2015年8月11日火曜日

川内原発再稼働に想う

川内原発が再稼働した。大変難しい問題で、これについてはブログなどでは語らない方がいいような気がする。でも大きな問題でもあるので、県民の一人として洞ヶ峠を決め込むというわけにもいかないという気持ちである。

最初に言っておくと、これを表明するのはたいへん勇気がいるが、私は脱原発派ではない。

震災後にこちらへ移住してきているので、当然私を脱原発派だろうと思っている人が多いだろうし、職業も「百姓」を名乗っているくらいなので、地球環境に負荷を掛ける原発には反対だろうとみなさん想像されると思う。

だが原発推進派というわけでもない。福島であのような事故(そしてその後の情けない対応!)が起こってしまった以上、我々日本人には(少なくとも今は)原発のような難しいものをマネジメントしていく能力がないことが明らかになってしまったので、経産省の言うように原発が「重要なベース電力」を担っていくことなんかできないんじゃないか、とは思っている。20年くらいかけて現在ある原発は順次廃炉にしていくべきではないかと思う。

しかし、それと即時廃炉・脱原発、というのとはちょっと距離がある。

といっても、即時廃炉派の人の意見も分かる部分はある。「喉元過ぎれば熱さを忘れる日本人のことだから、今のタイミングで脱原発できなければ、ズルズルと元に戻っていくのではないか」という危惧が即時廃炉派の人にはあるのではないか。確かに日本人は物事をジワジワと地道に変えていくのが不得意である。変えるときは一気に変えるのが性に合っている気もする。

川内には直接の友人はいないので、川内の人が原発をどう思っているのかはよくわからない。でも伝え聞くところによれば反応は複雑だ。原発推進や反原発といったわかりやすい主義主張の対立というより、その中間の大きなグレーゾーンの中で人々は落ち着かない日々を過ごしているように感じる。

元々川内原発は(他の原発も似たようなものではないかと思うが)地元の熱烈な誘致によって出来たものである。これといった産業がなかった川内の活性化のために原発を呼び込んだのである。当然、その際には原発の危険性などは地元住民には十分に伝わっていなかったし、原発誘致をした当人ではない現在の川内の住民たちに責任はないが、設立の経緯からすると川内に原発が立地していることの責任は九電のみにあるわけではない。

そして、川内という地方都市は、原発があることを前提に発展してきた。もちろん事故は怖いわけで、ないならないに越したことはない。でも経済の基盤をいきなり失うのも怖い。今は暫定処置として稼働していない原発(が立地する自治体)にも交付金が出るようになっているが、そんな制度は長続きしないだろうし、何より原発が稼働しなければそこに働く多くの人が失業することにもなる。地元住民としては、脱原発するにしても次の経済基盤を作るのが先決、という気持ちではないだろうか。

政府及び九電は、法律によって必要な手続きではなかったにも関わらず、再稼働には事実上地元自治体の同意が必須だとして、議会へ意見を求めた。そして薩摩川内市の市議会、また鹿児島県議会でも再稼働に同意する議決が出ている。今回の再稼働は民意を無視しているという人もいるが、手続き的には民意に添っている。直接恩恵を受けるわけではない周辺自治体の人たち(私もその一人)の意をあまり汲んでいないという批判はあるにしても、まるきり政府や九電の独走というわけではない。

もちろん、薩摩川内市の市議会、そして県議会が市民や県民の真の代表たり得ているか、ということは一考を要する。ちょっと産業寄りすぎるきらいはある。でも私の実感として、市民や県民の複雑で割り切れない思いを議会はそれなりに共有していたように思う。

ただ、再稼働同意ということが最終的な民意か、というとそれは違う。割り切れないグレーゾーンの人たちが、暫定的に選んだのがそれであって、川内はこれからも原発の街でやっていく! という結論が出たわけではない。その意味では、まだまだ議論すべきことはたくさん残っていて、私としては、ようやくこれから落ちついて議論ができるようになったのではないかとも思っている。

ここですごく心配なことがある。原発再稼働そのものよりももっと心配だと言ってもいい。それは、脱原発派、原発推進派、そしてその間のグレーゾーンの人たちの間で、全く対話が成り立たないことである。

脱原発派の人たちは、原発推進派の人たちを政府の狗か経済至上主義者の愚昧な輩と思っているし、一方原発推進派の人たちは、脱原発派の人たちを現実を見ないお花畑だと思っている。互いに互いをバカにしていて、「バカだからあっちの派閥なんだろう」と互いに思う始末である。

こういう調子だから全然対話が成り立たない。お互いに見ているものが違いすぎて言葉が通じない。互いに軽蔑し切っているから、対話するための最低限の条件、いやたった一つの条件である「互いを尊重する」ということができない。今こそ対話が必要な時なのに、対話どころか挨拶すらできないような状況になっているのは残念だ。

そしてもっと気になるのはその間のグレーゾーンの人たち。脱原発派と原発推進派がいがみあっているものだから、どうしてもそこから距離を取ってしまう。普通の人の普通の意見が表明しづらくなって、元より割り切れない意見がさらに曖昧なものになる。この人たちはその考えの深さの度合いはともかくとして、対話や議論の先に現実的な解決策を見つけなければならないと感じている人たちだと思う。それが議論の輪の中に入ろうとしない、それが最も危険なことのように感じる。極端な意見だけが取り上げられて、それが対立を更に煽り、普通の人がどんどんそこから遠のいていく。

もちろん、過激な意見も時に必要である。水俣病の時には過激な意見がなければ住民は見殺しされていただろう。国家権力に逆らって正しいことを成し遂げるには時に住民をも置き去りにするような過激さが必要だ。しかし今の場合はちょっと違う(と私は思っている)。鹿児島県民は、落ちついてどうすべきか考える時ではないか。

こういう時には、モデレーターがいる。つまり調停者である(皮肉なことに、原子炉の減速材という意味もある)。異なる立場にある人の間を取り持って、少なくとも対話が成立するようにする人だ。いがみ合うのではなく、より大きな立場で(極端に言えば人類全体くらいの視野をもって)共通の土台に立って共に前進できるように取りはからう人だ。

今はアクティビスト(活動家)には事欠かないがモデレーターはどこにもいないようだ。このように対立が深い問題なので、これを調停してやろうと思うような人はいないのだろうし、双方が、そのような対話路線を取ることは愚かなことだと思っているのかもしれない。

私にもう少し力があれば、こういう時に、政府・九電や産業界と脱原発派の間で少しでもよいから対話できる機会を作ってみたいと夢想する。地元の、本当に地元の普通の人と、政府の下っ端の役人や九電の中間管理職と、脱原発でユルく活動している人に、同じ席に座ってもらって、「いやー、最近本当に暑いですねー」みたいな挨拶程度の、中身のない話をする場を設けてみたい。それで何かを変えるのじゃなくて、みんな同じ人間なんだということを確認したい。

どこかに絶対の真理があるのではなく、一寸先は闇の中を手探りしながら人間は先へ進んでいく。手探りするならその手は多い方がよい。脱原発派も原発推進派も、そしてその間の人も、未来へ向かって手探りするのに手を貸して下さい。

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