2013年2月23日土曜日

『武備志』における坊津

『武備志』による九州図(北が左)
南さつま市に坊津(ぼうのつ)という港町がある。

この坊津、「かつての日本三津の一つ」というのが枕詞となっているが、こんな片田舎に古代から中世における日本屈指の港町があったとは少し信じ難い。

ではこの「日本三津」なるものの出典は何かというと、明代の軍事書『武備志』である。これは1621年に兵学者である茅元儀という人が編纂・出版したもので、基本的には軍事研究書なのだが、よほどこの人は博物学的なものに関心があったと見え、軍事の枠を遙かに越え、当時の中華世界を外観する百科全書とも言える浩瀚な体裁を持つ。

そこには中華を取り巻く四夷(四方の蛮族)の記述もあり、その一つとして「日本考」の項目が設けられている(第230-231巻)。「日本考」は日本の歴史・地理・近況を外観し、その後日本語の語彙(辞典風)や嗜好(綿の着物が好きだとか)に触れた後、最後に船舶・武器・戦法について述べるという構成になっている。「日本三津」は地理の記述の中に触れられる。 こういう内容である。
  • 日本には三津がある。坊津、花旭塔(ハカタ)津、洞津(現・津市)である。
  • 三津は坊津を総路とする。客船は往復に必ずここを経由する。
  • 花旭塔津は中津で、土地が広く人も多い。中国海商はみなここに集まる。広い松林があってハコサキ(箱崎)という。大唐街と名付けられた所もあり、かつて唐人の居留地であったと伝えられるものの今では日本人ばかりが住んでいる。
  • 洞津は末津で、山城と近い。貨物はあるときもあればないときもある。
これを見て気づくことは、坊津は「三津の総路」とされていながらその地勢的な記述が全くないことである。さらに不思議なことに、坊津は古来密貿易で栄えた港なのにも関わらず「客船が必ず経由する」となっていて、貿易というより人の往来のハブだともされている。この書き方だと、単に補給基地として栄えた港のように見えるが実態はどうだったのだろう?

ちなみに、『武備志』第223巻には日本地図もあって、そこでは九州の5分の1が薩摩になっている。港も小松原、片浦、秋目、泊、坊津が書き込まれており、近畿を含むその他の地域が(縮尺が無視されて)ほとんど外観だけの記載に留められているのを見ると、この南薩地域は中国にとって重要性がかなり高かったことは事実のようだ。

ところで、「日本三津」の出典は私の調べた限りこの『武備志』にしかなく、日本の中世の資料などには出てこない。室町時代に制定された日本最古の海洋法規集である『廻船式目』には三津七湊というのが出てくるが、これに坊津は含まれていない。

少し厳しい言い方をしてしまえば、坊津は、中国の一つの軍事書に記載されているというだけの理由で「かつての日本三津の一つ」を言い張っているわけである。我が国の同時代資料に「日本三津」が登場しないとすれば、根拠としては残念ながら弱い。坊津が中国からも注目される重要な港町であったことは事実でも、「日本三津」として国内で認識されていたかどうかは、また別の話である。

では、この「坊津=日本三津の一つ」を『武備志』から初めて見つけた人は誰なのだろうか。これもはっきりとしたことは分からないが、私の調べた限りで初出の資料は1795年に著された『麑藩名勝考』である。この本は鹿児島の神話伝説のタネ本というべき重要な資料であるが、随所に『武備志』への言及がある。思い込みや言い伝えといったあやふやなものを出来るだけ遠ざけて、資料によって名勝の考証を行った著者の白尾国柱らしい参照の仕方だと思う。

このように見てみると、白尾国柱が『麑藩名勝考』で「坊津=日本三津の一つ」説を紹介しなかったら、もしかしたらそういう説の存在自体、広まらなかったのかもしれない。『武備志』は日本でも出版されて研究されたとは言え、決して一般の人が見るような本ではなかったので(今でも邦訳はない)、坊津の関係者の目に止まる可能性は低かった。白尾国柱は今ではあまり顧みられることのない学者であるが、資料の海からこういう記述をめざとく見つけてくるあたり、ただ者ではなかったのだと思う。

 【参考】
坊津—さつま海道—」2005年、橋口亘 編 

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