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2015年12月15日火曜日

「四元もち屋」と謙抑のデザイン

(前回からのつづき)

枕崎の路地裏に、「四元もち屋」という店がある。 この店、鹿児島市からもわざわざ買いに来る人がいるほどの知る人ぞ知る店で、特に一番人気の大福は午前中には売り切れてしまう。この前初めて大福を買いに行ったのだが、昼過ぎに行ったらやはり大福は売り切れていて、その大福を未だに食べられないでいる。しょうがないので二番人気(たぶん)の「かからん団子」(鹿児島の郷土菓子)を買って帰った。

この店の風貌は、今風の経営学とは対極にある。看板らしい看板もなく、知っている人しかその存在に気づかない。失礼な言い方だが薄汚れたような店内、というか店内というほどのスペースもなく、古ぼけたショーケースに「かからん団子」と「唐芋団子」が並んでいるだけ。しかも、値札どころか商品名の表示もなく、それはぶっきらぼうに置かれていて、「展示」されているわけでもない。

この店はおじいさんが一人で切り盛りしているらしい。長々と働いてきたことが一目でわかる、そんなゴツゴツした手をしている老店主である。

「かからん団子を四つ」と注文したら、その手で薄い緑色の紙に団子を4つおもむろに包んでくれた。この包み方がまた素朴でよい。確か4つで250円くらいだったような…。注文して初めて1つ60〜70円であることがわかる。倍くらい買っておけばよかった。

家に帰って食べてみたら、すごく美味しい。よもぎ団子の味が濃厚で、しかも口当たりがやわらかい。子どもたちも手をべたべたにしながら喜んで食べた。だけど「かからん団子」としては奇を衒わないごく普通の美味しさで、他の店では食べられないような、特別な美味というわけではない。では、どうしてこの店はわざわざ遠方からお客が訪れるような店なんだろうか。

一つには、 口コミということがある。「四元もち屋」を検索するとブログの記事がたくさん見つかる。一度評判が確立するとそれによってお客さんが寄ってきて、口コミによってまた新たな顧客を呼び寄せる。だけど内実が伴っていなければ、それも一過性のもので終わるだろう。長く人気を保つには、やはりその店の魅力がちゃんとなければならない。

では「四元もち屋」の魅力はなんだろう。商品の美味しさはもちろんだが、それと同時に、この朴訥な店構えというのが、やはり大きな魅力であるような気がする。大福そのものだけなら、他にも美味しい店がたくさんあるだろう(私はまだここの大福を食べていないので想像だが)。でも、この路地裏で密やかに、朴訥に作られている大福は、それだけで価値があるように思う。ここの店でおもちを買うのは、なんだか特別な感じがするのである。

その「特別な感じ」を、これまでの経営学では真似することができない。「商品のコンセプトを定め、マーケティングを行い、商品のターゲットを明確にして、試作を繰り返し、その上でコンセプトを見直し、それに沿ったパッケージと内容のデザインを行う」という「鹿児島の食とデザイン」のやり方は、教科書的には非の打ち所がないものだが、それではどうやっても「四元もち屋」に到達することはできないのである。というより、そういう教科書的なやり方では到達できないことが直観的に分かるから、「四元もち屋」は特別なのだ。

もちろん、だからといって教科書的なやり方を否定はしない。セオリー通りのやり方ですら満足にできないローカル企業はたくさんある。これからの時代、堅実な経営をしていくためには教科書を紐解くのも必要だ。しかし、「鹿児島の食とデザイン」の元々の発想は、「鹿児島の食品をもっと外(都会)に売っていこう」というところにあるはずだ。その時に、都会には既に溢れている「教科書的に優れた商品」を創り出すことは目的に適っているのか、ということが私の疑問である。

洒落たお土産商品も確かに求められてはいる。でも、そういうものよりもずっと、「四元もち屋」的なるものを都会の人は田舎に求めているものではないだろうか。消費社会の中で「消費」されていく「商品」ではなく、老店主が朴訥とつくる美味だが平凡な食べものの方が、都会の人にとっての贅沢ではないだろうか。そういうものこそ、都会では手に入らないものだからである。

「四元もち屋」は一見貧乏風の鄙びたお店だが、贅沢の発展段階で言う「精神的なもの」に位置するような、最高度の贅沢が味わえる店かもしれない。つまりここのお菓子は、利休が好ましいと思った「柚味噌」的なるものだ。都会の消費者にものを売っていくためには、教科書的に優れている「質的」「外面的」なものよりも、そういう「精神的なもの」までも見据えなくてはならないのではないだろうか。

鹿児島県民はアピール下手だとよく言われる。確かに鹿児島の人は売り込みが得意でない。鹿児島にはステキなものがたくさんあると思うが、そうしたものがほとんど取り上げられることのないまま、対外的には「西郷、焼酎、桜島」だけの県だと思われている。残念なことだ。「鹿児島の食とデザイン」はそういう鹿児島県民に、もう少し「お客様目線」を身につけさせて、鹿児島の食を売り込ませていく取り組みでもあるのだろう。これはこれで必要なことである。

しかし、鹿児島にある最良の部分をよく見てみると、そのアピール下手はむしろ強みなのかもしれないと思えてくる。朴訥で、地味で、声高に訴えないからこそ生まれる価値がそこにある。静かに存在しているという鄙びた店の方が、ずっと都会の人に価値を提供できると思う。別にそれが、侘び茶人たちのように高尚な哲学に基づいて侘びているのでなかったとしてもだ。というより、侘び茶人たちが追い求めた「侘び」は結局は作られた「侘び」でしかなかった。鹿児島の田舎なら、自然体で侘びることが出来る。

今の時代、「アピール」はあふれかえっている。どこもかしこも自画自賛だらけだ。他社の商品と比べて何が優れているか、それをわかりやすく伝えることがデザインの一つの役割かもしれない。そして「お客様」の気を引くためにも、いろいろな工夫が施されている。でも「四元もち屋」の商品はどうだろう。商品開発において最重要項目とされる「商品名」すら掲示されていない。パッケージもない。なぜそれに人は惹かれるのか。

アピールはもうたくさんだ、そういう気持ちがどこかにあるような気がする。消費させられることに疲れている部分があるような気がする。今の時代に必要なのは、アピールではなくむしろ「謙抑(けんよく)」ではないのか? そう考えれば、鹿児島県民のアピール下手は、克服すべき弱点ではない。大事にするべき平凡で静かな暮らしを、安売りすることなく守ってきた美徳ではないのか。

そういう観点で、これからの「鹿児島の食とデザイン」を考えてみたらどうなるだろう。アピールではなく謙抑のデザインを。「こんなものしかなくてすいません」という気持ちで人様にお出しできるような、そういう控えめな気持ちで出せるデザインを。おしゃれな「商品」ではなく、暮らしの中に生きているもののデザインを。「デザイン」をしないデザインを!

たぶん、そういうものは素晴らしくステキだが、でもきっと売り上げは少ない。やっぱり、声高に優れた点を叫ぶ商品の方が、売れるのが現実である。積極的に営業をかける商品の方が、売れるのは当たり前だ。それが健全な企業努力の成果である。でも、少ない売り上げでもやっていける、というのが田舎のいいところでもある。目先の売り上げのことはさておき、少しゆったりとした気持ちで鹿児島の「売らないデザイン」を創っていくのも悪くないと思う。そしてそれが、これから都会の人に本当に求められるものになるんだと私は思っている。

2015年12月3日木曜日

侘び茶と「鹿児島の食とデザイン」

鹿児島の食とデザイン」という鹿児島県がやっているプロジェクトがある。平たく言えば「鹿児島の加工食品は美味しくてもデザインがダサいものが多いから、もっとしゃれたデザインにしていきましょう」というもので、セミナーとか講座とか、様々なプログラムによって構成されている。

確かに鹿児島の製品は、食品に限らずあか抜けないものが多い。先日このプロジェクトを企画した県の人の話を直接伺う機会があり、正直いうと最初はちょっと眉唾で聞いていたのだが、全く仰る通りな内容であった。ごく簡単に紹介すると、
  • 鹿児島のこれまでの加工食品は、作れば売れるという安易な発想で作られたものが多かった。これまではそれでもある程度売れた。
  • でもこれからは人口減少等で食品消費が落ち込んでいくので、これまで買ってくれていた(主に高齢の)消費者をアテにしていては危うい。都会の消費者に向けた商品が必要である。
  • 今後の商品開発においては、商品のコンセプトを定め、マーケティングを行い、商品のターゲットを明確にして、試作を繰り返し、その上でコンセプトを見直し、それに沿ったパッケージと内容のデザインを行い、粘り強く営業をしていく必要がある。
  • しかもその各段階において、社内だけで検討するのではなく、プロの力を借りたりモニターの意見を聞いたりするべきである。
  • 内容を変えずパッケージだけを新しくする場合も、ただお洒落にしようということではなく、誰を新しい消費者と考えてそれを販売していくのか考え、消費者の目線でデザインを再考すること。
ということである。至極真っ当なことを仰っている。

例えば、鹿児島の昔ながらのお菓子「げたんは」(九州の各県でいうところの「黒棒」)はもはや鹿児島の若い世代ではあまり食べられていない。その理由は、ベタベタしていて味が今っぽくない(甘すぎる)ということもあるし、一袋に食べきれないくらい入っていてしかも一つが大きいということもある。もちろんパッケージもあか抜けない。要するに消費者のことを余り考えていないように見える(ごめんなさい南海堂さん!)。

こういうちょっと残念な商品を見ると、経営を学んだような人は、「昔ながらの郷土菓子という知名度とブランドがあるのだから、食べやすい形態にして内容量を少なくして若者向けのデザインに変え、都会の人にアピールすればきっと売り上げが伸びるはずだ!」と考えるのも無理はないと思う。いや、私自身が真っ先にそういうことを言いそうなキャラである。

でもそう言いたくなるところをぐっと我慢して、敢えて「鹿児島の食とデザイン」の思想にささやかながら異議を申し立ててみようと思う。私はこう見えて天の邪鬼(あまのじゃく)なのだ。

・・・・・・さて、話が随分飛ぶが、元禄時代に書かれた『茶話指月集』という本に、千利休の逸話が載せられている。こういうものだ。
森口(京都と大阪の間)というところに一人の佗び茶人があると聞きつけて、利休はいつか伺いますと約束していた。
ある冬の夜更け、利休は用事で京都に行くついでにその人を突然訪問した。亭主は喜んで利休を出迎え、利休もその侘びた佇まいに好感を持った。主人は(急な訪問だから十分なものがないからということで)庭にあった柚を取ってきて柚味噌をしつらえた。
利休はこの「侘びのもてなし」を大層喜んで、共に酒を傾けたが、次に主人は「大阪から取り寄せました」と言って上等なカマボコを出したので、利休は「さては誰かが私が来ると知らせて準備していたのだろう。ということは先ほどの対応はわざとだったか」と興ざめて、主人が引き留めるのも聞かずさっさと帰ってしまった。
この話は「されば、侘びては、有り合わせたりとも、にげなき物は出さぬがよきなり(
侘び茶においては、有り合わせはよいが、似つかわしくないものは出さない方がよい)」と結ばれている。 確かに侘び茶の世界に「上等なカマボコ」は似合わない。でもなぜ似合わないんだろうか?

「侘び茶」というのは、元来の意味は「社会的地位が低い、貧乏茶人の茶の湯」ということだったらしく、次第に「世俗的な世界から抜け出し、清浄な境地で楽しむ簡素で精神的な茶の湯」というような意味になってきた。でも私なりに言えば、「侘び」というのは「侘びる」という言葉があるように、「こんなものしかなくてすいません」という申し訳なく思う心を表すもので、それに対して客が「いえいえ、贅沢なものよりも、心ばかりの持てなしが一番有り難いんですよ」と応えるものが「侘び茶」であると思う。

それなのに、「これは大阪から取り寄せた高級カマボコです! どうでしょう、美味いですよね!」みたいな態度が出たから、利休は興ざめて帰ってしまったんだと思う。それは全然「侘び」ていないのである。

贅沢というものは、量的なものから質的なものへ、外面的なものから精神的なものへとだんだん発展していくものである。「侘び茶」はこの贅沢の最終段階に位置していて、一見簡素で貧乏風の茶の湯であるが、その内実は最高度に贅を尽くしたものである。高級カマボコよりも、その場でしつらえた柚味噌の方が実は遙かに有り難いものだという認識がここにある。

利休自身は大・大・大金持ちで、秀吉に取り立てられ社会的な身分も非常に高かった。そういう人が、「こんなものしかなくてすいません」という境地に至るためには、自然とお金では手に入れられない価値を至高のものとして追求する姿勢にならざるを得ない。使う道具一つとっても、吟味に吟味を重ね、そこに金では買えない精神性があるか——、というギリギリの美意識の勝負になる。そうでなくては、大金持ちが「こんなものしかなくてすいません」といってもまるっきり嘘っぱちになる。そういう利休だったから、亭主が出したカマボコ、というよりカマボコを出す亭主の態度には我慢がならなかった。

話を戻して鹿児島の郷土菓子というものは、先ほどの贅沢の発展段階でいえばまだ「量的なもの」の段階に位置しており、「げたんは」などは「大きければ大きい方がよい。甘ければ甘い方がよい」みたいな部分がある。「鹿児島の食とデザイン」は、これを「質的なものへ(味を洗練させよう)」「外面的なものへ(パッケージをおしゃれに)」という方向へ導くものだと言えよう。当然の流れである。

しかし、私自身、最近作られたしゃれた加工品を見ると、あまり触手が伸びないことが多い。もちろん、おしゃれなパッケージは好ましいし、興味も湧く。新しい取組をしていること自体に好感も持つ。というより、「南薩の田舎暮らし」自身がそういう方向性で商品を作っている。でもなぜか、桜井製菓の「アイスキャンデー」(冒頭写真)とか、とも屋の「マドレーヌ」とか、そういうちょっとあか抜けない商品の方に心が惹かれる自分がいる。

そして、「こんなものしかなくてすいません」という気持ちでお客に出すのなら、今のままで十分に魅力的なものが田舎には溢れている。大浦ふるさとくじら館で売っているふくれ菓子の「福麗女房(フクレカカ)」なんか、田んぼのあぜ道で食べるものとしては最高に美味しい。 鹿児島の各地で売ってる「かからん団子」なんか私は大好きである。でもそういうものを、都会から来たお客に「鹿児島の郷土菓子は美味しいでしょう!?」という自慢げな態度で出したらやっぱり興ざめするような気がする。こういうものは「こんなものしかなくてすいません」という調子で出されると、「意外と美味しいじゃん!」となるものだ。そんなもの態度の問題じゃないか、と思うかもしれないが、そこにものの価値の本質があると私は思う。

そして一方で、都市部には既におしゃれで機能的な製品が溢れている。消費者のことをよく考えた、練りに練られた商品がよりどりみどりである。「鹿児島の食とデザイン」は、鹿児島ローカルな食品企業もこうした商品と同じ土俵で勝負して行きなさいという叱咤激励でもあるだろう。

でも本当に、そういうものと同じ土俵で勝負していいんだろうか? ここはせっかく日本の端っこなのに、都市部と同じ「消費社会」の論理で動いて「商品」を作っていいんだろうか? 私はそれが、利休が嫌悪した「上等なカマボコ」を作る方向に行くのではないかと危惧する。ここにはせっかく最高級の贅沢である「柚味噌」を作る環境があるというのに。

利休が「上等なカマボコ」で興ざめたのは、本質的には「上等なカマボコ」が金さえ出せば手に入るものだからだろう。一方、庭に生えていた柚子で作る柚味噌は、柚子のシーズンにしか出来ないもので、季節外れだったら千金を積んでも作ることはできない。そういう「その場、その時」でないとできないもてなしだったから、利休は最初それに喜んだ。それが消費社会における「商品」ではなかったから、最高級の贅沢になりえたのである。

私が「鹿児島の食とデザイン」に僅かに危惧するのは、それが都会の消費社会に迎合するものだからである。だいたい、田舎で売られている魅力ある商品というものは、そもそも消費社会とは違う論理で作られた部分にその良さがあるのではないかと思う。デザインだけに限っても、何十年も変わらない、今風でないちょっとネジが緩んだようなパッケージなんかを見ると、ほっこりした気分になるのは私だけではないはずだ。そういうのこそ、都会では既に絶滅してしまってもう目にすることができない貴重なデザインで、それを今風デザインに変えることは、短期的には売り上げが伸びるかもしれないが、そのかけがえのない部分を自ら捨て去ってしまうことになりそうな気がする。

でもだからといって、ローカル企業はこれまで通りやっていればよいわけでもない。 事実郷土菓子の売り上げが落ちているとするなら、それで生きている企業はやはり何らかの手を打たなければならないからだ。問題は、売り上げを挽回させようとするとき、消費社会の論理で動くMBA(経営学修士号)式のやり方で、本当に田舎ならではの価値を生み出せるのかということだ。

(つづく)

2015年10月1日木曜日

(私がパッケージデザインした)狩集農園の「おうちでたべているお米」がA-Zかわなべで販売中

ちょっと宣伝。

今日から、A-Zかわなべに狩集農園の「おうちでたべているお米」が並んでいるので、南薩にお住まいの方は是非チェックして欲しい。

以前もブログに書いたが、このお米のパッケージは私がデザインさせてもらったもの。特にこれは、A-Zかわなべで店頭販売することを考えてデザインしたものだったから、こうして無事店頭に並んで嬉しい。郵便局の通信販売(ふるさと小包)とか物産館での販売では、パッケージの良し悪しは売れ行きにはあんまり関係ないと思うが、こういう多くの人が訪れるお店ではやっぱり商品の顔というのは大事だ。

A-Zは、ちょっと見境がないくらいアイテム数を充実させているお店なので、お米だけでもものすごくたくさんの種類がある。たぶん40種類以上はあると思う。その中で、このパッケージはそれなりに独自性があって目立つと思う(自画自賛)から、ちょっとはこのデザインがお役に立てるのではないだろうか。

というか、本当にお米だけでもすごい種類が置かれているから、訳が分からないくらいだ。一般の消費者はこのたくさんの商品の中からどうやって選んでいるんだろう。

しかも、似たようなものばかり、…といったら失礼かもしれないが、本当に大同小異なものがたくさんある。お米はあまり差別化できない商材だとしても、パッケージのデザインからそこに書いてあることまで似ているから、消費者としてはどれを選んでいいのか分からない。

でも値段はいろいろで、5kg入りで比べると、最安値は990円、最高値は2690円だった。この値段の差が何に起因するのか、商品説明だけではよくわからない。複数原料米であるとか、昨年の米であるとか、極端な安値商品には理由があるだろうが、中心価格帯である1300円のお米と1800円のお米の違いはパッケージを見てもはっきりとは分からない。もちろん食べたら違いがあるのかもしれないが…。

こういう、大同小異の商品がたくさん置かれているというのは、野菜とか肉みたいな原材料食品の陳列棚としては異例なことで、米が特別である。野菜は、小売りの常識として、通常一店舗には一種類の商品しか置かない。例えば、ニンジンを売るなら、鹿児島県産ニンジン200円、○○県産ニンジン250円、○×ブランドニンジン350円、みたいに並べて売ることは普通ない。ニンジンならニンジンで、普通は1種類しかないものだ。

どうしてかというと、野菜のようにいつも買う商品では、「どれにしようかなー」と考えるのが消費者としては面倒で、このように数種類ある場合は迷ってしまって買い物のリズムが崩れる。何も考えずにニンジンを買い物かごに入れる方が、消費者としても余計なことを考えずに済むし、お店の方としても商品管理がしやすい。要するに、野菜はわざわざ選んで買うようなものではないのだ。

肉の場合はちょっと違って、いくつかのグレードを用意するのが普通だ。安い肉、普通の肉、ちょっと高い肉、銘柄肉、といったように。しかしそれにしても、大同小異の肉が並ぶということは普通はありえない。グレードごとには1種類が基本である。

だが米は違う。米はなぜか大同小異の商品がたくさん並べられていることが多い。これは私にとって謎である。その方が売れ行き(利益)がいいのだろうか。多くの消費者が、様々な銘柄や産地の米を食べ比べたり、いくつかの商品をローテーションで買っているということはなさそうだが…。

こういう陳列棚は、原材料食品というより嗜好品のそれに近い。米の陳列棚に似ているのは、ワインの陳列棚だ。ワインの棚も、値段的にも内容的にも大同小異の(なんてことを言ったらワイン通に叱られるが)ワインがたくさん並んでいる。でも嗜好品の場合、大同小異というのは悪いことではなくて、微妙な差異を楽しむものだからこれはよく分かる。だが米の場合、 消費者が微妙な差異を楽しんでいるようにも思えない。

というのは、ワインはスペック(?)が細かく表現されるが(酸味がどうだとかフルーティだとか) 、お米についてはそういうのはあまり聞かない。大同小異なものを売っていく場合、大抵細かい違いを強調する方向でマーケティングされていくことが多いが(例えば大衆車がそんな感じ)、お米では細かい違いが強調されるなんてこともない。どれもこれも、「キレイな水」とか、「こだわりの」とか、「愛情たっぷり」とかそういうことが書いてある。これでどうやってみんなお米を選んでいるのか本当に不思議だ。

というわけで、A-Zかわなべではみなさんさぞお米選びに苦労しているのではないかと思う。でも今なら、何も考えずに狩集農園の「おうちでたべているお米」を手にとっていただければ大丈夫。比較考量する必要がなくて楽です! ちなみに、価格はこのたくさんのお米の中で2番目に高く、2390円(ちなみに最高値2690円のお米は京都丹波のお米だった)。でも(あまりアピールされていないが)無農薬のお米だから安いくらい。どうぞよろしくお願いいたします。