2023年1月25日水曜日

鹿児島県文化協会は必要なのか、誰ため、何のためにあるのか

ボロクソに否定した会議のメンバーに。「かごしま文化未来創造プロジェクト会議」という記事でお知らせしたように、私は鹿児島県文化協会の「かごしま文化未来創造プロジェクト会議」に参加している。これまでに2回会合があった。

その会合では、鹿児島県文化協会を今後どうしていくか、どうあるべきかということを話し合うのだが、多くの委員から「そもそも鹿児島県文化協会は必要なのか、誰ため、何のためにあるのか」という発言があった。

これはなかなか特徴的なことで、その構成員自らが「我々って本当に必要なの?」と疑義を突き付ける組織はそうそうない。

しかしこうした問いかけがあるたびに、「やっぱり必要だよね」という論調に返っていくのもこの会議の特徴かもしれない。その理由は「交流や連携のためには広域組織が必要だから」と集約できる。しかし本当にそうなんだろうか。私が文化協会のメンバーではないからか、どうもここが腑に落ちない。

以下、前回の記事と重なる点もあるが改めて考えてみたい。

まず、市町村の文化協会(以下これを「単位文化協会」と呼ぶことにする)は、そもそも何のためにあるのかというと、最大の存在理由は地域の「文化祭」の開催である。

例えば、南さつま市の加世田では「加世田地域文化祭」が文化の日付近に開催される。単位文化協会の構成メンバーは、短歌の会、演劇団体、コーラスグループ、お茶やお花のグループ、伝統芸能継承グループ、日本舞踊の会などなどであるが、こうしたグループは単独での発表会を行って多くの観客を集めるのは難しいため、合同発表会として「文化祭」を開催するのである。

しかしここでポイントなのは、この「文化祭」は必ずしも単位文化協会の構成メンバーのみが出演するのではない、ということだ。例えば「加世田地域文化祭」では、地域の高校の書道部や吹奏楽部も出演する。また本部は地域外にある文化団体でも、参加を希望すればそれが受け入れられることが普通だ。単位文化協会は「文化祭」の実行委員会である、と考えたらいいかもしれない。

こうした単位文化協会が集まってできているのが、鹿児島県文化協会である。ただしここでも一つ注意が必要である。鹿児島県の各市町村に単位文化協会があるが、鹿児島市には単位文化協会は存在しない、ということだ(ただし合併前の旧町域にはある。吉田と郡山)。

なぜ鹿児島市にはないのか。私にはよくわからない。だが鹿児島市の場合は、同種の団体が割合に多いので、わざわざ異分野の文化団体と合同発表会を行う必要があまりなかった、ということなのかもしれない。発表会をしたいなら、異分野ではなく同分野でまとまればよいからだ。

例えば各地にあるコーラスサークルや少年少女コーラスのグループは「鹿児島県合唱連盟」を構成していて、年に一度宝山ホールで合同の「合唱祭」がある。鹿児島市の場合はこういう「文化団体連盟」の行う発表会が、他の市町村で単位文化協会が行う「文化祭」の代わりになっているのだろう。

なお、鹿児島市にも年に一度の「鹿児島市民文化祭」があるが、これは単一のイベントではなくていろいろな団体がそれぞれに行う発表(日程・場所もバラバラ)を便宜的に「鹿児島市民文化祭」と呼んでいるだけである。

さて、鹿児島市以外の市町村の文化団体は「文化団体連盟」に加入していないかというとそうでもなく、宝山ホールでの「合唱祭」には南さつま市少年少女合唱団も出演している。つまり鹿児島市以外の市町村の文化団体は、「文化団体連盟」と「単位文化協会」に二重に加入しているということになる。もちろん、どちらにも加入している団体、どちらかにしか加入していいない団体、そしてどちらにも加入せずに活動している団体もある。

そしてこの「文化団体連盟」も、鹿児島県文化協会の構成メンバーなのだ。県文化協会は、単位文化協会と文化団体連盟による連携協力のための互助組織である、といえる。

さらには、これらとは別に、単一の文化団体も若干ではあるが県文化協会に加入している。例えば、劇団「夢飛行プロジェクト」、郷土芸能中之町鉦踊り保存会、田の神を守る会といったものだ。

ややこしくなったのでこの状況を図示すると次の通りである。ただしこの図では、文化団体連盟・単位文化協会に加入している団体のみを描いているが、実際には加入していない団体は多い。

これまでの話をまとめると次のようになる。

<鹿児島県文化協会のメンバー>

  • 鹿児島県文化協会は(1)単位文化協会と(2)文化団体連盟(3)単一文化団体の3種のメンバーで構成されている。
  • 「単位文化協会」は各市町村の文化団体で構成されるが、鹿児島市にはない(旧町域を除く)。
  • 鹿児島市以外の市町村の文化団体では、「文化団体連盟」と「単位文化協会」に二重に加入している場合がある。

そして、県文化協会の主要な事業は何かというと、「県民文化フェスタ」の主催と、会誌「文化かごしま」の発行の2つ。「県民文化フェスタ」は県内全域を対象とした文化祭(場所は持ち回り)であり、「文化かごしま」は情報共有のための機関紙である。

なお、念のためいうが県文化協会は公的機関ではなく、県からのわずかな補助は受けているものの、基本的には互助団体である。

こうした状況を踏まえて、「そもそも鹿児島県文化協会は必要なのか、誰ため、何のためにあるのか」という質問を再考してみると、その答えは明らかである。それは「県文化協会は、加盟団体、つまり単位文化協会と文化団体連盟のために存在しており、それらが必要と思えば必要なのだ」ということになる。

「かごしま文化未来創造プロジェクト会議」のメンバーは、基本的に加盟団体の代表で構成されている(私のような例外もいる)。よってその代表たちが必要と思うなら必要なんだろう。

が! では彼らはなぜ「県文化協会は必要なのか、誰ため、何のためにあるのか」という疑問を抱いたのだろか。その点をちょっと考えてみたい。

前回も書いたように、県文化協会は様々な課題を抱えている。加盟団体の減少、それに伴う収支の悪化、役員の高齢化といったことだ。しかしこうした課題があったとしても、加盟団体が必要と思うならば、「県文化協会を存続させていくためにどうすればいいのか」という議論になるはずで、「必要なのか、誰のため、何のためにあるのか」という論調にはならないはずだ。

そのような発言が出るということは、結局は加盟団体自身が「県文化協会の存在意義がない」と感じていると思わざるをえない。それはおそらく、現在の県文化協会の実態が、会則に掲げられた「県民文化の振興に寄与することを目的とする」との理想と乖離しているためだ。

辛辣な言い方になるが、今の県文化協会は、高齢化した加盟団体の「生きがいづくり」のために存在しているようなところがあり、交流や連携というのもごく一部の関係者間にとどまる。これで県民文化の振興に寄与できているのか、そこが会議のメンバーが突き付けた本当の問いではないか。

とはいっても先述のように、組織の成り立ちから考えれば、県文化協会は広く社会にサービスを提供しなければならない団体ではなく、極端に言えばメンバーが満足すればそれでよい互助団体だ。

しかしこれまでは加盟団体も多く、活動がそれなりに盛り上がって社会になんらかの価値を提供できていた実感があったのだろう。それが、団体数の減少や高齢化によって活動が自己目的化し、何のためにやっているのかわからなくなってきた……といったところかと思う。いくら「県民文化の振興のため」といっても、自分たちの活動が実感として文化振興につながっていると思えなければ、「必要なのか、誰のため、何のためにあるのか」と思うようになってもしょうがない。

そしてその実感のなさの理由をさらに突き詰めていけば、単位文化協会はなんのためにあるのか、というところにまで行きつかざるを得ない。もちろん単位文化協会はたくさんあり、そのおかれた状況は様々だ。我が大浦町の文化協会が2021年、加盟団体数の減少から解散したように解散間際のところもあれば、市町村合併で大きくなり新たな活動を開始しているようなところもある。しかし総じていえば、やはり加盟団体数の減少、役員・メンバーの高齢化、収支の悪化、といったことが共通の課題となっており、活動が低調になっているのが現状だ。

では、単位文化協会の衰退によって県民文化は退潮にあるのだろうか? 

これは簡単に判断ができるようなことではないが、私の実感としては「県民文化」すなわち県民の文化的な活動は、郷土芸能を除いて決して退潮にはない。

というのは、今はインターネットを通じて文化的な活動をしている人がとてもたくさんいるからだ。YouTubeによってかつてないほど学びの敷居は低くなり、特に楽器の練習は容易となった(うまくなるかは別として)。文芸(短歌・俳句・詩・小説・エッセイ)は気軽に発表できるようになったし、発表というほどでなくても、絵・写真・書道などの作品をFacebookなどで見せている人は多い。手芸についても、アクセサリーや小物づくりなどは今多くの人がプロ並みのものを作り、Instagramを使って集客するマルシェなどで盛んに販売されている。そして生涯学習の面でも、多くの人が通信講座やインターネットを介した勉強で資格試験に果敢にトライし、キャリアアップにつなげている。

一方、単位文化協会を構成する団体は、かつての公民館講座を母体にしたものが多く、書道・華道・茶道・陶芸・踊り・伝統文芸など「旧来型の文化」に属するものがほとんどだ。こういう「旧来型の文化」が退潮にあるからといって、県民の文化活動自体が低調だとはとうてい言えない。

むしろ、県民の文化活動の中心とずれたところに単位文化協会があるから、自然と衰退していった、というのが本当のところではないだろうか。結論的にいうならば、単位文化協会はもはや県民文化を支える存在ではないのである。

そもそも、先ほど述べたように鹿児島市には単位文化協会は最初から存在しない。それでも、鹿児島市民が文化活動をするのに苦労しているという話は聞いたことがない。それだけでも、単位文化協会の存在価値に疑義を抱かせるのに十分だろう。もちろん地域の「文化祭」の実施は大切であるが、逆にいえば「文化祭」の実行委員会の機能さえあればよい。単位文化協会はなくてもいいのである。

だからこそ、その互助団体である県文化協会が「必要なのか、誰のため、何のためにあるのか」と疑問を突き付けられるのだろう。県民文化を支えているわけでもないのに、自分たちは何のためにやっているのか、と感じてしまうのではないのか。

今回の会議=「かごしま文化未来創造プロジェクト会議」は、あくまでも県文化協会の今後を考えるもので、単位文化協会をどうする、ということを話し合うためのものではない。しかし県文化協会の在り方を考えていくと、単位文化協会の在り方にまで踏み込んでいかざるを得ないと私は思う。この意見に対して、おそらく会議のメンバーは「そんなことを議論すると収拾がつかなくなる」というだろう。しかし課題の根幹はそこにあるのではないか。

私は、単位文化協会などなくしてしまえ! と言いたいわけではない。彼らも互助団体なのだから、私のような外野がとやかくいう権利はない。だが彼ら自身から存在意義の根幹にかかわる疑問が提出されている以上、「かごしま文化未来創造プロジェクト会議」はそれに真正面から向き合うべきだと思うのだ。

根幹に触れずに価値ある議論ができるのか、私には疑問である。

(つづく)

1 件のコメント:

  1. 鹿児島県文化協会 事務局業務をしております、宇都です。拝読致しました。全くもっておっしゃる通りでございます。会議に参加いただいて、このようなお考えを頂けるのは有難いことです。ネット上ですのでこのくらいで。またお会いし、お話できたらと思います。

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