2013年10月25日金曜日

とある米国人の実践する有機農業

この数日、病を得て暇だったので『Organic Farming: Everything You Need to Know』という本を読んだ。米国で有機農業を営んでいる方が書いた本である。

日本の有機農業に対して不審の目を向けるものではないが、どうしても変わり者のための農業という側面があるためか、ハウツー本などを見てもあまり論理的でないものが多い。少し乱暴だが「私はこんなに苦労しました」という苦労自慢、あるいは逆に「こうすれば万事解決する」という魔法の杖型の話が多いように感じ、あまり読む気がしない。

では、ある程度有機農業が市民権を得ている外国ではどうなのだろうと思い手に取ったのが本書である。著者はかつてジャーナリストをされていたようで、その文章は簡潔でわかりやすい。慣行農業への過剰な敵意もなく、有機農業を実践する一人の農家としての等身大の仕事ぶりが伝わってくる。

「知るべき全て」を銘打つ通り、例えば「どのくらいの面積でスタートするか」とか「トラクターの選び方」といった、日本の農業ハウツー本ではなかなか書いていない実践的な知識が満載で、新規就農を考えている人には非常に参考になると思う。


唯一、魔法の杖的なものがあるとすれば、ミミズをたくさん入れた腐葉土で作る不思議な液体(これを著者はworm tea「ミミズ茶」と呼ぶ)で土壌改良をする話くらいで、その他は農業の基本を着実に実践することを奨励しており、斬新な情報はないかわり危なげもない。

その内容を少し記すと、まず作物にとって最も重要なものは土であるとし、これを良好な状態に保つことが枢要であるとする。このために、化学肥料を避けるのはもちろんのこと、C/N比を計算して刈草堆肥を投入するなど物質の投入量を管理し、また、緑肥植物を活用して土壌の状態をよくする。ただこうしたことをしても、土壌の状態がよくなるには数年かかるという。

施肥に関しては、植物に与えるのではなく土自体に与えるという考え方で行うことを求め、そして適切な輪作や混作を行い土壌の生物相が偏らないようにするといった工夫も行う。こうしたことを実践するには大規模農場では難しいので、まずは小さい面積で始めることを推奨し、自然とトラクターなどの農業機械も小さいものを薦める。

そして作物の病虫害を避けるには、何よりも植物体自体を強壮にすることが必要として、そのための第一歩として苗作りを丁寧にすることを求める。よって有機農業ではビニールハウスは必須ということで、ビニールハウスの管理・活用方法を述べる。

また有機農業の経営で最重要なことは販路の確保であるとし、かなりの紙幅を費やしてどうやって独力で市場開拓するかを述べる。著者の実践するのは、日本風に言えば無人販売所(Farm stand)と直売市(Farmers market)、そして会員向け定期便の3つである。そしてそれぞれを独力でどうやって始めるかということになるのだが、基本的には仲間を募り、オペレーションを確立し、交通量の多い所に店を構え、新聞広告を打ち、看板を立て、それでも最初の1年は赤字だから耐え、経営を黒字化するように地道な努力をしなさい、という話である。

また会員向け定期便については、最近米国で勃興してきたCSA(community Supported Agriculture)についてやや詳しく説明する。これは、平たく言うと会費を払う会員に対して定期的に農産物を送るというものだが、日本のそれのように顧客が都市部にいるのではなくて会員は地域のサークルのようなもので地産地消を図るところに特色がある。

全体を通じて印象的なのは、常に消費者の目を意識した経営である。例えば著者は自身の農園でハーブを栽培し、また道路沿いには花を植えているという。ハーブなどは経営的には全く奮わないらしいが、「ここは素敵なハーブも栽培している農園」というイメージを形成することにより消費者からの支持を得ることができるらしい。花を植えるのは、訪問した方の目を楽しませるためで、また来たいと思わせるような農園を作ることが重要という。

米国の農業と日本の農業は全体としてみて大きな違いがあるが、著者の実践するような規模の農業、具体的に言うと軽トラックが活躍するような農業に関してはあまり変わるところはないということが分かった。農業技術の面でも、消費者との関係の面でも、結局のところ真摯に取り組んでいくという以外の王道があるはずもないのである。

TPPや農政改革などを巡る議論において、マクロ的に日米、あるいは他国との比較をやり、大きな違いがあるということを認識するのも必要だが、一方で共通することも多い。特に中小零細規模の農業というのは、どこの国でも似たようなものとも思えるので、同じ部分に注目するということも大事だと思う次第である。それにより、国や制度や気候が違っても普遍的な部分、というのが見えてくるのではないだろうか。

2013年10月8日火曜日

南薩のポストカード「Nansatz Blue」できました

以前お知らせした南薩のポストカード「Nansatz Blue」5枚セットが完成して、「南薩の田舎暮らし」で販売を開始した。

たくさんの素晴らしい写真の中から5枚を選ぶ作業はとても悩ましいもので、正直未だに「あっちの方を入れた方がよかったかなあ」と思う部分もある。特に気になっているのは、いろいろ考えて選んだにも関わらず、なぜか構図が似たようなものが並んでしまったことである。うーん。

とはいうものの、結果的にこれらの5枚は、観光客向けのよそ行きの顔ではない、南さつま市の素顔が切り取られたものになったように思う。これらは最近行政が力を入れている「南さつま海道八景」のメジャーな風景ではないし、迫力のある絶景というわけでもないけれど、地元の方に「自分たちの風景」だと受け取ってもらえるよう願っている。

それぞれの写真はぜひ現物を見てもらうこととして、この機会に、この5枚の写真の解説をしておきたい(順不同)。

○『空色の越路浜』
越路浜は、大浦町の遠浅の海岸である。日本三大砂丘の一つである吹上浜の南端に位置するが、越路浜自体は吹上浜の一部ではない(と思う)。この越路浜の特徴は、非常に遠浅であることで、勾配が15,000の1程度(つまり、15キロ進んで1メートル下がる傾き)しかない。この遠浅の勾配を利用して戦中より大規模な干拓事業が進められ、大浦町は鹿児島県において最大の干拓地を有している。(撮影:愛甲 智)

○『実る金峰町』
金峰町は早期水稲「金峰コシヒカリ」の一大産地であり、その出荷は日本一早い。霊峰金峰山からの石清水に育まれたお米は美味である。金峰町からは、一面に広がる稲穂の海の中に笠沙のランドマークである野間岳が望める。ちなみに、金峰町だけでなく、南薩西部(加世田、大浦町、笠沙町)は早期水稲の産地である。(撮影:愛甲 智)

○『黄昏の後浜』
笠沙の野間岬の根元は、野間池という(実際には池ではなく)湾になっているが、この反対側を後浜といい、ここに立神と呼ばれている大岩がある。この大岩は東シナ海に面して荒波を受け止める存在で、地元の人によれば写真のように鏡のような凪ぎになるのは一年に数回しかないという。(撮影:愛甲 智)

○『野間岳と蕎麦の花』
南薩は早期水稲の産地であるため、水稲後の水田の後作として蕎麦の栽培が盛んである。 長野とか新潟のように、一面の蕎麦の花、とはいかないが、最近では蕎麦の戸別所得保障の制度的後押しもあり産地が形成されつつある。金峰町の「きんぽう木花館」ではそば打ち体験も出来る。(撮影:向江 新一)

○『瑠璃色の坊浦』
坊津町に、網代(あじろ)浜という美しい浜がある。ここは、陸続きではあるが道がないので瀬渡し船を使って行く、プライベート・ビーチのようなところで、その海の青さは本土よりむしろ沖縄に近い。写真は、網代浜を往復する渡し船と付近にある小さな赤い灯台。(撮影:愛甲 智)

今回シリーズ名を「Nansatz Blue」としているが、もし資金が回収できれば、第2弾も作りたいし、例えば「Nansatz Green」とか他の色でもポストカードを作ってみたい。それに「南薩」を銘打っているので、南さつま市だけでなく、枕崎市や南九州市、 日置市へも対象を拡大してもいきたいと思う。また、今回の製作には友人・愛甲くんの絶大な協力をもらったが、地元の人が撮り溜めた素敵な写真を発掘してポスト カードを作ってみたい気持ちもあるし、単にポストカードを作って売るのではなくて、ソーシャル・メディアを使って参加型の取り組みもできたら面白い。だが増刷はしない予定なので、ご関心のある方はぜひ早めにお買い求めいただきたい。ちなみに地元では、「大浦ふるさと館」と「笠沙恵比寿」に置いている(1枚100円、5枚セット450円)。

2013年10月6日日曜日

ドイツの有機農業関係者5名に話を聞くシンポジウム

本日、「有機農業を通して世界の子どもたちに安全な食材を」と題されたシンポジウムに参加してきたので、その内容を紹介したい。

このシンポジウムは国際ロータリーの鹿児島・宮崎地区が主催するもので、同組織は鹿児島・宮崎から4名を来年ドイツへと派遣し有機農業の研修を行うプログラムも用意するなど、有機農業の振興に力をいれようとしているところである。実は、この派遣事業に私も応募したのだが、残念ながら選考で落ちてしまった。

で、このシンポジウムだが、簡単に言えば、ドイツから招聘した5名の有機農業の関係者に話を聞こうという会である。タイトルが「世界の子どもたちに安全な食材を」ということで、農薬と化学肥料の悪口ばかり言って終わる非生産的なものではないかと心配していたが、実際には穏当かつ有意義なものだった。以下、そのポイントを備忘のためまとめておきたい。 なお、農業に直接関係ない部分は割愛している。

(1)岩元 泉さん(鹿児島大学教授・NPO法人鹿児島県有機農業協会理事長)の話

  • ドイツの有機農業は日本の100倍の面積があり、全耕地面積の6%にものぼる。
  • これは政策的に有機農業が振興されてきた結果であると思う。
  • 日本では、1971年から有機農業が細々と取り組まれ、1999年の有機JAS法、2006年の有機農業推進法と徐々に歩みを進めてはいるが、まだ規模的に小さい。
  • 有機JAS法による「有機」の認証についても、実は国産のものより外国から輸入されたものの方が多く、国産の有機農産物をもっと増やしていくことが必要である。

(2)大和田 明江さん(NPO法人鹿児島県有機農業協会常務理事)の話

(NPO法人鹿児島県有機農業協会の活動の紹介なので割愛)

(3)カロリーン・ウルリッヒさん(有機農場経営者)の話

  • ヨーロッパでは、EUが有機農産物の統一規格を定めている他、民間の上位規格も存在する。
  • 私は200haの農地、12,000羽のニワトリ、250KW発電するバイオガスプラント、10,000㎡のハウスの有機農業の複合経営をしている。
  • ニワトリは、一人の女性が一日6時間働いて全部面倒を見ている。養鶏は機械化が進んでいるのであまり手はかからない。なお、ドイツでは全ての卵にスタンプが押されており、ウェブ上で生産者や農場を確認することができる。
  • バイオガスプラントは、(鶏糞由来のバイオガスを用いて?)電気と熱を生み出すもので、熱についてはハウスの加温に用いている。
  • ハウスでは、トマトとキュウリ、そしてリーフ類を栽培している。注目してもらいたいことは、そこで働いている38名全てが知的障害を持っている人達であることだ。
  • 私は、これらの事業によって、物質循環を農場内で閉じたものにするよう努めている。

(4)ユルゲン・ヘァレさん(養豚所経営・有機農業コンサルタント)の話

  • ミュンヘン市の有機農業推進について紹介する。
  • ミュンヘン市は、そのものが(市で)最大の有機農家であり、市自身が10個の農場を持ち、うち7つが有機農場である。
  • なぜミュンヘン市が有機農業をしているのかというと、水質管理と関係がある。ミュンヘン市ではSWMという公益企業が水道事業をしているが、この水源地の水質を保つためにミュンヘン市が土地を購入した。そして、"Organic Farmer"というキャンペーンをやって130人の農家に3500haの土地で有機農業を実践させた。また1800haの森も有機認証を受けている。
  • ドイツでは残留農薬とチッソ分の残留によって水質が低下したことが問題となったが、このために浄水設備を整える費用よりも、土地を購入して有機農業に補助金を出した方が安上がりだという判断があった。
  • またミュンヘン市では再生可能エネルギーに力を入れていて、既に37%の電力が再生可能エネルギーによって供給されている。2025年にはこれを100%にしようというのが目標である。

(5)パネルディスカッション(質疑応答)

■岩元さん:カロリンさんの農場は家族経営なのか? またドイツでは生産者は個人で販売するのが普通なのか、それともグループでやるのか?
■カロリンさん:私の農場はNPO法人で60名の人が働いている。販売ルートは多様であり、直販もあるし大手への卸もある。また直接お店に配送するというようなこともやる。
(※岩元さんの2つ目の質問はドイツの一般的事情を聞いたもののようだったが、噛み合っていなかったのかもしれない)

■司会:鹿児島の有機農産物をご覧になって、どうマーケティングしていけばいいと思ったか。
■シュテファーンさん(有機農業のマーケティングアドバイスをされている方):透明性を高めるというのが重要だと思う。生産者の顔がみえるような工夫が必要。ドイツでは有機農産物は普通の農産物に比べ価格は3割高いが、安心なものを求める消費者の志向に合致しているからよく売れる。

■大和田さん:日本の場合、環境を守りたいとか、安心なものを作りたいとかいう強い思いを持った生産者が、人生を掛けて有機農業に取り組む、というような感じで、失敗した場合のリスクも大きい。一方、ドイツの場合は政策的な後押しもあって、もう少し取り組みやすいように感じる。日本のように個人の頑張りだけで有機農業を広めようというのは難しいと思う。両国には政治的な違いもあると思うが、どうやって政治的な後押しを図っていったのか。
■シュテファーンさん:いろいろなレベルで支援がある。まず、国から有機農業への補助として1haあたり250ユーロの補助金があるし、ドイツ政府は消費者への啓発活動もやっていた。また、投資家を募って実施する有機農業のプロジェクトもあったし、(民間の)そうしたプロジェクトへの支援もやっていた。
(※大和田さんの質問は、有機農家がどのように政治家へアプローチをしていったのか、という質問だったように思ったが、少し噛み合っていなかったかもしれない)

■ユルゲンさん:日本に来てみて、日本人は食べ物に大変敬意を払っているように感じた。料理の作り方が細かくてとてもきれい。このようなものはドイツにはない。だが、食べる時だけでなく、それを生産する時へも敬意を払うようになれば有機農業を取り巻く厳しい状況も変わるのではないか。

■会場からの質問者:有機農業といえば昆虫と思っている。有機農業が盛んなオーストラリアではハエがたくさんいる。有機農業における昆虫の話を聞きたい。
■ユルゲンさん: 生物間のバランスを保つことが重要だと思っている。例えば畑のフチに鳥が巣を作れるような所を設けて、鳥に除虫してもらう工夫をしている。
■会場からの質問者:有機農業では害虫とか益虫とかいう概念はないと思っていた。そういう区分けは人間が勝手にしたものだから。
■ユルゲンさん:農業だから害になる虫がいるというのは当然である。
■シュテファーンさん:慣行農業だとポストハーベスト、つまり収穫後に貯蔵性を高めるために農薬を使うということもあるが、有機農業ではそれはしないので、益虫を倉庫の中に放すといった対策も行っている。
■カロリンさん:ハエの話があったが、自分の農場ではハエを駆除するためにクモを放している。
■ルートヴィヒさん(有機農業従事者):虫と有機農業という話でいうと、ミミズは土を耕してよい状態にしてくれるし、現在話題になっているようにミツバチが農薬の影響で世界的に減少しているが、もしミツバチがいなくなったら人間が手で受粉しなくてはならない(虫と協力しなくては農業はできない)。

■シュテファーンさん:有機農業は、よく考えてやらなくてはならないと思う。単純に薬を撒けばいいという農業ではないわけだから、いろいろ学んだ上で、様々なことを考慮に入れてやらないとうまくいかない。(了)

【補記】
シンポジウム終了後、ドイツからの有機農業関係者2人に話を伺いに行って、いくつか質問をしたが、その内容は以下の通り。
・病気をどうやって防止するのか?
→気温などを栽培植物に最も好適となるように管理すれば、自然と強壮となり、病気には罹りにくくなるものである。(カロリンさん)
・雑草の管理はどうするのか?
→もちろん野菜の種類によって違うが、中耕・培土とマルチング。特に生分解性マルチを使う。(以下シュテファーンさん)
・例えばベビーリーフの場合、マルチの穴の中は雑草を抑えられないと思うが。
→残念ながらそれはそう。手で取るしかない。
・土壌の微生物をよい状態に保つのに、何か特別な方法があるのか?
→混植が重要。また、5〜7年ごとにマメ科植物を植えることが土壌改善ができるし、やはり堆肥の施用は重要。
・どれくらい施用するのか。またその種類は何がよいと思うか。
→1haあたり20トンくらいだろう。種類は何でもいいと思う。刈草でもいいし、有機物をやること自体が大切だから。
・慣行農業から有機農業への転換の鍵は何か。
→実践している農家から話を聞くことが一番だと思う。

【コメント】
まず、ドイツからの招聘団のリーダーを努めていたカロリンさんの農業経営の規模が大きくまた先進的すぎ、このクラスの農家は日本でも数団体と思われるので、有機以前に農業の段階に差がありすぎた。しかし、それだけの規模で有機農業を経営していくにはたくさんの工夫があるに違いないので、詳しく話を聞ければ参考になる点が多いのかもしれない。

印象に残ったのは、ドイツの有機農業関係者がいい意味で普通の人達であることだ。日本の場合どうしても有機農家=変わり者という部分が否めないので、 このように普通の人達が普通に取り組んでいるというのは心強い。また、言っていることも大変真っ当であり、いろいろ細かい工夫はあるのだろうが、「こうすればうまくいく!」という魔法の杖があるのではなくて、適地適作を守るとか、堆肥を継続使用するとか、農業の基本を着実にこなしていくことが大事という考え方であった。

さらに、有機農産物のマーケティングに関しても、透明性を高めトレーサビリティをしっかりし、生産者の顔が見えるようにすることが重要といい、これらは有機農業ならずとも普通の農業でも求められることで、こうしたことは日本の農政においてもかねてより強調されてきたことである。

今回、ドイツに行って研修できないことは残念であるが、このシンポジウムでドイツの有機農業関係者の話を聞いてみて、海外で魔法の杖を探すのではなく、自身の営農を基本に沿って確立することが最も重要と感じた次第である。もちろん、細かい工夫も重要であるから、そういう勉強はしていく必要があるが、基本を当たり前にできるようになる、ということほど大事なことはないのだと思う。

2013年10月2日水曜日

高田石切場の壮大な石の壁

南九州市川辺の、高田という地区に「高田石切場」という産業遺産のようなものがある。

これは、江戸末期から昭和にかけて採石された場所の跡であるが、遺産というより既に遺跡の風格を持っている。私の拙い写真では全く表現出来ていないが、天を衝くほぼ垂直の石の壁が広がる様子は、あたかも神殿のような趣がある。

また、驚くべきことに、写真の場所ではないながら、近くでまだ採石が続いていて、一人だけ残った石工さんが仕事をしているとのことだ(少し古い情報なので、もしかしたら間違っているかもしれません)。

今でこそ、採石と石の加工は別の場所で行われ、採石場といえば単に石を切り出すだけの所であるが、昔は採石場で石工が鑿を振るい石造製品を作っていたわけで、ここから多くの石灯籠や墓碑、石碑、鳥居といったものが運ばれていったのだろう。川辺では、戦後になっても石工になろうとするものが多かったため、石工に弟子入りするのに町は1万円(!)を支払うよう命じたという話がある。

ちなみに、なぜ採石場で最終製品まで作ったのかというと、その理由は単純で、運搬する重さを少しでも減らそういうのが目的だ。当時は重機もなく、石切りと製品の運搬というのは相当な重労働だっただろう。この荘厳な石の壁も、なんと竹で足場を組んで、手作業で石を割って作られたものだそうだが、そういう方法で作り出されたとは俄には信じ難い。なお、この壁の上部には、27/3/7という文字が刻まれており、これはこの壁が切り出された年を表しているらしい。昭和27年3月7日ということなんだろうか…。

しかし、素人ながら、このように垂直に石を切り出すと、それから先の石切りが非常に不便になるように見えて仕方がない。上の方から階段状に切り出すのが合理的な気がするのだが、どの壁もそのようにはしていないわけで、具体的な工法を知りたいところである。

ついでに書くと、この壮大な石の壁は溶結凝灰岩でできている。溶結凝灰岩というのは、火砕流などによって高温の火山噴出物が堆積し、自重で圧縮されながら再度溶解し凝結したもので、要するに灰とか軽石のようなものが地上で高温高圧となって溶けて石になったものである。写真には、うっすらと層のようなものが見えるが、これは堆積した時に上からの圧力で層状になったもので、溶結凝灰岩の特徴がよく現れている(と思う。地学は体系的に学んだことがないので間違っているかもしれません)。

このように巨大な溶結凝灰岩の壁ができているということは、一度に20m以上もの火山噴出物が堆積したということだから、かつて桜島の噴火など比べものにならないほどの大噴火があったということになる。

実は、南薩は阿多カルデラという日本有数のどでかいカルデラを錦江湾側に持っていて、この阿多カルデラ成立の過程で数次にわたって起こった巨大噴火の影響で、ものすごい大きさの溶結凝灰岩の地層が多く見られる。約10万年前に起こった阿多火砕流の噴出物は約110km3というから、開聞岳(約8km3)14個分(!)くらいの灰や噴石が一度にばらまかれたことになる。 24万年前から10万年前までの間に、このクラスの噴火がなんと4回もあったそうである。

ちなみに、鹿児島北部はこれまた大きな姶良カルデラがあるし、島嶼部には鬼界カルデラがあって、鹿児島は有史以前は巨大火山のメッカの様相を呈していた。そのため県内では溶結凝灰岩が豊富に獲れ、やや脆いが加工しやすいこの石を利用して石造文化が発展したのではないかと思われる。8・6水害前にあった五石橋も全て溶結凝灰岩でできていた。

そして、鹿児島の石造遺物は、他の地域に比べ細かい細工が少なく、石そのものの質感が活かされているものが多いと言われるが、これは鹿児島人の気質というよりも、その素材が溶結凝灰岩であることが大きく影響しているのではなかろうか。なにしろ、この石は大理石や花崗岩のように硬く稠密ではないから、仮にミケランジェロであっても決してダヴィデを削り出すことはできないのだ。素材は、文化の基底に存在している裏の支配者である。

さらに蛇足だが、近くには「高田石切場の美味しい水」の水汲み場があって、ここの水は「命水」と名付けられていて大変美味である。最近、「水汲み場」のノボリが立ったので知名度が上がったのか、私が訪れた時もひっきりなしに大量のペットボトルに水を汲んでゆく人が立ち寄っていた。この水も、浸食されやすい溶結凝灰岩を通ってきているために、ミネラル分が多く含まれ、甘い味になっているのではないかという気がした。地質というのは普段の生活とは随分縁遠いようでいて、長い目で見てみると私たちの歴史や文化を動かす一つの力だと思う。

2013年9月23日月曜日

公民館に残る賞状で見る農村の昭和史

我が集落の自治会公民館には、古い賞状がいくつか掲示されている。これらは、積極的に掲示しているというよりは、かつて掲示していたものを敢えて外す必要もないからそのままになっている、というのが実態で、一見何の脈絡もない。でもその賞状たちを眺めていると、時代の移り変わりを如実に感じることができてとても興味深い。

そういうわけで、この賞状たちが語りかけるものを、少し長くなるがまとめてみたい。昭和6年から平成に至る数々の賞状があるが、全部を取り上げるとかなり冗長になるから、ポイントを絞って取り上げてみる。

まず、一番古い賞状は、昭和6年の「笠砂村 窪 施設消防組」への「感謝状」である。これは、天皇陛下が鹿児島に行幸したときに警備を担当したことに対する感謝を述べるもので、鹿児島県警の部長から贈られている。鹿児島では、青年団や消防団は、元は自警団であった場合が多いそうだが、ここでもそうだったのかもしれない。

次に、戦前の賞状では、昭和9年、10年、14年に「窪 報効農事小組合」宛てに表彰状がある。この「報効農事小組合」というのは、現在の公民館(自治会)の先祖にあたるもので、どうやら鹿児島独自のもののようだ。この大仰な名前の組織の具体的な姿は未詳だが、「農事」と名が付いているものの、農業の共同体なだけでなく、行政の下部組織としての位置づけもあった模様である。

当時は電話もコピー機もなく、簡単に連絡や意思疎通が図れなかったので、住民を指導したり、何かを提出させたりする場合には、役場だけでなくその末端組織としての自治会の役割が大きかった。役場の末端組織はこの報効農事小組合だけではなく、他にもいろいろあったようだが、基本的にはこれが報効農事小組合→常会→振興小組合→集落自治公民館と継承されていき、現在の自治会が形成されてきた模様である。

さて、この報効農事小組合が、何に対して表彰を受けているのかというと、実はそれがよく分からない。それぞれの主文を書き出してみると、
  • 報効農事小組合共進会に於いて[…]引続き5ヶ年間甲組一等賞を受けたるを(昭和9年)
  • 報効農事小組合共進会に於いて[…]その成績最も顕著なるに依り(昭和10年)
  • 堆肥増産一斉週間に当たり[…]その効績顕著なり仍て(昭和14年)
表彰する、となっている。3番目はともかく、上2つは「報効農事小組合共進会」が何を競う場なのか不明なため、一体どういう点が優れていたのか不明である。だが、3番目で堆肥増産が表彰されているところから見ると、営農活動が総合的に優秀であること、より実際的には、農産物の生産が計画通りであったことが評価されているのではないかと推測できる。

戦前の賞状にはもう一つあり、それは昭和13年の「窪 納税組合」宛てのものだ。これは、大正15年から10年間、国税の滞納がなかったことを表彰するもの。これも役場の末端としての組織の例であるが、この頃は税金の集金を納税組合が負っていた。集金の手間を約めるための手段でもあり、また脱税を防止する目的もあっただろう。何しろ、サラリーマンの世界ではないので、収入の実態は役所からは直接は見えない。百姓同士の相互監視といっては江戸時代じみているが、この頃は納税は自治会の重要な役割だったのである。

時代は戦後に移る。まずは昭和28〜29年の賞状がなぜかたくさん残っているのだが、この中には戦前と同じく振興小組合が農業共進会で1位を取ったり、村税の納入が表彰されたりというものがある。そして、戦前とは毛色の違う賞状として、貯蓄関係の表彰が増えてくる。

例えば、昭和28年には「窪 振興貯蓄組合」が「農業資金貯蓄の重要性をよく認識せられ全員力を合わせて貯蓄の増強に大きな成果を収め」たということで表彰され、また昭和29年には「窪 部落」が「貯蓄増強運動に協力せられ特に村づくり定期預金の消化において優秀な成績を収めた」ということで農協から賞されている。

この時期になぜ農協(というより農林中央金庫と言うべきか)が懸命に貯金集めをしたのか、そのあたりの事情はよくわからない。基本的には、高度経済成長期にあたり農林水産関係でも資金需要が大きかったことが理由なのだろう。投資の原資は貯蓄であるから、組合員の貯蓄を奨励し、農地や造林の整備を進めたのだと思う。一方で、このあたりから農協の金融機関としての性格が強くなっていくようにも感じる。

さらにこの時期の賞状の特徴的なこととして、何でもかんでも順位がついている、ということがある。例えば、村税の納入は「一等」で、「村づくり定期預金」は「第1位」である。こういうことで他の地域と競争させられていたというのは、今考えると珍妙である。ドンドン進めな時期であり、やたらと競争を煽り、遮二無二に「豊かさ」へ走らされていたのではないかという感じを受けた。

また、この時期に注目されるのは、「窪 婦人会」が「婦人学級に出席優秀」とのことで表彰を受けていることだ。婦人会が婦人学級に出席した、という当たり前のことであるが、どうしてその当たり前のことが表彰されているのか、ということが問題だ。

考えてみれば、ちょうど昭和30年代周辺というのは、農村婦人問題が勃興してくる時期である。農村婦人問題というのは、現代風に言うと「農村における女性の地位向上をどうやって成し遂げるか」という問題なのであるが、その本質は、新しい時代における理想の女性像の模索だったと見受けられる。

近代化以前の農村では、女性は農作業の重要な部分を担っており、例えば田植えが女性の仕事とされたごとく、ある面では男性より優れた仕事人として扱われていたのである。それが、戦争の影響もあるが近代化に伴って地位が低下し、さらに農業の機械化などにより女性が担う部分がサブ的なものとなったことで、女性は農村において確固たる地位を失っていったという歴史がある。また、男性のサラリーマン化によって「専業主婦」が登場してくる都市でも女性の地位は低下しており、女性の地位の面では農村と都市で問題が呼応している。

こうした流れに対応し、女性は農村社会において新たなる役割を模索する必要があった。その答えは未だに出ていないとも言えるが、その模索の取り組みとして「婦人学級」などが盛んに設けられ、とにかく今までやっていなかったことをやってみよう、農産物を商品化しよう、農産加工品を作ろう、といった取り組みがなされたのである。農村におけるフェミニズム運動の先駆者である丸岡秀子が『女の一生』(未読)といった数々の著作を世に問うていったのもこの時期だ。

さて、この後に賞状がよく残っているのが先ほどの賞状群から約10年後の昭和40年前後である(なぜ間が空いているのかわからない)。この時代になっても営農改善共進会の表彰は多い。だが、内容が個別化してきていて、「特産振興」「造林」そして「農協出資」がある。やはりここでも貯蓄(出資は貯蓄とは違うが、実質的には同じである)が組織的に奨励され、他の地域と競わされている状況は変わっていない。昭和43年には、「久保 婦人会」も「農協貯蓄増強運動にあたって[…]貯蓄増強に優秀な成績を収め」たということで表彰されている。農村では一家の収入は農業及び出稼ぎが中心で、女性には独自の収入源が乏しかったはずなのに、どうして婦人会までが貯蓄増強を担わされたのか、正直よくわからない。

またこの時期になると、それまで「窪 部落」「久保部落振興小組合」などとクボの漢字表記に揺れがあったのが、なぜか住民の姓にはない「久保」に統一されるとともに、様々な組織が統合された自治会としての「久保 公民館」に宛名が揃っている。「小組合」制度などは官製で作られたものにも関わらず、行政の方では積極的に解体しなかったようで現在も続いているところもあるが、自治会長と小組合長を別々に選ぶとなると人選も難しく手間もかかるため、「自治会長が小組合長を兼ねることにしましょう」というように実際的な面で組織の統合が進んだようである。

賞状の上では、最後まで別組織として残っていたのは「久保 納税貯蓄組合」で、昭和49年に「昭和45年度以降連続町税の納期限内完納という輝かしい実績」が表彰されている。都市部では既に源泉徴収が中心になっていた時期ではないかと思うが、農村ではまだ組合を作って納税していたというのが面白い。

昭和40年以降というのは、あまり面白い賞状は残っておらず、スポーツの順位のような普通のものが中心となる。唯一の例外は、平成元年に「林業関係競技会川辺地区大会」で「集落除間伐の部」で「久保 集落」が優秀賞を取っていることくらいだろうか。どういう競技会なのか気になるところである。

これで賞状の紹介は終わりだが、全体を通してとても驚くことがある。それは、昭和9年から昭和43年に至る賞状の多くが、「金一封を贈りその功績を表彰します」としていることである。村税の納税ですら「奨励金」が贈られている。さすがに婦人学級の参加にはないが、貯蓄の増強とか、今から考えると「なんでこんなことに…」と訝しむようなことでも金一封が贈られている。

とはいえ「お金では計れない価値がある」などと言い出すのはある程度豊かになった後の話で、経済成長期の価値観というのは、ちょっとしたことを賞するのでも金一封を必要とするようなものなのかもしれない。今、中国人がやたらと現金なのを「中国人はもともと商業民族」などと民族性を持ち出して説明されることがあるが、この賞状を前にすると、それは単に経済の発展段階の話なのだと思わざるを得ない。

また、貯蓄関係の賞状がたくさんあるのを見ると、「日本人はもともと貯蓄好き」だとする民族性の主張も大嘘だと思う。元々農村では現金で貯蓄するという習慣はなかったようだし、江戸にも「宵越しの金は持たぬ」とする考え方があった。近代化を推し進めるため組織的に貯蓄を進めさせたことで、急速に貯蓄習慣が形成されてきたということが実態だ。それは知識としては知っていたが、私はこの賞状を目にするまで、こんな貧しい農村でもここまで強く貯蓄が奨励されていたとは思いもしなかった。

最後に、賞状のデザインについて一言。賞状というと、2羽の鳳凰が向かい合っているものをイメージすると思うが、戦前には(公民館に残っているもののうちには)このデザインの賞状はなく、いろんなデザインがある。そして、昭和26年に鳳凰デザインが登場すると、一つの例外を除き全てが鳳凰デザインになってしまう。この鳳凰の賞状を誰がデザインしたのか知らないが、ともかく賞状界を席巻したことは間違いない。そして瞬く間に、他のデザインの賞状を駆逐し、独占状態を築いてしまった。もしデザイナーが意匠権などをちゃんとしていれば大金持ちになっていただろう。

さて、公民館に残っている賞状、という偶然残った史料を眺めてみるだけで、農村における一つの昭和史を覗く思いがした次第である。それは、普通に言われている昭和史とは少し違う、行政や農協と住民との関係の歴史だ。僅かに残された賞状だけでも、私自身多くの発見があったし、昭和の歴史観を少し修正しなくてはならない気分になってきた。もっと多くの賞状を見ることができれば、さらに面白い発見がありそうなので、機会があれば、公民館に残る古い資料を整理して歴史の遺物を探してみたい。

【参考文献】
鹿児島県における村落構造と自治公民館」1994年、神田 嘉延

2013年9月17日火曜日

ウッガンドンに「氏神」と刻まれているわけ

このあたりの集落には、「ウッガンドン」または「ウッガン様」と呼ばれる土地神のようなものがあって、細々とではあるが集落共同の祀りが行われている。

このウッガンドンの奇妙なところは、(全てではないが)正面や見やすいところに「氏神」と表示されていることだ。氏神信仰は別に珍しくもないが、祭祀の対象に「氏神」と表示するなどということは、このあたり以外では見たことがない。そして、どうしてそのようになっているのか、これまで誰も説明していないよう だから、その理由を考えてみたい。

まず、ウッガンドンは本当に氏神なのか、という基本的なことが茫洋 としていて、「招き入れた神」の意で「内神」なのかもしれないとの説がある。というより、ウッガンドン=氏神としていては意味が通じないものがあるから、 「内神」なのかどうかは別として、ウッガンドンは素直な意味では氏神ではないことは確実であるように思う。

例えば、我が窪 屋敷(「屋敷」は藩政時代の行政区画単位)には「デコンノウッガンドン」というのが祀られているが、これは「大根のウッガンドン」という意味だ。これが 「大根の氏神」では意味が通らない。大根の氏子といったものが想定されない以上、ウッガンドンは氏神ではない。ちなみに、昔はここらでは大根が食料として主食級に重要だったそうだが、隣の原(はる)集落で大根が豊作になったことがあり、それにあやかろうと大根の神さまを勧請(呼び寄せる)して作られたのがデコンノウッガンドンであるらしい。

とすると、氏神でないものを、氏神として堂々と表示していることになる。 いや、そもそも、本当は氏神ではないからこそ、これ見よがしに「これは氏神だ」と主張している気さえする。

そして、このウッガンドンというもの、一体いつからあるのだろう。大浦に今残るウッガンドンは、明治から昭和にかけてつくられた石造の社ばかりであるが、石造のものに変わる前は、窪屋敷の場合は小さな藁葺きの社があったそうである。集落のトシナモン(古老)に聞いてみると、少なくとも昭和の頃にできたものではなくて、それよりずっと前からあるもののようだ。

『大浦町郷土誌』によると、元々、ウッガンドンというのは、年貢負担の共同体たる門(かど)・方限の神だったそうである。藩政時代、鹿児島では百姓を門とか方限という単位にまとめ、これに年貢を納めさせた。納税を何戸かの連帯責任にすることによって、今風にいえば脱税を防止したのである。この制度は、全国的には「五人組」と呼ばれるものの薩摩藩版だ。

そして、この納税共同体のリーダーを務める家を乙名(おんな)と言い、所属する各戸を厳しく指導したという。何しろ、年貢がちゃんと納められなかったら乙名の責任になるわけだから必死である。そして、ウッガンドンの祭祀は、基本的にはこの乙名の家が担ったようだ。墓の相続でさえ面倒なものとして避けられる現在では想像が困難だが、古くより祭祀権というものはいろいろな権能の中でも最も重要なもので、これはある種の権力の源泉でもあった。ウッガンドンを祀るということは、その土地の重要事項を裁定する力を持っていたことの象徴だ。

そういうわけだから、世が明治に改まると、ウッガ ンドンの性格は変わらざるを得なかっただろう。鹿児島では明治10年まで門・方限制度は存続し、その後も形を変えて納税組合の制度は続いたが、乙名などの藩政時代以来のやり方は廃止された。そこで、ウッガンドンの存立基盤は一度揺らいだはずである。これまで大切に祀られてきた神が、直ちに等閑にされることはないとしても、それが依拠していた共同体が形式的には解体されてしまったわけだから、徐々に祭祀が先細っていくのが自然である。

しかし、ウッガンドンの祭祀は今でも続いている。解体したはずの門・方限が、結局は部落(鹿児島では「部落」という言葉には否定的意味はない)という形で自治体となり存立し続けたことが大きな原因であろうが、もう一つ考えられるのは、神社整理・神社合祀の政策による影響である。

鹿児島の神社整理についてはいずれちゃんと調べてまとめたいと思っているが、以前も書いたように、神社整理というのは「神社のヒエラルキー化・合理化・統廃合」を行った明治政府の政策である。これにより、多くの神社が廃止(合祀)されたが、一方では新たに作られた神社もある。その一つが、氏神を祀る神社である。

江戸幕府は、「寺請制度」 といって、全国民が必ずどこかの寺に所属していなければならないとする宗教政策を採っていたが、これの結果、共同体の祭祀は神道式ではなく「氏寺(うじで ら)」とか「氏仏(うじほとけ)」といって仏教式なものになっていることもあった。しかし、明治政府は神道を「国家の祭祀」とし国民をまとめる原理として採用したため、仏ではなく、天皇を頂点に戴く神々を全国民が讃仰する仕組みをつくらなくてはならなかった。

そのために、『古事記』や『日本書紀』と関係のない、つまり天皇と関係づけられない神社を廃止することもやったが、一方では氏神祭祀の強制ということもやったのである。氏神を祀ることは、皇祖を祀ることの基礎と見なされていたわけだ。それまで氏寺や氏仏しかなく氏神を祀っていなかった地域では、この時に急ごしらえの「氏神」が作られたこともあるという。

こういった全国的な流れを考慮すると、明治からウッガンドンが辿った道筋も少し見えてくる。神社整理の際には、記紀には関係がない、自然発生的信仰であった ウッガンドンは淫祠邪教のものとして廃されてもおかしくはなかった。しかし、氏神であればむしろ祀るべきものとされたため、鹿児島の民衆は、「ウッガンド ンは実際は氏神なんです」といってこれを救ったのではあるまいか。

だから、「氏神」であることを強く主張するために、敢えて「氏神」と刻んだのではと考えたい。氏神といっても、それは単に氏子の神というだけの意味で、氏(血族)の神でなければならないというわけではないし、ウッガンドンは氏神だ、という主張は別段こじづけではない。だから、民衆が嘘をついてウッガンドンを残したということでもないが、ともかくも「氏神」であると強く主張しなければならなかったプレッシャーがあったようには思われる。

そうして、ウッガンドンは、氏神信仰という「国家の祭祀」の一端として改めて地域社会に位置づけられることになったのだと思う。そして、太平洋戦争が終わり、氏神を祀らねばならないとする政策も終わりを告げた。ここに、ウッガンドンを存立させてきた制度的基盤は全て解体されたのである。

大浦町では見たことがないが、他の地区ではうち捨てられた氏神の社を見ることがある。人口減少で、もはや祭祀を行う人間がいなくなったという現実的理由で遺棄されたのだろう。ただ同時に、なんとしても祀らなければならないという理由が失われた信仰であることも、それは象徴的に示している。

今のところ、私の周りのウッガンドンたちには遺棄されるような徴候はない。 制度的な後ろ盾を失っても、地域の人間に親しまれてきたという文化的・慣習的な基盤は失われていないからだ。ウッガンドンがなんなのか、本当のところはよくわらないが、それは少なくとも藩政時代から私の先祖に祀られ、この土地の変遷を見守ってきたものだ。こういう昔風の信仰がいつまで続けられるか分からないし、そもそも、何がなんでもこうした祭祀を続けなければならないとも思わない。だが、こういう何気ない、弱々しいものでも残っていくような社会であってほしいと思うし、そういう努力を少しでもしていきたいと思う。

2013年9月6日金曜日

とも屋の「欧風銘菓 マドレーヌ」

南さつま市小湊(こみなと)に「とも屋」というお菓子屋さんがある。昔ながらのお菓子屋さんで、外観・内装などで目を引く店ではないが、そこのマドレーヌはパッケージデザインが秀逸である。他の商品はどうということもないのに、なぜかこのマドレーヌのデザインだけレトロかわいくて愛嬌がある。

トリコロール(赤・青・白)と「マドレ〜ヌ」の絶妙な書き文字。そして周りの唐草風模様。しかもこれらがシールなどではなく、アルミのマドレーヌ型に直接印刷されている。こういう風に焼き菓子の型が直接パッケージデザインとなっているのは最近珍しい(昔は結構あったようだ)。

そして、この丸形がいい。最近売っているマドレーヌはこういう丸形ではなくて、貝形をしているものが多い。もともとマドレーヌというのは貝形にアイデンティティがあって、本場フランスには丸形のマドレーヌはなく、丸形は日本独自のものという。だから、最近の貝形マドレーヌの方が「正しい」のであるが、日本では昔はマドレーヌといえば丸形だったわけで、何か「これぞ日本のマドレーヌ」と感じさせられる。

しかも、この日本風マドレーヌに「欧風銘菓」と銘打っているのがさらにいい。この「欧風」は、「日本人の憧れの中だけに存在していたヨオロッパ」なのだろう。そもそも、このマドレーヌ、シロップ(かリキュール)漬けのドライフルーツ(?)が入っていて、中はマドレーヌというよりパウンドケーキ風である。フランス菓子というよりも、田舎の茶飲み話に最適で、食べ応えのある落ちつく味である。

つまり、このマドレーヌは「欧風銘菓」を謳っているが、現実の欧州には存在していなかったもので、大げさに言えば、かつての日本人が「欧風」として思い描いたものなのだ。

そもそも、日本の海外文化の受容というものは、この約二千年間そういう調子だった。大陸の文化をそのまま受け入れるのではなく、断片的に入ってくるそれをなんとか繋ぎ合わせ、時に誤読し、時に深読みし、「理想化された海外」あるいは「きっとそうに違いない海外」をつくり上げてきた。

こうした営みを、稀代の編集者である松岡正剛氏は「日本という方法」という言葉で解説している。要は、コンテンツそのものよりもそのコンテンツをどう料理(編集)するかというところに日本らしさはあるんだよ、という話である。

日本らしければいい、というものでもないが、本場のものをそのままに受け入れずに、無意識的であれそれを我々の生活の間尺に合うようにアレンジするのは一つの創造的行為である。丸形マドレーヌが日本で生まれた理由も、単に貝の焼き型が手元になかったからという単純な理由によるのだろうが、そのお陰で日本でマドレーヌがこんなに普及したのではないだろうか。貝型にこだわっていたら、これほどは広まらなかったように思う。

こういう「かつての日本人が本場風として思い描いたもの」は、今ではもうめっきり少なくなって、本当に本場のもの(とされているもの)か、あるいは手軽な代用品ばかりになってしまったように感じる。とも屋のマドレーヌは、デザインの秀逸さもさることながら、なんだか手の届かないところに「本場」があった古き良き時代を伝えるものに思えるので、これからもずっとこの形で残っていって欲しい。
【情報】
とも屋菓子舗
〒897-1122 鹿児島県南さつま市加世田小湊7664
0993-53-9202