、日本社会そのものの発展にも女性の力が不可欠だと思っている。それはいうまでもないことである。ある産業や社会が男性の力だけで成り立っていくとしたらそっちの方がおかしい。そのために、少なくとも「婦人部」的なものをなくすべきだ。短期的には「婦人部」があったほうが効率的だとしても、人々の自由意志は効率よりも重要である。

働きたい人が働けるように、子どもを産みたい人が産めるように、そしてそうしたくない人は、無理にそうしなくてもいいように、そういう自由意志を尊重する社会が当たり前になって欲しい。都合のよい「女性の活躍」ではなく、女性がやりたいことを思い切りできる社会になって欲しい。

農村にとって都合の良い役目を果たす女性=「農村婦人」という概念が時代遅れになったことは前進である。時代は変わる。農村すら変わってきたのである。

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