本やCDなどが溢れていて、というか引っ越し以来まだ開封していない段ボールもあったので、棚を自作した。
高さ約1m、幅2m40cm、奥行30cmという結構大きな棚である。材料費は2万円弱。購入するよりも随分安く済んだと思う。太めの木材を使ったお陰で重厚感があり、これまで作った家具の中で最も高級に見える。
それに、DIYにも大分慣れてきて、木材を買いに行く手間も含めて作業時間は2日間くらいでできてしまった。自分の中では、やっと初心者脱却である。
こいつはオシャレなカフェにある家具みたいな雰囲気があるのだが、その秘密は塗装である。今回初めて、BRIWAX(ブライワックス)というやつを使ってみたが、これの質感がかなりよい。これは「ヨーロッパで最も優れたワックス」という惹き文句で売られているが、事実色に深みがあり、わざとらしくないツヤがあって美しい。それだけでなく、主成分は蜜蝋と植物油で自然由来のものであるため、塗っている最中もイヤな匂いが全くないしホルムアルデヒドの放散がほとんどない。さらにその上、これが一番重要なことだが、そのあたりのホームセンターで売っている適当な塗料よりも安いのである(※)。
その代わり、この塗料は機能性はあまりない。耐水性もないし、防カビ性もないようだ。さらに壁紙等に色移りする。椅子に使ったら、多分服に色移りするだろう。熱にも弱い。つまり、見た目は最高によいが、当たり障りのない場所にしか使えない塗料なのである。だから安いのかもしれない。
ちなみに、今回の反省点は、一番下の棚板を補強しなかったことである。全体としては無駄に頑丈に作られていて、天板の耐荷重は(計算上)3トンくらいあるが、最も重いものを載せる最下段の棚板の強度に無頓着だったことに、実際に本を入れてみて気づいた。やはり設計をする時は、どこにどのような力がかかるか、をちゃんと考えなければならないと思った。
※ ネットで調べてみると、そんなに安いか? と疑問を抱く人もいると思うが、実は表面をきれいにしておけば、このワックスは仕様の2倍くらいの面積を塗装することができる。凡百の木材塗料の塗装可能面積が「最大このくらい塗れる面積」で表示されている一方、このワックスの場合、「最低限このくらい塗れる面積」で表示されているように思われた。
2013年7月19日金曜日
2013年7月17日水曜日
アーモンドの品種と植物検疫
開墾作業中である。
かつてカンキツが植えられ、この5〜6年ほど耕作がされていなかった所を借りることができた。既に果樹は枯れるか弱るか切られるかしているし、セイタカアワダチソウが人の背より伸びているが、逆に自由に植栽計画を考える楽しみもある。
というわけで、以前から注目しているオリーブと、思いつきのような話だがアーモンドを植えられないか検討している。
アーモンドというとどういう樹なのか全く見当がつかない人がほとんどと思うが、アーモンドはモモの仲間で日光と乾燥を好み、栽培適地がカンキツと似ている。世界的に有名なアーモンドの産地にはカリフォルニア、スペイン、そしてイタリアのシチリア島があり、これら全てがオレンジの名産地であることを考えると、同じくカンキツの産地である南薩でもアーモンド栽培ができるのではないか、と期待させられる。
ちなみに、一般的なアーモンドのイメージは「チョコの中に入っているもの」「おつまみのナッツ」あたりだろうが、アーモンドは紀元前から地中海沿岸では大変重要な作物とされており、お菓子や料理の材料として必要不可欠なものだ。地中海のアーモンドは日本に輸入されている米国産の大量生産品と比べ格段に美味しいと言われ、イタリア料理においては主役級の役割を果たす。
そこでアーモンド栽培に取り組んでみたいと思い、苗木を探しているのだが、これが全く見つからない。趣味の園芸用の苗木はインターネットで売っているが、品種の明らかなものはほとんどなく、品種が明示されているものも「ダベイ」という品種のものしかない。ダベイはかつて米国で栽培されたが不振で放棄された過去の品種であり、これを今さら経済生産するのは理に適わない。いろいろ調べてみると、どうやら、日本には現在世界の主要品種のアーモンドは入ってきていないようだ。
私が是非とも手に入れたいと思っているのは、「アーモンドの女王」と呼ばれるスペインの主要品種「マルコナ」か、シチリアの主要品種である「パルマ/ギルジェンティ」種である。これらが日本の湿潤な気候に耐えうるのかはよく分からないが、少し調べてみるとこれらにはめちゃくちゃ美味しそうな雰囲気があり、食べてみたいと思わされる。できるならこういう美味しそうなやつを育ててみたいのが人情だ。
しかしこういった品種の苗は日本には見当たらない。というのは、周知の通り日本ではアーモンドが経済生産されていないので、これらを輸入しようという奇特な人がいないためだろう。というのも、植物検疫の関係で、アーモンドを輸入するのはかなり手間がかかるからだ。植物検疫というのは、世界的な病害虫の蔓延を防ぐためにある種の植物については輸入に大変気を使うという仕組みである。アーモンドのような果樹については、海外から取り寄せる場合は1年間も隔離栽培を行って、病害虫に冒されていないことを確認した上でないと輸入できないのである。
1年間も特別のビニールハウスで隔離しなくてはならないというのはかなりのコストなので、これを誰もやりたがらないのは当然だ。そのため、日本で今流通しているアーモンドの苗というのは、かなり昔に米国からアーモンドを導入しようとした時に輸入した苗の子孫なのではないかと思われる。果樹を輸入するというのは大変なのだ。
こういう事情から、果樹の世界というのは、意外にグローバルではない。野菜や穀物は結構品種がグローバル化しているのだが、果樹の場合は輸出入が簡単でないために各国で独自の品種改良が行われており、いい意味でも悪い意味でもガラパゴス化しているわけだ。
例えばイタリアは世界的な栗の名産地で、日本でも「イタリア産の栗」といえば栗の中でも美味しいものと考えられているが、イタリアの栗の品種(例えばピエモンテ)は日本にはこれまで入ってきていなかった。日本でも栗の栽培は盛んなのに、植物検疫が面倒だからピエモンテ栗を日本に導入しようという人がいなかったのである。最近、熊本の方がピエモンテ栗を輸入し、日本でも栽培する「マロンプロジェクト」という取組をやっているが、こうした例は稀有であり、輸入に手間がかかる上に気候風土が合わないリスクもある海外の品種を敢えて手に入れようとする人はほとんどいない。
だが、一度やってみたいと思うとやってみずにはおれない性分なので、是非とも地中海のアーモンドの品種を導入したい。何かよい方法があればいいのだが、今のところ良案が浮かばない。苗ではなくタネの場合は検疫が免除される(場合がある)ので、アーモンドのタネを個人輸入して実生で育てるというのが現実的だが、それですら簡単ではなさそうである。でも「マロンプロジェクト」ならぬ「南薩のアーモンドプロジェクト」ができたら面白い。いい知恵があったらお貸し願いたい。
かつてカンキツが植えられ、この5〜6年ほど耕作がされていなかった所を借りることができた。既に果樹は枯れるか弱るか切られるかしているし、セイタカアワダチソウが人の背より伸びているが、逆に自由に植栽計画を考える楽しみもある。
というわけで、以前から注目しているオリーブと、思いつきのような話だがアーモンドを植えられないか検討している。
アーモンドというとどういう樹なのか全く見当がつかない人がほとんどと思うが、アーモンドはモモの仲間で日光と乾燥を好み、栽培適地がカンキツと似ている。世界的に有名なアーモンドの産地にはカリフォルニア、スペイン、そしてイタリアのシチリア島があり、これら全てがオレンジの名産地であることを考えると、同じくカンキツの産地である南薩でもアーモンド栽培ができるのではないか、と期待させられる。
ちなみに、一般的なアーモンドのイメージは「チョコの中に入っているもの」「おつまみのナッツ」あたりだろうが、アーモンドは紀元前から地中海沿岸では大変重要な作物とされており、お菓子や料理の材料として必要不可欠なものだ。地中海のアーモンドは日本に輸入されている米国産の大量生産品と比べ格段に美味しいと言われ、イタリア料理においては主役級の役割を果たす。
そこでアーモンド栽培に取り組んでみたいと思い、苗木を探しているのだが、これが全く見つからない。趣味の園芸用の苗木はインターネットで売っているが、品種の明らかなものはほとんどなく、品種が明示されているものも「ダベイ」という品種のものしかない。ダベイはかつて米国で栽培されたが不振で放棄された過去の品種であり、これを今さら経済生産するのは理に適わない。いろいろ調べてみると、どうやら、日本には現在世界の主要品種のアーモンドは入ってきていないようだ。
私が是非とも手に入れたいと思っているのは、「アーモンドの女王」と呼ばれるスペインの主要品種「マルコナ」か、シチリアの主要品種である「パルマ/ギルジェンティ」種である。これらが日本の湿潤な気候に耐えうるのかはよく分からないが、少し調べてみるとこれらにはめちゃくちゃ美味しそうな雰囲気があり、食べてみたいと思わされる。できるならこういう美味しそうなやつを育ててみたいのが人情だ。
しかしこういった品種の苗は日本には見当たらない。というのは、周知の通り日本ではアーモンドが経済生産されていないので、これらを輸入しようという奇特な人がいないためだろう。というのも、植物検疫の関係で、アーモンドを輸入するのはかなり手間がかかるからだ。植物検疫というのは、世界的な病害虫の蔓延を防ぐためにある種の植物については輸入に大変気を使うという仕組みである。アーモンドのような果樹については、海外から取り寄せる場合は1年間も隔離栽培を行って、病害虫に冒されていないことを確認した上でないと輸入できないのである。
1年間も特別のビニールハウスで隔離しなくてはならないというのはかなりのコストなので、これを誰もやりたがらないのは当然だ。そのため、日本で今流通しているアーモンドの苗というのは、かなり昔に米国からアーモンドを導入しようとした時に輸入した苗の子孫なのではないかと思われる。果樹を輸入するというのは大変なのだ。
こういう事情から、果樹の世界というのは、意外にグローバルではない。野菜や穀物は結構品種がグローバル化しているのだが、果樹の場合は輸出入が簡単でないために各国で独自の品種改良が行われており、いい意味でも悪い意味でもガラパゴス化しているわけだ。
例えばイタリアは世界的な栗の名産地で、日本でも「イタリア産の栗」といえば栗の中でも美味しいものと考えられているが、イタリアの栗の品種(例えばピエモンテ)は日本にはこれまで入ってきていなかった。日本でも栗の栽培は盛んなのに、植物検疫が面倒だからピエモンテ栗を日本に導入しようという人がいなかったのである。最近、熊本の方がピエモンテ栗を輸入し、日本でも栽培する「マロンプロジェクト」という取組をやっているが、こうした例は稀有であり、輸入に手間がかかる上に気候風土が合わないリスクもある海外の品種を敢えて手に入れようとする人はほとんどいない。
だが、一度やってみたいと思うとやってみずにはおれない性分なので、是非とも地中海のアーモンドの品種を導入したい。何かよい方法があればいいのだが、今のところ良案が浮かばない。苗ではなくタネの場合は検疫が免除される(場合がある)ので、アーモンドのタネを個人輸入して実生で育てるというのが現実的だが、それですら簡単ではなさそうである。でも「マロンプロジェクト」ならぬ「南薩のアーモンドプロジェクト」ができたら面白い。いい知恵があったらお貸し願いたい。
2013年7月12日金曜日
日本かぼちゃ界の最高峰 vs 加世田のかぼちゃ
「栗マロンかぼちゃ」という、なんだかとても重複感のある名前を持つブランドかぼちゃをご存じだろうか?
これは、1個2000円程度、(基本的には通販でしか売っていないようなので)送料を含めると1個3千円近くという、かぼちゃとしては相当高額なブランド品、私の知る限りでは日本かぼちゃ界の最高峰である。
私は、一応「加世田のかぼちゃ」を暫くは作っていこうと思っているわけだが、実際のところ「加世田のかぼちゃ」がどれくらい美味しいのかということに疑問を抱き、この最高峰のかぼちゃを取り寄せて食べ比べてみることにした。というのも、確かに「加世田のかぼちゃ」は大変美味しいかぼちゃだと思うが、井の中の蛙なのかもしれない、とも思うからである。大体、かぼちゃなんて真面目に食べ比べしたことがない。
で、結果だが、確かに「栗マロンかぼちゃ」の方が美味い。が、その差は思ったほど大きくない、と思った。
シンプルな料理で比べた方がよいということで、「栗マロンかぼちゃ」を切ってオーブンで蒸し焼きにしてみたが、オーブンから出した時に広がる蜜のような甘い香りがすごい。これは「加世田のかぼちゃ」にはなく、まるでメープルシロップの香りのような、お菓子のような香りで、とてもかぼちゃとは思えない。
だが、味や食感は、まあこういう言い方をしてしまうと実も蓋もないが、所詮はかぼちゃである。「まさか、こんなかぼちゃが存在するなんて…!」というような驚きを期待していた方が悪いのかもしれない。かぼちゃとしては文句なく大変美味しいけれども、1個2000円以上という値段に見合った味なのかどうかはよく分からない。というか、「加世田のかぼちゃ」の最良のものの味と、だいたい同じくらいだと思う。
しかし、決定的に違うものがある。パッケージとパンフレットである。たかがかぼちゃのくせに、フルーツキャップでくるまれ冷蔵便で配達される上、WEBで説明していることも含めて、「栗マロンかぼちゃ」がいかに手間がかかり、いかに美味しいのか、また熟度の見極め方と言ったようなことが数ページにわたって書かれたパンフレットが同封されている。高級フルーツでも、ここまでやっているのは少ないと思う。
ちなみに、「栗マロンかぼちゃ」は栽培にやたら手間がかかる、ということなのだが、そこで説明されていることのほとんどは「加世田のかぼちゃ」でもやっていることだ。まあだからこそ大体同じ味になるのだと思うが、こういうブランド化の努力をしたことで、「栗マロンかぼちゃ」と「加世田のかぼちゃ」には(少なくともWEB上の存在感の点では)雲泥の差がついている。
産地や小売りにはそれぞれの思惑があるので、どちらが正しい戦略なのかは分からないが、日本かぼちゃ界の最高峰とそれなりに比べられる美味しさを持ちながら、「加世田のかぼちゃ」が一般的にはほぼ無名なのはもったいない。手間がかかる割には儲けが薄いということで生産が漸減しつづけている「加世田のかぼちゃ」だが、そのポテンシャルは決して低くはないと再確認した次第である。
これは、1個2000円程度、(基本的には通販でしか売っていないようなので)送料を含めると1個3千円近くという、かぼちゃとしては相当高額なブランド品、私の知る限りでは日本かぼちゃ界の最高峰である。
私は、一応「加世田のかぼちゃ」を暫くは作っていこうと思っているわけだが、実際のところ「加世田のかぼちゃ」がどれくらい美味しいのかということに疑問を抱き、この最高峰のかぼちゃを取り寄せて食べ比べてみることにした。というのも、確かに「加世田のかぼちゃ」は大変美味しいかぼちゃだと思うが、井の中の蛙なのかもしれない、とも思うからである。大体、かぼちゃなんて真面目に食べ比べしたことがない。
で、結果だが、確かに「栗マロンかぼちゃ」の方が美味い。が、その差は思ったほど大きくない、と思った。
シンプルな料理で比べた方がよいということで、「栗マロンかぼちゃ」を切ってオーブンで蒸し焼きにしてみたが、オーブンから出した時に広がる蜜のような甘い香りがすごい。これは「加世田のかぼちゃ」にはなく、まるでメープルシロップの香りのような、お菓子のような香りで、とてもかぼちゃとは思えない。
だが、味や食感は、まあこういう言い方をしてしまうと実も蓋もないが、所詮はかぼちゃである。「まさか、こんなかぼちゃが存在するなんて…!」というような驚きを期待していた方が悪いのかもしれない。かぼちゃとしては文句なく大変美味しいけれども、1個2000円以上という値段に見合った味なのかどうかはよく分からない。というか、「加世田のかぼちゃ」の最良のものの味と、だいたい同じくらいだと思う。
しかし、決定的に違うものがある。パッケージとパンフレットである。たかがかぼちゃのくせに、フルーツキャップでくるまれ冷蔵便で配達される上、WEBで説明していることも含めて、「栗マロンかぼちゃ」がいかに手間がかかり、いかに美味しいのか、また熟度の見極め方と言ったようなことが数ページにわたって書かれたパンフレットが同封されている。高級フルーツでも、ここまでやっているのは少ないと思う。
ちなみに、「栗マロンかぼちゃ」は栽培にやたら手間がかかる、ということなのだが、そこで説明されていることのほとんどは「加世田のかぼちゃ」でもやっていることだ。まあだからこそ大体同じ味になるのだと思うが、こういうブランド化の努力をしたことで、「栗マロンかぼちゃ」と「加世田のかぼちゃ」には(少なくともWEB上の存在感の点では)雲泥の差がついている。
産地や小売りにはそれぞれの思惑があるので、どちらが正しい戦略なのかは分からないが、日本かぼちゃ界の最高峰とそれなりに比べられる美味しさを持ちながら、「加世田のかぼちゃ」が一般的にはほぼ無名なのはもったいない。手間がかかる割には儲けが薄いということで生産が漸減しつづけている「加世田のかぼちゃ」だが、そのポテンシャルは決して低くはないと再確認した次第である。
2013年7月8日月曜日
長屋山自然公園からの素晴らしい眺め
ほぼ毎日その山容を見ていながら、これまで一度も頂上に登ったことがなかった長屋山(ちょうやざん)に車で行ってみた。
頂上付近には「長屋山自然公園」が整備されており、駐車場、トイレ、展望所兼休憩所のようなところがある。
この展望所からの眺めは最高で、この写真の景色が目に入ってきたときは思わず笑ってしまったほどだ。あまり期待せずに行っただけに驚きは大きい。吹上浜が描く美しい弧が青い海を切り取り、その上には積乱雲の壁が乗っている、という夏らしい瞬間。カメラの望遠レンズを持っていくのを忘れたのが非常に惜しかった。
この長屋山自然公園だが、作られた時はもう少し施設が附設されていた形跡もあるが、今ではやや壊れかけた展望台があるだけ、という状態である。それでも、ここにバーベキューセットを持ち込んで、この素晴らしい景色を眺めながらワイワイガヤガヤしたらもの凄く楽しそうである。一応草払い等はしてあるので、公園としての体裁は失っていないし、トイレが半廃墟化しているのが唯一の欠点だが、まあこういう山頂に公衆トイレがあるということ自体が稀有なことだ(それにしてもどうやって水を引いているのだろう)。
公園からさらに少し登ったところが山頂で、ここには加世田ARSR(航空路監視レーダー)というバカでかい無線基地がある。ARSRというのは、いわばGPS登場以前のGPSであり、上空にある航空機の位置を計測する無線施設で、全国に16ヶ所ある。そのうちの一つがなぜかこの長屋山に設置されているというわけで、山頂の風景を損なっているとも言えるが、そのおかげで舗装道路があるし、公園も整備されている。
この監視レーダーの横にある小さい丘が本当の山頂で、ここからは大浦干拓を遙かに見下ろすことができ、展望所よりも視角は狭いがこちらも絶景である。特に干拓とその先にある洋上の小島群の対比は美しい。
長屋山は標高は500mちょっとと決して高くはないが、山裾が広大で堂々としており、周りも開けているので何か立派な感じのする山である。観光名所にするにはもう少し公園の整備が必要だと思うが、登って損はない山だと思った。
頂上付近には「長屋山自然公園」が整備されており、駐車場、トイレ、展望所兼休憩所のようなところがある。
この展望所からの眺めは最高で、この写真の景色が目に入ってきたときは思わず笑ってしまったほどだ。あまり期待せずに行っただけに驚きは大きい。吹上浜が描く美しい弧が青い海を切り取り、その上には積乱雲の壁が乗っている、という夏らしい瞬間。カメラの望遠レンズを持っていくのを忘れたのが非常に惜しかった。
この長屋山自然公園だが、作られた時はもう少し施設が附設されていた形跡もあるが、今ではやや壊れかけた展望台があるだけ、という状態である。それでも、ここにバーベキューセットを持ち込んで、この素晴らしい景色を眺めながらワイワイガヤガヤしたらもの凄く楽しそうである。一応草払い等はしてあるので、公園としての体裁は失っていないし、トイレが半廃墟化しているのが唯一の欠点だが、まあこういう山頂に公衆トイレがあるということ自体が稀有なことだ(それにしてもどうやって水を引いているのだろう)。
公園からさらに少し登ったところが山頂で、ここには加世田ARSR(航空路監視レーダー)というバカでかい無線基地がある。ARSRというのは、いわばGPS登場以前のGPSであり、上空にある航空機の位置を計測する無線施設で、全国に16ヶ所ある。そのうちの一つがなぜかこの長屋山に設置されているというわけで、山頂の風景を損なっているとも言えるが、そのおかげで舗装道路があるし、公園も整備されている。
この監視レーダーの横にある小さい丘が本当の山頂で、ここからは大浦干拓を遙かに見下ろすことができ、展望所よりも視角は狭いがこちらも絶景である。特に干拓とその先にある洋上の小島群の対比は美しい。
長屋山は標高は500mちょっとと決して高くはないが、山裾が広大で堂々としており、周りも開けているので何か立派な感じのする山である。観光名所にするにはもう少し公園の整備が必要だと思うが、登って損はない山だと思った。
2013年6月28日金曜日
水陸両用バスに試乗
先日、南さつま市が実証実験として運行した水陸両用バスに試乗させてもらった。南さつま市では、海沿いの景観を生かした観光振興の一環として、話題性のある水陸両用バスの定期運行を計画しているという。
当日の試乗コースは仁王崎から片浦漁港へ行き、そこから進水して片浦湾内を一巡りしてまた元に戻ってくるというもの。全体を通じてみて、ネガティブで申し訳ないが「定期運行したら赤字だろうな」と思ってしまった。
片浦湾内の景色は悪くないが、やはりなぜ水陸両用バスでなければならないのか、というところがぼやけていて、観光するなら遊覧船でいいんじゃないかと思う。この水陸両用バスは波が静かな内海でしか運行できないのではないかと思われるが、おそらくそのためにコースが片浦湾内に限定されてもいる。本当にそうかどうかはわからないものの、あえて片浦湾内を観光しているというよりは、外海に行けないからしょうがなくそこを巡っている、という感じがぬぐえない。
せっかくの水陸両用バスなので、バスでも、遊覧船でもできない特徴的な観光コースができればよいと思う。例えば、無人島に上陸するとか、そういう無茶はできないものだろうか。少なくとも、「景色がきれい」という漠然としたアピールの仕方ではなくて、「水陸両用バスでしか見られないこの景色が見られます!」というような目玉が欲しいところである。
他にも、実際に定期運行を考えると難しい点が多々あり、予算的なことも考えると、イベント的な運行に留めておいた方がいいような気がする。
ただ、船上で観光ガイドをしていただいた「加世田いにしへガイド」の方の案内は結構ためになり面白かった。短い遊覧コースではあったが、そこには意外にもたくさんの歴史があり、ただ風景がきれいなだけではない、奥深い内容があったと思う。観光振興には話題性も重要だが、ああいう地味な活動はもっと大事だと思うので、同じお金を使うなら、そういう草の根の動きを一層盛んにするような使い方をしてもらいたい。
当日の試乗コースは仁王崎から片浦漁港へ行き、そこから進水して片浦湾内を一巡りしてまた元に戻ってくるというもの。全体を通じてみて、ネガティブで申し訳ないが「定期運行したら赤字だろうな」と思ってしまった。
片浦湾内の景色は悪くないが、やはりなぜ水陸両用バスでなければならないのか、というところがぼやけていて、観光するなら遊覧船でいいんじゃないかと思う。この水陸両用バスは波が静かな内海でしか運行できないのではないかと思われるが、おそらくそのためにコースが片浦湾内に限定されてもいる。本当にそうかどうかはわからないものの、あえて片浦湾内を観光しているというよりは、外海に行けないからしょうがなくそこを巡っている、という感じがぬぐえない。
せっかくの水陸両用バスなので、バスでも、遊覧船でもできない特徴的な観光コースができればよいと思う。例えば、無人島に上陸するとか、そういう無茶はできないものだろうか。少なくとも、「景色がきれい」という漠然としたアピールの仕方ではなくて、「水陸両用バスでしか見られないこの景色が見られます!」というような目玉が欲しいところである。
他にも、実際に定期運行を考えると難しい点が多々あり、予算的なことも考えると、イベント的な運行に留めておいた方がいいような気がする。
ただ、船上で観光ガイドをしていただいた「加世田いにしへガイド」の方の案内は結構ためになり面白かった。短い遊覧コースではあったが、そこには意外にもたくさんの歴史があり、ただ風景がきれいなだけではない、奥深い内容があったと思う。観光振興には話題性も重要だが、ああいう地味な活動はもっと大事だと思うので、同じお金を使うなら、そういう草の根の動きを一層盛んにするような使い方をしてもらいたい。
2013年6月23日日曜日
なんちゃって有機農業、の結果
先日、露地(9尺トンネル)のかぼちゃを収穫して農協に出荷した。出来はどうだったかというと、想定よりも出荷コンテナの数が少なかったので、やや不作だったと言えるだろう。
不作だった原因はいくつかあり、重要な時期に強風が吹いて樹勢が弱ったから、ということもあるが、主な原因は当初「有機的管理」、つまり「なんちゃって有機農業」でやろうとしたためだろうと思われる。そこで、個人的な備忘メモになるが、今回感じたことを記しておこうと思う。
まず、今回コンパニオン・プランツというものを試してみたが、これにはあまり効果はなかった。コンパニオン・プランツとは、簡単に言えば生育を互助するような相性のいい植物を共に植えることをいう。かぼちゃの場合はネギと相性がいいということで、種の段階からネギを混植してみた。これ以外の条件をきっちり同じにしていないので、統計的に意味のあるデータは取れなかったが、どうも効果はあったとしても小さいようだ(まあ、元よりそんなものだろうとは思う)。ただ、これに関しては別段手間やお金がかかることでもないので、今後もいろいろ試してみたい。
次に、今回は農薬を1回しか使わなかった。というか、最初は栽培期間中無農薬で作ろうと思っていたのだが、結局カボチャうどん粉病が激しすぎて葉が持ちそうになかったので、やむなく1回使った、というのが実態である。農協に出荷するものなので、農薬を無理に減らす必要はないし、減らしても特に値段が変わることもないけれど、農薬が経れば経費も減るし、自分が嬉しいので試してみたところである。結果から言えば、農薬は2回は使った方が経営的には良かったと思う。
当初はアブラムシがひどく、大丈夫か不安になったが、これは意外と放置していても平気で、一部潰滅したところもあったが、思ったほど広がらなかった。適切な間隔で定植していれば、特に何も対策をしなくても、アブラムシによる減収効果は2〜5%ではないだろうか。これは最近よく言われるようになった「経済的被害許容水準」というやつに合致しているだろう。ちなみに、この経済的被害許容水準というのは、乱暴に言えば「この程度の病害虫だったら、経済的被害が小さいから放っておきましょうね!」という考え方である。
結局かぼちゃの病害虫防除の主戦場はうどん粉病であって、これをどれだけ避けうるかによって農薬が減らせるかが決まるのだと思う。
こうしてほんの数ヶ月ではあるが有機的管理をしてみて思ったのは、有機農業というのは農薬なり化学肥料なりを使わない農業、ということではなくて、圃場生態系を整えて病害虫の発生を抑制することで農薬や化学肥料を使わないで済む農業なのであって、単に農薬を減らそうとしても全然お話にならない、ということである。まず圃場生態系、つまり圃場に住む微生物から昆虫までの生態系をバランスのよいものにするのが第一歩で、わかりやすい言い方をすれば「土作りを頑張ろう」ということに尽きる。
だが問題は、どうしたらいい土が作れるのか、ということでこれには自分の中にまだ回答がない。さらに、本当によい土が作れたら、農薬使用をなくせるのかどうかも実際のところよく分からない。よく分からないけれども、しばらくはいろいろ試してみて、どういう可能性があるのかを実感してみたいと思っている。
不作だった原因はいくつかあり、重要な時期に強風が吹いて樹勢が弱ったから、ということもあるが、主な原因は当初「有機的管理」、つまり「なんちゃって有機農業」でやろうとしたためだろうと思われる。そこで、個人的な備忘メモになるが、今回感じたことを記しておこうと思う。
まず、今回コンパニオン・プランツというものを試してみたが、これにはあまり効果はなかった。コンパニオン・プランツとは、簡単に言えば生育を互助するような相性のいい植物を共に植えることをいう。かぼちゃの場合はネギと相性がいいということで、種の段階からネギを混植してみた。これ以外の条件をきっちり同じにしていないので、統計的に意味のあるデータは取れなかったが、どうも効果はあったとしても小さいようだ(まあ、元よりそんなものだろうとは思う)。ただ、これに関しては別段手間やお金がかかることでもないので、今後もいろいろ試してみたい。
次に、今回は農薬を1回しか使わなかった。というか、最初は栽培期間中無農薬で作ろうと思っていたのだが、結局カボチャうどん粉病が激しすぎて葉が持ちそうになかったので、やむなく1回使った、というのが実態である。農協に出荷するものなので、農薬を無理に減らす必要はないし、減らしても特に値段が変わることもないけれど、農薬が経れば経費も減るし、自分が嬉しいので試してみたところである。結果から言えば、農薬は2回は使った方が経営的には良かったと思う。
当初はアブラムシがひどく、大丈夫か不安になったが、これは意外と放置していても平気で、一部潰滅したところもあったが、思ったほど広がらなかった。適切な間隔で定植していれば、特に何も対策をしなくても、アブラムシによる減収効果は2〜5%ではないだろうか。これは最近よく言われるようになった「経済的被害許容水準」というやつに合致しているだろう。ちなみに、この経済的被害許容水準というのは、乱暴に言えば「この程度の病害虫だったら、経済的被害が小さいから放っておきましょうね!」という考え方である。
結局かぼちゃの病害虫防除の主戦場はうどん粉病であって、これをどれだけ避けうるかによって農薬が減らせるかが決まるのだと思う。
こうしてほんの数ヶ月ではあるが有機的管理をしてみて思ったのは、有機農業というのは農薬なり化学肥料なりを使わない農業、ということではなくて、圃場生態系を整えて病害虫の発生を抑制することで農薬や化学肥料を使わないで済む農業なのであって、単に農薬を減らそうとしても全然お話にならない、ということである。まず圃場生態系、つまり圃場に住む微生物から昆虫までの生態系をバランスのよいものにするのが第一歩で、わかりやすい言い方をすれば「土作りを頑張ろう」ということに尽きる。
だが問題は、どうしたらいい土が作れるのか、ということでこれには自分の中にまだ回答がない。さらに、本当によい土が作れたら、農薬使用をなくせるのかどうかも実際のところよく分からない。よく分からないけれども、しばらくはいろいろ試してみて、どういう可能性があるのかを実感してみたいと思っている。
2013年6月19日水曜日
二人の「日羅」——南薩と日羅(2)
坊津の一乗院の創建を始め、金峰山の勧請、磯間嶽の開山など、ありそうもない日羅の事績が南薩に残っているのはどうしてなのだろうか? また、古墳時代という遙かな古代に日羅が本当にやってきたのだろうか?
さて、始めにこうしたことがこれまでの地域史でどのように考えられてきたのかを見てみよう。まず坊津の一乗院だが、一応「我が国最古の寺」というのを触れ込みにしているものの、史学的にはこれは否定されており、せいぜい平安時代、おそらく鎌倉時代の創建と考えられている。本当に古代寺院だったとすれば古い資料にその名前が残っているはずなのに、実際には一乗院(龍巌寺)の名称はどこにも見いだせないのが主な理由だ。よって、日羅が創建したというのは文字通りあり得ない話であると一蹴されている。
次に金峰山の勧請(正確には、蔵王権現という修験道の仏の勧請)だが、幕末に編纂された『三国名勝図絵』において、日羅が勧請したという説を紹介しつつ「時世等の違いがあるので、名前が同じ別の人ではないだろうか」とされている。これ以外の史料に、金峰山の日羅による勧請を考察している記事を見つけられないが、要はあまり信憑性もないので相手をする人がいないのであろう。
まとめると、南薩に日羅が訪れ寺院の創建などを行ったという伝説は、かなり疑わしいものであるために真面目に取り扱われてこなかった、というところだ。これは、いわゆる「弘法大師お手堀の井戸」の扱いに似ている。全国各地に「弘法大師空海が錫杖(または独鈷)で衝いた所から水が湧いた」という伝説を持つ井戸があるが、錫杖で衝いて水を出すということ自体が荒唐無稽であるし、それが事実かどうか考証されることなどほとんどないと言える。日羅伝説もそれと同様の、荒唐無稽の妄説なのであろうか?
ここで視野を広げて他県の地域史を見てみると、日羅の父が国造をしていた熊本葦北を始めとして九州各地に日羅伝説が残っていることに気づく。特に注目すべきなのは国東半島(大分県)だ。国東半島は我が国で最も数多くの、そして素晴らしい磨崖仏が残っているところであるが、この磨崖仏のいくらかが日羅の作と伝えられており、また大分県内の寺院には日羅が刻んだという仏像も多く残る。
また、日羅が創建したとされる古代寺院は坊津の一乗院の他にも九州には多数あり、肥後七ヶ寺を始めとして天台宗の寺院に多い。一乗院は真言宗だが、いずれにしろ日羅の創建として伝えられているのは密教の寺院である。
さらに全国に目を転じると、日羅は愛宕信仰における勝軍地蔵菩薩の化身とされてもいる。愛宕信仰は修験道の一派の信仰であるが、国東半島で磨崖仏を刻んだのもおそらく修験者であることを考えると、日羅伝説は修験道と縁が深い。そして元々修験道は密教の一派として発達したのであるから、密教寺院の創建も広い意味では修験道と関連する事績に含められるだろう。
振り返って南薩の日羅伝説を鑑みると、金峰山も磯間嶽も修験道の修行の山であった訳だし、坊津の一乗院も先述の通り密教寺院であったということで、全国的な日羅伝説の傾向と合致しているのである。
こうしたことを踏まえると、各地に残る日羅伝説は、古墳時代の百済の日羅とは無関係であることは歴然としている。ポイントを簡単に述べれば、
これに対しては各種の仮説が呈示されている。例えば、そういう特定の人物はいなかったが、各地の磨崖仏などが「日羅」という有名人に奇譚的に託されたのではないかと考える人もいるし、「日羅」という「百済の日羅」と同名の修験者が実際にいたが、時が経るにつれ「百済の日羅」と混淆していつしか同一人物になってしまったのではないか、という説もある。
こうした説のどれが正しいかは、もはや状況証拠的には決められない。真相は、闇に包まれている。しかし、日羅伝説が成立したと考えられる平安時代、磨崖仏なり仏像なりを400〜500年も前の古墳時代のものとして「捏造」するのはさすがに大それているし、何かのきっかけがなければ日本書記にしか記録が残っていない「日羅」が復活するとは考えにくい。
とすると、説として魅力的なのは、平安時代あたりに各地で磨崖仏を刻み、寺院を創建した「日羅」と名乗る人物が実在した、というものだ。つまり、約500年の時を経て、日羅は二人いたということになる。ここではその「日羅」のことをわかりやすく「修験の日羅」と呼ぶことにしよう。「修験の日羅」は、各地の山林を抖擻(とそう:歩きながら仏道の修行をすること)して、あるところでは磨崖仏を彫り、またあるところでは寺院を創建(といっても、多分祠堂を設けるとか、仏像を安置するといった程度のことと思う)したのだろう。その活動範囲は九州一円にも及び、各地に「日羅」の事績を残したと考えられる。
どうしてこの「修験の日羅」の記憶がなくなり、やがて「百済の日羅」に置き換わってしまったのかはよくわからない。想像するに、『日本書記』に日羅の記述を見つけた人が自らの権威を高めたかったのか、「うちは日羅創建の古寺である」と誇り、それが連鎖反応的に広まったのかもしれない。そうしたことが続くうち、「日羅」というのが一種の超越的な、古代のスーパーマンとしてアイコン化し、実際には「修験の日羅」にも関係がない所にまで日羅伝説が広まっていったということがあるのだろう。それが勝軍地蔵が日羅の化身と考えられるに至った理由であるように思われる。
そのように考えると、この南薩の地に「ありそうもない話」である日羅伝説が残っているのは、まるきり荒唐無稽なこととは思われない。つまり、「百済の日羅」とは無関係であっても、「修験の日羅」が実際にここへ来て、一乗院を創建したり、金峰山を勧請したり、磯間嶽を開山するといったことをやったという可能性はゼロではないのである。薩摩の地には古くから修験道が栄えていたというし、元より修験者=山伏は各地を巡りながら修行をするものであるから、この辺境の地まで赴いてもおかしくはない。
一方で、そうだとすると古墳時代に遡ると思われた磯間嶽や一乗院の歴史が、それよりは随分新しい平安時代以降のものとなってしまうので、古さを誇りたい人には残念かもしれない。しかし、私自身は「古ければ古いほど有り難い」とは思わないし、荒唐無稽な古さを主張するよりも、実際にあったかもしれない過去を想像する方が楽しい。我が家から毎日見ている磯間嶽に、平安時代に大分(か熊本)から「日羅」と名乗る修験者がやって来て、岩山をよじ登り祠堂を設け、そしてまた旅を続けたのだと考えてみたい。彼はその時にどんな大浦を見たのだろうか。土地の人々に何を教えたのだろうか。そういう風に考える方が、私は楽しいのである。
と、いろいろ書いてきたけれど、私はこちらに越して来てから実はまだ一度も磯間嶽に登ったことがないのである。早く磯間嶽に登って、日羅が見たかもしれない風景の1000年後の様子を見てみたいと思っているところである。
【参考文献】
「日羅の研究—「宇佐大神氏進出説」批判(3)—」(『大分縣地方史』第116号所収)1984年、松岡 実
さて、始めにこうしたことがこれまでの地域史でどのように考えられてきたのかを見てみよう。まず坊津の一乗院だが、一応「我が国最古の寺」というのを触れ込みにしているものの、史学的にはこれは否定されており、せいぜい平安時代、おそらく鎌倉時代の創建と考えられている。本当に古代寺院だったとすれば古い資料にその名前が残っているはずなのに、実際には一乗院(龍巌寺)の名称はどこにも見いだせないのが主な理由だ。よって、日羅が創建したというのは文字通りあり得ない話であると一蹴されている。
次に金峰山の勧請(正確には、蔵王権現という修験道の仏の勧請)だが、幕末に編纂された『三国名勝図絵』において、日羅が勧請したという説を紹介しつつ「時世等の違いがあるので、名前が同じ別の人ではないだろうか」とされている。これ以外の史料に、金峰山の日羅による勧請を考察している記事を見つけられないが、要はあまり信憑性もないので相手をする人がいないのであろう。
まとめると、南薩に日羅が訪れ寺院の創建などを行ったという伝説は、かなり疑わしいものであるために真面目に取り扱われてこなかった、というところだ。これは、いわゆる「弘法大師お手堀の井戸」の扱いに似ている。全国各地に「弘法大師空海が錫杖(または独鈷)で衝いた所から水が湧いた」という伝説を持つ井戸があるが、錫杖で衝いて水を出すということ自体が荒唐無稽であるし、それが事実かどうか考証されることなどほとんどないと言える。日羅伝説もそれと同様の、荒唐無稽の妄説なのであろうか?
ここで視野を広げて他県の地域史を見てみると、日羅の父が国造をしていた熊本葦北を始めとして九州各地に日羅伝説が残っていることに気づく。特に注目すべきなのは国東半島(大分県)だ。国東半島は我が国で最も数多くの、そして素晴らしい磨崖仏が残っているところであるが、この磨崖仏のいくらかが日羅の作と伝えられており、また大分県内の寺院には日羅が刻んだという仏像も多く残る。
また、日羅が創建したとされる古代寺院は坊津の一乗院の他にも九州には多数あり、肥後七ヶ寺を始めとして天台宗の寺院に多い。一乗院は真言宗だが、いずれにしろ日羅の創建として伝えられているのは密教の寺院である。
さらに全国に目を転じると、日羅は愛宕信仰における勝軍地蔵菩薩の化身とされてもいる。愛宕信仰は修験道の一派の信仰であるが、国東半島で磨崖仏を刻んだのもおそらく修験者であることを考えると、日羅伝説は修験道と縁が深い。そして元々修験道は密教の一派として発達したのであるから、密教寺院の創建も広い意味では修験道と関連する事績に含められるだろう。
振り返って南薩の日羅伝説を鑑みると、金峰山も磯間嶽も修験道の修行の山であった訳だし、坊津の一乗院も先述の通り密教寺院であったということで、全国的な日羅伝説の傾向と合致しているのである。
こうしたことを踏まえると、各地に残る日羅伝説は、古墳時代の百済の日羅とは無関係であることは歴然としている。ポイントを簡単に述べれば、
- 日羅は数多くの密教寺院を創建しているが、密教はいわば平安時代のニューウェイブ仏教であり、もし古墳時代に百済の日羅が寺院を創建するとすれば南都六宗のようなもっと古風な宗派であるはずだ。
- 日羅は自ら仏像や磨崖仏を刻んでいるが、飛鳥時代以前には仏像は工人(技術者)が造るもので、仮に百済の日羅が僧侶だったとしても自ら仏像を制作するのはおかしい。
- そもそも磨崖仏や修験道は平安時代に生まれたものであるから、古墳時代の百済の日羅がこれらと縁があるわけがない。また日羅作と伝えられる磨崖仏も平安〜鎌倉の作と比定されているものが多い。
これに対しては各種の仮説が呈示されている。例えば、そういう特定の人物はいなかったが、各地の磨崖仏などが「日羅」という有名人に奇譚的に託されたのではないかと考える人もいるし、「日羅」という「百済の日羅」と同名の修験者が実際にいたが、時が経るにつれ「百済の日羅」と混淆していつしか同一人物になってしまったのではないか、という説もある。
こうした説のどれが正しいかは、もはや状況証拠的には決められない。真相は、闇に包まれている。しかし、日羅伝説が成立したと考えられる平安時代、磨崖仏なり仏像なりを400〜500年も前の古墳時代のものとして「捏造」するのはさすがに大それているし、何かのきっかけがなければ日本書記にしか記録が残っていない「日羅」が復活するとは考えにくい。
とすると、説として魅力的なのは、平安時代あたりに各地で磨崖仏を刻み、寺院を創建した「日羅」と名乗る人物が実在した、というものだ。つまり、約500年の時を経て、日羅は二人いたということになる。ここではその「日羅」のことをわかりやすく「修験の日羅」と呼ぶことにしよう。「修験の日羅」は、各地の山林を抖擻(とそう:歩きながら仏道の修行をすること)して、あるところでは磨崖仏を彫り、またあるところでは寺院を創建(といっても、多分祠堂を設けるとか、仏像を安置するといった程度のことと思う)したのだろう。その活動範囲は九州一円にも及び、各地に「日羅」の事績を残したと考えられる。
どうしてこの「修験の日羅」の記憶がなくなり、やがて「百済の日羅」に置き換わってしまったのかはよくわからない。想像するに、『日本書記』に日羅の記述を見つけた人が自らの権威を高めたかったのか、「うちは日羅創建の古寺である」と誇り、それが連鎖反応的に広まったのかもしれない。そうしたことが続くうち、「日羅」というのが一種の超越的な、古代のスーパーマンとしてアイコン化し、実際には「修験の日羅」にも関係がない所にまで日羅伝説が広まっていったということがあるのだろう。それが勝軍地蔵が日羅の化身と考えられるに至った理由であるように思われる。
そのように考えると、この南薩の地に「ありそうもない話」である日羅伝説が残っているのは、まるきり荒唐無稽なこととは思われない。つまり、「百済の日羅」とは無関係であっても、「修験の日羅」が実際にここへ来て、一乗院を創建したり、金峰山を勧請したり、磯間嶽を開山するといったことをやったという可能性はゼロではないのである。薩摩の地には古くから修験道が栄えていたというし、元より修験者=山伏は各地を巡りながら修行をするものであるから、この辺境の地まで赴いてもおかしくはない。
一方で、そうだとすると古墳時代に遡ると思われた磯間嶽や一乗院の歴史が、それよりは随分新しい平安時代以降のものとなってしまうので、古さを誇りたい人には残念かもしれない。しかし、私自身は「古ければ古いほど有り難い」とは思わないし、荒唐無稽な古さを主張するよりも、実際にあったかもしれない過去を想像する方が楽しい。我が家から毎日見ている磯間嶽に、平安時代に大分(か熊本)から「日羅」と名乗る修験者がやって来て、岩山をよじ登り祠堂を設け、そしてまた旅を続けたのだと考えてみたい。彼はその時にどんな大浦を見たのだろうか。土地の人々に何を教えたのだろうか。そういう風に考える方が、私は楽しいのである。
と、いろいろ書いてきたけれど、私はこちらに越して来てから実はまだ一度も磯間嶽に登ったことがないのである。早く磯間嶽に登って、日羅が見たかもしれない風景の1000年後の様子を見てみたいと思っているところである。
【参考文献】
「日羅の研究—「宇佐大神氏進出説」批判(3)—」(『大分縣地方史』第116号所収)1984年、松岡 実
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