2015年11月18日水曜日

「地域活性化」はやるべきではありません

先日、「海の見える美術館で珈琲を飲む会 vol.2」を開催しました。来ていただいた方、本当にありがとうございました!

当日の模様については「南薩の田舎暮らし ブログ」の方に書きましたのでよかったらご覧ください。

【南薩の田舎暮らし ブログ】「海の見える美術館で珈琲を飲む会 vol.2」ありがとうございました!

ところで、こういうイベントをしていると、「地域活性化してくれてありがとう!」とか言われることがある。また、新聞記者さんにも「南薩の田舎暮らしは、地域活性化団体とかじゃないんですか?(そうでないと記事に紹介しにくいなあ、みたいなニュアンスで)」と聞かれたりする。

でも、実を言うと私は「地域活性化」には取り組んでいないし、「南薩の田舎暮らし」も商業活動をするときのただの屋号である。ただ、「珈琲を飲む会」とか、先日やった「公民館 de 夜カフェ」なんかは、収益を目的としておらず(というかカンパがなかったら赤字)、気持ちの上では地域貢献活動としてやっているのは確かである。

でも地域貢献は目的の中心ではない。目的の中心は、「自分が楽しいからやりたい」という私のエゴである。美味しいコーヒーを、眺めのよいところで飲んだら美味しい、それを他の人とも共有したい! そういう私のエゴでやっているのが「珈琲を飲む会」である。いわば自分による自分のためのイベントである。地域活性化とか、そういう「高尚な目的」は全然ない。

そもそも、私は「地域活性化」や「地域おこし」はやらない方がいいと思っている。

そういうことに興味があったり、いろいろな取組をしている人と知り合ったりする機会が多いのだが、その現状を見聞きしても、「地域活性化」の内容には問題があることが多い。

そういう取組の最大の問題は、「地域活性化」が一体何を目的としているのか曖昧なことである。「地域」というボンヤリとしたものを相手にしているから、それがどういう状態になったらそれが「活性化」だと言えるのか、あまり考えていない。なので、「とりあえず人の集まるイベントを開いてみよう!」というだけの活動になることが多い。

そうは言っても例えば「地域のお年寄りが喜んでくれたんだからいいじゃないか」みたいに反論する人がいるだろう。でも、最初から「地域のお年寄りを喜ばす」ことが目的なら、その目的に沿って活動を設計すべきであり、「地域活性化」みたいな抽象的な題目ではなく、お年寄りは何を喜ぶのか、という具体的なところから出発するべきである。だが、現実には「結果的に」喜んでくれた、というのが成果として捉えられており、そこに手段と目的と成果の齟齬がある。

これは観光振興なんかでも同じである。「地域活性化」の一つとして、観光振興が注目を集めているが、誰のための観光振興なのか、が曖昧であることが多い。というかほとんどそうである。観光で潤うのは、第1に交通(バス会社とか)と宿泊業、第2に飲食業、第3に物産販売業であるが、こうしたメインのステークホルダーが不在のまま、勝手連的な活動として観光振興が取り組まれることが多い。

我が南さつま市の観光協会の場合どうなのかは知らないが、交通と宿泊業の人はあまり中心的な役割を果たしていないように見える。観光振興というのは、結局はこうした業種の利益を伸ばしていくということが目的なので、まずはこうした業種の企業からプロジェクト毎に協賛金の形でお金を集めて、その範囲でちゃんと利益に繋がる活動をしていくのがよい方法であると思う。

だが、これまで観光地でなかったところは、「観光客が増えるとなんか嬉しいよね!」というようなふわっとした目的の下、観光業には直接関係のない人たちが、良くも悪くも利益を度外視してボランティアで活動しがちである。それは一種のロータリークラブのようなものだから、社会貢献活動をやるフレームワークとしては機能するし、別に悪いことはない。でも長い目で見れば、観光は社会貢献活動ではなく商業活動として成立しなければ意味がない。

だから結局は「○○旅館の売り上げを増やす」というような具体的な成果を見据えていなければ、そういう活動はやりたがり屋の人たちの生きがいづくりの場になってしまう。具体的な成果が想定されていないなら、何かをやったことそれ自体が成果になるからだ。でもそれでは、その活動によって誰が喜ぶのだろうか? この活動を横目に見ている地域の宿泊施設は、実は収益の柱がスポーツ合宿で、観光客なんか全然期待していないのかもしれないのだ。せっかくの「観光振興」なのに、それで喜ぶ業界関係者があまりいなかったら、何のためにやっているのかよくわからない。

つまり何かの活動をする時は、「それによって誰が喜ぶのか」が明確でないといけないと私は思う。 別に、「自分が楽しいから」でも全然問題ない。私は実際、「珈琲を飲む会」は自分が楽しいからしている。また、目的が誰か特定の人を喜ばすことだったらそれももちろんいい。でもよくないのは、「地域の人を喜ばす」とか、「観光客を喜ばす」とか、そういう誰かもわからない人を喜ばそうとすることである。それが「地域活性化」という題目のよくないことだ。

こうなると、「地域活性化」は中身のない「大義」になる。そして「大義」は腐敗の温床であり、その活動に協力的でない人を非難するようになる。「こっちは地域活性化のために頑張ってるのに、あの人は全然協力しない」とか。 でもそれは本当にみんなが参加するべき活動なんだろうか? 実際はやりたい人だけがやればいい活動なのではないだろうか?

というより、「地域活性化」のために「みんなが参加するべき活動」なんてものがあるとすれば、それはもはや「地域活性化」でもなんでもない。参加したくもないものに参加させられるとすれば、地域の活力はなおさら失われるはずだからだ。ただでさえ自分の時間がないなかで、抽象的な「地域活性化」とやらにボランティアで参加しろといわれるなら、そんな地域には住んでいたくない。

だから「やりたい人がやればよい」という活動でない限り、「地域活性化」にはならないと私は思う。一方で、活動の中で、地域のみんなが顔を揃えて話し合いをするとか、そういうことは必要だろうし、自治会などの組織で取り組む場合は、なるだけ多くの人を巻き込む工夫も必須である。正直、全員参加が望ましい活動はある。でも「これに参加することは義務だ」となれば、人心が離れていくのも現実である。この種の活動は、このあたりのバランスがすごく難しい。

結局、「地域活性化」なるものが中身のない理念だからこういう難しい事態が生じるのだろう。だから私は「地域活性化」なんてやめた方がいいと思うのだ。それよりも、個人が、自分がやりたい活動を思い切りやる方が本当の地域活性化になるはずだ。自分の趣味にひたすら没頭するのでもいいし、「地域に花を植えたい」というような活動でもやりたい人でやったらいい。それで喜ぶのが、あくまで「自分」あるいは「自分の知っている人」であるならその活動は健全なものだ。

そして、本当の地域活性化とは、そうした「自分がやりたいこと」をやりやすいように、さまざまなことの心理的・社会的・経済的ハードルを下げることであると思う。私が笠沙美術館を借り切ってイベントをしたことで、「自分も笠沙美術館を借り切ってイベントしてみたい」と思う人が出てきたら、イベントの副次的効果として本当に嬉しい。美術館を借り切ることの心理的ハードルが下がったということだからだ。

「地域活性化」に取り組む人の悪い癖は、「みんな地域資源に気づいていない。地域の魅力を分かっていない。やる気がない」といったように、地域が衰退していくことを不特定多数の人の責任に転嫁しがちなことである。でも地域が衰退していくことは人口動態や経済構造で決まることで、「地域の魅力に無頓着な人」の責任は全くない。

というより、私は「地域の魅力」なんか住民に理解されていなくても、住民一人ひとりがめいめいにやりたいことをしている地域の方がよっぽどいいと思う。むしろ、「地域の魅力」などというものは分かっていない方がいいくらいで、「うちの地域はなんもなくてすいません」というくらいの気持ちでいる方が可愛げがある。

「地域活性化」などという「高尚な目的」よりも、個人の生活の幸せを追求する方が、ずっと大事なことである。

2 件のコメント:

  1. 窪さん、まさにおっしゃる通りだと思います。実際、この前のコーヒーを飲む会に参加してみて、私たちもここを借りて今考えているイベントをしてみたい!私たちでも借りられるのでしょうか?という事を聞きました!そういう意味では今回のイベントは他への素晴らしい影響もありましたね!地域活性化といっても漠然としすぎていて、何のためにしているの?って感じが多いような気がしています。個人個人がこの地域で出来る自分の楽しさを追及する事が結果として地域の活性化に繋がれば最高だと思いますね(^O^)/

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    1. イチローさん、コメントありがとうございます! 笠沙美術館を借りてイベントをしたいという方が本当に現れたのは嬉しいですね。ぜひ実現してもらいたいです。「個人個人がこの地域で出来る自分の楽しさを追求すること」それができたら、別に地域活性化に繋がらなくてもとてもよいことだし、もちろん結果的に繋がったらなおよいですよね。いいことづくめだからみんなやりましょう!

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