2012年11月21日水曜日

農業にとってのTPP

日本全国の農村がそうだと思うが、うちの周りにも「TPP参加断固阻止!」のノボリや看板がよく立っている。

衆院選の争点の一つでもあり、農業者以外の関心も高いと思われるが、どうもその議論は感情的なものが多いように思われる。そこで、国際貿易に関してはズブの素人であるが、農業分野に限ってTPPについて自分の見解をまとめておきたい。

まず、最初に断っておくが、私は農業分野に関してはどちらかと言えばTPP推進派である。理由は、東大の本間正義教授が推進派だからだ。自分の頭で考えろと言われるかもしれないが、国際貿易というのは経済学の中でも非常に込み入っていて、素人が少し調べたくらいで実態がわかるものではない。私は官僚時代に日・EU科学技術協力協定の締結にちょっとだけ関わったが、ことに国際貿易の協定というものは複雑なもので「分かった気」になるのは逆に危険である。

そのため、素人としては、信頼できる(あるいは立場が近い)専門家の見解を信じるしかない、と思う。本間先生は農業経済学の重鎮で若いころから国際貿易の研究に取り組み、国際交渉の現場もよくご存じであるし、途上国等の関税アドバイザー的なこともやっていた(と思う。記憶が違っていたらすいません)。 自由貿易論者ではあるけれど、適切な関税で自国産業を保護することの重要性も強調するので、バランスも取れている。

というわけで、本間先生の見解をベースに、農業分野におけるTPPの意味をまとめてみる。
  • 既に米、麦、食肉、乳製品以外の農産物の関税は低いか実質無税なので影響はない
  • 例外品目の中で影響が大きいのが米。関税撤廃は段階的にすることが可能だが、猶予は10年なのでその間に米耕作の産業構造を変革する必要がある。農水省は9割が壊滅するという試算をしているが、それは大げさにしても零細兼業農家を中心に2/3くらいが廃業し、大規模耕作者(15ha以上)に集約される可能性がある。狭小な農地については耕作放棄地も増える。
  • 一方農産物の輸出については、TPPによって大幅に増加することはないが、共通のルールで公正な競争ができれば、伸びるところもある。懸念される自給率低下については、そもそも自給率という指標自体にあまり意味がない。
  • TPPがなくても近い将来日本の米農業は変わって行かざるを得ない以上、TPPに参加して早いうちに米農業の構造改革を進めた方がよい。TPPに参加するメリットは必ずしも大きくないが、旧来型の構造を温存し続けるリスクの方が大きい。
要は、TPPに参加すれば零細米耕作農家の多くが潰れるのは間違いないらしい。だが、現在の零細米耕作農家は多くが高齢者であり、10年もすればかなり自然減すると思われる。多分、何もしなくても優に30%は減るだろう。2/3の廃業を多いと見るかそうでもないと見るかは難しい。耕作放棄地も、何もしなくても増えるのは目に見えている。

また、本間先生は「TPP参加は農政改革とセットに行う必要があり、もし農政改革なしにTPPに参加したら農業は大打撃を受けるだろう」と言っているが、TPPに参加しなくても農家の自然減が想定される以上、減少分を補うために大規模農家への優遇政策が取られる必要がある。規模拡大を図りたい農家にとってみれば、TPPに参加すれば零細米耕作農家が早めに淘汰されるのでチャンスとも言える。

ところでTPPだけに限らないが、高齢化・少子化によって基本的に日本の将来というのは暗いので、「TPPに参加して経済成長!」とかはあまり真に受けない方がいい。来るべき衆院選も、有権者はどちらに明るい将来がありそうかで選んではいけない。日本の未来は暗鬱としたものであることを前提にして、より傷口が浅い方を選ぶという非常に後ろ向きな考えをする必要があると思う。

とはいいうものの、TPP参加の方がより傷口が浅いのかどうかは、実はよくわからない。今回は米だけにフォーカスしたが、畜産についても検討しなくてはならないし、そもそも農業分野はTPPのほんの一部で、投資や知的財産など20の分野を含む(※)。金額的な影響としては金融などの方が農業より圧倒的に大きいと思われるので、分野ごとに細かい検証が必要だ。非関税障壁の扱いについても考慮しなくてはならない。冒頭に述べたように国際貿易というのは非常に難しいのだが、こうした複雑さを捨象し、「TPPに乗り遅れると大変なことになる!」とか「TPP参加で国が滅びる!」のような極端な主張ばかりが目立つのが気になる。

もちろんTPPの現実の意味は、その間のグレーな部分にある。まずは交渉参加してどのくらいグレーなのかを探るのがいいのではないだろうか。私としては強い推進の気持ちはないので、どちらに転んでもいいと思うが、TPP問題で冷静な議論が行われ、我が国の産業の未来を考える機会になるとよいと思っている。

※ 24の作業部会があり、うち4つは「首席交渉官会議」「紛争解決」「協力」「横断的事項特別部会」なのでこれを外すと20になる。

【参考】
本間正義教授が日本記者クラブで行った講演

2012年11月18日日曜日

質素だが誠実な展示「南さつま神話の旅」

南さつま市金峰町にある歴史交流館 金峰で「南さつま神話の旅」という企画展が開催中である。

企画展自体は、十数枚程度の手作りポスターパネルと、いくばくかの土器が並べられているだけの質素な展示である。正直なところ、これを見て「面白い!」という人は少数派だろう。だが、その内容は意外によくまとまっていて、普段体系的に示されることのない南さつま市の神話の旧跡が外観でき、勉強になる。お金もかかっていないし、派手さもないが、誠実に作られた企画展である。

特にその誠実さを感じるのが冒頭の説明。要約すると、
  • 南さつま市には鹿児島県が12カ所に作った「神代聖蹟」の9つまでが集中している。
  • 「神代聖蹟」とは、皇紀2600年記念事業として作られたもので、日本神話の舞台となったところを指定する石碑。
  • 皇紀2600年は戦争中の昭和15年。「神代聖蹟」は戦争遂行のための国威発揚に日本神話を利用したものであり、つまり「昭和の遺産」。
とした上で、「市内の神話スポット・神代聖蹟をめぐるときに、神話が戦争に利用された事実にも思いを致していただければ、より多角的に歴史を理解できる好機になるのでは」と結んでいる。

日本神話が戦争の遂行に利用されたことはよく知られているが、残された史蹟が「昭和の遺産」であるとまで述べられることは少ない。多分「神代聖蹟」がそういう陰影を持つものだということを認識している人も少ないだろう。

今年は古事記編纂1300年に当たるということで、特に島根県(出雲地方)と宮崎県が観光キャンペーンに力を入れていた。この2県は首都圏の電車に車内広告を大量に打つなど、昨年来、多くの広告費用を投入して「神話のふるさと」のイメージ形成と観光促進を行った。これ自体は同じく神話のふるさとである鹿児島県も見習うべきところもあると思うが、観光という商業振興を重視するあまり、「我が県には神話にゆかりがある所がたくさんあって凄いでしょ!」というアピールだけになってしまったきらいもある。

だが実際には、先述のように日本神話は戦争に利用された負の歴史がある。島根県についてはよく知らないが、宮崎県では政府の皇紀2600年記念事業で宮崎神宮が大幅拡張されたり、日本海軍発祥の地碑(神武天皇御東遷時お舟出の地)を建立したりするなど、国威発揚の片棒を担いでいる(担がされている)。そういう歴史を反省することなしに、商業主義的に観光を推進しようというだけでは少し空疎な感じも受ける。

そういう意味では、本企画展では冒頭に誠実な説明があるだけでなく、個々のパネルの内容も割と醒めた態度で書かれていて、好感が持てた。歴史交流館の嘱託職員の方が企画・作成したらしいが、見識のある方とお見受けするので一度話を聞いてみたいものである。

ところで、商業主義的すぎるのも問題だが、鹿児島県のようにせっかくの神話資産を無視するのもいただけない。 8年後の2020年には日本書紀編纂1300年になるので、その時には鹿児島県もいろいろとやってはどうか。アピール競争をする必要はなく、他県とも連携しつつ、観光だけでなく歴史研究・教育なども振興するいい機会としてもらいたい。自分としても、南薩の神話について近々自分なりにまとめてみたいと思っている。

【参考】
古事記編纂1300年記念企画展 南さつま神話の旅
開催期間:2012年09月21日 ~ 2012年12月24日
場  所:南さつま市 歴史交流館金峰
料  金:高校生以上300円、小人150円
連絡先: TEL: 0993-58-4321

2012年11月16日金曜日

二番煎じでも美しい。鹿児島県立農業大学校のキャンパス

とにかくレンガが美しい。積み方も凝っている。
1週間ほど、日置市と南さつま市の境目にある鹿児島県立農業大学校で研修を受けた。農耕車限定の大型特殊免許を取るためである。

研修はさておき、初めて入った農大のキャンパスがとてもおしゃれでびっくりした。ハンドメイド風の赤煉瓦と緑の屋根の色彩が美しく、鉄骨ではなく集成材を使った構造で内装にも木がふんだんに使われ高級感がある。コンクリートの柱はギリシャ風とすら見える重厚な作りで強度もある一方、細かい意匠も凝らされてデザイン全体の配慮が行き届いている。さらに夜になると間接照明を多用した瀟洒なライティングがなされ、まるで結婚式場のようである。

誰がこのキャンパスを設計したのかと思い、農大職員のご協力を得て調べてみると、施工者は鹿児島県建築設計監理事業共同組合だが、実際は日建設計が主導したようだ。日建設計といえば、最近だと東京スカイツリー、東京ミッドタウン、首相官邸、京都迎賓館など大規模プロジェクトを数多く手がけた我が国を代表する建築設計事務所。日建設計であれば、農大キャンパスのクオリティの異常な高さも納得である。

総工費は調べられなかったが、建築開始時の新聞によれば500億円程度とのこと。もちろん校舎だけでなく、造成、栽培施設・設備も含めてだから施設が何億円なのかはわからないが、レンガ一つとっても特別にヨーロッパ(多分イギリス)から取り寄せたものらしく金に糸目をつけていない雰囲気があり、民間施設とは比べものにならない価格なのは間違いない。緩やかにカーブするコリドー(回廊)、全棟切妻屋根、特注品の巨大ガラス(1m×7m程度)など、豪華な部分を挙げていけばきりがないほどだ。

ちなみに、驚くべきことに実はこのデザインは高知工科大学のキャンパス二番煎じのようだ。高知工科大キャンパスは同じく日建設計が手がけ、これは公共建築賞特別賞等を受賞するなどすばらしい出来らしく、同校は「日本一美しいキャンパス」を自称している。どうもこれが農大の雛形になっているようで、レンガの取り寄せまで高知工科大と共通している。農大のランドマークともなっているドミトリー(学生寮)などは高知工科大ドミトリーと瓜二つで、日建設計が同時期に設計したとはいえ、ここまで似ていると手抜きじゃないかと思いたくなるほどだ。

ただ、屋根の色と形など細かいところで基本デザインにも当然違いはあり、また農大の方が低層(2階建て以上がない)で落ちついていて、土地もゆったり使っており景観との親和性も高いように思われる。ぜひ高知工科大も実見して比べてみたいところである。両校の学生が相互に訪問したら、そのキャンパスの相似に驚きつつも、細かい相違も気づいて面白いだろう。

キャンパスをいろいろ褒めたが、農大の職員もどこが設計したのか知らなかったくらいで、せっかくの素晴らしいキャンパスがあまり注目を浴びていないようなのは残念だ。日建設計が二番煎じの建物を作ったからなのかもしれないが、二番煎じであっても非常に素晴らしい建築なので誇るべき財産だ。もちろん、「農大にそんな贅沢なキャンパスはいらんだろう。税金の無駄遣いだ!」という感想も抱くが、まあ一次産業に将来をかけている鹿児島県の意気込みを表した建物だということにしておこう。

2012年11月10日土曜日

廃校利用のものすごく斬新なアイデア

先日、廃校になっている笠沙高校の敷地に入る機会があった。

県立笠沙高校は2006年に廃校になってもう6年以上経つが、跡地利用がなされないまま放置されているようでもったいない。

市でも「笠沙高校跡地対策協議会」なるものを設置して有効利用できないかと検討してきたようだが、意見がまとまらないまま宙ぶらりんになっていたようだ。先日所有者である県から「グラウンドをメガソーラー設置の用地にしたい」という打診があったということでこれを受諾。あわせて、校舎等については既に痛みが激しいということで、委員会では撤去して更地にするよう県に要望することとしたという。

有効活用の良案もないので県の打診を受けたのだろうが、グラウンドへのメガソーラー設置には惹かれない。アクセスのよい広い土地をメガソーラー用地などにするのはもったいないし、そもそもメガソーラーなんて補助金が切れれば一発で赤字になる事業だ。ゴミになったソーラーの山で埋まらないとよいが…。

さらに、建物が傷んでいるから取り壊す、とのことだが、これだけの施設であり取り壊しにもかなりの金がかかる。外観からしか判断できないが、修繕した方が安上がりなのでは? というのが率直な感想だ。もちろん更地にした後の利用のめどがあるならいいのだが。

そんな中、先輩農家Kさんが、ものすごく斬新な跡地利用のアイデアを世間話で言っていた。曰く「納骨堂にしてしまえばいい」とのこと。大浦・笠沙は高度経済成長期に人口が非常に流出した地域であるが、今後10年程度で流出した団塊世代が一挙に老後を迎えることを考えると墓・納骨堂は意外に供給不足である。

都会に墓を作る人もいるだろうが、墓くらいは故郷に…という人も多いだろう。その際、古くからの集落の共同墓地・共同納骨堂に入れられればいいが、子や孫が定期的に管理することができない場合、寺や墓地会社の永代供養の方が好ましい。荒唐無稽なアイデアに見えて、実は経営的にいけるのではないか。

さらに、もし大規模な納骨堂ができれば定期的に法事があるので地元経済も潤う。花卉類、食事はもちろん、僻地なので宿泊にもお金が落ちるだろう。もちろんテナント利用や企業誘致など、経済効果の高い利用法の方が望ましいのはいうまでもないが、この過疎地域に高望みはできないことを思えば、納骨堂は悪くない。それに、かつて若者が歓声を上げた学舎が納骨堂となるとなれば、高齢化時代の最先端ということで廃校利用の極北として注目も集めそうである。

全国的にも、今後10年程度で団塊世代がどんどん鬼籍に入る時代が来る。つまりその前に、墓地需要は日本史上空前絶後の高まりを見せるのが明白である。今後20年くらいは、夥しい人間が死ぬ時代、そのために心のよりどころを求める宗教の時代になると思う。私がシキミに注目したのも、そういう背景がある。廃校利用の納骨堂はともかくとして、葬儀ビジネスは有望だと思うので、地方活性化の一つの方策になるかもしれない。実際に、静岡県新居町では商工会で葬儀ビジネスに取り組んで成功しているという。葬儀ビジネスというとなんだかアコギな印象もあるが、今の葬儀はなんだか味気なく形式的な感じがあるので、地域で暖かな葬儀や埋葬ができ、かつ経済的にもうまくいけばとてもいいことだ。

2012年11月6日火曜日

ぽんかんドレッシングのチラシをデザインしました

果樹農家の先輩が開発している農産加工品のチラシを作らせてもらった。

写真撮影、文面作成、デザインの全てが素人仕事なので、本職がつくるものに比べて詰めが甘い部分があるが、それなりのものが出来たと思う(自画自賛)。

商品の内容については下のチラシを見てもらいたいが、要は、廃園寸前のポンカン園で無農薬栽培したポンカンの果汁を、ふんだんに使って作ったドレッシング。味は、単体では「めちゃうまい!」というものではないが、独特な風味・酸味があり、これとマッチする料理にかけると本領発揮する。

個人的に一番のオススメは、(季節外れだけれど)冷やし中華にごまドレッシングと混ぜてかけることで、これは工夫すればご当地グルメとしてヒットするレベルだと思う。ごまの甘さとポンカンの酸味というのは、かつて組み合わされたことがなかったのではないか。意外だが非常にうまい。この他、唐揚げにかけるのもかなりイケる。ポンカンの香りと爽やかな酸味で、ありふれた普通の料理がかけるだけでいつもとは違うテイストになるのがいい。

なお、チラシに載せているドレッシングは去年制作されたもので、今年のドレッシングは現在制作途中。ちぎる時期や、搾汁方法が昨年と変更されており、順調に完成までこぎつけるか実は未知数であるが、農産加工は自分としても取り組みたい分野なのでぜひ成功してもらいたい。このチラシが、少しでもそのお役に立てればいいのだが。

ちなみに、まだ非売品なので、発売されたら改めてお知らせすることにしたい。

2012年11月1日木曜日

南さつま市定住化促進委員会(その4)

既に1週間ほど前になるが、第4回の「南さつま市定住化促進委員会」が開かれた。

あなたの移住トコトン! 応援事業」と「起業家支援事業」の2本立ての施策案をまとめ、その他いろいろな施策をパッケージにしたものを移住定住推進施策群とする方向だ。

この構造はこれまでの議論で大体決まった感じだったので、今回はやや細かい話となった。意見交換全体の内容は要約しないが、私が空き屋バンクについて発言した内容をちょっとだけ紹介したい。

空き屋バンクについては以前このブログでも取り上げたが、その利用は低調だ。その理由は次の2つが大きいと思う。第1に、法事などで時々使用するからということ。そして第2に、人に貸すにはまず片付けなければならないが、片付けるのが面倒だということ。実際、ほとんど倉庫的な利用がされている空き屋は多いと思われる。

しかし、倉庫とはいえ内実はガラクタの山というケースがほとんどだろう。つまり、処分するのが面倒だから事実上置きっぱなしにしているだけで、家財管理としての倉庫ではない。また、そうなっている場合は既に所有者は現地を離れており、さらに高齢化している場合も多い。持ち主側としても、結局いつかは身辺整理をしなくてはならない、という懸案をかかえたまま過ごしているのではないか。

そこで、「片付けて空き屋バンクに登録すれば補助金を出す」という制度があったらどうか、と発言した次第である。空き屋を貸して賃料をもらいたいという人は少ないと思うが、いつかはしなければならない片付けに補助金が出るとなれば、飛びつく人もいるかもしれない。

事実、「片付け補助金」というのは他の自治体で既にあり、ちょっと調べただけだが例えば島根県飯南町で実施されている。飯南町の場合は「経費の半額を助成」だが、定額でもいいと思うし、いっそのこと「役所が無料で片付けます」でもよい。

その代わり、片付け当日に置いてある家財は問答無用で全て回収することにして、廃校になった小学校の教室にでも置いておき、市民が少額で購入できるようにすると面白い。 古民家のようなところも多いので、見る人が見れば価値の高い民具や家具も集まるかもしれない。もちろんほとんどはガラクタだろうけど、その方が宝探しのようで楽しいと思う。

我が家の周りにも空き屋が数軒どころではなくあるが、有効利用されているとは言い難い。つまり、空き屋はあるのに入居可能な「物件」はない。いろいろと事情があるのはわかるが、この地域で家探しをしてもほとんど物件が見つからないのは、移住者を呼び込む以前に、住民にとっても困った問題である。

役所の方では、新築への補助金とか、市有地をデベロッパーに格安で払い下げてマンション等を開発するとかの案を出していて、新しく家を建てる方に熱心なようだ。しかし、空き屋問題はこれからどんどん加速していくことが予期されるので、そういう観点でも施策を検討してもらいたいと思う。空き屋をこのまま放置していると、この地域は廃屋だらけのゴーストタウンになってしまいそうである。

【参考リンク】
南さつま市定住化促進委員会(第1回)
南さつま市定住化促進委員会(第2回)
南さつま市定住化促進委員会(第3回)

2012年10月23日火曜日

「国産紅茶終焉の地」としての枕崎

鹿児島の枕崎市に、「紅茶碑」というのがある。また、インド アッサムから導入した紅茶の原木もある。

曰く「この地に於いて我が国で初めて紅茶栽培が成功した。当時、枕崎町長今給黎誠吾氏は昭和6年印度アッサム種の栽培に着目してこの地に育て…」とのこと。ともかく枕崎は「日本国産紅茶発祥の地」を誇っているのであるが、これは事実だろうか?

私はこれに違和感を感じ、いろいろと調べてみたが、結論を先に言えばこれは事実ではない。残念なことに、枕崎は国産紅茶発祥の地ではないのだ。では、国産紅茶の歴史において枕崎はどのように位置づけられるのだろうか? 非常にマニアックになるが、国産紅茶の歴史を繙き、枕崎における紅茶生産の持つ意味を探ってみたい。

日本紅茶の歴史は、殖産興業に邁進していた明治政府が「紅茶産業が有望では?」と目をつけたことに始まる。明治政府は、静岡に移住し茶栽培に取り組んでいた旧幕臣の多田元吉を役人に取り立て、中国、ついでインドに派遣し栽培・製造方法を習得させる。中国式の製造法はうまくいかなかったが、インド式の製造法で成功し、ここに日本紅茶の生産が開始する。

多田がインドから帰国したのが1877(明治10)年。同年、高知県安丸村に試験場を設けて自生茶を原料として紅茶が作られた。本当の日本紅茶発祥の地は、この高知県安丸村であると言うべきである。ただし、この紅茶はあくまで日本在来の緑茶の樹を使い、製法のみインド式紅茶にしたわけだから本格的な紅茶生産の開始ではない(緑茶の茶葉を紅茶に転用しただけ)。

ちなみに、多田元吉は「近代日本茶業の父」などと呼ばれ、日本の紅茶・緑茶産業の基礎をつくった人物である。多田はアッサムから持ち帰った紅茶の種子を自身の農場である静岡県丸子(まりこ)で栽培するとともに、各地に播種した。紅茶用茶樹の栽培に初めて成功したのはこの静岡県丸子であり、「紅茶碑」にいう「この地に於いて我が国で初めて紅茶栽培が成功した」というのは事実ではない。これは「紅茶碑」の昭和6年に先立つこと50年以上も前の話である。

それからの日本紅茶産業の歴史は波瀾万丈で非常に面白い。紅茶は緑茶と違いグローバル商材であるため、世界情勢に大きな影響を受け、その歴史はまさに世界(主に米国)に翻弄された歴史であった。

まず、多田帰国の翌年である1878年には政府は各地に伝習所(研修施設)を作り、技術の向上に努め、そのおかげで1883年に米国への販路が開けたところが近代紅茶産業の幕開けとなる。ちなみに、それまでは政府は三井物産に委託してロンドンへ紅茶を販売するなどしており、このおかげで三井物産は大もうけし、これは後の日東紅茶へと繋がっていく。

実は、米国は紅茶よりも遙かに多い量の緑茶も日本から輸入していたのだが、1899年、米国はスペインとの戦費調達のため茶に高額な輸入税をかけ、これが日本の緑茶・紅茶業界に打撃を与えた。これは米西戦争後すぐに撤廃されたが、続いて1911年、米国は「着色茶輸入禁止令」を制定。どうもこの頃の日本紅茶は着色料で色つけしていたらしく、これも日本の紅茶業界に衝撃を与えた。明治後半は、米国の政策により茶業界が翻弄された時代といえる。

このように重要顧客である米国への輸出が不安定だった中、1914年に第一次世界大戦が開戦、これにより日本紅茶業界は空前の好況を迎える。これは、イギリスがインド・セイロンからの紅茶輸送船を戦争に徴用して、イギリスからの米国向け紅茶輸出が激減したためであった。しかしこの期に乗じて日本は木茎混入品など低劣な紅茶を大量に輸出。これで米国消費者の不信を買い、流通が正常に戻った戦後は対米輸出はむしろ低迷することになる。折しも1920年、米国は「禁酒法」を制定。インドやセイロン、ジャワなど紅茶産地はこれを好機と見て米国で紅茶の大キャンペーンを開始するが、これに乗り遅れた日本紅茶の存在感はさらに希薄になっていく。空前の好況の後の低迷、これが大正期の日本茶業だった。

1919年、政府は国立茶業試験場を設立し、それまで不十分だった紅茶用の茶樹の育種に取り組み始める。紅茶の価格は国際情勢(というより米国の情勢)に大きく左右され、その品質を高めようというインセンティブが少なかったためか、明治後期に行われていた茶の指定試験(国費により各地の試験場で行われる試験)がこの頃は中止されていたのだった。国立茶業試験場の設立を契機として1929(昭和4)年に指定試験を再開。全国各地で紅茶の指定試験が行われたが、知覧(※1)と枕崎(※2)でもこれが行われた。昭和初期は、紅茶の品質向上が目指された時代だった。

そうした中で1933年、突如として日本の紅茶産業に空前絶後の好況が訪れる。世界恐慌で世界的に紅茶の需要が減り、在庫が激増、価格が半分ほどにまでに下落。これを受けてインド、セイロン、ジャワという紅茶の中心産地が5年間の輸出制限協定を締結し、世界的に紅茶の流通が一気に減少したのだった。そこで日本紅茶への注目が集まったというわけで、輸出量は1年でなんと20倍以上に増え、イギリスまでもが相当量の日本紅茶を買い付けたといわれる。輸出制限の最終年である1937(昭和12)年には、日本紅茶は史上最高の輸出を記録。しかし、これが日本紅茶産業の最後の仇花であった。

全国各地で行われていた紅茶の試験は、この好況の中でも徐々に廃され、1940年度には鹿児島に集約された。その理由は明確でないが、価格の浮沈が激しいだけでなく、国民所得(賃金)の増加によって世界的な競争力を失いつつあった紅茶への関心が薄れ、日本の茶業界が緑茶に収斂していった結果のようである。つまり、国内の誰もが紅茶を見捨てていく中で、鹿児島だけが細々と紅茶研究を続けていく(いかされる)ことになった。しかも、太平洋戦争によって紅茶用茶樹の品種改良は戦前にはあまり成果をあげられなかった。

戦後、高度経済成長によって国産紅茶は国際競争力を失い、国内市場でも緑茶が支配的になる中、1963(昭和38)年3月、枕崎に九州農業試験場枕崎支場が設立され、ここが紅茶栽培奨励と紅茶用品種の開発に邁進することとなる。しかしこれは、紅茶の試験場としては遅すぎる出発だったと言わざるをえない。というのも、同年2月、農林省が「国産紅茶の奨励はもう行わない」ことを決定しているのである。ちなみに、知覧に存在していた農事試験場茶業分場も枕崎支場に統合され、この枕崎支場は国内唯一にして最後の紅茶試験場であった。

なお、枕崎では昭和初期に紅茶の試験地(試験場ではない)が設置されたことから、その栽培もその頃から行われていた。日東紅茶も枕崎に直営の茶園と工場を経営していたし、昭和40年代では県内の紅茶生産量の約半分が枕崎産であった。しかし、枕崎支場が設置された時期には輸出用の紅茶は競争力を完全に失っており、枕崎の生産は国内向けだった。ところが1971年の紅茶輸入自由化で国内消費の命脈も絶たれ、同年紅茶の集荷は中止。高知県安丸村で始まった日本近代紅茶産業の歴史は、ここに枕崎でその幕を下ろしたのである。

つまり、枕崎は「日本国産紅茶発祥の地」というより、「日本国産紅茶終焉の地」なのだ。これでは余りにネガティブな表現だと思われるだろうが、実はこの紅茶奨励にあたった県の職員が、「今になってみれば『何んであのようなボッチな計画を立てたのだろう。』」と当時を苦々しく述懐している。そして自分の仕事は「紅茶産業の終戦処理」だったとまで述べた上、「20数年間にわたり多額の投資をして、紅茶奨励に失敗した過去を反省し、ご迷惑をかけた生産者にお詫び申し上げ、紅茶産業奨励の思い出とする次第です」と結んでいる(※3)。どうも、枕崎の紅茶産業は、既に斜陽化していたものを引き受けさせられた形であり、輝かしい過去といえる過去がないようなのである。

しかし、しかしである。先日紹介したように、現在の枕崎では「姫ふうき」という絶品の紅茶が作られている。そしてこの「姫ふうき」を生み出している「べにふうき」という紅茶用の品種は、多田元吉がアッサムから持ち帰った紅茶の種子を品種改良することで、ようやく1995年になって遅咲きの枕崎支場において生み出されたものなのである。私は、昭和40年代に行われていた紅茶用品種の研究が、細々と続けられてきたことに驚愕した次第である。しかも、この「べにふうき」は日本紅茶開発史の到達点とも言うべき優れた品種なのであるが、それだけではない。この品種に含有されるメチル化カテキンという物質が抗アレルギー作用を有していることが近年明らかになり、花粉症対策などとしてその緑茶が次々と製品化されている。

よく、「鹿児島は周回遅れのトップランナー」と言われる。 この「べにふうき」開発までの長い歴史を見ても、そう感じるのは私だけではないだろう。一度終焉を迎えた日本紅茶が最近各地で復活の兆しを見せているが、その最高峰に枕崎の「姫ふうき」があるのは面白い。残念ながら枕崎にある紅茶の原木と「べにふうき」に系統関係はないが、紆余曲折を経ながらも受け継がれた国産紅茶の歴史が、今後、枕崎でまた新たな展開を見せることを期待している。


※1 正確には、鹿児島県立農事試験場知覧茶業分場
※2 正確には、鹿児島県立農事試験場知覧茶業分場枕崎紅茶試験地
※3 参考文献に挙げた『紅茶百年史』p511 「紅茶産業奨励の思い出」(鹿児島県園芸課 池田高雄)より引用

【参考文献】
『紅茶百年史』1977年、 全日本紅茶振興会