毎年ある時期になると、農協(JA)の職員の方からの「○○共済に入りませんか?」という勧誘活動が盛んになる地域が多いと思う。
農家からすれば、「ちょっとめんどくさいなあ」という程度のことだが、JA職員の方はノルマがあるから必死である。ノルマを達成できなかった場合のペナルティが何なのかは知らないが、自分自身が(半ば無理矢理)共済に加入させられたり、親兄弟を人身御供(?)に献げなくてはならない場合があることを考えると、随分厳しいのだと思う。
このせいで、JAを離職される方も多いようだ。ノルマが達成できないとか、あるいはノルマのことを気に病みながら働くくらいなら辞めた方がマシだ、と思うのだとか。
では、どうして農協職員は共済のノルマでそんなに苦労しなくてはならないのだろうか? というより、共済のノルマ以外ではさほど苦労している様子はないが、共済のノルマが突出して厳しい理由はなんなのだろうか?
その答えは、先日書いた長々しい記事の内容と関係がある。共済のノルマの背景にあるものを正確に理解している人は少ないと思うので、JA南さつまを例にとって説明してみよう。
冒頭にJA南さつまの事業収益の図を再掲したが、この図で言いたいことは、JA南さつまの主な収益源は、「肥料や農薬の販売」「保険業(共済事業)」「銀行業」の3つであるということだ。青色で表されている粗利を見てみると、この3つの事業だけで25億円くらいを稼いでいる。
さて、組織を維持していくには相応の利益が必要になるが、利益が目標に届かないことが予見される時はどうにかしてこれを確保しなくてはならない。上の3つの事業以外は利益が僅かであり、仮に増益してもタカが知れている。であるから、全体として増益を図るためには、「肥料や農薬の販売」「保険業(共済事業)」「銀行業」のどれかの利益を増やす必要がある。
しかし、「銀行業」の利益をにわかに増やすのは難しい。貸し付けは急に増やせるものではないし、JAが相手にするのは農家であるから利益率のよい大規模貸し付けはそもそも少ない。各地域のJAに案件形成(貸付を要する事業を提案)する能力も体制もない。
「肥料や農薬の販売」も同様だ。肥料や農薬は作付の時点で所要量が決まり、企業努力によって増えるのは僅かである。そしてそれ以上に、「肥料や農薬の販売」の利益率は他の事業に比べて極端に低いということがある。利益率が10%程度であるため、例えばJA南さつまの場合、この事業でさらに1億円稼ごうと思えば、10億円以上売り上げなくてはならない。
しかし、「保険業(共済事業)」は利益率が800%以上ある! 利益が足りない時に、真っ先に力を入れるべきなのは共済の契約獲得であることは自明の理である。それに、農協職員をそれぞれ推進員として契約を獲得させれば、本人はもちろん親、兄弟、親戚が「つきあい」で共済に加入してくれる可能性が高い。共済は、掛け捨てでなければ一種の貯蓄でもあるから、不要不急の契約であっても無駄ではないという強弁もできる。
だから、農協職員は共済のノルマ達成にアクセクすることになる。営業には向き不向きがあるので、こういうのが得意な人、顔の広い人はよい。でも苦手は人は多い。そもそも、共済の契約をバンバン取りたくて農協に入った、というような人はもの凄く少ないはずだ。
JAというと、仕事のやり方が役所的であるとか、怠惰だとか、無駄が多いとか、とにかくいろんな悪口を言われていて、それらは「民間企業的な意識がない」と集約できると思うが、私はそれは間違いだと思う。事実、共済のノルマ達成に関しては民間企業なみの厳しさがあり、熱心さがあり、組織的一体感(?)がある。なぜ、共済事業だけ「民間企業なみ」なのか?
それは、上で見たように、共済事業こそがJAの収益の主戦場だからなのである。JAも普通の民間企業と全く同じなのである。組織を維持していく利益を生むために、必死に取り組んでいるのだ。
先日の記事で書いたように、一般の人がJAの主要事業であると思っている「農産物の販売」は受託販売であるために、(手数料収入はあるけれども)基本的には農協の利益にはならない。利益にならない事業にかまけていられないのは、民間企業ならば当然である。つまり、JAは「民間企業的な意識がない」のではなく、完全に「民間企業的な意識」を持っているから農産物の販売に関してはさほど熱心ではないのである。
農協は、法律に守られて肥大化し、補助金を当てにし、本来的に怠惰な組織になってしまったと嘆く人がいる。しかし、実際はそうではない。農協も、適切なインセンティブが設定されれば必死に動くのである。私は、JA職員が共済のノルマ達成にかけるエネルギーを「農産物の販売」に振り向けるようにすれば、素晴らしい結果が待っているはずだと夢想するものである。農協は、農産物の販売を利益の主戦場にするべきだ。そうすれば農協の職員が共済のノルマ達成に苦労する必要もないし、農家にとっても喜ばしい。
先日、全中(全国農業協同組合中央会)が発表した「JAグループ営農・経営革新プラン(案)」でも受託販売ではない「契約・直販」への支援を強化することを謳っており、それはいいことだと思うが、より踏み込んで欲しいというのが私の期待である。すなわち、共済事業の利益をあてにしなくても、農産物の販売で利益を生み出せるよう制度を変更することが必要ではないだろうか。
2014年3月9日日曜日
2014年3月7日金曜日
恵比寿とクジラの関係
今、南さつま市では、クジラ関係の観光振興に力を入れている。先日は、クジラをテーマにしたお土産コンテストまで開催され、とも屋さんの「くじらのおひるね」というお菓子が大賞を受賞した。
こうして、クジラに力を入れているのは「くじらの眠る丘」というクジラの骨格標本を展示する施設ができたからなのだが、自分としては、ただ骨があるというだけでは観光資源としての深みに欠けるような気がして、もう少し歴史や文化まで掘り下げてクジラをアピールすることができないかと思っている。
【参考】南薩の捕鯨と「くじらの眠る丘」
というようなことを考えていたら、ふとクジラと恵比寿信仰には関係があるのではないかと思いつき、少し調べてみた。南さつま市でも笠沙に「笠沙恵比寿」という恵比寿信仰をモチーフにした施設があるのを始め、恵比寿信仰は盛んだった。その祠があるところが、どうもクジラが見られる浦に当たっているような気がして、関連性が気になったのである。
結論を言うと、恵比寿信仰とクジラには深い関連があり、中山太郎という明治時代の民俗学者は「ゑびす神異考」という論考を著して、恵比寿信仰の源にはクジラへの信仰があるのだ、という説を唱えているくらいである。ただこれは少し牽強付会なところがあって、信憑性はイマイチと言わざるを得ない。
だが、北関東以北の地域では、クジラやサメといった大型の海棲動物を「えびす」と呼んできた地域が多い。 これは、クジラやサメが小型の魚を追い込んで沿岸に大量に連れてくるため豊漁になることが多く、豊漁をもたらす有り難い存在として「えびす」と呼んだのだろうとされている。恵比寿信仰とクジラには確かに関連があるのである。
ただし、西日本ではクジラと恵比寿信仰に関連があるという明白な証拠がないようだ。西日本の沿岸での恵比寿信仰は、海岸の石とか珍奇な漂着物とかを依り代(よりしろ)にして豊漁を願うものが多く、東日本のそれとは少し違っている。こうした自然発生的な民俗信仰は地域ごとの差異が大きく、そもそも信仰の淵源を求められるものではないが、残念ながら西日本ではクジラと恵比寿信仰の関係は遠い。
しかし今回少し調べてみて思ったが、恵比寿信仰というのはなかなか奥が深い。漁民の豊漁や安全を願う心が具現化されたのが恵比寿という存在であることに疑いはないが、他の神格や神話を取り込み、習合を繰り返し、恵比寿は複雑な神に発展して行った。だが生活と仕事に即した素朴な願いが託されている存在であるから、決して大仰な力(例えば国家安泰とか)を持ったりせず、それが司るのは商売繁盛といった身近で現世的なものだったのである。
そういう点は、稲荷信仰、八幡信仰、熊野信仰といった民間信仰がみな共有していたところでもあるが、恵比寿信仰が特異的だったのは、信仰に中心らしい中心を持たず、常に意識が海の彼方へと向かっていたというところである。稲荷信仰なら伏見稲荷、八幡信仰なら宇佐八幡、熊野信仰はそのままずばりで熊野が中心だ。だが恵比寿信仰は、兵庫県の西宮神社というのが総本社とされているが、各地ではそれが意識されていなかったようだ。
恵比寿信仰は、神話の及ぶところにない、庶民と海の間から澎湃と沸き上がった信仰である。そういう正体不明の存在だからこそ面白い。いつか機会があったら南薩の恵比寿信仰についてちゃんと調べてみたい。
【参考資料】
『えびす信仰事典』1999年、吉井良隆 編
こうして、クジラに力を入れているのは「くじらの眠る丘」というクジラの骨格標本を展示する施設ができたからなのだが、自分としては、ただ骨があるというだけでは観光資源としての深みに欠けるような気がして、もう少し歴史や文化まで掘り下げてクジラをアピールすることができないかと思っている。
【参考】南薩の捕鯨と「くじらの眠る丘」
というようなことを考えていたら、ふとクジラと恵比寿信仰には関係があるのではないかと思いつき、少し調べてみた。南さつま市でも笠沙に「笠沙恵比寿」という恵比寿信仰をモチーフにした施設があるのを始め、恵比寿信仰は盛んだった。その祠があるところが、どうもクジラが見られる浦に当たっているような気がして、関連性が気になったのである。
結論を言うと、恵比寿信仰とクジラには深い関連があり、中山太郎という明治時代の民俗学者は「ゑびす神異考」という論考を著して、恵比寿信仰の源にはクジラへの信仰があるのだ、という説を唱えているくらいである。ただこれは少し牽強付会なところがあって、信憑性はイマイチと言わざるを得ない。
だが、北関東以北の地域では、クジラやサメといった大型の海棲動物を「えびす」と呼んできた地域が多い。 これは、クジラやサメが小型の魚を追い込んで沿岸に大量に連れてくるため豊漁になることが多く、豊漁をもたらす有り難い存在として「えびす」と呼んだのだろうとされている。恵比寿信仰とクジラには確かに関連があるのである。
ただし、西日本ではクジラと恵比寿信仰に関連があるという明白な証拠がないようだ。西日本の沿岸での恵比寿信仰は、海岸の石とか珍奇な漂着物とかを依り代(よりしろ)にして豊漁を願うものが多く、東日本のそれとは少し違っている。こうした自然発生的な民俗信仰は地域ごとの差異が大きく、そもそも信仰の淵源を求められるものではないが、残念ながら西日本ではクジラと恵比寿信仰の関係は遠い。
しかし今回少し調べてみて思ったが、恵比寿信仰というのはなかなか奥が深い。漁民の豊漁や安全を願う心が具現化されたのが恵比寿という存在であることに疑いはないが、他の神格や神話を取り込み、習合を繰り返し、恵比寿は複雑な神に発展して行った。だが生活と仕事に即した素朴な願いが託されている存在であるから、決して大仰な力(例えば国家安泰とか)を持ったりせず、それが司るのは商売繁盛といった身近で現世的なものだったのである。
そういう点は、稲荷信仰、八幡信仰、熊野信仰といった民間信仰がみな共有していたところでもあるが、恵比寿信仰が特異的だったのは、信仰に中心らしい中心を持たず、常に意識が海の彼方へと向かっていたというところである。稲荷信仰なら伏見稲荷、八幡信仰なら宇佐八幡、熊野信仰はそのままずばりで熊野が中心だ。だが恵比寿信仰は、兵庫県の西宮神社というのが総本社とされているが、各地ではそれが意識されていなかったようだ。
恵比寿信仰は、神話の及ぶところにない、庶民と海の間から澎湃と沸き上がった信仰である。そういう正体不明の存在だからこそ面白い。いつか機会があったら南薩の恵比寿信仰についてちゃんと調べてみたい。
【参考資料】
『えびす信仰事典』1999年、吉井良隆 編
2014年2月24日月曜日
笠沙美術館を運営して(ミュージアムカフェをやって)みませんか?
先日の南さつま市議会で、笠沙美術館に関する条例の改正があった。一見地味だがなかなか面白い内容である。
それは、笠沙美術館に指定管理者制度を導入するものだ(第15条)。つまり、この施設の維持管理を民間に委託できるようになった、ということである。
そして、その中のさらに地味な条項であるが、指定管理者が行う業務として、「市長が必要と認める業務」が規定されているのがポイントだ(第16条)。美術館自体の維持管理は、単に入場料を徴集したり、場所貸しをしたりといった仕事であり、民間の創意工夫を生かす余地はないが、この条項があるので、たとえばここをミュージアムカフェにするといったようなことが可能になる。
この笠沙美術館は、以前も紹介したことがあるように「日本一眺めのいい美術館」を標榜してもおかしくないほどの絶景の地にある。この絶景を眺めながらコーヒーの一杯でも飲めたらどんなに幸せだろう、と夢想してきた私にとって、この条例改正は大変喜ばしいものだ。指定管理者は個人で請け負うことができないが、もしそうできれば、私が真っ先に手を挙げたいところである。
また、笠沙美術館は風景がいいだけではない。美術館の建物はクルーズトレイン「ななつ星」などのデザインで知られる水戸岡鋭治氏で南欧風のデザインが瀟洒である。こういう洒落た建物で飲むコーヒーは美味いに決まっているのである。
だが、経営的に見ると少し厳しい点もある。最も心配されるのがあまりにも辺鄙な土地にあるということだろう。しかし、山側の道路を挟んだ向かいには「杜氏の里笠沙」がある。「杜氏の里」は、南さつま市の三セクの中では唯一の黒字団体であり(2012年度)、それなりの客足がある。場所柄は辺鄙で寂しいところだが、決して無人の地ではない。市の方で近年力を入れている「南さつま海道八景」の見所の一つでもあり、ドライブ客が期待できる。
それに、指定管理者には管理料収入が市から支払われる(というか民間で経営が成り立つなら公共の施設にすべきでない)。基本的には、美術館の維持管理のみであれば赤字はないはずで、ほぼリスクなくこういう絶景の地にミュージアムカフェをオープンできるとすれば、事業者にとっては大チャンスである。
だが、市の方ではかなり弱気な姿勢を見せていて、先日の市議会では「応募がなかった場合は現状とならざるを得ないと考えるが…」と随分引き気味なことを述べている。「応募がなかったら」というような消極的なことではなく、創意工夫と経営能力がある事業者が応募してくるように、鹿児島市内はもちろん、北九州や大都市圏でも説明会をするべきだと思うし、そうして、市の方で応募者を厳正に審査するという強気な立場にならなければならないと思う。
一番いけないのは、形式的には公募の形をとりつつ、実際には南さつま市内の適当な事業者に声をかけるだけで広く呼びかけず、結局役所がやるのと変わらない仕事を民間が担うということだと思う。せっかく指定管理者を公募できる規則を作ったのだから、これを生かしてもらいたいというのが一市民としての期待である。そしてもう一つ高望みすれば、こここをミュージアムカフェにしてもらい、沖秋目島を眺めながらコーヒーが飲みたいのである。
【補足】
本件に関してご関心ある(南さつま市外の)事業者の方は、コメント欄にでもご連絡ください。市の方に取り次ぐことも可能だと思います。なお、条例上は「指定管理者に業務を行わせることができる」となっているだけで、応募者が想定されない場合は公募されないこともあります。なので、公募があったら検討しようということではなく、公募をするように市の方に働きかけていくくらいの積極性がないとダメかもしれません。
それは、笠沙美術館に指定管理者制度を導入するものだ(第15条)。つまり、この施設の維持管理を民間に委託できるようになった、ということである。
そして、その中のさらに地味な条項であるが、指定管理者が行う業務として、「市長が必要と認める業務」が規定されているのがポイントだ(第16条)。美術館自体の維持管理は、単に入場料を徴集したり、場所貸しをしたりといった仕事であり、民間の創意工夫を生かす余地はないが、この条項があるので、たとえばここをミュージアムカフェにするといったようなことが可能になる。
この笠沙美術館は、以前も紹介したことがあるように「日本一眺めのいい美術館」を標榜してもおかしくないほどの絶景の地にある。この絶景を眺めながらコーヒーの一杯でも飲めたらどんなに幸せだろう、と夢想してきた私にとって、この条例改正は大変喜ばしいものだ。指定管理者は個人で請け負うことができないが、もしそうできれば、私が真っ先に手を挙げたいところである。
また、笠沙美術館は風景がいいだけではない。美術館の建物はクルーズトレイン「ななつ星」などのデザインで知られる水戸岡鋭治氏で南欧風のデザインが瀟洒である。こういう洒落た建物で飲むコーヒーは美味いに決まっているのである。
だが、経営的に見ると少し厳しい点もある。最も心配されるのがあまりにも辺鄙な土地にあるということだろう。しかし、山側の道路を挟んだ向かいには「杜氏の里笠沙」がある。「杜氏の里」は、南さつま市の三セクの中では唯一の黒字団体であり(2012年度)、それなりの客足がある。場所柄は辺鄙で寂しいところだが、決して無人の地ではない。市の方で近年力を入れている「南さつま海道八景」の見所の一つでもあり、ドライブ客が期待できる。
それに、指定管理者には管理料収入が市から支払われる(というか民間で経営が成り立つなら公共の施設にすべきでない)。基本的には、美術館の維持管理のみであれば赤字はないはずで、ほぼリスクなくこういう絶景の地にミュージアムカフェをオープンできるとすれば、事業者にとっては大チャンスである。
だが、市の方ではかなり弱気な姿勢を見せていて、先日の市議会では「応募がなかった場合は現状とならざるを得ないと考えるが…」と随分引き気味なことを述べている。「応募がなかったら」というような消極的なことではなく、創意工夫と経営能力がある事業者が応募してくるように、鹿児島市内はもちろん、北九州や大都市圏でも説明会をするべきだと思うし、そうして、市の方で応募者を厳正に審査するという強気な立場にならなければならないと思う。
一番いけないのは、形式的には公募の形をとりつつ、実際には南さつま市内の適当な事業者に声をかけるだけで広く呼びかけず、結局役所がやるのと変わらない仕事を民間が担うということだと思う。せっかく指定管理者を公募できる規則を作ったのだから、これを生かしてもらいたいというのが一市民としての期待である。そしてもう一つ高望みすれば、こここをミュージアムカフェにしてもらい、沖秋目島を眺めながらコーヒーが飲みたいのである。
【補足】
本件に関してご関心ある(南さつま市外の)事業者の方は、コメント欄にでもご連絡ください。市の方に取り次ぐことも可能だと思います。なお、条例上は「指定管理者に業務を行わせることができる」となっているだけで、応募者が想定されない場合は公募されないこともあります。なので、公募があったら検討しようということではなく、公募をするように市の方に働きかけていくくらいの積極性がないとダメかもしれません。
2014年2月22日土曜日
鯖でダシを取る「加世田そば」もとい「長屋そば」(と佃煮)
加世田の竹田神社とナフコの間に、「加世田そば」の店がある。ここのお蕎麦がなかなかよい。
加世田そばは、今でこそこういう呼び名だが、元は「長屋(ながや)そば」という。加世田の長屋集落に伝わる蕎麦である。発端は10年くらい前に遡ると思うが、行政が主導した集落の地域興し活動で生まれた「長屋そば部会」が発展し、店を構え、雇用を生んでいるということで、こういう活動の数少ない成功事例でもある。
メニューは、かけそば(420円)、かけそば大盛り(525円)、うどん、ご飯というシンプルなラインナップ。厨房もかなり簡易な感じなので、これが精一杯なのかもしれない。
さて、その長屋そば、特徴はなんといってもダシである。魚介のうまみが豊かで、一見平凡なおそばのツユなのに、どこかいつものそばのツユと違う。
その秘密は、普通はそばやうどんのツユは鰹節と昆布でダシを取ると相場が決まっているが、このツユは鯖(サバ)でダシを取っているのである(※)。長屋では、昔、小湊(こみなと)から運ばれてくる鯖でダシを取ってそばのツユを作ったということで、今でも鰹節ではなく、生鯖節でダシを取っているのである。これは、鰹節のように乾燥した素材ではなく、削って使うのでもない、一般にはあまり使われていないダシの素だと思う。
この、「加世田そば」の店では、ダシを取った後の鯖節を佃煮にして、各テーブルに「ご自由にどうぞ」と置いてある。この鯖の佃煮が大変おいしくて、ダシの副産物とはいえ気前がよい。鹿児島では漬けものが食べ放題の店は多いが、こんなおいしい鯖の佃煮が食べ放題な店は、多分鹿児島でもここだけだろう。
ちなみに、麺の方はと言えば、こちらも伝統的な十割そばで、つなぎの小麦粉などは一切入っていない。そのためにブチブチ切れていて、ツルっと食べるわけにはいかず、味は素朴でおいしいが、私としては食感がイマイチである。それに、小さくちぎれたおそばをドンブリの底からかき集めるのも面倒だ。でも、こういう素朴なそばは、普通の蕎麦屋さんではまず味わうことができないから貴重ではあると思う。
長屋そばは、「加世田そば」の店に行かなくても、吹上浜海浜公園の売店でも食べられる。でもこちらでは、アピールがヘタなのか、そばではなくてみんなうどんを注文しているようだ。このうどんは、地場のものではなくて普通の冷凍うどんを使っている平凡な商品である(だから安いが)。
南さつま市民の間でも、「加世田そば」または「長屋そば」の知名度はまだまだ低いようであるが、一度は味わう価値があるそばだと思う。ちなみに鯖の佃煮はお店では販売もしているので、酒飲みのおつまみに最適だ。ヘタなB級グルメなんかよりずっと美味しいから是非試して欲しい。
※ 鯖以外のツユの材料としては、昆布出汁は入っているが、他に鰯のダシも入っているかもしれない。詳しい配合は不明。
加世田そばは、今でこそこういう呼び名だが、元は「長屋(ながや)そば」という。加世田の長屋集落に伝わる蕎麦である。発端は10年くらい前に遡ると思うが、行政が主導した集落の地域興し活動で生まれた「長屋そば部会」が発展し、店を構え、雇用を生んでいるということで、こういう活動の数少ない成功事例でもある。
メニューは、かけそば(420円)、かけそば大盛り(525円)、うどん、ご飯というシンプルなラインナップ。厨房もかなり簡易な感じなので、これが精一杯なのかもしれない。
さて、その長屋そば、特徴はなんといってもダシである。魚介のうまみが豊かで、一見平凡なおそばのツユなのに、どこかいつものそばのツユと違う。
その秘密は、普通はそばやうどんのツユは鰹節と昆布でダシを取ると相場が決まっているが、このツユは鯖(サバ)でダシを取っているのである(※)。長屋では、昔、小湊(こみなと)から運ばれてくる鯖でダシを取ってそばのツユを作ったということで、今でも鰹節ではなく、生鯖節でダシを取っているのである。これは、鰹節のように乾燥した素材ではなく、削って使うのでもない、一般にはあまり使われていないダシの素だと思う。
この、「加世田そば」の店では、ダシを取った後の鯖節を佃煮にして、各テーブルに「ご自由にどうぞ」と置いてある。この鯖の佃煮が大変おいしくて、ダシの副産物とはいえ気前がよい。鹿児島では漬けものが食べ放題の店は多いが、こんなおいしい鯖の佃煮が食べ放題な店は、多分鹿児島でもここだけだろう。
ちなみに、麺の方はと言えば、こちらも伝統的な十割そばで、つなぎの小麦粉などは一切入っていない。そのためにブチブチ切れていて、ツルっと食べるわけにはいかず、味は素朴でおいしいが、私としては食感がイマイチである。それに、小さくちぎれたおそばをドンブリの底からかき集めるのも面倒だ。でも、こういう素朴なそばは、普通の蕎麦屋さんではまず味わうことができないから貴重ではあると思う。
長屋そばは、「加世田そば」の店に行かなくても、吹上浜海浜公園の売店でも食べられる。でもこちらでは、アピールがヘタなのか、そばではなくてみんなうどんを注文しているようだ。このうどんは、地場のものではなくて普通の冷凍うどんを使っている平凡な商品である(だから安いが)。
南さつま市民の間でも、「加世田そば」または「長屋そば」の知名度はまだまだ低いようであるが、一度は味わう価値があるそばだと思う。ちなみに鯖の佃煮はお店では販売もしているので、酒飲みのおつまみに最適だ。ヘタなB級グルメなんかよりずっと美味しいから是非試して欲しい。
※ 鯖以外のツユの材料としては、昆布出汁は入っているが、他に鰯のダシも入っているかもしれない。詳しい配合は不明。
2014年2月18日火曜日
財務諸表から見るJA南さつま
確定申告の時期である。大変めんどくさい。というわけで、現実逃避して南さつま農協(JA南さつま)の財務諸表(2012年度決算書)を眺めていた。
思えば、一組合員としても出荷者としても、農協の経営状態をあまり気にしていなかった。一応、年に一度の総代会というものがあって、そこでは事業報告とか中期計画とかを組合員に説明するが、たぶん財務諸表をじっくり見て農協の経営状態を理解している人というのは僅かだと思う。この機会にこれをよくよく観察してみると面白いかもしれない。
ただ、これを真面目に分析すると長大で冗漫なものになるので、大まかな点だけ見てみようと思う。
まず、損益計算書の事業利益を見てみる。南さつま農協の経常利益は、約2億円である。具体的には、約34億円の事業利益があり、その事業を実施のため約33億円の事業管理費を使っている。その差額の約1億円とあわせて、約1億円の経常外利益(事業によるものではない利益)があるので経常利益が2億円である。下図はこれを簡単にまとめたものである。
では、この表に掲げた約34億円の事業利益は、具体的にどのような事業で稼いだものなのだろうか?
それをわかりやすくしたものが左の棒グラフである(※)。青い部分が利益(粗利=収益から費用を引いたもの)で、オレンジ色の部分が費用である。
ただしここでいう「費用」は事業ごとの費用であって、上の表中での「費用」とは違う。上の表中の「費用」は、事業全体を実施するための人件費とか施設費であって、ここでいう「費用」は、販売品の原価のように事業ごとにかかっている「元手」のことである。なお、純粋に利益だけ見る時はオレンジ色の部分は不要であるが、今回は参考につけている。
この図を見ると、JA南さつまの利益の3本柱は「肥料や農薬の販売」「保険業」「銀行業」であることが分かる。この3つで大体25億円くらいの利益を稼いでいる。ちなみに、「肥料や農薬の販売」にかかっている費用が突出して大きいが、これは「仕入れて売る」という普通の商売をしているためで自然なことである。「保険業」や「銀行業」はほぼ窓口業務であるために(別に計上されている)人件費以外の費用がほとんどかかっていない。
さて、ここまで見てみると、特に経営上の問題もなく、健全経営をしているように見えるが、JAのメインの事業である農産物の販売についてはどうなのだろうか? JA南さつまでは、約174億円の農産物の販売実績があるが、その内容はどうなっているのだろう?
左は、農産物販売実績の内訳を円グラフにしたものである。販売金額のほとんどはお茶と畜産で野菜とかお米は全体の15%ほどしかない。
私が取り組んでいるかぼちゃやカンキツなどはさらにその中のほんの僅かな部分を占めるに過ぎないから、経営的に見ると、JAとしてはあってもなくても変わらない事業だと思う。
さて、問題は、この174億円の売上が、財務諸表上でどう位置づけられているかである。ここが、今回農協の財務諸表を調べて大変に衝撃を受けたところなのだが、この円グラフのうち、財務諸表に掲載されているのは、紫の部分のたった7.5億円だけなのである。これは、棒グラフの方の「お茶等の買取販売」という項目にあたり、この7.5億円の販売から4.7億円の粗利が生まれている。
では、他の部分はどこに消えてしまったのか?
実は、私も始めて知ったのだが、ここに帳簿上のカラクリがある。農家にとってJAは卸先の一つ、つまり農産物をJAに売却し、JAがそれを市場で売る、のだと思っていた。だが形式的にはそうではなく、あくまで販売の主体は農家で、JAは販売を委託されているに過ぎない。だから農産物販売はJAにとっては受託事業であり、いくら農産物を販売しても売上としては計上されないのである。
だが、実際には農産物の代金はJAから農家に支払われているわけで、一度はJAの会計を通っているお金が財務諸表に載らないのは奇妙である。受託事業だからといって決算に含めなくてもよい道理があるとも思えない。というより、JA南さつまにとって最大の事業である農産物の販売が財務諸表に載っていないということだと、経営者(理事)が業績を評価することもできない。少なくとも民間企業において、メインの事業が財務諸表に掲載されていなければ、とてもまともな決算とはみなされないだろう。
この財務諸表もJA全中の監査と内部監査を受けてOKをもらっているわけだから、この財務諸表がダメとは直ちに言えないが、少なくとも業績がわかりにくい財務諸表であることは間違いない。
それに、私が一番問題だと思うのは、JAの担当の方が一生懸命農産物を販売しても、その業績は財務諸表上では全く評価されないということだ。農家としては農産物を1円でも高く売って欲しいが、JAの担当者が販売に力を入れても、JAの利益には1円も計上されないので、担当者やその上司のやる気も出ないだろうと思う。では、農産物販売の利益はどこに行っているのだろうか?
それは、形式的には、農家へ全て配分されているのである。これは、農家が販売をJAに委託しているわけだから当然だ。だが、この仕組みだとJAの販売担当者には少しでも高く売ろうとする理由がない。委託販売は、JAにとっては損もしないが得もしない事業だからだ。やはり、高く売ったらその分JAが儲かる(あるいは担当者が評価される)、という仕組みにしないかぎり、JA出荷の農産物の価格低迷が解消されることはないだろう。制度というのは、実際に手を動かす人、それを評価する人、それを利用する人に適切なインセンティブがないとうまく働かない。
そして、さらなる問題は、農産物販売の帳簿はどこで誰が管理しているのか? ということである。農家からの受託事業としてJAが農産物を販売しているなら、委託者である農家には事業実績(収支)を報告する義務がある。しかし、農産物販売174億円の、そのお金がどう配分されているのか、実は全く公開されていない。つまり、農家に支払った代金がいくらで、選果や集荷にかかった費用がいくらで、販売手数料がいくらなのかといった収支の全体が全く不明なのである。
これはJAの財務諸表の問題ではないのかもしれない。もしかしたら、農家自身の組合(園芸振興会とか、果樹部会とか、農家の組合組織がたくさんある)の問題なのかもしれない。だが、実態を数字で捉えることなしに、経営を改善していくことは絶対に不可能である。農産物販売の内実が明らかになっていないのは何か理由があるのかもしれないが、現実を直視することは必要不可欠のことなので、農産物販売の収支決算書を共有できるように図っていきたいと考えている。
※ わかりやすくするため事業名を一部改変している。財務諸表上では、上から購買事業、共済事業、信用事業、販売事業、利用事業、その他事業、加工事業、指導事業とされている。
思えば、一組合員としても出荷者としても、農協の経営状態をあまり気にしていなかった。一応、年に一度の総代会というものがあって、そこでは事業報告とか中期計画とかを組合員に説明するが、たぶん財務諸表をじっくり見て農協の経営状態を理解している人というのは僅かだと思う。この機会にこれをよくよく観察してみると面白いかもしれない。
ただ、これを真面目に分析すると長大で冗漫なものになるので、大まかな点だけ見てみようと思う。
まず、損益計算書の事業利益を見てみる。南さつま農協の経常利益は、約2億円である。具体的には、約34億円の事業利益があり、その事業を実施のため約33億円の事業管理費を使っている。その差額の約1億円とあわせて、約1億円の経常外利益(事業によるものではない利益)があるので経常利益が2億円である。下図はこれを簡単にまとめたものである。
JA南さつまの利益と費用
利益 | 費用 | |
事業 | 34.4億円 | 33億円 |
事業外 | 0.8億円 | 0.1億円 |
経常利益: 35.2億円(利益)—33.1億円(費用)=2.1億円
では、この表に掲げた約34億円の事業利益は、具体的にどのような事業で稼いだものなのだろうか?
それをわかりやすくしたものが左の棒グラフである(※)。青い部分が利益(粗利=収益から費用を引いたもの)で、オレンジ色の部分が費用である。
ただしここでいう「費用」は事業ごとの費用であって、上の表中での「費用」とは違う。上の表中の「費用」は、事業全体を実施するための人件費とか施設費であって、ここでいう「費用」は、販売品の原価のように事業ごとにかかっている「元手」のことである。なお、純粋に利益だけ見る時はオレンジ色の部分は不要であるが、今回は参考につけている。
この図を見ると、JA南さつまの利益の3本柱は「肥料や農薬の販売」「保険業」「銀行業」であることが分かる。この3つで大体25億円くらいの利益を稼いでいる。ちなみに、「肥料や農薬の販売」にかかっている費用が突出して大きいが、これは「仕入れて売る」という普通の商売をしているためで自然なことである。「保険業」や「銀行業」はほぼ窓口業務であるために(別に計上されている)人件費以外の費用がほとんどかかっていない。
さて、ここまで見てみると、特に経営上の問題もなく、健全経営をしているように見えるが、JAのメインの事業である農産物の販売についてはどうなのだろうか? JA南さつまでは、約174億円の農産物の販売実績があるが、その内容はどうなっているのだろう?
左は、農産物販売実績の内訳を円グラフにしたものである。販売金額のほとんどはお茶と畜産で野菜とかお米は全体の15%ほどしかない。
私が取り組んでいるかぼちゃやカンキツなどはさらにその中のほんの僅かな部分を占めるに過ぎないから、経営的に見ると、JAとしてはあってもなくても変わらない事業だと思う。
さて、問題は、この174億円の売上が、財務諸表上でどう位置づけられているかである。ここが、今回農協の財務諸表を調べて大変に衝撃を受けたところなのだが、この円グラフのうち、財務諸表に掲載されているのは、紫の部分のたった7.5億円だけなのである。これは、棒グラフの方の「お茶等の買取販売」という項目にあたり、この7.5億円の販売から4.7億円の粗利が生まれている。
では、他の部分はどこに消えてしまったのか?
実は、私も始めて知ったのだが、ここに帳簿上のカラクリがある。農家にとってJAは卸先の一つ、つまり農産物をJAに売却し、JAがそれを市場で売る、のだと思っていた。だが形式的にはそうではなく、あくまで販売の主体は農家で、JAは販売を委託されているに過ぎない。だから農産物販売はJAにとっては受託事業であり、いくら農産物を販売しても売上としては計上されないのである。
だが、実際には農産物の代金はJAから農家に支払われているわけで、一度はJAの会計を通っているお金が財務諸表に載らないのは奇妙である。受託事業だからといって決算に含めなくてもよい道理があるとも思えない。というより、JA南さつまにとって最大の事業である農産物の販売が財務諸表に載っていないということだと、経営者(理事)が業績を評価することもできない。少なくとも民間企業において、メインの事業が財務諸表に掲載されていなければ、とてもまともな決算とはみなされないだろう。
この財務諸表もJA全中の監査と内部監査を受けてOKをもらっているわけだから、この財務諸表がダメとは直ちに言えないが、少なくとも業績がわかりにくい財務諸表であることは間違いない。
それに、私が一番問題だと思うのは、JAの担当の方が一生懸命農産物を販売しても、その業績は財務諸表上では全く評価されないということだ。農家としては農産物を1円でも高く売って欲しいが、JAの担当者が販売に力を入れても、JAの利益には1円も計上されないので、担当者やその上司のやる気も出ないだろうと思う。では、農産物販売の利益はどこに行っているのだろうか?
それは、形式的には、農家へ全て配分されているのである。これは、農家が販売をJAに委託しているわけだから当然だ。だが、この仕組みだとJAの販売担当者には少しでも高く売ろうとする理由がない。委託販売は、JAにとっては損もしないが得もしない事業だからだ。やはり、高く売ったらその分JAが儲かる(あるいは担当者が評価される)、という仕組みにしないかぎり、JA出荷の農産物の価格低迷が解消されることはないだろう。制度というのは、実際に手を動かす人、それを評価する人、それを利用する人に適切なインセンティブがないとうまく働かない。
そして、さらなる問題は、農産物販売の帳簿はどこで誰が管理しているのか? ということである。農家からの受託事業としてJAが農産物を販売しているなら、委託者である農家には事業実績(収支)を報告する義務がある。しかし、農産物販売174億円の、そのお金がどう配分されているのか、実は全く公開されていない。つまり、農家に支払った代金がいくらで、選果や集荷にかかった費用がいくらで、販売手数料がいくらなのかといった収支の全体が全く不明なのである。
これはJAの財務諸表の問題ではないのかもしれない。もしかしたら、農家自身の組合(園芸振興会とか、果樹部会とか、農家の組合組織がたくさんある)の問題なのかもしれない。だが、実態を数字で捉えることなしに、経営を改善していくことは絶対に不可能である。農産物販売の内実が明らかになっていないのは何か理由があるのかもしれないが、現実を直視することは必要不可欠のことなので、農産物販売の収支決算書を共有できるように図っていきたいと考えている。
※ わかりやすくするため事業名を一部改変している。財務諸表上では、上から購買事業、共済事業、信用事業、販売事業、利用事業、その他事業、加工事業、指導事業とされている。
2014年2月11日火曜日
南さつま市健康元気まちづくり百寿委員会が発足
南さつま市はやたらと一人あたりの医療費が高いという問題があり、健康で元気な生活を送れるまちづくりを進めるため、このたび百人以上の市民を巻き込んで「南さつま市健康元気まちづくり百寿委員会」なるものが設立された。
私自身はどちらかというと不健康な方だが、なぜかこの委員に選ばれ、先日この設立会に参加したところである。その内容は、「健康元気まちづくり戦略会議」という百寿委員会の上に置かれた会議の委員長である吉田紀子氏の講演と、4つのワーキンググループ(WG)に分かれての自己紹介、次回の日程調整などなど。私は、「地域づくり・人づくり等場の創造」をテーマにする「絆ムスビWG」に配属させられ、今後検討をしていくことになる。
さて、私はこの設立会に先立ち、厚生労働省が策定した「健康日本21」とその参考資料を読んだり、これを受けて鹿児島県が策定した「健康かごしま21」に目を通したりして、健康寿命の延伸のための諸方策の勉強をしていたのであるが、吉田委員長の講演を聞いて目が点になった。
あまり批判はしたくないが、その内容はほとんど「トンデモ」である。人類がみな潜在意識のレベルでは繋がっていてそれを「集合無意識(ユニティ)」というとか、「純な思い」は波動となって伝わって周りの人をも幸せにするとか、健康になるには霊性・魂の健康が大事であるとか、その他資料には「ブラーフマン」「神性エネルギー」「生命場」「宇宙との繋がり感を体感」などの文字が並んでいた。
また、経済成長ではなく精神的幸福が大事といい、その意味でブータンの提唱する国民総幸福量(GNH)を礼賛していたが、平均寿命が日本より20年も短いブータンをお手本にしようとするあたり、ちょっとその意図を理解しかねる。講演を聞きながら、私の出番はなさそうだと暗鬱な気持ちになったところである。
ただし、言っていることはめちゃくちゃ(失礼!)だが、意外にその志向はマトモである。地域作りの成功例として掲げていた奄美、葉っぱを商材としたことで有名な上勝町、アーティストの移住が有名な鹿屋の柳谷(やねだん)集落、農業振興の成功モデルとされる綾町などの紹介を聞いていると、吉田委員長の理想とするまちづくりの方向性が見えてくる。
それは、センスと行動力のあるリーダーの下で、地域資源を活用した住民参加型の産業を興す一方、観光客やアーティストといった外部人材の流入を活発化する、それによってさらに街を活性化して停滞した雰囲気を打破し、住民が生き甲斐をもって取り組める自主的な活動を始めやすくする。また、街・村の景観を重視し、テーマを持って街づくりを進めることの重要性を強調する。こうしたことは、全て首肯できることであり、大賛成だ。
こういう「トンデモ」系の話を聞くといつも感じるが、「健康な人は素晴らしい波動を発散して、周りの人間も幸せにする」ではなく、「健康で明るい人といると楽しくみんな元気になる」と言えば何の違和感もない。「波動」とか「神性エネルギー」とか疑似科学的な説明を持ち出すから胡散臭くなる。ヒューリスティック(経験主義的)なことを科学的に証明されたものだと強弁しようとするから「トンデモ」なのである。
ところで、本会議は「健康で元気な生活を送れるまちづくり」というボンヤリとした目標を掲げているが、喫緊の課題である医療費低減に向けた具体的努力も是非とも必要である。同じことじゃないかと思うかもしれないが、少し違う。
以前ブログでも紹介したとおり、南さつま市は一人あたり医療費が極端に高いが、南さつま市民が他の地域に比べて極端に不健康であるというデータはない(あったらすいません)。ではどうして医療費がこんなに高いのか。以前も書いた通り、医療費に関しては社会慣習と人々の考え方に起因する部分が大きいと考えられるので、南さつま市民を「不健康」と決めつけず、南さつま市の一人あたり医療費がなぜ高いのかをキッチリと分析・公表し、人々の考え方と医療との関わり方を変革していくことも必要だと思う。健康元気なまちづくりも結構なことだが、是非並行して取組を進めていただきたい。
私自身はどちらかというと不健康な方だが、なぜかこの委員に選ばれ、先日この設立会に参加したところである。その内容は、「健康元気まちづくり戦略会議」という百寿委員会の上に置かれた会議の委員長である吉田紀子氏の講演と、4つのワーキンググループ(WG)に分かれての自己紹介、次回の日程調整などなど。私は、「地域づくり・人づくり等場の創造」をテーマにする「絆ムスビWG」に配属させられ、今後検討をしていくことになる。
さて、私はこの設立会に先立ち、厚生労働省が策定した「健康日本21」とその参考資料を読んだり、これを受けて鹿児島県が策定した「健康かごしま21」に目を通したりして、健康寿命の延伸のための諸方策の勉強をしていたのであるが、吉田委員長の講演を聞いて目が点になった。
あまり批判はしたくないが、その内容はほとんど「トンデモ」である。人類がみな潜在意識のレベルでは繋がっていてそれを「集合無意識(ユニティ)」というとか、「純な思い」は波動となって伝わって周りの人をも幸せにするとか、健康になるには霊性・魂の健康が大事であるとか、その他資料には「ブラーフマン」「神性エネルギー」「生命場」「宇宙との繋がり感を体感」などの文字が並んでいた。
また、経済成長ではなく精神的幸福が大事といい、その意味でブータンの提唱する国民総幸福量(GNH)を礼賛していたが、平均寿命が日本より20年も短いブータンをお手本にしようとするあたり、ちょっとその意図を理解しかねる。講演を聞きながら、私の出番はなさそうだと暗鬱な気持ちになったところである。
ただし、言っていることはめちゃくちゃ(失礼!)だが、意外にその志向はマトモである。地域作りの成功例として掲げていた奄美、葉っぱを商材としたことで有名な上勝町、アーティストの移住が有名な鹿屋の柳谷(やねだん)集落、農業振興の成功モデルとされる綾町などの紹介を聞いていると、吉田委員長の理想とするまちづくりの方向性が見えてくる。
それは、センスと行動力のあるリーダーの下で、地域資源を活用した住民参加型の産業を興す一方、観光客やアーティストといった外部人材の流入を活発化する、それによってさらに街を活性化して停滞した雰囲気を打破し、住民が生き甲斐をもって取り組める自主的な活動を始めやすくする。また、街・村の景観を重視し、テーマを持って街づくりを進めることの重要性を強調する。こうしたことは、全て首肯できることであり、大賛成だ。
こういう「トンデモ」系の話を聞くといつも感じるが、「健康な人は素晴らしい波動を発散して、周りの人間も幸せにする」ではなく、「健康で明るい人といると楽しくみんな元気になる」と言えば何の違和感もない。「波動」とか「神性エネルギー」とか疑似科学的な説明を持ち出すから胡散臭くなる。ヒューリスティック(経験主義的)なことを科学的に証明されたものだと強弁しようとするから「トンデモ」なのである。
ところで、本会議は「健康で元気な生活を送れるまちづくり」というボンヤリとした目標を掲げているが、喫緊の課題である医療費低減に向けた具体的努力も是非とも必要である。同じことじゃないかと思うかもしれないが、少し違う。
以前ブログでも紹介したとおり、南さつま市は一人あたり医療費が極端に高いが、南さつま市民が他の地域に比べて極端に不健康であるというデータはない(あったらすいません)。ではどうして医療費がこんなに高いのか。以前も書いた通り、医療費に関しては社会慣習と人々の考え方に起因する部分が大きいと考えられるので、南さつま市民を「不健康」と決めつけず、南さつま市の一人あたり医療費がなぜ高いのかをキッチリと分析・公表し、人々の考え方と医療との関わり方を変革していくことも必要だと思う。健康元気なまちづくりも結構なことだが、是非並行して取組を進めていただきたい。
2014年2月7日金曜日
廃校利用の「検討」はやめて、公募しませんか?
既に決まっていたことではあるが、旧笠沙高校の校舎解体工事が始まった。大変残念なことである。
笠沙高校の校舎利用については、以前も半分冗談・半分本気でブログ記事に書いたことがある。それと重なる部分もあるが、改めて解体工事を眺めていて、思うことを書き留めておこうと思う。
ともかく、こうして高校の校舎が壊されていくのは寂しいことで、ほとんど部外者である私ですらそうなのだから、地元の人や卒業生にとってはもっともっと寂しいことだろう。時代の流れといえばそれまでだが、やはり、校舎を別の形で有効利用できていたら…と思わざるを得ない。
市でも「笠沙高校跡地利用対策協議会」を立ち上げて、跡地利用を議論・検討していたが、今から思えばそれが間違いだったと思う。というのは、「○○に利用しては?」という意見が出ても、その運営をどうするのか、予算をどうするのか、そして何より運営主体をどうするのかという話が具体化しないかぎり、全ては机上の空論である。そして、そこまでを「対策協議会」が担うというのはちょっと現実的ではない。
やるべきだったのは、「旧笠沙高校の校舎を使いませんか?」と広く呼びかけて、その利用法を提案してもらい、行政や住民がそれを審査する、という公募ではなかったかと思える。この方法だと、例えば都市部で説明会を開催するといった、広く呼びかける手間はあるが、それさえやれば行政や住民は提案を審査する立場になるため、知恵を絞って苦労する必要もなく、運営や予算に悩む必要もない。
公募の結果、ロクなところが応募して来なかったら該当者ナシで全部を棄却してもよい。だが、民間が行う事業だから、完全に地元住民の意向に沿った利用にならないのは当然である。というより、現今の財政・経済事情の中で、「地元住民の平穏な生活」というある種の既得権を守っていく余裕はどこにもない。このまま過疎地として静かに滅んでいくという選択肢を取らないかぎり、「平穏な生活」を捨て、活性化のために都市からの有象無象を受け入れる覚悟がいると思う。
もちろん、南さつま市で実施したい事業に活用するならその方がよいが、そういう事業もなく、議論がまとまらないまま、校舎の老朽化が進んでどうしようもなくなったというのが実態だと思う。なにより、主管である教育部が、学校の統廃合などより喫緊の課題を抱えている中で、廃校利用という、ある意味では「やらなくても誰も困らない仕事」に手間を掛ける余裕がなかったということが一番の「敗因」ではないか。
これから、近くだと玉林小学校、赤生木小学校、笠沙小学校が廃校となり、その校舎が空くことになっていると思う(※)。この3校の校舎利用については、笠沙高校と同じ轍を踏んで欲しくないと強く思っている。行政や住民で積極的に「これに利用したい」というアイデアがなければ、ぜひ廃校利用の事業を公募をしていただきたい。海道八景沿いでもあるので、独創的な事業が提案されるかもしれない。校舎をほとんどタダで提供すれば、普通は赤字になる事業でも可能になる。廃校で誰かの夢が叶えられるかもしれないのだ。関係者の英断を期待したい。
※この3校のうち、どれかは公民館にする予定のように仄聞したが、廃校を公民館として利用するのはあまり上策とは言えないように思う。
【参考】
ちなみに文部科学省でも、〜未来につなごう〜「みんなの廃校」プロジェクトというのをやっているので、行政関係の方は是非見てもらいたいと思う。以前は廃校利用は様々な制約があったが、現在では随分簡単になってきている。
笠沙高校の校舎利用については、以前も半分冗談・半分本気でブログ記事に書いたことがある。それと重なる部分もあるが、改めて解体工事を眺めていて、思うことを書き留めておこうと思う。
ともかく、こうして高校の校舎が壊されていくのは寂しいことで、ほとんど部外者である私ですらそうなのだから、地元の人や卒業生にとってはもっともっと寂しいことだろう。時代の流れといえばそれまでだが、やはり、校舎を別の形で有効利用できていたら…と思わざるを得ない。
市でも「笠沙高校跡地利用対策協議会」を立ち上げて、跡地利用を議論・検討していたが、今から思えばそれが間違いだったと思う。というのは、「○○に利用しては?」という意見が出ても、その運営をどうするのか、予算をどうするのか、そして何より運営主体をどうするのかという話が具体化しないかぎり、全ては机上の空論である。そして、そこまでを「対策協議会」が担うというのはちょっと現実的ではない。
やるべきだったのは、「旧笠沙高校の校舎を使いませんか?」と広く呼びかけて、その利用法を提案してもらい、行政や住民がそれを審査する、という公募ではなかったかと思える。この方法だと、例えば都市部で説明会を開催するといった、広く呼びかける手間はあるが、それさえやれば行政や住民は提案を審査する立場になるため、知恵を絞って苦労する必要もなく、運営や予算に悩む必要もない。
公募の結果、ロクなところが応募して来なかったら該当者ナシで全部を棄却してもよい。だが、民間が行う事業だから、完全に地元住民の意向に沿った利用にならないのは当然である。というより、現今の財政・経済事情の中で、「地元住民の平穏な生活」というある種の既得権を守っていく余裕はどこにもない。このまま過疎地として静かに滅んでいくという選択肢を取らないかぎり、「平穏な生活」を捨て、活性化のために都市からの有象無象を受け入れる覚悟がいると思う。
もちろん、南さつま市で実施したい事業に活用するならその方がよいが、そういう事業もなく、議論がまとまらないまま、校舎の老朽化が進んでどうしようもなくなったというのが実態だと思う。なにより、主管である教育部が、学校の統廃合などより喫緊の課題を抱えている中で、廃校利用という、ある意味では「やらなくても誰も困らない仕事」に手間を掛ける余裕がなかったということが一番の「敗因」ではないか。
これから、近くだと玉林小学校、赤生木小学校、笠沙小学校が廃校となり、その校舎が空くことになっていると思う(※)。この3校の校舎利用については、笠沙高校と同じ轍を踏んで欲しくないと強く思っている。行政や住民で積極的に「これに利用したい」というアイデアがなければ、ぜひ廃校利用の事業を公募をしていただきたい。海道八景沿いでもあるので、独創的な事業が提案されるかもしれない。校舎をほとんどタダで提供すれば、普通は赤字になる事業でも可能になる。廃校で誰かの夢が叶えられるかもしれないのだ。関係者の英断を期待したい。
※この3校のうち、どれかは公民館にする予定のように仄聞したが、廃校を公民館として利用するのはあまり上策とは言えないように思う。
【参考】
ちなみに文部科学省でも、〜未来につなごう〜「みんなの廃校」プロジェクトというのをやっているので、行政関係の方は是非見てもらいたいと思う。以前は廃校利用は様々な制約があったが、現在では随分簡単になってきている。
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