2019年12月6日金曜日

大浦干拓という大事業——大浦町の人口減少(その2)

(「大浦町とコルビュジェの理想の農村 」からのつづき)

大浦町は、干拓の町である。

国道226号線を加世田から走ってくると、越路浜を過ぎて田園の中を突っ切る真っ直ぐな道路になり、そこの何もない交差点を南に曲がるとこれまた1.6kmもの一直線の道になる。両側は真っ平らの田んぼ。これが大浦町に入る道である。

私にとって大浦町の第一印象は、この、どこまでもまっすぐな、滑走路のような道だった。

大浦にはかつて、勾配1000分の1とも1500分の1ともいう遠浅の干潟「大浦潟」が広がっていた。1メートル下がるのに、1.5kmも進まないといけないという低勾配である。大浦の山間部にはそれほど広い耕地はないから、ここを干拓して広い畑や田んぼに変えれば、非常に生産力をアップすることができる。

そんなことから、藩政時代から大浦潟は干拓事業の対象となり、小さな入り江を利用した10町歩(10ha)程度の干拓事業が散発的に行われていた。そして昭和15年、日中戦争による食糧難の中、遂にこの広大な湾内の潟を全て田んぼに変えてしまおうという大事業が立案される。

当時、国は食糧増産のため「農地開発営団」を設置して農地の開拓を進めようとしていた。大浦干拓の事業はこの機運に乗り、農林省に直談判して国の事業として認められる。そして昭和18年、農地開発営団の事業として大浦潟の干拓が起工された。

「国の事業」といっても、太平洋戦争がたけなわになった頃であり、国の予算も潤沢ではなかった。大規模な干拓事業にはたくさんのガソリンが必要になるので農林省としては難色を示し、計画が承認された直後に早くも頓挫しかけたほどだ。しかし当時の唐仁原町長は「私の処はガソリンは要りません。荷車で現場まで運びます」と主張し応諾させたのだった。

ところが戦時中は地元の若い人間は戦争に徴発されて不在が多かったため、結局、青壮年団、青年学校、婦人会、果ては小学生までが奉仕作業に動員されることとなった。

終戦後、農地開発営団は廃止されたが、大浦干拓は農林省直営事業に移管されて続けられた。とはいうものの終戦後のモノも金もない時代、かなりの苦労があった模様である。物資と燃料の不足に悩まされ、作りかけの潮留め(堤防)はたびたび台風で破壊された。モッコを担いで土を運んだ、というような話を私自身も聞いた事がある。集落ごとに「特別労務班」が編成されて仕事にあたったという。

こうして昭和22年、大浦干拓第一工区の潮留めが完成。これが冒頭に触れた滑走路のような直線道路があるところ、概ね国道226号線の南側の地区である(正確には現在「恋島コンクリート」があるところより南側の区域)。潮留めが完成してからは、砂浜だったところを畑にしていく困難が待っていた。最初のうちは作物がうまく育たず、干拓地ができてからも苦労は続いたのである。

さらに昭和25年からは、その北側にあたる大浦干拓第二工区が起工し、昭和34年に完成。こうして第一工区174.5ha、第二工区161.8ha、合計336haもの大干拓が完成したのである(その後干拓地内の田畑の造成工事が行われ、完工したのは昭和40年)。

鹿児島県内で干拓というと出水干拓が有名で、昭和22年から40年という大浦干拓とほぼ同時期に同じく農林省直轄事業として造成されているが、西工区(90ha)、東工区(230ha)合わせて約320haであり、大浦干拓の規模には僅かに及ばない。出水干拓は江戸時代から行われた干拓地の集成であるため全体では1500haにもなるが、一事業としては大浦干拓の336haは鹿児島県では最大の干拓事業だった。

この大干拓の完成によって、大浦は「乳と蜜の流れる地」になるはずだった。戦前戦後の厳しい時代、奉仕作業でモッコを担いで土を運んだ人達も、「子どもたちには美味しいお米をお腹いっぱい食べさせたい」という一念だったという。そういう作業の合間に歌われたのに「大浦干拓の唄」(関 信義作詞)がある。その4番の歌詞はこういうものだ。

広い砂浜 大浦潟の
 工事 竣功(おわり)の暁にゃ
黄金(こがね)花咲く 五穀が稔る
 大浦干拓 平和の源泉(もと)よ

戦前までの大浦は、「走り新茶」という特産品はあったものの耕地が狭いため農業の規模が小さく、また人口が多かったので貧困に苦しんでいた。人々は、大浦の将来の発展を干拓に託したのだった。

それは、成功したように見えた。広大な干拓地には、次々と地元の人間が入植した。それまでは3反(30a)あれば平均的な農家だったのに、干拓地ではその規模が10倍にもなった。大浦の山間部では田んぼ1枚は5aもないところが多かったが、干拓では田んぼ1枚が1ha(=100a)あった。

アメリカやヨーロッパのような、大規模農業が大浦で取り組まれた。こうした広い面積を相手にするには、どうしても機械化が必要である。牛で耕しているわけにはいかない。人々は耕耘機を使うようになった。今では1haもある田んぼを(トラクターではなく)耕耘機で耕すのは気が遠くなるが、当時としては画期的だった。

まさに今、農水省が進めている「大規模化・省力化」の農業が、50年も前にこの大浦町で先進的に行われるようになったのである。

近隣の町の農家は、広大な大浦干拓を羨ましく見ていた。山間の狭小な田んぼを牛で耕すのとは効率が全く違ったからだ。一直線の道と整然と区画された田んぼは、コルビュジェが考えていたような合理的な町と村、そして新しい時代の理想の農業を象徴していた。

だが大浦干拓が完成したその時、既に大浦の人口減少は始まっており、その後も歯止めはきかなかった。もちろんその後の人口減少には高度経済成長という背景もあった。農業よりも製造業が花形産業になっていったからだ。でもそれは県内の他の農村でも同じだった。

だから理想の農村となったはずの大浦町が、鹿児島県内1位の高齢化自治体になっていったのは奇異とせざるを得ない。

発展が約束された土地を、なぜ人々は離れていったのか。

(つづく)

【参考文献】
『大浦町郷土誌』1995年、大浦町郷土誌編纂委員会

2019年11月13日水曜日

永留さんのこと

11月7日、友人の永留純一さんが亡くなった。

永留さんには、来る11月22−23日に開催する「石蔵アカデミアwith Tech Garden Salon」というイベントで、「歩けば増える、好きな建物・まち並み」という演題で講演をお願いしていた。だが、その講演は永遠に聞けなくなった。

【参考】11月22日−23日、出張版石蔵ブックカフェで石蔵アカデミア4回やります!|“石蔵アカデミア with Tech Garden Salon”
https://so1ch1ro.wixsite.com/ishigura-bookcafe/post/11月22日-23日、出張版石蔵ブックカフェで石蔵アカデミア4回やります!

永留 純一 (LEAP編集部)
「歩けば増える、好きな建物・まち並み」
誰に会う用事も無く、一人でまちを歩く時間が大好きです。自宅や会社の近くでも、有名な観光地でも、予備知識なしに初めて訪れる有名ではないまちでも。ちょっとしたコツは、お笑いのセンスのようなもの。まちや通りの何気ない建物や看板などが、今日もあなたからの「ツッコミ」を待っています。

そもそも、このイベントの最初の構想を抱いたときから、講演をお願いする人のリストの筆頭にあったのが永留さんだ。

永留さんは、街なかの気になる建築の写真をよくFacebookに載せていた。取り上げられているのは、決して立派な、オシャレな、意匠を凝らした建築ではない。むしろまち並みに埋もれた、地味で、こぢんまりした建物が多かった。でもその建物は、どこか普通の建物とは違う面影があるのだ。なんだか変わったリズムで窓がついていたり、昭和のタイル張りがやたらと自己主張していり、変な方向に傾(かし)いでいたり…。永留さんは、設計した人、住んでいる人の、平凡な中に潜んだ「こだわり」や人間性が、チラっと表れたような、そんな建物の面影を切り取っていた。

私は、そういう永留さんの建築センスが大好きだった。

そこには、まち並みの中に生きる建築と、それを作った人、利用している人への温かい眼差しがあった。でもそこにちょっとしたツッコミをくわえて、クスっと笑っている感じが永留流の建築観賞術なのだ。

私は、この永留流の建築観賞術を多くの人に知ってもらいたかった。平凡なまち並みが、こんなにも面白い鑑賞対象になりうるということを、教えて欲しかった。

永留さんに講演をお願いしたのはそれだけではない。永留さんはそうした見方の背景となる理論的な部分もしっかりしていた。大学時代の話は伺ったことがないが、大阪芸術大学の大学院まで出られていたようである。その上、建設現場の仕事にも(かなり泥臭い部分の仕事にも)携わった経験があるそうだ。永留さんは、建築理論から建物を作る職人さんたちに至るまでの幅広い視野を持っていた。しかも永留さんは、建築のことばかりでなく、様々なことに好奇心を持ち、貪欲に学ぶ人だった。しばしば、意外なところで永留さんから教えられることがあった。

でも、永留さんとは、実は腰を据えて話をしたことがなかった。だから、私が永留さんに講演をお願いしたのは、その建築観賞術をみんなに知って欲しいというだけでなく、他ならぬ私自身が、永留さんの話をじっくり聞いてみたかったのだ。

ところが講演をお願いした時に、永留さんは条件を出した。もしかしたら、突然講演ができなくなるかもしれない、と。

なぜなら、末期の肺がんに冒されているから——。

これが今年の6月のこと。当時のメールを見返してみると、永留さんからは「生きていたらよろしくお願いします!」と書いてある。生きるか死ぬかの瀬戸際で、永留さんは講演をOKしてくれた。私は「当日ドタキャンでも構いません」と答えた。この際、そんなことはどうでもよくなった。

永留さんは、あまり人前に出て話をするタイプの人ではなかった。今まで、鹿児島国際大学でジェフリー・アイリッシュさんに呼ばれてヒトコマ講義を受け持ったのと、砂田光紀さんに呼ばれて串木野の留学生記念館で話したことがあったくらいだったようだ。だから永留さんは、自分なりの建築観について一度話したいという希望を持っていたみたいだ。「話したいことというか、まとめたいことは色々とあります」と永留さんは語った。そしてそれだけでなく闘病の励みとして、講演があるなら少なくとも11月まで生きないと!という気持ちになるんだと言ってくれた。

当時のメールには「中くらいの未来に人参を下げて、だましだましやっていこうと思います!」とある。

こうして、永留さんに依頼した講演は特別な意味を持つようになった。今回の講演はただの講演じゃない。大げさに言えば、永留さんの建築人生の集大成となるものなのだ。そこまで大それたものじゃなくても、最初にしておそらくは最後の、永留さんの一人舞台なのだ。私は、永留さんの講演を文字起こしして講演録にする計画を立てた。

私と永留さんの仲は、そんなに親しいものだったとはいえない。5年くらいの付き合いしかないし、実は一度もゆっくり二人で話したことはない。でも、いわゆる波長が合う、というか、多くを語らずともスッと言葉が通じる感じがあった。別段示し合わせていないのに、同じイベントで顔を合わせるといった機会も一再ならずあった。ほぼ同世代の、通じ合える友人だと私は思っていた。だから、友人へのプレゼントとして、一世一代の講演録を贈りたかったのである。棺桶の中に入れるプレゼントになるかもしれないとしても。

永留さんは、情報誌『LEAP』の編集部で働いていた。私も永留さんのお陰で、何度か『LEAP』に主催のイベントを取り上げてもらった。2019年11−12月号の『LEAP』でも、来る「石蔵アカデミア」を取り上げてくれた。こんな記事だ。

11月22日「石蔵アカデミア」に 建築に関する講座が登場 
南さつま市万世『丁子屋』で、石蔵アカデミアという講座が行われている。11月後半は出張版として、会場を南九州市市民交流センターひまわり館に移して、2日にわたり4種の講座が開かれる。建築ファン向けには11月22日午後からの「歩けば増える、好きな建物・まちなみ」。講師は筆者が務める。また、ほか3講座は各ジャンルの一流講師ぞろいなので、建物好きでなくとも文化の秋を感じてみて。

これは『LEAP』で永留さんが担当していた「建物ルーペ、まちのツボ」というコーナーでの紹介なのだが、「講師は筆者が務める」と書きながらその名前がどこにも書いていないのが、いかにも控えめな永留さんらしい。

この調整をしたのが9月の末。詳しいことは分からないが、この頃、永留さんは入院しながらできる範囲で仕事を続けていたのではないかと思う。講演まであと2ヶ月弱の時である。仕事を続けられているくらいなら、講演もなんとかできそうだ、と私は思っていた。いや、永留さん自身も、「講師は筆者が務める」と自分で書いているくらいだから、少なくとも8割方は講演可能だと思っていただろう。

だが、病魔は非情であった。それから約1ヶ月で、永留さんは帰らぬ人となった。享年45歳。早すぎる旅立ちだった。

永留さんは、鹿児島の文化を支える人の一人だった。永留さんは鹿児島の近現代建築を公開するイベントである「オープンハウス カゴシマ」の開催にも携わっていたが、このイベントにもその力が大きく与っていたのではないかと思う。決して表に出て華々しく活動するような人ではなかったけれど、欠くべからざる1ピースのような人が永留さんだった。

【参考】オープンハウス カゴシマ
http://openhousekagoshima.org/ 

私は永留さんの、少しはにかんだような、優しい笑顔が大好きだった。

お通夜でその永留さんと対面した。そこには壮絶な闘病の跡があった。こんな時期に講演をお願いするなんていうことは、本当はやらない方がよかったのかもしれない。少なくともご家族の方には、ご心配をかけたと思う。永留さん自身は「闘病の励み」とは言っていたが、心理的には負担だっただろう。正直、申し訳なかったと思う。

でも私は、この講演があったことで、永留さんの最後の半年が未来へ進むものになったんじゃないかと信じたい。それには価値があったんだと。

今はとても、「謹んでご冥福をお祈りします」なんて型どおりの言葉は出てこない。これを書き終えたら、永留さんとの思い出が過去のことになってしまうようで、書き終えるのが辛い気さえする。

お通夜から帰ってきたら、顎のあたりがズキズキと痛くなっていた。帰りの車中、ずっと歯を強く食いしばっていたのだ。

今も、これを書きながら涙が止まらない。

2019年8月10日土曜日

大浦町とコルビュジェの理想の農村——大浦町の人口減少(その1)

ここに、農村の地域計画の理想図がある。巨匠ル・コルビュジェが構想したものだ。

この農村のどこが理想的なのかというと、図の左端「1 国道または県道」が農村の中心部から遠く隔たっている、ということだ。

コルビュジェは、建築家としてのキャリアをスタートさせた当初から交通の問題を重視していたらしい。効率的な経済活動のためにはスムーズな交通が必要なのに、街の中心部には人家が密集するため交通が麻痺しがちだという矛盾をどう解消するか、また自動車が増えてくるにつれ、人々が安全かつ気持ちよく散歩することはできなくなる、というような問題意識から、コルビュジェは道路を役割ごとに分ける構想を抱いた。

といっても話は簡単で、高速交通を担う幹線道路、生活道路、歩道などを別々の道として通し、特に街の中心部を幹線道路が突っ切らないようにする、という都市計画を提案したのである。

日本だけでなくヨーロッパでも、街や村は街道沿いに栄えるものである。街道は街の中心であり、購買や人々の交流が盛んに行われていた。しかし自動車時代になると、古くからの街道は国道や県道としてたくさんの自動車が行き交うようになった。こうなると、街は中心を突っ切る幹線道路によって分断され、最も中心となるべき場所の活気が失われてしまう。

…とコルビュジェは考えたが、日本の現状からするとその考えはそっくり鵜呑みにするわけにはいかない。地方都市に行くと、ショッピングセンターやレストランや文化ホールがあるのはやはり国道沿いであって、そこはやはり活気の中心だからだ。

しかし同時に、自動車移動が中心の地方都市においては、その最も活気があるはずの区画に、ほとんど人が歩いていないということは、コルビュジェの危惧が全くの杞憂ではなかったことを示しているのである。

ところで、初めてこのコルビュジェの理想図を見た時、驚いた。というのは、この理想図が、私の住む大浦町の様子とソックリだったからなのだ。

Googleマップで見てみてもわかりづらいから、ちょっと簡単な図を書いてみたが、大浦町の様子はこのようになっている。

北の方に国道226号線が通っていて、街の中心はそこから奥まったところにあるのがポイントだ。これがまさにコルビュジェの理想図の通りなのである。

さらにそれだけでなく、農協や農産物の集荷施設、郵便局や学校の位置関係なども、あの理想図にかなり似通っている。まあこれらの施設の配置はどこの街も似たようなものだから措くとしても、かなりの程度、大浦町がコルビュジェの理想図を現実化した街だということは言えるだろう。

コルビュジェは、あの理想図を実際の街を観察した結果として描いたのではなくて、理論的に導き出した。ところが大浦町は図らずしてその理想を現実化していた。大浦町は、コルビュジェの構想の妥当性を検証する材料のひとつだと言える。

では大浦町は理想の農村と言えるのか? 答えはノーだろう。ここは昭和30年代から既に過疎化が進行し、全国で最も早く高齢化が進んだ地域のひとつである。例えば昭和60年の国勢調査では、鹿児島県の高齢化率(老年人口比率)が14.2%で全国3位であったが、その中でも大浦町は28.8%と鹿児島県全体の2倍もの比率(!)であり、県内第1位の高齢化自治体だったのである。

この頃は少子化ということは関係なかった時代で、この高齢化率の高さは人口流出のもたらしたものだ。この背景には大浦町の貧しさがあった。当時(昭和62年)の町民所得は全国平均のほぼ50%に過ぎない年収100万円ほどで、全国有数の貧乏自治体だった。それであるからどんどん若者は都市部へ出て行き、昭和30年に約7500人いた人口が昭和60年には約半分の約3800人に減少した。貧乏で、人がどんどん去っていった地域、それが大浦町だった。それが理想の農村とは、とても呼べないだろう。

コルビュジェの理想を現実化していた街は、コルビュジェが考えていた通りには発展せず、むしろ衰退していった。だが正確を期するなら、ここでひとつ付け加えなければならないことがある。実は元来、大浦町の国道は現在のように街の中心部から離れて通っていなかった。昔は普通の街と同じように、幹線道路が街の中心部を通っていたのである。

後に国道となる幹線道路が遠ざかっていったのは、戦前戦後を通じて推し進められた干拓事業によってであった。図では斜線で示したのが干拓地で、当然ここは元々は海だった。元来の幹線道路は海沿いを走る道で、その道沿いに大浦町の中心部もあった。ところが干拓事業によって海岸線が遠ざかり、それに応じる形で幹線道路も海沿いを走るように路線変更された。こうしてコルビュジェの理想図の通りの街が出来上がったのである。大体昭和40年代の頃と思われる。

大浦町は、コルビュジェの理想の農村となったにも関わらず、その後もどんどん衰退していった。東京や大阪に住む人からしてみれば、こんな日本の端っこの交通の便の悪いところが衰退するのはごく自然なことと思うだろう。でも実際は、大浦町はさほど山深い村ではなく、むしろ地形的には開けた方だし、近場の地方都市(加世田)への距離もそれほど遠くない。むしろ利便性のよい農村なのである。

先日南大隅町(大隅半島の南の端っこ)に行ったのだが、ここは非常に山深く、地形も険しいところで、さらに市街地からの距離もかなり遠い。正直「よくこんなところに人が住んでいるなあ!」と思ったくらいだった。でも昭和60年の時点では、大浦町はここよりもさらに高齢化した地域だったのである。

コルビュジェの理想の農村を具現化した街であり、さらに利便性もよい開けた場所であったにもかかわらず、なぜ大浦町は全国に先駆けて高齢化していったのか。

少し考えてみたい。

(つづく)

【参考文献】
『人間の家』ル・コルビュジエ、F・ド・ピエールフウ共著、西澤 信彌 訳
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2016/08/f.html
ル・コルビュジエとド・ピエールフウによる、住みよい家をつくるための都市計画提案の書
過疎化と高齢者の生活—老年人口比率33.1%の鹿児島県大浦町—」1990年、染谷俶子

2019年7月26日金曜日

「プレゼン」への杞憂

最近、「プレゼン」が表現方法として浸透してきた。

ここでいう「プレゼン」とは、多くの場合プロジェクタでスライドを使いながら聴衆に向かって話す、あれである。元々の「プレゼンテーション」はもっと広い概念で、「人に主張を理解してもらうための弁論」というくらいのものだと思うが、とりあえずここでは狭い意味で使う。

プレゼン的なものはずっと前から重要だったが、最近PCスキルが普遍化してきたことやプロジェクタがかなり普及したことで、スライドを使うプレゼンが一般化し、また上手なプレゼンが多くなってきた。

もちろんこれはいいことだ。スライドを見ながら説明すれば複雑なことでもわかりやすく伝えられるし、いろんな情報を盛り込める。弁舌だけで人を熱中させるのは難しいが、写真や図や動画を一緒に使えば話はずっと生き生きする。 私は前から選挙演説を「プレゼン化」して欲しいと思っていて、あれこそプロジェクタを使って図やグラフを用いてやるべきだと思う。

ちょっと前(といってももう数年も前か)、サンデル先生の政治哲学の授業が流行ったことがあったが、あれもプレゼン的な授業だった。サンデル先生はそれほどスライドを使わなかったけれど、黒板ではなくてスライドをメインにして授業をするというのが大学の講義として新しかったと思う(あくまでも当時の日本の常識から見て)。その後TEDが世界中の優れた人たちのとびきりのプレゼンを配信するようになり、日本でもどんどんプレゼンの技術は高まっていった。

プレゼンには、人にうまく考えを伝えるためのノウハウがいっぱいあって、素晴らしいプレゼンは人を昂揚させ、楽しませ、感動させ、インスピレーションを与える。そういうプレゼンが出来る人は、ビジネスでも社会活動でも重宝される。私もプレゼンがもっとうまくなりたいと常々思っている。

が…、何かこの、「これからの社会にはプレゼン能力は必須!」とでも言わんばかりの雰囲気には違和感がある。

いや、上手なプレゼンはいいものだと思っている。問題は、それを聞く聴衆の姿勢の方である。

というのは、うまい話をするよりも、人の話を聞く方がずっと大事なことだと私は思っているからだ。そして、本当に大事なことは、ほとんどの場合、端正なプレゼンによって表明されるのではなく、遠慮がちに、ささやくような声で、むしろ呻きに似た形でしか表に出されないという現実があるからだ。いや、それどころか、人々の心の中にある一番大事な主張は、ずっと胸の奥にしまったままで、一生に一度も外に出されることはない、ということだってよくあることなのである。

そんな馬鹿な! と人は言うかもしれない。「言わなきゃわかんないだろ!」と。黙っていたら誰にも相手されないのだから。しかしそういう人達は、まさにそれが一番大事な主張だからこそ、それが非難され、黙殺され、蹂躙され、なかったことにされるのが怖ろしくて、黙っていたのである。

例えば、「私を一人の”人間”として扱ってほしい」といったような主張がそれだ。これまで人間並みに扱われなかった多くの人々——奴隷、女性、被差別階級といったような——は、そういうたった一つの重要な主張を、一生なしえないでいた。

それは過去の話ではある。でもこれは、現代でもそっくりそのまま当てはまるのだ。確かに奴隷はおおっぴらには存在しない。男女平等の世の中になった。少なくとも名目上は差別は撤廃された。それはそうである。しかし最も儲かる商売が「人を搾取すること」である以上、人を人間以下に貶めることで成り立つ社会構造は温存されているのである。

また、個人の内面の話だって、大事なことほど打ち明けられないのは誰しも経験があることだろう。誰にも理解してもらえない悩みや苦しみを抱えながら、表面的にはにこやかに、幸せそうに暮らしている人を私は何人も知っている。本当は、誰かに分かって欲しいと心の底で願いながら。

そういう人達の一番大事な主張は 、これからも端正なプレゼンで表明されることはないだろう。もちろん例外はあった。キング牧師の「私には夢がある」の演説はそのひとつだ。だがキング牧師の前に、「私を一人の”人間”として扱ってほしい」と主張して撲殺された人達がたくさんいたことを忘れてはならない。その死屍累々があったから、キング牧師が演説できたのである。人として当然の主張を行うにも「名演説」を必要としたのだ、ということは心に留めておかなくてはならない。

話がプレゼンから逸れたようだが、私には何か、プレゼンみたいにわかりやすい、人を魅了する、面白くてためになる、そんな話に慣れてしまうと、人間にとって本当に必要な、虐げられた人々の幽かな声を聞くための力、言葉を奪われた人々の言葉にならない声を聞く力が失われてしまうような、そんな気がして怖ろしいのである。

それは私の杞憂かもしれない。プレゼンは多くの社会的課題に目を向けさせ、貧困や環境問題の克服のためのアイデアを広めている。志も能力も高い人たちが、そのアイデアを世の中に広めるために、今日も聴衆を前に心を摑むプレゼンを行っている。プレゼンは目を背けたい現実を直視させるための手法にもなっている。

もちろん素晴らしいプレゼンを聞いても、その場で「へー!」と思うだけで何も変わらない人もいるだろう。でも聞かないよりはマシである。素晴らしいプレゼンのお陰で、世界は少しずつ良くなっていくと私は信じたい。

でも「これからの社会にはプレゼン能力は必須!」と考えて、なんであれ主張を行うには多くの人の共感を得られるようにスマートにまとめなくてはならない、という風潮になっていくとしたら問題だ。今はまだ、そこまではないとしても。

私たちは、時にはたどたどしい主張にも耳を傾けるべきである。いや、そういうものこそ、意識して聞かなくてはならない。まさか「プレゼンがヘタだ」ということで、主張そのものに聞く価値がないと判断するような社会にしてはいけないと思う。

2019年6月18日火曜日

飲み物の地産地消

資源ゴミ回収のたびに思うことがある。

南さつま市の資源ゴミ回収日は月1回。公民館に集まって、集落で協力してゴミを集める。

一ヶ月に1回しかないからかなりの量になるが、中でも分量が多いのがプラスチックゴミ、それからペットボトルと缶——つまり飲み物に付随するゴミだ。

だから思うのである。「私たちはこれだけの飲み物を、地域外からわざわざ買ってるんだよなあ」 と。

鹿児島は、地産地消の観点からみたらかなり恵まれた土地だ。食糧自給率は200%以上ある。肉や魚はほとんど地元で生産されたものばかり。野菜も夏の暑い時期を除いてほとんどは地元産である。

私自身は、農家として「地元で消費しないで大都市圏で高く売って欲しい」と思うこともあるが、わざわざ他所から買ってきて消費するよりは地元にあるものを消費した方が安上がりなだけでなく、資金の流出を防げるのだから合理的である。鹿児島県はただでさえ所得の低い土地柄なので、食べものに貴重な「外貨」を使ってはもったいない。

しかし、飲み物はどうか。鹿児島は焼酎と茶という非常に地産地消的な飲み物があるので、他の地域よりは飲み物も地産地消している割合は高いかもしれない。でも資源ゴミとして回収するペットボトルや缶を見ていると、ほとんどは地域外で生産された、大手飲料メーカーが作ったものばかりだ。

コーラやスポーツドリンク、缶コーヒー、ペットボトルのお茶、そしてもちろんビールや発泡酒、チューハイなどのお酒類。どれもこれも、大手飲料メーカーが作ったものばかりである。こうしたものは「規模の経済」(たくさん作れば作るほど安くつくれて儲かる)がきくので、肉や野菜のような食品よりもずっと大企業に支配されがちである。

もちろん、だからといって「われわれのお金が飲み物を通じて大企業に吸い上げられていく!」と憤る必要はない。なぜなら、こうした飲み物の売価のかなりの部分は流通コストだから、地元のトラック運転手なんかの雇用を生んでいるのである。それに仮にローカルな企業の製品しかなければ、それは割高なものになる可能性が高い。

しかし、地産地消が盛んな鹿児島県なのだから、「飲み物の地産地消」だってもっと進めても良い。大企業の製品を買う代わりに地元産のものを買えば、そのお金は地域内で循環できるのだ。

ところで、「南薩の田舎暮らし」では、このたび「南高梅とりんご酢のシロップ」をインターネットで発売開始した。炭酸や水で5倍〜6倍に割って飲む「ドリンクのもと」である。既に数年販売している「ジンジャーエールシロップ」の姉妹商品だ。

南高梅は同じ集落出身の梅農家から仕入れたもので、夏の暑いときに水で割って飲むとなんとも爽やかで美味しい飲み物になる。ちなみにインターネットでの販売は今年からだが、製品自体は2年くらい前から製造している(地元のみで販売)。

こんな小さな小さな商品で「飲み物の地産地消」を進めたいなんて大それたことは言えないが、私はもうちょっとこういうドリンク系の商品を増やしていけたらなあと思っている。そんなわけで、よろしくお願いいたします!



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200ml入りで850円(税込み)です。

2019年6月3日月曜日

薩摩藩の謎な馬生産「牧」を考える企画展

現在「歴史交流館金峰」で開催中の企画展「伊作牧~金峰山に守られた牧場~」を見て来た。

伊作牧(いざくまき)とは、金峰町から吹上町にかけてあった馬の放牧地である。企画展を見ていろいろ学びもあったし、新たに疑問点も出てきたので備忘を兼ねてちょっと書いておきたい。

薩摩・大隅は古代から馬の産地として知られ、戦国時代には馬の生産が盛んになったが、江戸時代になって軍馬の需要がなくなっても依然として馬の生産を続けた。歴代藩主は馬の生産に関心を示し、特に島津重豪と斉彬は品種改良や組織的生産方法の向上を目指したらしい。

ここで一つの疑問は、軍馬の需要がないのになぜ薩摩では(大隅にも牧はあったが薩摩の方が中心)盛んに馬の生産を行ったのか、ということである。時代劇等では武士が馬に乗っているので、「馬に乗るために育ててたんでしょ?」と思うかもしれないがそうではない。

というのは、実は江戸時代、多くの武士は騎馬することができず、乗馬する場合も馬はほとんど従者によって引き連れられゆっくり歩くだけであって、疾駆することは武士の威厳を損なうとすら考えられたフシがある。そもそも日本古来の馬具—鐙(あぶみ)とか轡(くつわ)—は優美ではあったが非実用的・非効率的であり、自由自在に騎馬するには向いていない。さらに重要なことは、日本の馬は去勢されていなかったうえにろくに調教されていなかったから、牡馬(オス)は性質が獰猛で人の言うことを余り聞かなかったということである。もちろん軍馬が重要な役割を果たした戦国時代では、馬は縦横無尽に乗りこなされていたのだろうし、相応の調教法が存在したのであろう。しかし泰平の世の中では騎馬は本質的に不要であり、騎馬や調教の技術は失われてしまい、馬を引き連れることは上級の武士のファッションにすぎなくなっていた。

にもかかわらず、薩摩では馬の生産が続けられていた。何のために? それがわからないのである。上級武士の見せびらかしとして馬が存在していたにしても、藩営で20もの放牧地を設け組織的に馬を生産していたところを見ると、薩摩藩では馬にそれ以上の価値を見ていたことは確実だろう。

ところが、その生産方法というのは全くお粗末なものだったのである。薩摩の牧というのは、簡単に言えば馬の自然放牧地のことだ。牧を管理する役人はいるが、基本的に馬を世話することはせず、交配・ 繁殖・成長は全て自然に任される。牧とは、単に馬が逃げないように半孤立の地域を設けるという意味なだけで、そこで馬の人為的生産・調教が行われるわけではないのである。

ただし付け加えておかなければならないのは、かなり手間を掛けて馬を生産した東北地方などであっても、近代的な意味での育種は行われなかった。東北では曲り家(まがりや)といって、母屋と厩(うまや)が繋がった建物で丁寧に馬を育てたが、それにしても去勢は全く行われず、人工的育種(優れた血統同士を人為的に交配させること)が積極的に行われた形跡はないようだ。なお、西洋では古代から去勢や育種の原理は知られており、家畜の基本的な飼養法となっていたことが日本とは趣を異にしていた。

さて、薩摩藩の牧では、去勢も人工交配もされない馬の集団がのびのびと原野を駆け回っていたのだが、要するにこの馬は家畜ではなくて紛れもなく野生馬だったのである。

この野生馬をひっつかまえて家畜馬にする行事が「馬追い」である。これは、牧の一端から一列にならんだ武士たちがローラー作戦で馬を寄せていき、最終的にはオロ(苙)という直径10mくらいの円形の土手の中へ追い詰めるものだ。二才馬(にせうま)という若い目的の馬を定めたら、オロの中をぐるぐる疾駆する馬に、数人がかりで土手の上から飛びついて捕獲し、轡をつけて出荷(藩に献上)する、というのが作業の流れである。

ちょっと変わっているのは、この「馬追い」に参加する武士たちの格好である。ふんどしいっちょにワラの腰簑をつけ、上半身は裸で赤いタスキのようなものをつける、というなんとも防御力の低い格好なのだ。しかも草鞋すら履かず裸足だった模様である。山野を疾駆するのに裸足では随分辛かっただろうし、この格好で最終的には野生馬に突撃するのだから命知らずもいいところである。

これは、道具もなにもなく裸同然の徒手空拳で野生馬を捕まえる危険きわまりない仕事であり、また非効率的な仕事でもあった。ローラー作戦で馬を追い詰めるので「馬追い」には数百人の人手が必要な上、しかも実際に捕獲できるのは一回に数頭でしかなかった。牧には数百等の馬の群れが棲息していたにもかかわらずである。

どうしてこのような非効率的な捕獲方法をとっていたのかも謎である。展示では、見世物・遊興的な側面が大きかったのではないかとされていた。確かに、この危険で派手な仕事は見応えがあったらしく、見物人が大勢訪れ、たびたび禁じられたものの懲りずにテキ屋的なものが出店していたらしい。「馬追い」はエンターテインメントであった。

ところがエンタメとして考えられないのが、同じ南さつま市の笠沙の野間半島にあった「野間牧」だ。江戸時代には野間半島は本土と砂州で隔てた島であり、そのため馬が逃げる心配がなく、牧が設けられたのである。この野間牧でも「馬追い」が行われたが、この頃の野間半島には道らしい道はなく、片浦から船で行く必要があり、「馬追い」に見物人が大勢来ることは考えられない。こちらではエンタメではありえなかったと思う。それでも非効率的な馬の生産が行われ、危険な「馬追い」をやっていたのはなぜだったのか…?

それを解く鍵、かどうかはわからないが、引っかかるのは「馬追い」の時の半裸の格好だ。ちなみにこの時は髷も解いたらしい。馬をつまかえるにしてはみすぼらしすぎるこの格好に、「馬追い」の源流へのヒントがあるような気がする。効率的に馬を捕まえようとしたらありえない格好で行われるのは、馬を捕まえる以外の目的が元来あったような気がしてならない。

ともかく鹿児島ではこのように目的の不明な馬の生産が江戸時代を通して行われ、しかもわざわざ危険で非効率的な捕獲方法を採用していた。さらにそうして生産した馬は野生馬であり、去勢も施されず調教も不十分であったと推測されるため、有用であったか怪しいのである。何のためにこのようなことをやっていたのか本当によくわからない。

さらに展示を見て思ったことをいくつか。

牧には、牧神(まきがみ、マッガンサァと呼ばれる)が祀られるが、これは巨石であることが多い。伊作牧でもそうだし、吉野牧も巨石だ。牧神はなぜ巨石なのか。巨石でない祠式のものもあるから絶対ではないが、巨石と牧・馬との関係はいかに。

そして薩摩藩では、馬はどのくらいの価格で売買されたのか。藩営の牧では、馬追いで捕獲した馬は藩に献上(というより元々藩の所有物)されたが、捕獲したもののうちあまりよくない馬は百姓などに払い下げられたという。どのくらいの価格だったのかがわかれば、この粗放生産の理由がわかるかもしれない。また、薩摩藩の馬に関する法令も気になる所である。馬は藩の専売ではなかったとは思うが、法令上どのような規制がかかっていたか。

最後に、武士でなく百姓の世界での馬の生産・流通がどうであったのかということ。先述の通り牧の馬は百姓にも払い下げられたのであるが、百姓が運搬に使っていた馬も全てが牧出身であったとは考えられない。というのは、馬は去勢されていなかったから家畜馬も子どもを産んだに違いないからである。全国的にはそうした牛馬は馬喰(ばくろう)という人たちによって取引され、そうした人たちの宿場(馬喰宿)も設けられていた。そもそも野生馬を捕まえて調教するよりも、生まれた時から人の手で育てる方が調教は容易で有用な家畜にすることができるのは間違いない。家畜馬の子どもの方がずっと需要は大きかっただろう。百姓の場合見せびらかしで馬を使うのではなくて、現実的な運搬の必要性があるのだからなおさら気立ての良い馬が求められただろう。では鹿児島では馬喰はどう活動していたのか? それと牧の関係はどんなものだったのか? 気になることはいろいろである。

長くなったが、今回の展示は小規模なものながら薩摩藩の謎な馬生産を顧みる機会となり、私にとって大変ためになった。展示期間は残り僅かだが、ご関心の方はぜひ観覧をオススメする。またこの場を借りて、展示を担当した学芸員の方にも御礼申しあげます。

【情報】
企画展「伊作牧~金峰山に守られた牧場~」
開催期間:2019年3月16日(土)〜6月16日(日)9:00〜17:00
     ※休館日:月曜日(祝日と重なる日は翌日)
会 場:歴史交流館金峰
入館料:高校生以上300円、小・中学生150円、幼児無料(団体割引あり)
問い合わせ先:歴史交流館金峰 0993−58−4321

2019年5月20日月曜日

「制度の趣旨を逸脱」をめぐる総務省と自治体の「ふるさと納税」合戦

「ふるさと納税」の新基準に合致しない、ということで、鹿児島県では鹿児島市と南さつま市の税制優遇が9月で切られる、との新聞報道があった(全国では43自治体)。

総務省によれば「不適切な寄附集めをしていた」というのだ。南さつま市が不適切とされたのは、返礼率(総務省の用語では「還元率」)は3割以下でないといけないのに、業者に「奨励費」の形でキックバックし、実質返礼率をそれより上乗せしていたから、とされた。

この報道を見て、「ルールを逸脱して寄附をたくさん集めた南さつま市、けしからん!」と思った人もいるかもしれない。

しかし、ちょっと待って欲しい。私も「ふるさと納税」の返礼品を提供している事業者の一員である。内部から見た姿と報道された姿では大きな違いがある。行政からは反論しづらいところだと思うので、微力であるがちょっと思うところを述べてみたいと思う。

そもそも「ふるさと納税」が始まった2008年、今から約10年前には、これは地味な制度だった。寄附額も低調で、さほど注目もされていなかった。だが自治体が返礼品を充実させることにより次第にマーケットが巨大化していく。

「ふるさと納税」は、あくまでも自治体への寄附により税額が控除される制度であって、返礼品はオマケである。

でも、実質的には税学控除分でオマケを購入できることと意味は同じだから、「ふるさと納税」はEC市場(ネットショッピング市場)では、自治体が運営するディスカウントストアというような意味合いになってしまった。

こうして自治体には「ふるさと納税」のディスカウント合戦が湧き起こった。ある自治体などは、「返礼率は100%でもいい! 全部寄付者に還元するんだ!」というような極端なディスカウントをやるところも出てきた。

「寄附額を全額返礼品にまわしたら、自治体の手元にはお金が残らないわけだから、事務の手間がかかる分、損では?」と思う人もいるだろう。しかし自治体が集めたいのはお金ではなかった。「ふるさと納税」をきっかけにしてその地域のことを知ってもらい、ファンになってもらい、そして商品の愛用者になってもらうことが真の目的だったのである。

例えば南さつま市の地元企業は、全国に販路を持っているところは僅かであり、地方的な、地味な商売をしているところが多い。ところが「ふるさと納税」の波に乗れば、別段「ふるさと」を意識していなくても、美味しい肉や魚を安くで手に入れたい人がどんどん注目してくれるわけで、事業者はお金を掛けずにインターネットで全国に広報できるわけだ。そして返礼品を受け取った人の何割かは、今度は「ふるさと納税」と関係なく、その商品を買ってくれるお客さんになってくれるのである。

実際、私もポンカンを「ふるさと納税」の返礼品として出品したが、返礼品を受け取った方が次に普通の注文をくれたということが何件かある。

「ふるさと納税」なんていう制度が長続きするものではない、ということは明らかだから、存続している何年かの間に、地元企業のいくつかが全国にファンをつくり、販路を開き、拡大していくチャンスにできるなら、自治体の手元にさほどお金が残らなくったって、長期的に見れば十分おつりがくるのである。

2015年、2016年にふるさと納税日本一になった都城市は、まさにそういう考えから高い返礼率を設定するとともに、「日本一の肉と焼酎」に特化してアピールを行い、全国的にほぼ無名だった都城を一躍全国が注目する地域へ変えた。例えば2018年度の都城市は95億円もの「ふるさと納税」を集めているが、都城市の返礼率は55%程度と言われているから、地元企業の商品が52億円分売れた、というのと同じことなのだ。地方都市にとって、これはたいした経済効果と言わなければならない。

そしてより重要なことは、仮に「ふるさと納税」の制度が明日終了したとしても、都城市のお肉や焼酎を味わってくれた大勢の人たちは消えてしまうことはない、ということだ。きっとその何割かは、ディスカウント期間が終わったとしてもその商品の愛用者になってくれる。

「ふるさと納税」は、政策立案者が考えてもみなかったこうした効果の方がずっと大きかった。何億円寄付を集めた、ということよりも、オマケだったはずの返礼品によってお金以上の「繋がり」を構築できるかの方が重要になってきた。

ところがこれは表面上、「加熱する返礼品競争」と捉えられた。ディスカウント合戦だとみなされたのである。もちろん、寄附を集めたいがためにそういうエグい競争をした自治体はあった。でも多くの真面目な自治体は、「ふるさと納税」のプラットフォームを使って地元企業をEC市場に参入させ、全国に売り込んでいくためにこの機会を利用したのである。

しかし2017年4月、総務省は「本来の趣旨を逸脱している」として返礼率を3割以下にするよう自治体に通知。これを受けて南さつま市は、2017年9月、正直に返礼率を3割に見直した。

一方で、この通知を無視した自治体も多かった。というのは、通知があっただけで違反の罰則がなく、法的な拘束力がなかったのである。そもそも返礼率3割がなぜ適正かという論理的な根拠もなかった。なぜ返礼率が高いというだけで問題なのか、「競争が過熱している」というが、競争することがなぜ悪いのか、そういう観点は総務省通知には全くなかった。

確かに、「ふるさと納税」は金持ち優遇政策の一つである。金持ちほど得をする制度は、公共の仕組みとしてはあまり褒められたものではない。だがそれをいうなら、太陽光発電の補助金や売電価格保証だってそうだし、エコカー減税だって住宅ローン減税だってそうだ。貧乏人には縁のない、金持ち優遇政策である。なぜ「ふるさと納税」だけが狙い撃ちされなければならないのか、そこは謎だった。

だから多くの自治体が総務省通知を無視して高い返礼率を維持した。そこで馬鹿正直に返礼率を3割に低下させた南さつま市は、大幅な寄附減額に見舞われた。文字通り、正直者が馬鹿を見たのである。

これを受けて、南さつま市では2018年9月、返礼率は3割に維持したままで、「サービス向上費」として業者に15%キックバックする制度を始めた。総務省通知では、あくまでも寄付者への返礼率だけが問題で、自治体が事業者に補助することは何も言っていなかったからである。このようにして南さつま市は、返礼率は3割のままで、実質は寄付者に45%還元する仕組みにした。またこれに合わせて、ふるさとの納税事業者(返礼品を提供する事業者)によって組合(ふるさと納税振興協議会)を作り、より積極的に広報やキャンペーンなどに取り組んでいけるようにした。

ところがこの組合が設立された数日後、総務省は通知が十分な効力を持たなかったのを見て、都城市を名指しで批判し、高額な返礼品を送る自治体を制度から除外する方針を打ち出した。

あわせて10月、返礼率の全国調査が行われた。南さつま市では、別に悪いことはしていないということで、実質45%還元していることを回答。しかし全国で3割を越えたと回答したのはたったの25自治体に留まった。しかし返礼品競争が過熱していたのは事実だ(だから総務省は調査を行った)。多くの自治体では、はっきり言えばチョロマカシによって3割以内だと回答したのである。ここで、堂々と真実を報告した南さつま市を私は誇りに思う。

一方総務省は、多くの自治体が返礼率をチョロマカし、制度の趣旨に逸脱する競争が行われていると見て、2019年6月をもって、ふるさと納税の対象自治体を指定する新制度に移行することとした。南さつま市は上述の通り馬鹿正直に真実を報告していたため、暫定的に2019年9月まではこの指定を受けたが、他の自治体に比べ1年短い指定であった。要するに、6月〜9月の3ヶ月は暫定的に指定してやるから、その3ヶ月の間に返礼率を見直しなさい、というのである。なお、南さつま市は2019年3月に制度を見直し、返礼率を既に3割に低下させているから、おそらく来る9月には再指定を受けることができると思う。

さて、これまでの経過を見てみて、「ふるさと納税」をめぐる総務省の対応は極めてマズかったと言わざるを得ない。

「ふるさと納税」の自治体間競争が過熱したのの、どこに問題があったのか、そこを深く考えず、競争を抑制しようとしたのがいけなかった。そもそも「ふるさと納税」に限らず、政府は自治体間に競争の原理を持ち込もうとしてきたのが最近の流れだった。にも関わらず、実際に自治体間の競争が起きると、「競争が過熱」「制度の趣旨を逸脱している」などといい始めたのである。

そして「制度の趣旨を逸脱している」というのは、そもそもの制度設計が悪いことを自ら露呈しているようなものである。趣旨を逸脱して使える制度、というものがそもそも悪い。総務省は、制度設計が甘かったことを棚に上げて、自分の思うとおり動かない自治体にやきもきしているように見えた。だが10年前、制度の趣旨の通りに運用されていた「ふるさと納税」は寄附額も小さく、地味な目立たない制度だった。それがここまで盛り上がったのは、まさに「制度の趣旨を逸脱」したからであって、逸脱がなければ「ふるさと納税」などほとんどの人が顧みない失敗政策だっただろう。

だいたい、元来は地方の活性化政策だったはずの「ふるさと納税」なのに、実際に自治体が活性化に役立て、総務省の思惑を越えて意義深く活用したら、「制度の趣旨を逸脱している」としてそれに掣肘を加えるというのは、誰のためにやっている政策なのかわからない。「よくぞ我々の思惑を越えて、地方の活性化に役立ててくれました」と褒めてもいいくらいではないのか。総務省は「制度の趣旨」を守らせること自体が目的化しているように見える。

先日、南さつま市役所からふるさと納税事業者向けにお知らせがあった。そこには「再指定に向けても堂々と取組んで参る所存であります、皆様のご協力どうぞよろしくお願い致します」とあった。「堂々と」とわざわざ書いたのが奮っている!

無様なチョロマカシをせず、堂々と「ふるさと納税」に取り組んだ南さつま市は立派だったし、これからも堂々と取り組んで欲しいと思う。

でもチョロマカシをした自治体よりももっと無様だったのは、総務省の方だと思えてならない。