南さつま市大浦町には、なんとマングローブがある。大浦川の河口にあるメヒルギの群落である。
なおマングローブとは、汽水域に成立する森林の総称。様々な樹種で構成されるが、その中でもメヒルギは耐寒性が強く、最も北で自生する種類である。
このメヒルギは、自生の北限がこの大浦町と鹿児島市の喜入ということになっていて、特に喜入の方は国の天然記念物に指定されている。
ところで、この喜入と大浦のメヒルギは、世界的にもマングローブの自生の北限とされていて、さらに南限(つまり南半球で南極に近い方の極限)まで含めて、今発見されているものの中では赤道から最も遠いマングローブなのだ。
では、どうして世界的にも北限という特殊なマングローブが喜入と大浦にあるのだろうか? ここは、緯度に比してそんなに暖かいところなのだろうか?
実は、喜入のメヒルギは正確には自生ではなく、人為的な移植によるものと考えられている。薩摩藩の琉球出兵の折、喜入の領主肝付兼篤が琉球から持ち帰って植えたものとする言い伝えがあるのだという。事実、喜入のメヒルギの系統を分析すると、種子島や屋久島のものとは遠縁で、むしろ沖縄のものと近縁らしい。
では、大浦町のメヒルギはどうなのだろうか? ローカルな話で恐縮だが、蛭子島(という陸続きの小島が河口にあるのです)のメヒルギは、かつてメヒルギの生育環境が悪化し枯死が心配された時に、喜入から移植したもので、実は天然の群落ではない。
問題は、もっと上流側のメヒルギだ。これは大浦川の護岸工事の際に一度群落を取り除き、護岸工事を終えてから種子島から取り寄せたメヒルギとあわせて植え直したものらしいから(※)、そういう意味では人工的な群落だが、護岸工事の前は自生だったのではなかろうか?
古い資料を見てみても、護岸工事前のメヒルギが人工的に移植されたものという話は見当たらない。また、大浦川のメヒルギ群落は、メヒルギが貴重なものということが分かってから保護し増やしたもので、保護する前はわずか1株しかなかったという話もある。ここが逆に本物っぽいところで、もしかしたら、大浦川は正真正銘のメヒルギの自生北限なのかもしれない。
では、人為的な群落と思しき喜入のメヒルギが国の天然記念物に指定されていて、もしかしたら天然かもしれない大浦のメヒルギが「市」の天然記念物という落差があるのはどうしてだろうか。これは、天然記念物という制度ができた大正時代、植物に関しては中野治房という学者が全国を調査し天然記念物に指定すべきものを建白したのだが、彼が「大浦川河口のものはその数甚だ少なく到底喜入村のものに及ばず」と一蹴したことによる。
中野は喜入のメヒルギ群落が人為的なものであることは「掩うべからざる事実なるが如し」としながらも、その規模と保存のしやすさなどから喜入のメヒルギを天然記念物にふさわしいものとして推したのだった。しかしながら現代では、メヒルギは静岡県の伊豆にも植栽されており、天然でなければこちらが北限の群落になる。そういう意味では喜入のメヒルギの価値が揺らいでいる状況だ。
というわけで、大浦川のメヒルギが本当に天然のものなのか、ちゃんと調査してみるとよいと思う(私が知らないだけで既にやっているかもしれないが)。喜入のメヒルギ群落が人為的なものということで、自生の北限は種子島に変更すべき、という主張もあるらしいが、種子島に変更してしまう前に、大浦のメヒルギの価値を明確化してはどうだろうか。
※ ここら辺の経緯が茫洋としていて摑めない。不正確だったらすいません。
【参考】
「薩摩半島(鹿児島県)で「自生最北限のマングローブ」の調査活動を実施」マングローブの保護をしている国際的なNPOが大浦にもきて調査していたようだ。写真があるのでわかりやすい。
→(2016.6.19追記)リンク切れ。だが同団体のWEBサイトに大浦川のマングローブの写真がたくさん掲載されている。「鹿児島・沖縄マングローブ探検|鹿児島」
【参考文献】
「史蹟名勝天然紀念物調査報告. 第8号」1919年、内務省編(中野治房報告)
「大浦町の植物」1973年、浜田 英昭
「マングローブ林の林分解析」1979年、中須賀 常雄
「種子島阿嶽川・大浦川のマングローブ林について」2013年、寺田仁志 他
"Status and distribution of mangrove forests of the world using earth observation satellite data” 2010年、C. Giri他
2013年5月1日水曜日
2013年4月30日火曜日
高校時代の同級生が立ち上げた会社

この会社は、農産物などの生鮮食料品の加工・販売をやっていくということで、特に鹿児島・宮崎を中心とした南日本の農産物を中心に取り扱っていくと意気込んでいる。それで社名に「南」がついているわけだ(「っこ」が何なのかは知らない)。
ところで、この芋高氏、鹿児島県島嶼部では有名な大農園「芋高農園」のご令息なのである。これは、沖永良部島で80ヘクタール以上も耕作しているという桁外れの農園。鹿児島県でも有数の篤農家出身であるため、農業に関しては彼もスケールが桁外れで、私のような零細農からすると、少し頭のネジが吹っ飛んでいるのではないかと訝しむほどだ。
私の経営規模からすると、彼が私を相手にする必要は全然ないような感じがするが、高校時代のよしみからか私と取引をしたいともちかけてくれた。とりあえずは今作っているカボチャを取り扱ってくれるようなので、失望させることがないようにちゃんとしたものを作りたい。
この会社、まだ立ち上げたばかりで今の所は業者向けの卸しが中心のようだが、今後小売りにも注力していくとのこと。それに先立って、TwitterやFacebookでの情報発信も開始しているので、気になる方は見てみて欲しい。
たびたび書いていることだが、日本の農業が抱えている最大の問題は流通であり、こうして同級生がそれに参入したことは心強い。日本の農産物流通にはまだ手つかずの沃野が広がっていると信じており、面白い取り組みがいろいろできるのではないかと思う。とはいえ、確実にペイする事業を考えると、結局月並みなものになりがちという現実もある。変わっているのは名前だけ…とならないように、農産物流通の新しいカタチをつくり上げて欲しい。
2013年4月26日金曜日
「南薩のオリーブ」ができるかもしれません
南さつま市では、今後オリーブの栽培振興が始まる(かもしれない)。これは私にとってはとても有り難いことである。
4月25日、南さつま市は「農業生産法人寺田農園株式会社とのオリーブの共同栽培及び技術提携に関する連携協定」を締結したのだが、要は寺田農園さんに市の土地(70aほどの砂地)を貸してオリーブを共同栽培するようだ。
最初、「どうして南さつま市がオリーブ栽培に手を出すんだろう?」と思っていたが、こういう経緯らしい。南さつまの特産に各種のカンキツがあるが、これの先行きは消費の先細りが顕在化しつつありかなり危うい。また、農家の高齢化や人口減により、手間のかかるカンキツよりも省力的な栽培可能な作物が求められているということもある。そのため市では有望な作物としてオリーブに着目していたところ、本坊市長が20数年来の付き合いがある寺田農園の寺田信義さんから南さつま市でオリーブ栽培をしたいと声を掛けられたことをきっかけとする。
ちなみに、寺田さんは加世田のご出身で、何かふるさとに残したいという思いもあって、加世田は本拠地の農園からは遠いがここにオリーブ園を設けることにしたそうだ。寺田農園では、香川県の小豆島を視察した際にオリーブに興味を持ち、3年前から谷山にオリーブを植栽しているという。
日本におけるオリーブの栽培振興は明治時代に導入された小豆島を嚆矢とし、最近では熊本県の天草市における九電工の取り組みがよく知られている。南さつま市では、これらの2匹目のドジョウを目論んで、将来的には日置市などとも連携して吹上浜沿岸でオリーブ産地を形成し、6次産業化を行うのだという。
私も昨年からオリーブの栽培を検討していたので、こうした市の方針は追い風になる。特に、オリーブは収穫後24時間以内に搾油しなくてはならないのだが、個人で搾油機を買うのはバカバカしいため、もし市の方で搾油設備が整うのであれば願ったり適ったりだ。
ついでに言うと、私がオリーブに注目しているのは、地中海の食文化に興味があり個人的にも好きだということの他に、食用油に興味があるということもある。必ずしもオリーブでなくともよかったが、食用油関係の農業にも取り組みたいなあと思っていた。というのも、新興国における生活水準の向上に伴って食用油はグローバルな価格上昇が予見されており、現在は国産のオリーブ油は地場特産品、有り体に言えばもの好きのための嗜好品でしかないが、将来は輸入食用油と比べても競争力を持つ可能性がある。
というわけで、一人でも収穫可能な面積がどれくらいなのかまだ不明なのだが、10〜20aくらいを工面して、今年の秋か来年の春にはオリーブの栽培を開始してみたい。本当に「南薩のオリーブ」が実現したら、とても面白いと思っている。
4月25日、南さつま市は「農業生産法人寺田農園株式会社とのオリーブの共同栽培及び技術提携に関する連携協定」を締結したのだが、要は寺田農園さんに市の土地(70aほどの砂地)を貸してオリーブを共同栽培するようだ。
最初、「どうして南さつま市がオリーブ栽培に手を出すんだろう?」と思っていたが、こういう経緯らしい。南さつまの特産に各種のカンキツがあるが、これの先行きは消費の先細りが顕在化しつつありかなり危うい。また、農家の高齢化や人口減により、手間のかかるカンキツよりも省力的な栽培可能な作物が求められているということもある。そのため市では有望な作物としてオリーブに着目していたところ、本坊市長が20数年来の付き合いがある寺田農園の寺田信義さんから南さつま市でオリーブ栽培をしたいと声を掛けられたことをきっかけとする。
ちなみに、寺田さんは加世田のご出身で、何かふるさとに残したいという思いもあって、加世田は本拠地の農園からは遠いがここにオリーブ園を設けることにしたそうだ。寺田農園では、香川県の小豆島を視察した際にオリーブに興味を持ち、3年前から谷山にオリーブを植栽しているという。
日本におけるオリーブの栽培振興は明治時代に導入された小豆島を嚆矢とし、最近では熊本県の天草市における九電工の取り組みがよく知られている。南さつま市では、これらの2匹目のドジョウを目論んで、将来的には日置市などとも連携して吹上浜沿岸でオリーブ産地を形成し、6次産業化を行うのだという。
私も昨年からオリーブの栽培を検討していたので、こうした市の方針は追い風になる。特に、オリーブは収穫後24時間以内に搾油しなくてはならないのだが、個人で搾油機を買うのはバカバカしいため、もし市の方で搾油設備が整うのであれば願ったり適ったりだ。
ついでに言うと、私がオリーブに注目しているのは、地中海の食文化に興味があり個人的にも好きだということの他に、食用油に興味があるということもある。必ずしもオリーブでなくともよかったが、食用油関係の農業にも取り組みたいなあと思っていた。というのも、新興国における生活水準の向上に伴って食用油はグローバルな価格上昇が予見されており、現在は国産のオリーブ油は地場特産品、有り体に言えばもの好きのための嗜好品でしかないが、将来は輸入食用油と比べても競争力を持つ可能性がある。
というわけで、一人でも収穫可能な面積がどれくらいなのかまだ不明なのだが、10〜20aくらいを工面して、今年の秋か来年の春にはオリーブの栽培を開始してみたい。本当に「南薩のオリーブ」が実現したら、とても面白いと思っている。
2013年4月23日火曜日
ビロウという奥深い植物
南薩に越してきてから、ビロウの木をよく見かけるので気になっていた。田中一村の「ビロウとアカショウビン」で有名な、あのビロウ(蒲葵)である。
ヤシ科の植物というのは大体が不思議な形をしているが、ビロウは細かく切り込まれた長い葉が垂れ下がっている様子が魁偉であり、見た目のインパクトが大きい。
笠沙美術館の前には沖秋目島という無人島が横たわっているが、これも別名枇榔島(ビロウ島)という。おそらくビロウが繁茂していたからそういう名前がついたのだろう。枇榔島という島は鹿児島では志布志や佐多にもあるし、宮崎にもある。ビロウ島という地名が各地にあることは、昔の人が、これの繁茂していることを捨てておけない特徴として見た証左に感じられる。
このビロウという植物、調べてみるとなかなか奥深い。
古代、ビロウは神聖視されたと考えられていて、現在でも沖縄では多くの御嶽(ウタキ)の神木となっているし、天皇即位に伴う神事である大嘗祭では、ビロウで葺いた屋根の仮屋(百子帳)が重要な役割を果たす。当然天皇の身近にはビロウは存在していなかったわけで、わざわざ南方からビロウの葉を取り寄せて大嘗祭に使ったのであるが、どうしてこの重要な神事でビロウを使わなくてはならなかったのか、非常に気になるところである。
また、このビロウは古代日本が誇る発明品である「扇」の起源であるとも考えられている。能、舞踊、落語など多くの日本芸能において扇が重要な役割を果たす淵源には、かつてビロウが神聖視された名残では、という説もある。
ところが、今の鹿児島ではこれを神聖視するような姿勢は感じられないし、魁偉な見た目は神聖というより不気味な感じで受け取られているように思う。ありふれていることもあり、特に大事にしなくてはならないものという意識もないだろう。しかし上述のように、少なくともかつては神聖で重要な植物であったのは間違いなく、昔の人がビロウにどのように接したのか、というのは興味深い問題だ。そして同時に、それがいつのまにか特別でない木に零落してしまったのはどうしてか、というのも気になるところである。
先日、「南薩の田舎暮らし」では新たな取り組みとして千日紅のアクセサリーの販売を開始したが、私としてはこのビロウの葉もアクセサリーなどに加工してもらいたいと思っている。とても南っぽさを感じるものであるし、かつては神聖なものであったわけで、もし作れたら言われも面白く、ユニークなものになるはずだ。
【参考文献】
『扇―性と古代信仰』1970年、吉野 裕子
ヤシ科の植物というのは大体が不思議な形をしているが、ビロウは細かく切り込まれた長い葉が垂れ下がっている様子が魁偉であり、見た目のインパクトが大きい。
笠沙美術館の前には沖秋目島という無人島が横たわっているが、これも別名枇榔島(ビロウ島)という。おそらくビロウが繁茂していたからそういう名前がついたのだろう。枇榔島という島は鹿児島では志布志や佐多にもあるし、宮崎にもある。ビロウ島という地名が各地にあることは、昔の人が、これの繁茂していることを捨てておけない特徴として見た証左に感じられる。
このビロウという植物、調べてみるとなかなか奥深い。
古代、ビロウは神聖視されたと考えられていて、現在でも沖縄では多くの御嶽(ウタキ)の神木となっているし、天皇即位に伴う神事である大嘗祭では、ビロウで葺いた屋根の仮屋(百子帳)が重要な役割を果たす。当然天皇の身近にはビロウは存在していなかったわけで、わざわざ南方からビロウの葉を取り寄せて大嘗祭に使ったのであるが、どうしてこの重要な神事でビロウを使わなくてはならなかったのか、非常に気になるところである。
また、このビロウは古代日本が誇る発明品である「扇」の起源であるとも考えられている。能、舞踊、落語など多くの日本芸能において扇が重要な役割を果たす淵源には、かつてビロウが神聖視された名残では、という説もある。
ところが、今の鹿児島ではこれを神聖視するような姿勢は感じられないし、魁偉な見た目は神聖というより不気味な感じで受け取られているように思う。ありふれていることもあり、特に大事にしなくてはならないものという意識もないだろう。しかし上述のように、少なくともかつては神聖で重要な植物であったのは間違いなく、昔の人がビロウにどのように接したのか、というのは興味深い問題だ。そして同時に、それがいつのまにか特別でない木に零落してしまったのはどうしてか、というのも気になるところである。
先日、「南薩の田舎暮らし」では新たな取り組みとして千日紅のアクセサリーの販売を開始したが、私としてはこのビロウの葉もアクセサリーなどに加工してもらいたいと思っている。とても南っぽさを感じるものであるし、かつては神聖なものであったわけで、もし作れたら言われも面白く、ユニークなものになるはずだ。
【参考文献】
『扇―性と古代信仰』1970年、吉野 裕子
2013年4月18日木曜日
「ワイン箱」は田舎にはありません
家内からお願いされて、DIYで引き出し式の野菜ストッカーを作った。
制作期間は延べ12時間くらい。費用は6000円くらいだった(木材費用だけなら4000円弱。塗料が高い)。
最初はワイン箱を利用して作る計画だったのだが、田舎にはワイン箱自体が存在していないことが判明して、箱から自作した。
ワイン箱は白木を使っていて頑丈だし、ワインの銘柄の焼き印がしゃれているのでDIYではおなじみの素材(なはず)だ。こういうまとめもあった。昨年、うちは大量のカビに悩まされたことから家具に合板は決して使わないことを心に決めていたので、ワイン箱は素材的にも見た目的にもぴったりだった。
そして、以前東京に住んでいた頃にこれが近くの酒屋でタダでもらえたため、ワイン箱=酒屋に余っていてタダでもらえるものという先入観があった。だからワイン箱を使えば安く簡単におしゃれな野菜ストッカーが作れるな、と簡単に考えていたのだが、いざ探してみるとこのあたりには見当たらない。というか、酒屋でワイン箱ありませんかと聞いてみたところ「ワイン箱って何?」と聞き返された時に、既に心は折れていたと言えよう…。
改めて考えてみると、ワイン箱とは高級ワインの輸出(輸入)のために使われる化粧木箱なわけだから、このあたりで見当たらないのも当然である。もちろんもっと隈なく探せば少しはあったのかもしれないが、その手間を考えると自作した方が早い。
それに、箱から自作したおかげで目的のサイズぴったりに作ることができたのはよかった。使い勝手上とても大事なところでちょっとした設計ミスをしたのが心残りだが、わりとうまくできたと思う。野菜の在庫管理に一役買って欲しい。
制作期間は延べ12時間くらい。費用は6000円くらいだった(木材費用だけなら4000円弱。塗料が高い)。
最初はワイン箱を利用して作る計画だったのだが、田舎にはワイン箱自体が存在していないことが判明して、箱から自作した。
ワイン箱は白木を使っていて頑丈だし、ワインの銘柄の焼き印がしゃれているのでDIYではおなじみの素材(なはず)だ。こういうまとめもあった。昨年、うちは大量のカビに悩まされたことから家具に合板は決して使わないことを心に決めていたので、ワイン箱は素材的にも見た目的にもぴったりだった。
そして、以前東京に住んでいた頃にこれが近くの酒屋でタダでもらえたため、ワイン箱=酒屋に余っていてタダでもらえるものという先入観があった。だからワイン箱を使えば安く簡単におしゃれな野菜ストッカーが作れるな、と簡単に考えていたのだが、いざ探してみるとこのあたりには見当たらない。というか、酒屋でワイン箱ありませんかと聞いてみたところ「ワイン箱って何?」と聞き返された時に、既に心は折れていたと言えよう…。
改めて考えてみると、ワイン箱とは高級ワインの輸出(輸入)のために使われる化粧木箱なわけだから、このあたりで見当たらないのも当然である。もちろんもっと隈なく探せば少しはあったのかもしれないが、その手間を考えると自作した方が早い。
それに、箱から自作したおかげで目的のサイズぴったりに作ることができたのはよかった。使い勝手上とても大事なところでちょっとした設計ミスをしたのが心残りだが、わりとうまくできたと思う。野菜の在庫管理に一役買って欲しい。
2013年4月13日土曜日
硫黄貿易が結んだ南薩と硫黄島
知りたいことがあって、中世の硫黄貿易について調べている。
近年、日宋貿易における重要な輸出品として硫黄へ注目が集まりつつあるのだが、これの重要な舞台として、南薩の坊津、そして硫黄島(※1)が登場する。
硫黄島は、島の大部分が硫黄岳という火山によって占められており、中世においては東アジア最大の硫黄鉱山であったと言われる。 そして採掘された硫黄は、11世紀後半から日宋貿易により宋へ輸出されたと見られている。
この頃の宋は、西夏との争いに備えるため、火薬の原料である硫黄を必要としていた。その一方で遊牧民族の侵入により領土が縮小し、国内には良質の硫黄鉱山を持っていなかったという事情もあり、わざわざ日本から硫黄を輸入する必要があったというわけだ。
また、その背景として、軍馬の産地である西北を隣国に押さえられていたということもあるようだ。このため当時の主要戦力である騎兵が不足して自然と防御を重んじることになり、要塞の防衛のために火器が求められるようになったらしい。
硫黄が当時どれほどの価格で取引されたのかはわかっていないが、11世紀から16世紀に至るまで硫黄島とその隣の黒島と竹島(三島合わせて三島村を形成)が繁栄し続けたところを見ると、硫黄がかなりの富をもたらしたのは間違いない。その証左として、これらの島は小さな離島であるにも関わらず、立派な五輪塔を始めとして数多くの石造物が遺っている。
硫黄島から運び出された硫黄は、第一の寄港地として坊津を経由したようだ。もしかすると、硫黄貿易は坊津で管理されていたのかもしれない。というのも、坊津と硫黄島は当時「河辺郡」という同じ行政区画に属していたからだ。莫大な利益をもたらす資源というのは、実は統治機構にとって危険であり、その管理は重大事である。硫黄は、本土で厳重に管理されていたと考えるのが自然だ。
なぜなら、資源は適切に管理しなければ、野放図な開発や統治機構の腐敗、資源の奪い合い、そして略奪行為が誘発されるからである。それは当然といえば当然で、富をもたらす資源があるところ、「それは俺のものだ」と主張するならず者が必ず現れる。現代でも、アフリカの多くの地で、希少な資源を採掘する場所がほとんどマフィア的に占領され、現地の人をむしろ不幸にしているケースがあるのはこの罠による部分がある。資源は、適切に管理する能力を持つ統治者がいなければ、必ずしも現地の人に富をもたらすものではないのである。
そう考えると、13世紀以降に硫黄島を管理した千竈氏、そして16世紀に硫黄島の主導者となった長浜氏といった人々は硫黄貿易をうまく取り仕切ったのだろう。しかし、具体的な硫黄貿易の姿は茫洋としていて、よくわからないことだらけだ。これらの人々がどんな支配を行ったのかもよくわからない。文献もあまり残っていないため、現在の硫黄貿易研究は、いわば状況証拠に頼っているような部分がある。
また、11世紀から16世紀という500年にも及ぶ長い期間、元代には低迷期があったにしても、海外との貿易のみによって硫黄島が繁栄し続けたということはありそうもない話である。やはり国内にも安定的な硫黄の需要があったと考えるのが自然ではないか。では、その国内の需要とはどんなものだったのだろうか。
硫黄は、まずは火付けとして使われたし、少なくとも江戸時代には農薬としても使われていた。こうした用途で硫黄島の硫黄が各地に販売されていたことも考えられるが、日本では硫黄は各地で採れたはずで、敢えて硫黄島産を購入する必要もないような気がする。他方、安定的に硫黄を採掘するというシステムが各地で構築されたようにも思えず、そういう意味では硫黄島は貴重な存在だったのではないかという気もする。…というわけで、海外との硫黄貿易の実態解明も興味深いが、国内流通の方も気になるところである。
そんなわけで、一度硫黄島へ行って石造遺物や島内の様子を見てみたいと思っている。現在、硫黄島(三島村)への定期航路は鹿児島市-竹島-硫黄島-黒島というものがあり、これに加えて黒島-枕崎漁港というのが数年前から実証実験として就航している。噂では、近く枕崎からの便が定期航路化(本数が増えるということ?)するらしい(※2)。三島村には、南薩地域との結びつきを強め、観光や特産品販売などの面で協力していこうという考えがあるようだ。
中世において、硫黄貿易を通じ非常に密接な関係を持っていたと思われる南薩と硫黄島が、現代においてまた結ばれるとすればなかなか面白い展開だと思っている。いつか実際に硫黄島に上陸する日を楽しみにしたい。
※1 東京都にも、太平洋戦争で激戦地になった硫黄島があるが無関係である。
※2 伝聞なので間違っていたらすいません。
【参考文献】
『日宋貿易と「硫黄の道」』2009年、山内 晋次
2013年3月に坊津の輝津館で行われた「甦る中世貴界島」という講演会の内容も参考にさせていただいた。
近年、日宋貿易における重要な輸出品として硫黄へ注目が集まりつつあるのだが、これの重要な舞台として、南薩の坊津、そして硫黄島(※1)が登場する。
硫黄島は、島の大部分が硫黄岳という火山によって占められており、中世においては東アジア最大の硫黄鉱山であったと言われる。 そして採掘された硫黄は、11世紀後半から日宋貿易により宋へ輸出されたと見られている。
この頃の宋は、西夏との争いに備えるため、火薬の原料である硫黄を必要としていた。その一方で遊牧民族の侵入により領土が縮小し、国内には良質の硫黄鉱山を持っていなかったという事情もあり、わざわざ日本から硫黄を輸入する必要があったというわけだ。
また、その背景として、軍馬の産地である西北を隣国に押さえられていたということもあるようだ。このため当時の主要戦力である騎兵が不足して自然と防御を重んじることになり、要塞の防衛のために火器が求められるようになったらしい。
硫黄が当時どれほどの価格で取引されたのかはわかっていないが、11世紀から16世紀に至るまで硫黄島とその隣の黒島と竹島(三島合わせて三島村を形成)が繁栄し続けたところを見ると、硫黄がかなりの富をもたらしたのは間違いない。その証左として、これらの島は小さな離島であるにも関わらず、立派な五輪塔を始めとして数多くの石造物が遺っている。
硫黄島から運び出された硫黄は、第一の寄港地として坊津を経由したようだ。もしかすると、硫黄貿易は坊津で管理されていたのかもしれない。というのも、坊津と硫黄島は当時「河辺郡」という同じ行政区画に属していたからだ。莫大な利益をもたらす資源というのは、実は統治機構にとって危険であり、その管理は重大事である。硫黄は、本土で厳重に管理されていたと考えるのが自然だ。
なぜなら、資源は適切に管理しなければ、野放図な開発や統治機構の腐敗、資源の奪い合い、そして略奪行為が誘発されるからである。それは当然といえば当然で、富をもたらす資源があるところ、「それは俺のものだ」と主張するならず者が必ず現れる。現代でも、アフリカの多くの地で、希少な資源を採掘する場所がほとんどマフィア的に占領され、現地の人をむしろ不幸にしているケースがあるのはこの罠による部分がある。資源は、適切に管理する能力を持つ統治者がいなければ、必ずしも現地の人に富をもたらすものではないのである。
そう考えると、13世紀以降に硫黄島を管理した千竈氏、そして16世紀に硫黄島の主導者となった長浜氏といった人々は硫黄貿易をうまく取り仕切ったのだろう。しかし、具体的な硫黄貿易の姿は茫洋としていて、よくわからないことだらけだ。これらの人々がどんな支配を行ったのかもよくわからない。文献もあまり残っていないため、現在の硫黄貿易研究は、いわば状況証拠に頼っているような部分がある。
また、11世紀から16世紀という500年にも及ぶ長い期間、元代には低迷期があったにしても、海外との貿易のみによって硫黄島が繁栄し続けたということはありそうもない話である。やはり国内にも安定的な硫黄の需要があったと考えるのが自然ではないか。では、その国内の需要とはどんなものだったのだろうか。
硫黄は、まずは火付けとして使われたし、少なくとも江戸時代には農薬としても使われていた。こうした用途で硫黄島の硫黄が各地に販売されていたことも考えられるが、日本では硫黄は各地で採れたはずで、敢えて硫黄島産を購入する必要もないような気がする。他方、安定的に硫黄を採掘するというシステムが各地で構築されたようにも思えず、そういう意味では硫黄島は貴重な存在だったのではないかという気もする。…というわけで、海外との硫黄貿易の実態解明も興味深いが、国内流通の方も気になるところである。
そんなわけで、一度硫黄島へ行って石造遺物や島内の様子を見てみたいと思っている。現在、硫黄島(三島村)への定期航路は鹿児島市-竹島-硫黄島-黒島というものがあり、これに加えて黒島-枕崎漁港というのが数年前から実証実験として就航している。噂では、近く枕崎からの便が定期航路化(本数が増えるということ?)するらしい(※2)。三島村には、南薩地域との結びつきを強め、観光や特産品販売などの面で協力していこうという考えがあるようだ。
中世において、硫黄貿易を通じ非常に密接な関係を持っていたと思われる南薩と硫黄島が、現代においてまた結ばれるとすればなかなか面白い展開だと思っている。いつか実際に硫黄島に上陸する日を楽しみにしたい。
※1 東京都にも、太平洋戦争で激戦地になった硫黄島があるが無関係である。
※2 伝聞なので間違っていたらすいません。
【参考文献】
『日宋貿易と「硫黄の道」』2009年、山内 晋次
2013年3月に坊津の輝津館で行われた「甦る中世貴界島」という講演会の内容も参考にさせていただいた。
2013年4月7日日曜日
島嶼と砂糖の栄枯盛衰
先日、地元の方から「地域興しのために趣味で作っている黒砂糖をショップサイトで売れないか」という相談をいただいた。それで、砂糖について興味を持ち、少しばかり調べているところである。
さて、日本でのサトウキビの産地といえば沖縄と奄美なのであるが、ではどうしてこうした島嶼部(離島)でサトウキビが作られているのだろうか? もちろん、気候的な事情が最も大きいわけだが、島嶼と砂糖生産には強い関連性があり、ただ偶然に、こうした島嶼が南に存在していたからサトウキビ生産が盛んになった、というわけではない。
実は、「砂糖のあるところに、奴隷あり」と言われるように(※1)、砂糖生産と奴隷制には非常に密接な関係があるのだが、これが島嶼部でサトウキビが作られる現象をある程度説明する。
サトウキビというのは、どちらかというと放任で育つ作物ではあるが、収穫及び製糖には集約的な労働力が必要になる。「砂糖のあるところに、奴隷あり」というのは、そうした集約的な労働力が長い間奴隷によって供給されていたからである。そして島嶼部の人間というのは、社会の周縁にいるということと、少数派であるために立場が弱い。こうした人たちが、より簡単に奴隷的状態に陥る傾向にあるのは言うまでもないことで、それは奄美の場合も例外ではない。
奄美でのサトウキビ栽培は、薩摩藩の財政を立て直した調所広郷の改革によって強制的に推し進められたものである。薩摩藩は、奄美の島民には米や野菜など生活必需の作物すら作らせず、ひたすらサトウキビだけを作らせ、生活物資を藩の配給に依存させることで彼らを隷属状態においた。あまり明確に弾劾されることはないが、奄美は薩摩藩のいわば植民地だったのであり、奄美ではこの無理なプランテーション政策によって「ヤンチュ」という債務奴隷の階級ができあがった。
これは世界中で繰り返されてきたパターンであって、より有名なものとしてはカリブ海の島嶼部におけるイギリス及びフランスの植民地政策が挙げられよう。カリブ海の島々でも、アフリカから「仕入れた」奴隷を使役し、必要最低限の穀物すら作らせずにサトウキビだけを栽培させ、プランター(入植者)は王族と肩を並べるほどの爆利を得たという。ただし、ここでの砂糖と島嶼との結びつきは半分偶然でもある。
というのも、この時代に広大なアメリカ大陸で大規模な砂糖のプランテーションが成立してもおかしくなかったからだ。実は、植民地時代、砂糖の一大拠点がカリブ海の島嶼であったのは、アメリカ大陸を植民地化していたスペインが、アフリカに拠点を持っていなかったという偶然による部分も大きい。サトウキビ栽培・製糖に必要な労働力である黒人奴隷をアフリカから仕入れることができなかったため、スペインは大陸という広大な領土を持ちながら、イギリスやフランスに巨万の富をもたらした砂糖製造を大規模に行うことができなかったのである。
さらに歴史を遡っても砂糖と島嶼の結びつきはある。サトウキビは元々東アジア原産(ニュー・ギニアという説がある)で、これをヨーロッパまで伝えたのは8世紀のイスラム教徒たちであるが、ヨーロッパでの最初の生産拠点は地中海の島々だった。
具体的には、キプロス島、ロドス島、クレタ島、マルタ島、そしてシチリアなどトルコからイタリアにかけての島々がそれにあたる。シチリアには、環状に巻いた生地にチーズベースのクリームを詰めたカンノーリという伝統的なお菓子があるが、これはかつてシチリアでサトウキビが栽培されていた時分に、生地をサトウキビの茎に巻き付けて作られたものだという。ヨーロッパにおけるサトウキビ栽培の一つの名残だ。
こうした地中海の島々がヨーロッパで最初の砂糖生産地になったのは、気候的な事情が大きいのは当然として、奄美やカリブ海でのそれと同じように、奴隷的な人々を使役できる環境にあったということもあるのだろう。当時はイスラム教徒によって現地の人々が支配されていた時代でもあるので、おそらく、島嶼の(土着の)人間が、強制的に動員されたに違いない。
そしてもう一つ、島嶼と砂糖を結びつけるものがある。それは、島嶼における流通の困難さだ。ごく近代になるまで、生鮮食料品を島嶼部から輸出することは不可能であったし、それどころか穀物のように腐らないものであっても、重いもの、かさばるものを島外に輸出するのは現実的でなかった。砂糖は、そういう流通的に不利な島嶼経済にとってはうってつけだった。限られた地域で、奴隷を投入しなければ生産できない砂糖は、軽いという流通上の利点がある上に、長い間、べらぼうに高価な商品だったからである。
こうして、地中海と、スペインやポルトガルなどのイスラム勢力の侵攻を受けた南欧はヨーロッパにおける砂糖産地になったが、時代が移り、植民地時代の幕開けと共に突如としてこれらの産地は雲散霧消してしまう。カリブ海の植民地から安い(といっても高価なものだったが)砂糖が大量に輸入され、こうした産地はすぐに競争力を失ったのである。植民地時代というと、西欧列強の国民すべてがそこから利益を得たように思ってしまうが、言葉を換えれば急速なグローバル化の時代でもあり、列強においても、安い農産物に負けて失業してしまった人もいたわけである。
これと同じ現象は日本でも起こっており、かつては本土でもサトウキビは栽培されていたが、砂糖の輸入自由化とともに本土でのサトウキビ栽培は軒並み壊滅してしまった。沖縄や奄美といった島嶼部でサトウキビが未だに栽培されているのは、有り体に言ってしまえば補助金のおかげであり、こうした地域で(世界的には)競争力のないサトウキビ栽培が保護されているのは、 それに代わる有望な農産物が出現していないからである(※2)。
こうした歴史を思う時、「黒砂糖で地域興し」というのはどういう目で見ればいいだろう?
日本がTPPに参加するかどうかに関わらず、日本の財政状況を考えるとサトウキビへの補助金政策は近いうちに終焉を迎えると考えられる。そうなると、島嶼部のサトウキビ産業は地中海の島々のそれと同じように壊滅せざるをえない。そうなった時、沖縄や鹿児島の特産品でもある「黒砂糖」はどうなるのだろう? 全くなくなってしまうのだろうか? それとも、地元の方が作っておられるように、採算を度外視して趣味で作られたものだけが、過去の記憶を伝えるものとして細々と残っていくのだろうか? シチリアのカンノーリのように、僅かな痕跡をどこかに留めながら。
※1 初代トリニダード・トバゴ首相になった、歴史家エリック・ウィリアムズの言葉。
※2 もちろん、実際はそんなに単純ではない…。
【参考文献】
『砂糖の世界史』1996年、川北 稔
「調所広郷による改革の暗黒面―奄美の奴隷『ヤンチュ』による財政改革」
さて、日本でのサトウキビの産地といえば沖縄と奄美なのであるが、ではどうしてこうした島嶼部(離島)でサトウキビが作られているのだろうか? もちろん、気候的な事情が最も大きいわけだが、島嶼と砂糖生産には強い関連性があり、ただ偶然に、こうした島嶼が南に存在していたからサトウキビ生産が盛んになった、というわけではない。
実は、「砂糖のあるところに、奴隷あり」と言われるように(※1)、砂糖生産と奴隷制には非常に密接な関係があるのだが、これが島嶼部でサトウキビが作られる現象をある程度説明する。
サトウキビというのは、どちらかというと放任で育つ作物ではあるが、収穫及び製糖には集約的な労働力が必要になる。「砂糖のあるところに、奴隷あり」というのは、そうした集約的な労働力が長い間奴隷によって供給されていたからである。そして島嶼部の人間というのは、社会の周縁にいるということと、少数派であるために立場が弱い。こうした人たちが、より簡単に奴隷的状態に陥る傾向にあるのは言うまでもないことで、それは奄美の場合も例外ではない。
奄美でのサトウキビ栽培は、薩摩藩の財政を立て直した調所広郷の改革によって強制的に推し進められたものである。薩摩藩は、奄美の島民には米や野菜など生活必需の作物すら作らせず、ひたすらサトウキビだけを作らせ、生活物資を藩の配給に依存させることで彼らを隷属状態においた。あまり明確に弾劾されることはないが、奄美は薩摩藩のいわば植民地だったのであり、奄美ではこの無理なプランテーション政策によって「ヤンチュ」という債務奴隷の階級ができあがった。
これは世界中で繰り返されてきたパターンであって、より有名なものとしてはカリブ海の島嶼部におけるイギリス及びフランスの植民地政策が挙げられよう。カリブ海の島々でも、アフリカから「仕入れた」奴隷を使役し、必要最低限の穀物すら作らせずにサトウキビだけを栽培させ、プランター(入植者)は王族と肩を並べるほどの爆利を得たという。ただし、ここでの砂糖と島嶼との結びつきは半分偶然でもある。
というのも、この時代に広大なアメリカ大陸で大規模な砂糖のプランテーションが成立してもおかしくなかったからだ。実は、植民地時代、砂糖の一大拠点がカリブ海の島嶼であったのは、アメリカ大陸を植民地化していたスペインが、アフリカに拠点を持っていなかったという偶然による部分も大きい。サトウキビ栽培・製糖に必要な労働力である黒人奴隷をアフリカから仕入れることができなかったため、スペインは大陸という広大な領土を持ちながら、イギリスやフランスに巨万の富をもたらした砂糖製造を大規模に行うことができなかったのである。
さらに歴史を遡っても砂糖と島嶼の結びつきはある。サトウキビは元々東アジア原産(ニュー・ギニアという説がある)で、これをヨーロッパまで伝えたのは8世紀のイスラム教徒たちであるが、ヨーロッパでの最初の生産拠点は地中海の島々だった。
具体的には、キプロス島、ロドス島、クレタ島、マルタ島、そしてシチリアなどトルコからイタリアにかけての島々がそれにあたる。シチリアには、環状に巻いた生地にチーズベースのクリームを詰めたカンノーリという伝統的なお菓子があるが、これはかつてシチリアでサトウキビが栽培されていた時分に、生地をサトウキビの茎に巻き付けて作られたものだという。ヨーロッパにおけるサトウキビ栽培の一つの名残だ。
こうした地中海の島々がヨーロッパで最初の砂糖生産地になったのは、気候的な事情が大きいのは当然として、奄美やカリブ海でのそれと同じように、奴隷的な人々を使役できる環境にあったということもあるのだろう。当時はイスラム教徒によって現地の人々が支配されていた時代でもあるので、おそらく、島嶼の(土着の)人間が、強制的に動員されたに違いない。
そしてもう一つ、島嶼と砂糖を結びつけるものがある。それは、島嶼における流通の困難さだ。ごく近代になるまで、生鮮食料品を島嶼部から輸出することは不可能であったし、それどころか穀物のように腐らないものであっても、重いもの、かさばるものを島外に輸出するのは現実的でなかった。砂糖は、そういう流通的に不利な島嶼経済にとってはうってつけだった。限られた地域で、奴隷を投入しなければ生産できない砂糖は、軽いという流通上の利点がある上に、長い間、べらぼうに高価な商品だったからである。
こうして、地中海と、スペインやポルトガルなどのイスラム勢力の侵攻を受けた南欧はヨーロッパにおける砂糖産地になったが、時代が移り、植民地時代の幕開けと共に突如としてこれらの産地は雲散霧消してしまう。カリブ海の植民地から安い(といっても高価なものだったが)砂糖が大量に輸入され、こうした産地はすぐに競争力を失ったのである。植民地時代というと、西欧列強の国民すべてがそこから利益を得たように思ってしまうが、言葉を換えれば急速なグローバル化の時代でもあり、列強においても、安い農産物に負けて失業してしまった人もいたわけである。
これと同じ現象は日本でも起こっており、かつては本土でもサトウキビは栽培されていたが、砂糖の輸入自由化とともに本土でのサトウキビ栽培は軒並み壊滅してしまった。沖縄や奄美といった島嶼部でサトウキビが未だに栽培されているのは、有り体に言ってしまえば補助金のおかげであり、こうした地域で(世界的には)競争力のないサトウキビ栽培が保護されているのは、 それに代わる有望な農産物が出現していないからである(※2)。
こうした歴史を思う時、「黒砂糖で地域興し」というのはどういう目で見ればいいだろう?
日本がTPPに参加するかどうかに関わらず、日本の財政状況を考えるとサトウキビへの補助金政策は近いうちに終焉を迎えると考えられる。そうなると、島嶼部のサトウキビ産業は地中海の島々のそれと同じように壊滅せざるをえない。そうなった時、沖縄や鹿児島の特産品でもある「黒砂糖」はどうなるのだろう? 全くなくなってしまうのだろうか? それとも、地元の方が作っておられるように、採算を度外視して趣味で作られたものだけが、過去の記憶を伝えるものとして細々と残っていくのだろうか? シチリアのカンノーリのように、僅かな痕跡をどこかに留めながら。
※1 初代トリニダード・トバゴ首相になった、歴史家エリック・ウィリアムズの言葉。
※2 もちろん、実際はそんなに単純ではない…。
【参考文献】
『砂糖の世界史』1996年、川北 稔
「調所広郷による改革の暗黒面―奄美の奴隷『ヤンチュ』による財政改革」
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