2013年4月2日火曜日

二つのクタジマ神社と大宮姫伝説

南さつま市万世の当房(とうぼう)というところに小山があり、そこの急な石段を上ってみると久太嶋権現という神社があった。

ほんの標高数十メートルの小山だが、吹上浜に向かって(藪は多少あるが)眺望が開け、周りには高いものがないので大変眺めがよい。たった数十メートル視点が上がるだけで、全く違う景色が広がっているのが面白い。

この神社、何だろうと思って調べてみると、同じく久多島神社というのが日置市にもあり、その由来が興味深い。

この2つのクタジマ神社は、吹上浜の沖合10kmばかり沖にある無人島、久多島遙拝(ようはい:遠くから拝む)するために建てられたらしいが、ではなぜその島を遙拝したのだろうか?

実は、これは南薩に残る「大宮姫伝説」に関係している。大宮姫伝説とは、要約すると次のような伝説である。
  • 頴娃に鹿から産まれた美しく賢い女の子がいた。
  • その評判が京にも伝わって朝廷の采女となり、後に天智天皇の后になり大宮姫と名乗った。
  • ところで、姫はいつも足袋を履いていたが、それは姫の足が鹿のそれのように二つに割れていたからであった。
  • ある時、姫の寵愛を妬んだ女官たちによってその秘密が暴かれてしまい、姫は天智天皇の元を去り、鹿児島へと帰ってきた。
  • 天智天皇も姫を追って鹿児島へと下向し、やがて二人はこの地で亡くなった。

ちなみに、『日本書紀』などには天智天皇に大宮姫という后がいた記録はなく、また鹿児島へやってきたという記録もないので、これは正史からは認められないローカルな伝説である。ただ、このような伝説がなぜ産まれたのか? ということを繙くと、古代の地域史がいろいろわかってくる様な気もして面白い。

さて、二つのクタジマ神社はこの大宮姫が鹿児島へと帰ってくる場面に関係する。こういうエピソードである。

大宮姫が舟で開聞へ行く途中、姫は俄に産気づいて皇女を出産するが、残念ながら赤子は息絶えてしまう。姫は死んだ赤子を舟に乗せて海に流し、舟は吹上町の永吉に流れ着いた。村人は遺体を手厚く葬り舟を再び海に流したが、この舟が沈んだところの岩が盛り上がり島となった。この島を久多島といい、村人はこの島に皇女の霊を祀ったのだという。

氏子の高齢化などで現在は廃されたようだが、以前は数年に一度、この久多島まで行きお祭りをしていたそうである。久太嶋権現にはご神体らしき石仏(本尊というべきか)もあるが、真の意味でのご神体はこの久多島だ。

こうした伝説がどうして成立したのか不明だが、吹上浜の沖合にある小さな無人島を拝むにはそれ相応の理由があったに違いない。天智天皇を持ち出すくらいだから、相当古くからの信仰なのだろう。この久多島とは何なのか、どういう特別な場所なのか、機会があったら行って調べてみたいけれど、この無人島に行く機会は一生ないような気がする。

【参考】
大宮姫伝説について
大宮姫 指宿市山川町(さつまの国の言い伝え)
久多島神社の由来(さつまの国の言い伝え)
ウッガンサアへの感謝―薩摩半島加世田市当房の内神霜月祭り―(南さつま半島文化 鹿児島県薩摩半島民俗文化博物館)

2013年3月31日日曜日

ボタンボウフウ=長命草の栽培振興

長命草ことボタンボウフウが大浦ふるさと館裏の海岸に自生していると聞き見に行ってみた。そこら中に、たくさん生えている。

ボタンボウフウとは、資生堂が錠剤やドリンクにして「長命草」の名で商品化しているが、ポリフェノールを始めとして各種の栄養成分に富むということで、近年注目されている沖縄や離島の健康野菜である。

南さつま市では2012年度に「畑の学校」を実施したが、この校長を務めた濱田さんという方がこのボタンボウフウに惚れ込んでいた(?)ことを契機として、市民の健康増進などのため、この栽培を広めようとしているようだ。

この植物は寒さには弱いが、もともと波に洗われる岩壁など厳しい環境に自生するということで、海岸が近い暖地では栽培は容易である。実際海岸に自然に生えているくらいなので、南さつま市の環境は栽培に適しているのだが、問題は活用法だ。

濱田さんはバナナと牛乳を合わせてジューサーでジュースにして毎朝飲んでいるということだったが、これを実行するのは一部の人だろう。天ぷらにすると結構美味しかったが、相当なキャンペーンをしないと天ぷらの具材として浸透しないと思われる。不味いものではないが特別美味いわけでもなく、料理法にも今のところ幅がないのでサプリメント的に加工して使うのがよいと思うが、言うは易くというやつで実際には商品化は困難だ。

さらには、与那国島のボタンボウフウが資生堂により商品化されていることを始め、他にも屋久島徳之島、また大手健康食品メーカーでもこれがサプリメントとして商品化されていることを鑑みると、既に商品化は真新しくもなく競争が激しい。やはり本土の強みを活かして、加工しない、生食のボタンボウフウの活用法を切り拓くべきかもしれない。

ともかく、市がどこまで本気なのかは分からないが、せっかく自生までしているという好立地を活かすなら、この利用が商業的に広まることが不可欠で、住民の自給自足的な栽培に期待しても将来の展望がない。その呼び水とするため、今年度市では苗の無料配布を行ったが、認知自体を広げることも必要だ。

例えば、このボタンボウフウはその豊富な栄養成分によって美肌効果が高いらしいが、実際に2ヶ月くらい定期的に食べてもらうことで、肌がどれくらいきれいになるか確かめたり、できればそれを美人コンテストにするなど、まずは話題作りが有効ではないかと思う。それにあたっては、「長命草」などという高齢社会的な雰囲気でなく、「美肌草」くらいのフレッシュなイメージで売っていくのがよいのではないだろうか(※)。

また、ご当地グルメはなぜか最近ファーストフード的ないわゆるB級グルメが多いが、健康的なご当地グルメというのも異色だと思うし、それが美肌にもよいともなれば女性客が見込める。ボタンボウフウの栽培振興にあたって、南さつま市は市民の健康増進のため、という大義名分を掲げていたが、「南さつま市に美人を増やす」というくらいの高遠な目的を掲げてもらいたいものである。

ところで、実は南さつま市でこのボタンボウフウ入りの食品が既に商品化されており、二見屋(味の石燈籠(いずろ))がこれが練り込まれた餃子を販売している(限定品かもしれない)。まだ栽培も始まっていないうちから商品化するあたり、対応が素早い。最近うちでは餃子が食卓に上ることが多いので、餃子のローテーションに加えたいと思う。

※ ググってみたらすでに「美肌草」と呼ばれている草があった(ローズゼラニウム)。

2013年3月28日木曜日

「南薩の田舎暮らし」のブログはこちら

お気づきの方もいると思うが、本ブログのサイドに「うちの奥さんが書いているショップブログはこちら」という表示をつけた。

ショップサイト「南薩の田舎暮らし」のブログだが、実態はお店の情報発信だけでなく、私たち家族の日々の暮らしの紹介にもなっている。私自身、ネット通販でお店のブログを見る時は、お店の情報を知りたいというより、お店をやっている方の人柄を見ることが目的であることが多い。そんなわけで、そういう内容にしてもらいたいと家内にお願いして書いてもらっている。

このブログ、(私が言うのもなんだが)なかなかよい。読者の共感を惹起する、というと小難しいが、要は親しみやすく人間味がある。私もそういう文章を書ければよいのだが、私の場合はどうしても教科書調というか、論理展開重視の文章になってしまうので、情報を伝えるにはよいが情緒がない。

そもそも、本ブログ「南薩日乗」も「田舎暮らしのありさまや感じたこと、考えたことのメモ」と謳って書き始めたのだが、書き綴るうちに次第に日常生活から遊離し、なんだか蘊蓄ブログみたいになってきてしまった。蘊蓄を語ることは目的ではないのだが、せっかくこのブログを訪問してくれた読者に少しでも有用な情報を提供したいと思うと、自然とそういう方向になってしまう。それに、私自身がオタク的な性向を持っていることも大きいだろう。

このブログは単なる趣味だからそれでもよいが、お店のブログというのは仕事であるし、読者を選ぶような(?)私のスタイルでは広報力に限界がある。なにより、私が「南薩の田舎暮らし」で主要ターゲットにしたいと思っている小さな子どもがいる若い女性には全く受けないことが目に見えている。だからわざわざショップブログは家内に書いてもらっているのである。

私が書けないことを、私が書けないスタイルで書いているので、これは車の両輪としていいバランスだと思っている。まだご覧になっていない方は、一度ご訪問いただければ幸いである。

2013年3月24日日曜日

石敢當の意味と無意味

石敢當(せっかんとう)を見たことがあるだろうか?

うちの集落の突き当たりには小さな石敢當があって、誰が供えているのか(造)花が手向けられている。ここには立派なイヌマキも3本立っていて、なんだかとても雰囲気のあるところである。

この石敢當というのは、謎な存在である。辻や丁字路の突き当たりに建てる石造の魔除けなのだが、その由来は定かでない。唐代の中国に発祥したもので、中国南部や台湾に広がり、日本では沖縄に多く、鹿児島にも1000基程度あるが誰がどのように伝えたのかも不明である。中国から琉球に伝えられ、薩摩藩の琉球支配に従って鹿児島にももたらされたと考えられているが、同じく中国と交易を行っていた九州北部(博多等)には見られず、単純に交易によって伝わったわけでもないらしい。

なぜ「石敢當」と刻んだ石が魔除けになるのかも、(中国大陸での)地域によって様々な民間伝承があり、一定しない。共通しているのは、「石敢當」という名前の若者に由来するということくらいである。さらには、地域によってはどうして石敢當が魔除けになるのか、明確な説明もないことも多いようだ。道教に基づくものらしいが、民間信仰であるだけに、そこに込められた意味合いが明確に意識されないまま広がったものと思われる。

この石敢當の面白いのは、今に生きている石造文化である点だ。沖縄では新築する時に石敢當をあわせて建立する時があるし、多分沖縄からの移住者によるものだと思うが、東京でも真新しい石敢當を見ることが結構ある。現代、石敢當の文化はその範囲を広げつつあるのである。

建立者自身もその意味合いはおそらくわかっていないのに、石敢當がなんとなく広がっていっているのが面白い。合理的なもの、有用なもの、存在理由が明確なものというのは、その基盤となるものがなくなったとき、すぐに失われてしまう。しかし石敢當のように、非合理的なもの、無用なもの、存在理由が不明確なものは、なくなる理由もないため息が長い。最近、沖縄では石敢當のお土産も売られているが、なんだかわからない、一見無意味なものこそ、持続性のある強力な文化なのかもしれない。

【参考文献】
『石敢當』1999年、小玉 正任

2013年3月19日火曜日

かぼちゃの花芽分化のはなし

かぼちゃが交配期を迎えた。というわけで連日午前中はかぼちゃの交配作業である(かぼちゃの花粉はウリ類の中でも最も寿命が短いため、作業は開花当日の午前中に行わなくてはならない)。

具体的には、雄花を摘み取ってその花粉を雌花につけ受粉させる作業なのであるが、ここにひとつ問題がある。雌花は次々に咲くのに、雄花はあまり咲かないので、雄花不足に陥るということだ。

そんな時は先輩農家の圃場へ雄花をもらいにいくわけだが、これは頼れる先輩がいるからできることで、もし一人で作っていたら、受粉ができず収穫が遅れてしまうわけで大問題である。

では、なぜ雌花は咲くのに雄花は咲かない、という現象が生じるのだろうか? これは仕組み的には花芽分化の際の温度による。カボチャの花芽分化(花になる細胞が出来る現象)は温度によって起こるが、低温だと雌花に、高温だと雄花になる性質がある。今咲いている花は苗の時に花芽分化したものなので、要は苗の時の温度によって雄花と雌花のどちらが咲くのかが決まるということだ。

そして当然ながら、同じハウス内では温度はどの株も似たようなものとなるので、雄花と雌花をバランスよく咲かせるのは意外に難しい。このため、ベテラン農家は苗の時にあえて高温で管理した株を作っておき、雄花を確保することもある。

では、かぼちゃがそういう性質を持っている究極的な理由は何なのだろうか? 疑問に思って少し調べたが、ウリ科植物全体がこのような性質を持っているのかも不明で、これに関してはよくわからないというのが正直なところである。昼夜の寒暖の差を利用して雄花と雌花を(原産地の気候では)バランスよく咲かせているのかもしれないし、自家受粉を避けるためにこのような仕組みが発達しているのかもしれない。

とはいうものの、栽培する側はそれに合わせてやるだけなので、究極的な理由に関心を持つ必要はないのかもしれない。しかし、それが分かれば栽培技術がより発展するという可能性もあるので、そういう基本的な事柄をちゃんと解明してもらえれば有り難い(単に私が知らないだけという可能性が大きいが)。

2013年3月17日日曜日

果樹園を拡充。アセロラ栽培に挑戦。

いろいろな人のはからいで、果樹園を借りることができた。笠沙の赤生木(あこうぎ)というところで、面積は3反弱、25aくらいだろうか。

この園地は地主のSさん夫妻が半世紀をかけてつくり上げた素晴らしいカンキツ園の一部で、非常によく管理されている。また、赤生木のこのあたりは無霜地帯ということでカンキツにとって環境は最高である。

現在の樹種構成としては、1/3がタンカン。1/3が不知火(いわゆるデコポン)で、残りの1/3はキンカンとタンカンが混植されているが、枯損木が多い。この1/3のスペースは、元はタンカンが全面に植えられていたそうだが、なぜか植えても植えても枯れてしまったということで、今ではほとんど生産能力がない。土壌の問題なのかなんなのかわからないが、ともかくこの園地の弁慶の泣き所というわけで、ここがあるからこそ私のような若輩者に貸して頂けたのだと思う。

というわけで、この園地のポイントはこの1/3を有効利用することであろう。最初はタンカン以外のカンキツを植えようと思っていたが、もしかするとカンキツ全般にとって何か都合が悪いことがあって次々に枯れてしまったということなのかもしれないので、思い切って全く違う樹を植えてみることにした。

それは、「アセロラドリンク」でおなじみの、あのアセロラである。私自身、アセロラの生の実を食べたことがないのだが、ビタミンCが豊富で健康そうなイメージと、そして未だほとんど流通していないという点を買っての冒険である。

昨年、アセロラの苗を試験栽培してみたが、樹勢が旺盛で昆虫の食害もなく、樹としては非常に強い。だが寒さには極端に弱く、12月くらいまでピンピンしていたのに、霜が降りたらすぐに枯れてしまった。こいつは霜が降りるところでは全くダメな果樹で、現在、日本での生産は沖縄が中心であり、本土の露地栽培では経済生産の実績がないと思われる。しかし、この赤生木が本当に無霜地帯なのであれば、可能性はある。

もう一つアセロラには弱点があって、それは実の痛みがやたらと早いことである。収穫後2〜3時間で痛み始め、次の日くらいには食べられなくなるという。これではほとんど流通は不可能だ。冷蔵・冷凍食品の流通王手であるニチレイが、畑違いの飲料事業となるアセロラドリンクを発売したことの背景も、傷みやすいアセロラを劣化させずに冷凍する技術を持っていたことが関係しているのである。

ということで、アセロラは普通には売れない商品なのであるが、ジャムなどに加工することで商品化できるかもしれない。先行きは不透明であるが、今年には加工施設も作りたいと思っているので、見込みがないわけではない。他の人がやらなそうなことをやってみる、ということが新参者に期待されていることだと思うので、失敗覚悟で取り組んでみる所存である。

ところで、アセロラドリンクは今でも「ニチレイ」の名を冠して販売されているが、実は事業はサントリーに売却されている。ニチレイは飲料事業をアセロラドリンクしか持っていなかったので、経営の効率化を図るために飲料事業を切り離したのである。今でも原材料の供給はニチレイが担っているが、サントリーになってからどうも品質が劣化したようで残念だ。昔の濃厚なアセロラドリンクを、もう一度飲みたいものだ。

2013年3月16日土曜日

世界史から見るタンカンの来歴

鹿児島や沖縄ではメジャーだが、全国的にはマイナーなカンキツにタンカンがある。今南薩の田舎暮らしでは美味な「狩集農園のタンカン」を販売中だが、この商品説明を用意するにあたっても、「そもそもタンカンとは何か?」ということから説明する必要を感じた次第である。

そこでタンカンの来歴を調べると「ポンカンとネーブルオレンジの自然交雑種。中国広東省原産」などと出てくるのであるが、その説明を掘り下げていくと近代の世界史を垣間見る思いがしたので紹介したい。

さて、先ほどの説明だが、ネーブルオレンジと広東省の組み合わせに若干の違和感を感じないだろうか? ポンカンはアジア原産だから広東省にあるのは自然だが、ネーブルオレンジはどうだろう?

ネーブルオレンジはオレンジの突然変異で産まれた品種であり、実は19世紀の初めのブラジルに発祥したものだ。ではブラジルにはもともとオレンジがあったかというとそうではなく、南北アメリカ大陸にはそもそもカンキツ類が存在していなかったのである。

南北アメリカ大陸にオレンジを持ち込んだのは、大航海時代のヨーロッパ人である。だが、話がどんどん遡って恐縮だが、このオレンジというのも元からヨーロッパにあったものではない。よく「古代ギリシアでオリーブとオレンジが作られていた」などと説明されるが、このオレンジは今の甘いオレンジではなくて、日本で言うところのダイダイ(橙)であり酸っぱいオレンジだ。

甘いオレンジの原産は東アジアで、15世紀から16世紀にポルトガルの商人によって中国からヨーロッパに伝播したとされる。最初は気候が合わず生産は奮わなかったらしいが、次第にヨーロッパの気候風土に合致した品種が産まれ、大航海時代にヨーロッパから世界へ広まった。

というのも、オレンジなどのカンキツ類は、当時は嗜好品である以上にビタミンCの補給のために重要だった。長い航海中は生野菜が採れないため、保存食ばかり食べていると壊血病になってしまう。それを防止するためにレモンやオレンジといった保存性のよいカンキツが重要だったのである。

ポルトガルのリスボンは伝統的なレモンの産地であるが、当時のヨーロッパの主要港の近くでレモンやライムの栽培が盛んに行われていたのはそういう理由がある(今でも産地となっている地方も多い)。オレンジがそのレパートリーに加わってからはオレンジも栽培されるようになり、またヨーロッパ外の寄港地においても、食糧補給のためにカンキツを栽培させたのであった。

ポルトガルはブラジル(と今呼ばれている地域)を16世紀に植民地化して砂糖の大規模なプランテーションを作ったが、実は植民地の建設にあたってオレンジも植えさせたらしい。当初はどうやら補給用の細々とした生産だったようだがこれが拡大し、ブラジルでは一大オレンジ産業が成立することになる。ちなみに、ブラジルは今でもオレンジ生産が盛んであり、世界第一位の生産量を誇っている。

このブラジルにおいて、オレンジが突然変異しネーブルオレンジが産まれたのは、植民地化より約300年後のことであった。この食味に優れた新品種の最大の特徴は種がないことで、食べるには便利だが、増やすには挿し木か接ぎ木しかない。つまり、ネーブルオレンジの樹というのは全て、19世紀初頭にブラジルで産まれた最初の樹のクローンなのである。

話がようやく戻ってきたが、このネーブルオレンジが広東省にあったというのはどういうことだろうか? 19世紀というと、アヘン戦争でイギリスが香港を手に入れるのが1842年、ポルトガルがマカオの港を我がものにするのが1845年であり、まさに広東省(の沿岸地域)が植民地化される時代である。

このような時代にネーブルオレンジが広東省で自発的に栽培された可能性はない。というのも、先述のようにネーブルオレンジは接ぎ木か挿し木でしか増やせないため、導入のためにはブラジル(あるいはヨーロッパ)から生きた樹を長い航海により中国へと運んでくる必要があり、そのような事業を当時の中国人が行うはずがないからである。

ということで、この時代に広東省にネーブルオレンジがあったとすれば、ポルトガル商船への食糧補給のため、ポルトガル人によって強制的に栽培させられたものである可能性が極めて高い。15世紀に中国からポルトガルに伝えられたオレンジが、19世紀にはネーブルオレンジとなって中国を「侵略」したことになる。

以上の推測が正しいとすれば、タンカンはせいぜい19世紀に産まれた新しい果実であり、しかも中国の植民地化の産物ということになる。ただし、タンカン(短桶)の語源は中国で行商人が桶に入れて売り歩いたからともいい、この語源説と以上の推測はやや齟齬も感じるところである。もしタンカンが植民地化の産物であるとすれば、そんなのどかなイメージで語られる果物ではないだろう。

さらに、タンカンが中国本土から台湾へ伝播したのが18世紀という話もあるので、タンカンの誕生にネーブルオレンジは関係なく、もっと古くからある果物なのかもしれない。実は、タンカンがネーブルオレンジとポンカンの自然交雑種であるというのも一説に過ぎず、ポンカンとミカン、あるいはポンカンとオレンジではないかという説もあり、正直なところその起源は茫洋としているのである。

ちなみに、タンカンが日本へ伝播するのは、日本が台湾を植民地化したことを契機とする。カンキツだけに言えることではないが、食材の伝播はまさにグローバリゼーションの産物であり、グローバリゼーションの形が植民地化であった時代は、食材の伝播や品種改良は植民地の建設と切り離すことが難しい。タンカンという一つの果物の来歴を探るだけでも、15世紀からの世界史を眺める必要があるのである。

【参考】
Orange History
History and Development of the Citrus IndustryHerbert John Webber, Walter Reuther, and Harry W. Lawton