2013年4月7日日曜日

島嶼と砂糖の栄枯盛衰

先日、地元の方から「地域興しのために趣味で作っている黒砂糖をショップサイトで売れないか」という相談をいただいた。それで、砂糖について興味を持ち、少しばかり調べているところである。

さて、日本でのサトウキビの産地といえば沖縄と奄美なのであるが、ではどうしてこうした島嶼部(離島)でサトウキビが作られているのだろうか? もちろん、気候的な事情が最も大きいわけだが、島嶼と砂糖生産には強い関連性があり、ただ偶然に、こうした島嶼が南に存在していたからサトウキビ生産が盛んになった、というわけではない。

実は、「砂糖のあるところに、奴隷あり」と言われるように(※1)、砂糖生産と奴隷制には非常に密接な関係があるのだが、これが島嶼部でサトウキビが作られる現象をある程度説明する。

サトウキビというのは、どちらかというと放任で育つ作物ではあるが、収穫及び製糖には集約的な労働力が必要になる。「砂糖のあるところに、奴隷あり」というのは、そうした集約的な労働力が長い間奴隷によって供給されていたからである。そして島嶼部の人間というのは、社会の周縁にいるということと、少数派であるために立場が弱い。こうした人たちが、より簡単に奴隷的状態に陥る傾向にあるのは言うまでもないことで、それは奄美の場合も例外ではない。

奄美でのサトウキビ栽培は、薩摩藩の財政を立て直した調所広郷の改革によって強制的に推し進められたものである。薩摩藩は、奄美の島民には米や野菜など生活必需の作物すら作らせず、ひたすらサトウキビだけを作らせ、生活物資を藩の配給に依存させることで彼らを隷属状態においた。あまり明確に弾劾されることはないが、奄美は薩摩藩のいわば植民地だったのであり、奄美ではこの無理なプランテーション政策によって「ヤンチュ」という債務奴隷の階級ができあがった。

これは世界中で繰り返されてきたパターンであって、より有名なものとしてはカリブ海の島嶼部におけるイギリス及びフランスの植民地政策が挙げられよう。カリブ海の島々でも、アフリカから「仕入れた」奴隷を使役し、必要最低限の穀物すら作らせずにサトウキビだけを栽培させ、プランター(入植者)は王族と肩を並べるほどの爆利を得たという。ただし、ここでの砂糖と島嶼との結びつきは半分偶然でもある。

というのも、この時代に広大なアメリカ大陸で大規模な砂糖のプランテーションが成立してもおかしくなかったからだ。実は、植民地時代、砂糖の一大拠点がカリブ海の島嶼であったのは、アメリカ大陸を植民地化していたスペインが、アフリカに拠点を持っていなかったという偶然による部分も大きい。サトウキビ栽培・製糖に必要な労働力である黒人奴隷をアフリカから仕入れることができなかったため、スペインは大陸という広大な領土を持ちながら、イギリスやフランスに巨万の富をもたらした砂糖製造を大規模に行うことができなかったのである。

さらに歴史を遡っても砂糖と島嶼の結びつきはある。サトウキビは元々東アジア原産(ニュー・ギニアという説がある)で、これをヨーロッパまで伝えたのは8世紀のイスラム教徒たちであるが、ヨーロッパでの最初の生産拠点は地中海の島々だった。

具体的には、キプロス島、ロドス島、クレタ島、マルタ島、そしてシチリアなどトルコからイタリアにかけての島々がそれにあたる。シチリアには、環状に巻いた生地にチーズベースのクリームを詰めたカンノーリという伝統的なお菓子があるが、これはかつてシチリアでサトウキビが栽培されていた時分に、生地をサトウキビの茎に巻き付けて作られたものだという。ヨーロッパにおけるサトウキビ栽培の一つの名残だ。

こうした地中海の島々がヨーロッパで最初の砂糖生産地になったのは、気候的な事情が大きいのは当然として、奄美やカリブ海でのそれと同じように、奴隷的な人々を使役できる環境にあったということもあるのだろう。当時はイスラム教徒によって現地の人々が支配されていた時代でもあるので、おそらく、島嶼の(土着の)人間が、強制的に動員されたに違いない。

そしてもう一つ、島嶼と砂糖を結びつけるものがある。それは、島嶼における流通の困難さだ。ごく近代になるまで、生鮮食料品を島嶼部から輸出することは不可能であったし、それどころか穀物のように腐らないものであっても、重いもの、かさばるものを島外に輸出するのは現実的でなかった。砂糖は、そういう流通的に不利な島嶼経済にとってはうってつけだった。限られた地域で、奴隷を投入しなければ生産できない砂糖は、軽いという流通上の利点がある上に、長い間、べらぼうに高価な商品だったからである。

こうして、地中海と、スペインやポルトガルなどのイスラム勢力の侵攻を受けた南欧はヨーロッパにおける砂糖産地になったが、時代が移り、植民地時代の幕開けと共に突如としてこれらの産地は雲散霧消してしまう。カリブ海の植民地から安い(といっても高価なものだったが)砂糖が大量に輸入され、こうした産地はすぐに競争力を失ったのである。植民地時代というと、西欧列強の国民すべてがそこから利益を得たように思ってしまうが、言葉を換えれば急速なグローバル化の時代でもあり、列強においても、安い農産物に負けて失業してしまった人もいたわけである。

これと同じ現象は日本でも起こっており、かつては本土でもサトウキビは栽培されていたが、砂糖の輸入自由化とともに本土でのサトウキビ栽培は軒並み壊滅してしまった。沖縄や奄美といった島嶼部でサトウキビが未だに栽培されているのは、有り体に言ってしまえば補助金のおかげであり、こうした地域で(世界的には)競争力のないサトウキビ栽培が保護されているのは、 それに代わる有望な農産物が出現していないからである(※2)。

こうした歴史を思う時、「黒砂糖で地域興し」というのはどういう目で見ればいいだろう?

日本がTPPに参加するかどうかに関わらず、日本の財政状況を考えるとサトウキビへの補助金政策は近いうちに終焉を迎えると考えられる。そうなると、島嶼部のサトウキビ産業は地中海の島々のそれと同じように壊滅せざるをえない。そうなった時、沖縄や鹿児島の特産品でもある「黒砂糖」はどうなるのだろう? 全くなくなってしまうのだろうか? それとも、地元の方が作っておられるように、採算を度外視して趣味で作られたものだけが、過去の記憶を伝えるものとして細々と残っていくのだろうか? シチリアのカンノーリのように、僅かな痕跡をどこかに留めながら。

※1 初代トリニダード・トバゴ首相になった、歴史家エリック・ウィリアムズの言葉。
※2 もちろん、実際はそんなに単純ではない…。

【参考文献】
『砂糖の世界史』1996年、川北 稔
調所広郷による改革の暗黒面―奄美の奴隷『ヤンチュ』による財政改革

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