2013年3月24日日曜日

石敢當の意味と無意味

石敢當(せっかんとう)を見たことがあるだろうか?

うちの集落の突き当たりには小さな石敢當があって、誰が供えているのか(造)花が手向けられている。ここには立派なイヌマキも3本立っていて、なんだかとても雰囲気のあるところである。

この石敢當というのは、謎な存在である。辻や丁字路の突き当たりに建てる石造の魔除けなのだが、その由来は定かでない。唐代の中国に発祥したもので、中国南部や台湾に広がり、日本では沖縄に多く、鹿児島にも1000基程度あるが誰がどのように伝えたのかも不明である。中国から琉球に伝えられ、薩摩藩の琉球支配に従って鹿児島にももたらされたと考えられているが、同じく中国と交易を行っていた九州北部(博多等)には見られず、単純に交易によって伝わったわけでもないらしい。

なぜ「石敢當」と刻んだ石が魔除けになるのかも、(中国大陸での)地域によって様々な民間伝承があり、一定しない。共通しているのは、「石敢當」という名前の若者に由来するということくらいである。さらには、地域によってはどうして石敢當が魔除けになるのか、明確な説明もないことも多いようだ。道教に基づくものらしいが、民間信仰であるだけに、そこに込められた意味合いが明確に意識されないまま広がったものと思われる。

この石敢當の面白いのは、今に生きている石造文化である点だ。沖縄では新築する時に石敢當をあわせて建立する時があるし、多分沖縄からの移住者によるものだと思うが、東京でも真新しい石敢當を見ることが結構ある。現代、石敢當の文化はその範囲を広げつつあるのである。

建立者自身もその意味合いはおそらくわかっていないのに、石敢當がなんとなく広がっていっているのが面白い。合理的なもの、有用なもの、存在理由が明確なものというのは、その基盤となるものがなくなったとき、すぐに失われてしまう。しかし石敢當のように、非合理的なもの、無用なもの、存在理由が不明確なものは、なくなる理由もないため息が長い。最近、沖縄では石敢當のお土産も売られているが、なんだかわからない、一見無意味なものこそ、持続性のある強力な文化なのかもしれない。

【参考文献】
『石敢當』1999年、小玉 正任

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