現在「歴史交流館金峰」で開催中の企画展「伊作牧~金峰山に守られた牧場~」を見て来た。
伊作牧(いざくまき)とは、金峰町から吹上町にかけてあった馬の放牧地である。企画展を見ていろいろ学びもあったし、新たに疑問点も出てきたので備忘を兼ねてちょっと書いておきたい。
薩摩・大隅は古代から馬の産地として知られ、戦国時代には馬の生産が盛んになったが、江戸時代になって軍馬の需要がなくなっても依然として馬の生産を続けた。歴代藩主は馬の生産に関心を示し、特に島津重豪と斉彬は品種改良や組織的生産方法の向上を目指したらしい。
ここで一つの疑問は、軍馬の需要がないのになぜ薩摩では(大隅にも牧はあったが薩摩の方が中心)盛んに馬の生産を行ったのか、ということである。時代劇等では武士が馬に乗っているので、「馬に乗るために育ててたんでしょ?」と思うかもしれないがそうではない。
というのは、実は江戸時代、多くの武士は騎馬することができず、乗馬する場合も馬はほとんど従者によって引き連れられゆっくり歩くだけであって、疾駆することは武士の威厳を損なうとすら考えられたフシがある。そもそも日本古来の馬具—鐙(あぶみ)とか轡(くつわ)—は優美ではあったが非実用的・非効率的であり、自由自在に騎馬するには向いていない。さらに重要なことは、日本の馬は去勢されていなかったうえにろくに調教されていなかったから、牡馬(オス)は性質が獰猛で人の言うことを余り聞かなかったということである。もちろん軍馬が重要な役割を果たした戦国時代では、馬は縦横無尽に乗りこなされていたのだろうし、相応の調教法が存在したのであろう。しかし泰平の世の中では騎馬は本質的に不要であり、騎馬や調教の技術は失われてしまい、馬を引き連れることは上級の武士のファッションにすぎなくなっていた。
にもかかわらず、薩摩では馬の生産が続けられていた。何のために? それがわからないのである。上級武士の見せびらかしとして馬が存在していたにしても、藩営で20もの放牧地を設け組織的に馬を生産していたところを見ると、薩摩藩では馬にそれ以上の価値を見ていたことは確実だろう。
ところが、その生産方法というのは全くお粗末なものだったのである。薩摩の牧というのは、簡単に言えば馬の自然放牧地のことだ。牧を管理する役人はいるが、基本的に馬を世話することはせず、交配・ 繁殖・成長は全て自然に任される。牧とは、単に馬が逃げないように半孤立の地域を設けるという意味なだけで、そこで馬の人為的生産・調教が行われるわけではないのである。
ただし付け加えておかなければならないのは、かなり手間を掛けて馬を生産した東北地方などであっても、近代的な意味での育種は行われなかった。東北では曲り家(まがりや)といって、母屋と厩(うまや)が繋がった建物で丁寧に馬を育てたが、それにしても去勢は全く行われず、人工的育種(優れた血統同士を人為的に交配させること)が積極的に行われた形跡はないようだ。なお、西洋では古代から去勢や育種の原理は知られており、家畜の基本的な飼養法となっていたことが日本とは趣を異にしていた。
さて、薩摩藩の牧では、去勢も人工交配もされない馬の集団がのびのびと原野を駆け回っていたのだが、要するにこの馬は家畜ではなくて紛れもなく野生馬だったのである。
この野生馬をひっつかまえて家畜馬にする行事が「馬追い」である。これは、牧の一端から一列にならんだ武士たちがローラー作戦で馬を寄せていき、最終的にはオロ(苙)という直径10mくらいの円形の土手の中へ追い詰めるものだ。二才馬(にせうま)という若い目的の馬を定めたら、オロの中をぐるぐる疾駆する馬に、数人がかりで土手の上から飛びついて捕獲し、轡をつけて出荷(藩に献上)する、というのが作業の流れである。
ちょっと変わっているのは、この「馬追い」に参加する武士たちの格好である。ふんどしいっちょにワラの腰簑をつけ、上半身は裸で赤いタスキのようなものをつける、というなんとも防御力の低い格好なのだ。しかも草鞋すら履かず裸足だった模様である。山野を疾駆するのに裸足では随分辛かっただろうし、この格好で最終的には野生馬に突撃するのだから命知らずもいいところである。
これは、道具もなにもなく裸同然の徒手空拳で野生馬を捕まえる危険きわまりない仕事であり、また非効率的な仕事でもあった。ローラー作戦で馬を追い詰めるので「馬追い」には数百人の人手が必要な上、しかも実際に捕獲できるのは一回に数頭でしかなかった。牧には数百等の馬の群れが棲息していたにもかかわらずである。
どうしてこのような非効率的な捕獲方法をとっていたのかも謎である。展示では、見世物・遊興的な側面が大きかったのではないかとされていた。確かに、この危険で派手な仕事は見応えがあったらしく、見物人が大勢訪れ、たびたび禁じられたものの懲りずにテキ屋的なものが出店していたらしい。「馬追い」はエンターテインメントであった。
ところがエンタメとして考えられないのが、同じ南さつま市の笠沙の野間半島にあった「野間牧」だ。江戸時代には野間半島は本土と砂州で隔てた島であり、そのため馬が逃げる心配がなく、牧が設けられたのである。この野間牧でも「馬追い」が行われたが、この頃の野間半島には道らしい道はなく、片浦から船で行く必要があり、「馬追い」に見物人が大勢来ることは考えられない。こちらではエンタメではありえなかったと思う。それでも非効率的な馬の生産が行われ、危険な「馬追い」をやっていたのはなぜだったのか…?
それを解く鍵、かどうかはわからないが、引っかかるのは「馬追い」の時の半裸の格好だ。ちなみにこの時は髷も解いたらしい。馬をつまかえるにしてはみすぼらしすぎるこの格好に、「馬追い」の源流へのヒントがあるような気がする。効率的に馬を捕まえようとしたらありえない格好で行われるのは、馬を捕まえる以外の目的が元来あったような気がしてならない。
ともかく鹿児島ではこのように目的の不明な馬の生産が江戸時代を通して行われ、しかもわざわざ危険で非効率的な捕獲方法を採用していた。さらにそうして生産した馬は野生馬であり、去勢も施されず調教も不十分であったと推測されるため、有用であったか怪しいのである。何のためにこのようなことをやっていたのか本当によくわからない。
さらに展示を見て思ったことをいくつか。
牧には、牧神(まきがみ、マッガンサァと呼ばれる)が祀られるが、これは巨石であることが多い。伊作牧でもそうだし、吉野牧も巨石だ。牧神はなぜ巨石なのか。巨石でない祠式のものもあるから絶対ではないが、巨石と牧・馬との関係はいかに。
そして薩摩藩では、馬はどのくらいの価格で売買されたのか。藩営の牧では、馬追いで捕獲した馬は藩に献上(というより元々藩の所有物)されたが、捕獲したもののうちあまりよくない馬は百姓などに払い下げられたという。どのくらいの価格だったのかがわかれば、この粗放生産の理由がわかるかもしれない。また、薩摩藩の馬に関する法令も気になる所である。馬は藩の専売ではなかったとは思うが、法令上どのような規制がかかっていたか。
最後に、武士でなく百姓の世界での馬の生産・流通がどうであったのかということ。先述の通り牧の馬は百姓にも払い下げられたのであるが、百姓が運搬に使っていた馬も全てが牧出身であったとは考えられない。というのは、馬は去勢されていなかったから家畜馬も子どもを産んだに違いないからである。全国的にはそうした牛馬は馬喰(ばくろう)という人たちによって取引され、そうした人たちの宿場(馬喰宿)も設けられていた。そもそも野生馬を捕まえて調教するよりも、生まれた時から人の手で育てる方が調教は容易で有用な家畜にすることができるのは間違いない。家畜馬の子どもの方がずっと需要は大きかっただろう。百姓の場合見せびらかしで馬を使うのではなくて、現実的な運搬の必要性があるのだからなおさら気立ての良い馬が求められただろう。では鹿児島では馬喰はどう活動していたのか? それと牧の関係はどんなものだったのか? 気になることはいろいろである。
長くなったが、今回の展示は小規模なものながら薩摩藩の謎な馬生産を顧みる機会となり、私にとって大変ためになった。展示期間は残り僅かだが、ご関心の方はぜひ観覧をオススメする。またこの場を借りて、展示を担当した学芸員の方にも御礼申しあげます。
【情報】
企画展「伊作牧~金峰山に守られた牧場~」
開催期間:2019年3月16日(土)〜6月16日(日)9:00〜17:00
※休館日:月曜日(祝日と重なる日は翌日)
会 場:歴史交流館金峰
入館料:高校生以上300円、小・中学生150円、幼児無料(団体割引あり)
問い合わせ先:歴史交流館金峰 0993−58−4321
昭和30年代後半頃、現在の鹿児島市の南はずれの谷山では馬を引いた荷馬車や馬を引いている人によく出くわしました。また田んぼの土をすいたり耕したりする農耕馬もいました。近くに蹄鉄を作ったり、馬の足に取り付ける鍛冶屋があって物珍しく見学してものです。当時は普通にいる存在だった気がします。脱穀機が機械化して稼働しているのもその時の風物詩でした。農家の友達が乗馬して楽しんでいるのを羨ましく思った記憶がよみがえります。当時はゆったりとした風景で時間もゆっくりと動いていた気がします。蒸気機関車が次第に姿を消してから馬の存在が一気になくなった気がします。六十の手習いで乗馬を始めてみたのですが、馬はいいですね。改めて見回すと流鏑馬や馬踊りが今も続いているのは嬉しい気分になります。上記の薩摩馬に関する記事はとても興味をそそられました。牧や馬追いってなんだったんでしょうね。
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