南さつま市加世田のはずれ、万世(ばんせい)という町に、鹿児島では有名な醤油屋さんである丁子屋がある。この前「白だし」を買ってみたら、評判通りの美味しさだった。
丁子屋の創業は享保20(1735)年。300年弱の歴史があり、県内では3番目の長寿企業らしい。しかし、藩政時代から醤油屋さんであったわけではない。
では何をしていたかというと、藩政時代を通じて丁子屋は廻船問屋だった。廻船問屋というのは、今風に言えば総合商社のようなもので、舟で日本全国を巡りながら安いところで商品を仕入れ高いところで売る、という商売である。
丁子屋という屋号はもちろん香辛料の丁子=クローブ に由来し、南方産の丁子油を扱ったことによる。江戸時代、丁子油と椿油を混ぜたものが刀の錆止めに使われていたのだそうだ。このほか、丁子屋は当地で干しトビウオや鰹節(※)を仕入れて大坂で売り、塩や素麺を買い入れる貿易をしていたという。
万世は万之瀬川の河口に位置したため、中世以来天然の良港として栄えた。蛇足だが、船が常に海にあると海洋付着生物がびっしりと船底に固着して使い物にならなくなるため、船底塗料の登場前はわざわざ河を遡って真水に船を繋留する必要があった。このため古来より港というものは多くが河口近くに位置したのである。
丁子屋はこの地の利を活かし、藩からの特認の下で(幕府からは禁じられていた)琉球との交易も行い、相当に稼いだという。最終的には3隻の千石船を所有したらしい。
ところが、創業して70年ほど経った1802年、この地に激変が訪れる。万之瀬川が氾濫によってその流れを変え、河口が北にずれて突如として万世から港がなくなったのだった。もちろん丁子屋は新たな河口に対応して拠点を設けたが、新しい河口は川底が浅く、大きな舟が出入りできなかった。そのため商売が小口にならざるを得なかったと思われる。
そんな中、幕末に至って醤油醸造が始まる。これは推測だが、港から遠くなって使い勝手が悪くなった万世の倉庫を有効利用するための事業だったのかも知れない。丁子屋は元々、肥後から小麦と大豆を仕入れて琉球に売るという商売をしていたらしいが、この商材と万之瀬川の清流を利用して出来る醤油という商品を思いついたのだろう。
こうして、河の流れが変わっても、万世と丁子屋は海運と先進的な商品の取り扱いで繁栄を続けたが、明治後半から大正初期が隆盛の掉尾だった。交通が鉄道の時代になり、大正3年に加世田から枕崎に抜ける南薩鉄道が開通すると、鉄道網からはずれた万世は凋落を始めたのである。遅れて加世田から万世にも支線が延びたが、海運の利を失った万世に流通上の価値はもはやなかった。
丁子屋が廻船問屋から醤油屋へと変遷した理由としては、万之瀬川の流れの変化と海運の時代の終わりという二つが挙げられる。どんなに堅牢な商売をやっていても、それを存立させている基盤が崩れれば商売の形は変わらざるを得ない。だが、その変化を捉えて先を読んできた経営があったからこそ、丁子屋は300年弱も続いている。幕末、明治維新、日清・日露戦争、太平洋戦争という激動の時代を生き抜いてきたことを思うと、歴代の店主に非常な商才があったのは間違いない。オオイタビに覆われた大正時代の石蔵は、未だ活躍の機会を虎視眈々と窺っているようにも見えた。
※ 鰹節というと枕崎が有名だが、枕崎で燻製したものを万世に運び、丁子屋で鰹カビをまぶして本枯れの鰹節にしたのだそうだ。このカビを扱った経験が、後の醤油醸造に活きているのだと思う。
【参考文献】
『万世歴史散策』2012年、窪田 巧
【補足】2014/02/04 アップデート
「丁子屋」を「丁字屋」と書く致命的な誤字をしていたので改めました。
「万世 みかん」で検索したら御ブログにたどり着きました。
返信削除万世の小松原のバスの通る道に「舟繋ぎ石」があるのをご存じですか?
その場所は海からほど遠く、地形の変貌ぶりには驚かされます。
今は亡き父が まだ私が乙女(!)だった頃「忘れちゃいけないよ。ここまで海だったのだ。万世は港町としてこの地区
で一番に開けた町だったんだよ」と話して聞かせました。
文章が上手くて、さすが元官僚!
読者になっていいですか?
故郷万世の情報を語りますが…
ようちんさん
削除コメントありがとうございます!「舟繋ぎ石」ですね、資料では見たことがあるのですが、どこにあるのか分かりません。万世はまだあまり歩いて散策していないので、土地勘がないのです。青年会館(?)のような建物の中にもまだ入ったことがないですし…。
文章をお褒めいただき恐縮です。私の友人からは、「文章が硬い」「難しく書きすぎ」「長い」など評価は散々でして、実際、まるで教科書にでも出てきそうな悪文だなあと自分でも思っています。ですが評価してくださる方もいらっしゃるので、それが心の支えですね…、本当に。
ぜひ読者になってください。そして万世のことをいろいろご教示いただけますと幸いです。万世については、
『武備志における坊津』
http://inakaseikatsu.blogspot.jp/2013/02/blog-post_23.html
と言う記事の画像の中にも小松原の文字が出てきます。17世紀の中国から見ると、小松原港というのがとても存在感のあった港だったのだなとしみじみ感じさせる地図です。この地図を発見した時は嬉しくなってしまいました。