鹿児島の枕崎市に、「紅茶碑」というのがある。また、インド アッサムから導入した紅茶の原木もある。
曰く「この地に於いて我が国で初めて紅茶栽培が成功した。当時、枕崎町長今給黎誠吾氏は昭和6年印度アッサム種の栽培に着目してこの地に育て…」とのこと。ともかく枕崎は「日本国産紅茶発祥の地」を誇っているのであるが、これは事実だろうか?
私はこれに違和感を感じ、いろいろと調べてみたが、結論を先に言えばこれは事実ではない。残念なことに、枕崎は国産紅茶発祥の地ではないのだ。では、国産紅茶の歴史において枕崎はどのように位置づけられるのだろうか? 非常にマニアックになるが、国産紅茶の歴史を繙き、枕崎における紅茶生産の持つ意味を探ってみたい。
日本紅茶の歴史は、殖産興業に邁進していた明治政府が「紅茶産業が有望では?」と目をつけたことに始まる。明治政府は、静岡に移住し茶栽培に取り組んでいた旧幕臣の多田元吉を役人に取り立て、中国、ついでインドに派遣し栽培・製造方法を習得させる。中国式の製造法はうまくいかなかったが、インド式の製造法で成功し、ここに日本紅茶の生産が開始する。
多田がインドから帰国したのが1877(明治10)年。同年、高知県安丸村に試験場を設けて自生茶を原料として紅茶が作られた。本当の日本紅茶発祥の地は、この高知県安丸村であると言うべきである。ただし、この紅茶はあくまで日本在来の緑茶の樹を使い、製法のみインド式紅茶にしたわけだから本格的な紅茶生産の開始ではない(緑茶の茶葉を紅茶に転用しただけ)。
ちなみに、多田元吉は「近代日本茶業の父」などと呼ばれ、日本の紅茶・緑茶産業の基礎をつくった人物である。多田はアッサムから持ち帰った紅茶の種子を自身の農場である静岡県丸子(まりこ)で栽培するとともに、各地に播種した。紅茶用茶樹の栽培に初めて成功したのはこの静岡県丸子であり、「紅茶碑」にいう「この地に於いて我が国で初めて紅茶栽培が成功した」というのは事実ではない。これは「紅茶碑」の昭和6年に先立つこと50年以上も前の話である。
それからの日本紅茶産業の歴史は波瀾万丈で非常に面白い。紅茶は緑茶と違いグローバル商材であるため、世界情勢に大きな影響を受け、その歴史はまさに世界(主に米国)に翻弄された歴史であった。
まず、多田帰国の翌年である1878年には政府は各地に伝習所(研修施設)を作り、技術の向上に努め、そのおかげで1883年に米国への販路が開けたところが近代紅茶産業の幕開けとなる。ちなみに、それまでは政府は三井物産に委託してロンドンへ紅茶を販売するなどしており、このおかげで三井物産は大もうけし、これは後の日東紅茶へと繋がっていく。
実は、米国は紅茶よりも遙かに多い量の緑茶も日本から輸入していたのだが、1899年、米国はスペインとの戦費調達のため茶に高額な輸入税をかけ、これが日本の緑茶・紅茶業界に打撃を与えた。これは米西戦争後すぐに撤廃されたが、続いて1911年、米国は「着色茶輸入禁止令」を制定。どうもこの頃の日本紅茶は着色料で色つけしていたらしく、これも日本の紅茶業界に衝撃を与えた。明治後半は、米国の政策により茶業界が翻弄された時代といえる。
このように重要顧客である米国への輸出が不安定だった中、1914年に第一次世界大戦が開戦、これにより日本紅茶業界は空前の好況を迎える。これは、イギリスがインド・セイロンからの紅茶輸送船を戦争に徴用して、イギリスからの米国向け紅茶輸出が激減したためであった。しかしこの期に乗じて日本は木茎混入品など低劣な紅茶を大量に輸出。これで米国消費者の不信を買い、流通が正常に戻った戦後は対米輸出はむしろ低迷することになる。折しも1920年、米国は「禁酒法」を制定。インドやセイロン、ジャワなど紅茶産地はこれを好機と見て米国で紅茶の大キャンペーンを開始するが、これに乗り遅れた日本紅茶の存在感はさらに希薄になっていく。空前の好況の後の低迷、これが大正期の日本茶業だった。
1919年、政府は国立茶業試験場を設立し、それまで不十分だった紅茶用の茶樹の育種に取り組み始める。紅茶の価格は国際情勢(というより米国の情勢)に大きく左右され、その品質を高めようというインセンティブが少なかったためか、明治後期に行われていた茶の指定試験(国費により各地の試験場で行われる試験)がこの頃は中止されていたのだった。国立茶業試験場の設立を契機として1929(昭和4)年に指定試験を再開。全国各地で紅茶の指定試験が行われたが、知覧(※1)と枕崎(※2)でもこれが行われた。昭和初期は、紅茶の品質向上が目指された時代だった。
そうした中で1933年、突如として日本の紅茶産業に空前絶後の好況が訪れる。世界恐慌で世界的に紅茶の需要が減り、在庫が激増、価格が半分ほどにまでに下落。これを受けてインド、セイロン、ジャワという紅茶の中心産地が5年間の輸出制限協定を締結し、世界的に紅茶の流通が一気に減少したのだった。そこで日本紅茶への注目が集まったというわけで、輸出量は1年でなんと20倍以上に増え、イギリスまでもが相当量の日本紅茶を買い付けたといわれる。輸出制限の最終年である1937(昭和12)年には、日本紅茶は史上最高の輸出を記録。しかし、これが日本紅茶産業の最後の仇花であった。
全国各地で行われていた紅茶の試験は、この好況の中でも徐々に廃され、1940年度には鹿児島に集約された。その理由は明確でないが、価格の浮沈が激しいだけでなく、国民所得(賃金)の増加によって世界的な競争力を失いつつあった紅茶への関心が薄れ、日本の茶業界が緑茶に収斂していった結果のようである。つまり、国内の誰もが紅茶を見捨てていく中で、鹿児島だけが細々と紅茶研究を続けていく(いかされる)ことになった。しかも、太平洋戦争によって紅茶用茶樹の品種改良は戦前にはあまり成果をあげられなかった。
戦後、高度経済成長によって国産紅茶は国際競争力を失い、国内市場でも緑茶が支配的になる中、1963(昭和38)年3月、枕崎に九州農業試験場枕崎支場が設立され、ここが紅茶栽培奨励と紅茶用品種の開発に邁進することとなる。しかしこれは、紅茶の試験場としては遅すぎる出発だったと言わざるをえない。というのも、同年2月、農林省が「国産紅茶の奨励はもう行わない」ことを決定しているのである。ちなみに、知覧に存在していた農事試験場茶業分場も枕崎支場に統合され、この枕崎支場は国内唯一にして最後の紅茶試験場であった。
なお、枕崎では昭和初期に紅茶の試験地(試験場ではない)が設置されたことから、その栽培もその頃から行われていた。日東紅茶も枕崎に直営の茶園と工場を経営していたし、昭和40年代では県内の紅茶生産量の約半分が枕崎産であった。しかし、枕崎支場が設置された時期には輸出用の紅茶は競争力を完全に失っており、枕崎の生産は国内向けだった。ところが1971年の紅茶輸入自由化で国内消費の命脈も絶たれ、同年紅茶の集荷は中止。高知県安丸村で始まった日本近代紅茶産業の歴史は、ここに枕崎でその幕を下ろしたのである。
つまり、枕崎は「日本国産紅茶発祥の地」というより、「日本国産紅茶終焉の地」なのだ。これでは余りにネガティブな表現だと思われるだろうが、実はこの紅茶奨励にあたった県の職員が、「今になってみれば『何んであのようなボッチな計画を立てたのだろう。』」と当時を苦々しく述懐している。そして自分の仕事は「紅茶産業の終戦処理」だったとまで述べた上、「20数年間にわたり多額の投資をして、紅茶奨励に失敗した過去を反省し、ご迷惑をかけた生産者にお詫び申し上げ、紅茶産業奨励の思い出とする次第です」と結んでいる(※3)。どうも、枕崎の紅茶産業は、既に斜陽化していたものを引き受けさせられた形であり、輝かしい過去といえる過去がないようなのである。
しかし、しかしである。先日紹介したように、現在の枕崎では「姫ふうき」という絶品の紅茶が作られている。そしてこの「姫ふうき」を生み出している「べにふうき」という紅茶用の品種は、多田元吉がアッサムから持ち帰った紅茶の種子を品種改良することで、ようやく1995年になって遅咲きの枕崎支場において生み出されたものなのである。私は、昭和40年代に行われていた紅茶用品種の研究が、細々と続けられてきたことに驚愕した次第である。しかも、この「べにふうき」は日本紅茶開発史の到達点とも言うべき優れた品種なのであるが、それだけではない。この品種に含有されるメチル化カテキンという物質が抗アレルギー作用を有していることが近年明らかになり、花粉症対策などとしてその緑茶が次々と製品化されている。
よく、「鹿児島は周回遅れのトップランナー」と言われる。 この「べにふうき」開発までの長い歴史を見ても、そう感じるのは私だけではないだろう。一度終焉を迎えた日本紅茶が最近各地で復活の兆しを見せているが、その最高峰に枕崎の「姫ふうき」があるのは面白い。残念ながら枕崎にある紅茶の原木と「べにふうき」に系統関係はないが、紆余曲折を経ながらも受け継がれた国産紅茶の歴史が、今後、枕崎でまた新たな展開を見せることを期待している。
※1 正確には、鹿児島県立農事試験場知覧茶業分場
※2 正確には、鹿児島県立農事試験場知覧茶業分場枕崎紅茶試験地
※3 参考文献に挙げた『紅茶百年史』p511 「紅茶産業奨励の思い出」(鹿児島県園芸課 池田高雄)より引用
【参考文献】
『紅茶百年史』1977年、 全日本紅茶振興会
2012年10月23日火曜日
2012年10月2日火曜日
最高に美味しい枕崎の紅茶「姫ふうき」
枕崎に「手摘み 姫ふうき」というかなり高価な紅茶がある。
この紅茶はGreat Taste Awardsというイギリスの食品国際コンテストで2009年に日本からの出品として初めて三つ星金賞を取得している。飲んでみると、非常に上品で爽やかであり、芳醇な香りも素晴らしい。特に味や香りに際だった特徴があるというものではなく、全ての面でクオリティが高いという王道の紅茶である。
Great Taste Awardsというのは、1994年開始のどちらかというとイギリスローカルなコンテスト。人口に膾炙しているモンドセレクションは味のコンテストではなくて品質管理の認証だが、こちらは正真正銘の味のコンテストで、Webサイトの説明によると「イギリスの美味しいものをお知らせ」するためにイギリスの食品組合(The Guild of Fine Food)によって行われている。俗に「食のオスカー賞」と呼ばれ、三つ星金賞を5回獲ったら英国王室御用達になると言われるほど権威があるらしい(多分噂だろうが)。
私はアルコールがあまり飲めないので茶、紅茶、コーヒーなどは高価なものを飲んできた方だと思うが、確かにこの紅茶はこれまでで一番美味しいと思った。銀座の紅茶専門店で飲んだものよりも上だ。だが、実は価格も一番高かった。40gで1500円というのはかなり特別な紅茶なのは間違いない(まあ、10杯飲めると思えば一杯あたり150円だが…)。
とはいっても、この高価格には訳があり、有機栽培でしかも手摘みらしい。このため年間生産量は100〜150kgとかなり貴重だ。お茶と言えば機械化が当たり前の時代、手摘みの紅茶を作るなんてかなり異端と思うが、紅茶の本場であるイギリスで三つ星金賞を獲るくらいだから、異端も極めれば王道になるということだろうか。
ところで、日本にはこのGreat Taste Awardsの三つ星金賞を獲った紅茶がもう一つある。それは、知覧にある薩摩英国館の「夢ふうき」である。「夢ふうき」は「姫ふうき」に先立って2007年から金賞を連続受賞していたが、今年9月に発表されたGreat Taste Awards 2012において念願の三つ星金賞を受賞。これは薩摩英国館Webサイトにもまだ出ていない情報で、さっき検索していたら偶然知ったものだ。ちなみにこちらも有機栽培、手摘みである。
「夢ふうき」「姫ふうき」と名前が似ているが、この二つの紅茶は同じ「べにふうき」という品種の紅茶用茶樹から作られている。「べにふうき」は日本紅茶開発史の到達点とも言うべき優れた品種であり、本品種を擁した枕崎は「日本紅茶発祥の地」としてこれを誇っているのであるが、このことについてはまた稿を改めて書きたいと思う。
【長い蛇足】
Great Taste Awardsについて日本語ではちゃんとした(雰囲気が伝わる)紹介がなかったので、備忘のためにここに書いておきたい。
Webサイトや公表された審査風景などを見ると、このコンテストは「権威ある」という言葉から想像されるようなものではなく、もっと気軽な、お祭り気分のものだ。ヨーロッパでは、イギリス料理はまずいものの代表のように思われているが、そういう風潮に対して「イギリスにだってうまいものはあるんだからね!」という主張をするためにやっているようなところがあり、そもそもコンテストの趣旨の一つが「イギリスで一番うまいものを決めよう」なのである。
星ごとの評価も、一つ星「だいたい完璧」、二つ星「欠点なし」、三つ星「わお、これは是非食べるべき!」となっており、随分気楽な表現になっている。
こうした気楽なコンテストであるが、というかだからこそ審査はやたらと気合いが入っており、 一流シェフ、料理研究家などが大勢あつまってガチンコの審査をするわけである。その模様はBBCがレポートしているが、雰囲気としてはかつての「TVチャンピオン」に近い。
結果公表も、イギリスの地域ごとで三つ星を紹介するようなかたちになっており、「お住まいの近くにも美味しいものがあるから是非行ってください!」みたいな感じである。こんなガチンコのうまいもん発掘コンテストだからこそ、基本的にはイギリスローカルにも関わらず各国から食品が出品されているというわけで、海外からの食品は「TVチャンピオン」に譬えるなら「今回はアメリカから刺客が登場!」みたいな感じで扱われることになる。
というわけで、基本的にはイギリスのうまいもんを発掘・認定するためのコンテストにおいて、まさにイギリスのお家芸ともいうべき紅茶部門で日本からの出品が三つ星金賞を獲ったということは驚異的なことだと思う。このあたりのことが、日本のWEBサイトにはどこにも書いておらず、その意味があまり正確に理解されていないようなのは残念なことだ。
この紅茶はGreat Taste Awardsというイギリスの食品国際コンテストで2009年に日本からの出品として初めて三つ星金賞を取得している。飲んでみると、非常に上品で爽やかであり、芳醇な香りも素晴らしい。特に味や香りに際だった特徴があるというものではなく、全ての面でクオリティが高いという王道の紅茶である。
Great Taste Awardsというのは、1994年開始のどちらかというとイギリスローカルなコンテスト。人口に膾炙しているモンドセレクションは味のコンテストではなくて品質管理の認証だが、こちらは正真正銘の味のコンテストで、Webサイトの説明によると「イギリスの美味しいものをお知らせ」するためにイギリスの食品組合(The Guild of Fine Food)によって行われている。俗に「食のオスカー賞」と呼ばれ、三つ星金賞を5回獲ったら英国王室御用達になると言われるほど権威があるらしい(多分噂だろうが)。
私はアルコールがあまり飲めないので茶、紅茶、コーヒーなどは高価なものを飲んできた方だと思うが、確かにこの紅茶はこれまでで一番美味しいと思った。銀座の紅茶専門店で飲んだものよりも上だ。だが、実は価格も一番高かった。40gで1500円というのはかなり特別な紅茶なのは間違いない(まあ、10杯飲めると思えば一杯あたり150円だが…)。
とはいっても、この高価格には訳があり、有機栽培でしかも手摘みらしい。このため年間生産量は100〜150kgとかなり貴重だ。お茶と言えば機械化が当たり前の時代、手摘みの紅茶を作るなんてかなり異端と思うが、紅茶の本場であるイギリスで三つ星金賞を獲るくらいだから、異端も極めれば王道になるということだろうか。
ところで、日本にはこのGreat Taste Awardsの三つ星金賞を獲った紅茶がもう一つある。それは、知覧にある薩摩英国館の「夢ふうき」である。「夢ふうき」は「姫ふうき」に先立って2007年から金賞を連続受賞していたが、今年9月に発表されたGreat Taste Awards 2012において念願の三つ星金賞を受賞。これは薩摩英国館Webサイトにもまだ出ていない情報で、さっき検索していたら偶然知ったものだ。ちなみにこちらも有機栽培、手摘みである。
「夢ふうき」「姫ふうき」と名前が似ているが、この二つの紅茶は同じ「べにふうき」という品種の紅茶用茶樹から作られている。「べにふうき」は日本紅茶開発史の到達点とも言うべき優れた品種であり、本品種を擁した枕崎は「日本紅茶発祥の地」としてこれを誇っているのであるが、このことについてはまた稿を改めて書きたいと思う。
【長い蛇足】
Great Taste Awardsについて日本語ではちゃんとした(雰囲気が伝わる)紹介がなかったので、備忘のためにここに書いておきたい。
Webサイトや公表された審査風景などを見ると、このコンテストは「権威ある」という言葉から想像されるようなものではなく、もっと気軽な、お祭り気分のものだ。ヨーロッパでは、イギリス料理はまずいものの代表のように思われているが、そういう風潮に対して「イギリスにだってうまいものはあるんだからね!」という主張をするためにやっているようなところがあり、そもそもコンテストの趣旨の一つが「イギリスで一番うまいものを決めよう」なのである。
星ごとの評価も、一つ星「だいたい完璧」、二つ星「欠点なし」、三つ星「わお、これは是非食べるべき!」となっており、随分気楽な表現になっている。
こうした気楽なコンテストであるが、というかだからこそ審査はやたらと気合いが入っており、 一流シェフ、料理研究家などが大勢あつまってガチンコの審査をするわけである。その模様はBBCがレポートしているが、雰囲気としてはかつての「TVチャンピオン」に近い。
結果公表も、イギリスの地域ごとで三つ星を紹介するようなかたちになっており、「お住まいの近くにも美味しいものがあるから是非行ってください!」みたいな感じである。こんなガチンコのうまいもん発掘コンテストだからこそ、基本的にはイギリスローカルにも関わらず各国から食品が出品されているというわけで、海外からの食品は「TVチャンピオン」に譬えるなら「今回はアメリカから刺客が登場!」みたいな感じで扱われることになる。
というわけで、基本的にはイギリスのうまいもんを発掘・認定するためのコンテストにおいて、まさにイギリスのお家芸ともいうべき紅茶部門で日本からの出品が三つ星金賞を獲ったということは驚異的なことだと思う。このあたりのことが、日本のWEBサイトにはどこにも書いておらず、その意味があまり正確に理解されていないようなのは残念なことだ。
2012年9月8日土曜日
枇杷茶をつくってみました
庭にあるビワを思い切ってかなり剪定したので、それで出たビワの葉を使って枇杷茶を作ってみた。無農薬のビワだからお茶にするには最適だ。
枇杷茶は古くからの健康飲料で、癌の予防を始め、ダイエット効果や疲労回復効果などがあると言われており、医療関係者にも愛飲している人が多いと聞く。それに健康茶にありがちなえぐみや臭みなどは全くなく、あっさりとしていてクセがない上品な味がする。
普通の枇杷茶は、ビワの葉をただ乾燥させるだけだが、せっかくなので本格的に作ろうと思い、発酵もさせてみた。といってもビニール袋に入れて生暖かい場所に置いておくだけで、本当に「発酵」(つまり乳酸菌等の繁殖)なのかどうかは不明。というか多分違う(※)。ただ、発酵中はビワの葉からまさにビワの果実の芳醇な香りがしてきて、葉っぱしか入っていないのが信じられないくらいだった。それでどれくらい味が向上しているのかはわからないが…。
ところで、鹿児島では「ねじめびわ茶」というのが有名で、けっこう高く売られている。50gで800円くらいだろうか。根占では枇杷茶用にビワを栽培していて、葉に栄養を集中させるために敢えて実を付けない栽培も行っているらしく、果実の副産物ではないからこの価格になるのだろう。
それに、作ってみて思ったが、最初は膨大にあると思われたビワの葉も、虫食いや病気の葉を取り除いたり、発酵・乾燥させるうちにどんどん嵩が減っていって、最終的に茶葉になったのはたったの600gしかなかった。枇杷茶は作るのに手間のかからないお茶と思われているが、真面目にやろうとすると実は効率が悪いようだ。
ちなみに、せっかく作ったので、ラベルも作り袋に入れて、「大浦ふるさと館」に置かせてもらうことにした。50gで200円。ちなみに、私自身は「健康になるから飲もう!」というアピールは好きではなく、あくまで美味しいから飲むというのが王道だと思うので、ラベルには「健康飲料」の文字は入れなかった。ねじめびわ茶も美味しいと思うが、先日ペットボトルのねじめびわ茶を飲んでみたら、それよりはうちの枇杷茶をちゃんと淹れて飲んだ方が美味しいと思ったのでお試しあれ。
※ 緑茶の製作工程でも「発酵」という言葉が使われるが、これは業界用語で「発酵」と言っているだけで本当の「発酵」ではない。乳酸菌や酵母は緑茶の製造には関与していない。では科学的にはなんなのかというと、実は「酸化」なのだ。緑茶には「酸化酵素」というのがあって、これが茶葉を酸化させて味が変わるのである。でも「酸化」というとどうしてもマイナスのイメージがあることと、昔からの慣例で、「発酵」という言葉が使われている。
枇杷茶は古くからの健康飲料で、癌の予防を始め、ダイエット効果や疲労回復効果などがあると言われており、医療関係者にも愛飲している人が多いと聞く。それに健康茶にありがちなえぐみや臭みなどは全くなく、あっさりとしていてクセがない上品な味がする。
普通の枇杷茶は、ビワの葉をただ乾燥させるだけだが、せっかくなので本格的に作ろうと思い、発酵もさせてみた。といってもビニール袋に入れて生暖かい場所に置いておくだけで、本当に「発酵」(つまり乳酸菌等の繁殖)なのかどうかは不明。というか多分違う(※)。ただ、発酵中はビワの葉からまさにビワの果実の芳醇な香りがしてきて、葉っぱしか入っていないのが信じられないくらいだった。それでどれくらい味が向上しているのかはわからないが…。
ところで、鹿児島では「ねじめびわ茶」というのが有名で、けっこう高く売られている。50gで800円くらいだろうか。根占では枇杷茶用にビワを栽培していて、葉に栄養を集中させるために敢えて実を付けない栽培も行っているらしく、果実の副産物ではないからこの価格になるのだろう。
それに、作ってみて思ったが、最初は膨大にあると思われたビワの葉も、虫食いや病気の葉を取り除いたり、発酵・乾燥させるうちにどんどん嵩が減っていって、最終的に茶葉になったのはたったの600gしかなかった。枇杷茶は作るのに手間のかからないお茶と思われているが、真面目にやろうとすると実は効率が悪いようだ。
ちなみに、せっかく作ったので、ラベルも作り袋に入れて、「大浦ふるさと館」に置かせてもらうことにした。50gで200円。ちなみに、私自身は「健康になるから飲もう!」というアピールは好きではなく、あくまで美味しいから飲むというのが王道だと思うので、ラベルには「健康飲料」の文字は入れなかった。ねじめびわ茶も美味しいと思うが、先日ペットボトルのねじめびわ茶を飲んでみたら、それよりはうちの枇杷茶をちゃんと淹れて飲んだ方が美味しいと思ったのでお試しあれ。
※ 緑茶の製作工程でも「発酵」という言葉が使われるが、これは業界用語で「発酵」と言っているだけで本当の「発酵」ではない。乳酸菌や酵母は緑茶の製造には関与していない。では科学的にはなんなのかというと、実は「酸化」なのだ。緑茶には「酸化酵素」というのがあって、これが茶葉を酸化させて味が変わるのである。でも「酸化」というとどうしてもマイナスのイメージがあることと、昔からの慣例で、「発酵」という言葉が使われている。
2012年4月3日火曜日
茶生産量全国2位の鹿児島で、抹茶がほとんど生産されない理由
全国的にはあまり認識されていないが、鹿児島県は、静岡県に続く全国第2位のお茶の産地である。認知度がいまいちのは、鹿児島の茶業は緑茶の原料である荒茶の生産がメインで、消費者が直接目にする製品をあまり生み出していないからと思われる。
さて、先日も書いたのだが、その鹿児島では、抹茶がほとんど生産されていない。私の知る限り、鹿児島で抹茶を製造しているのは一社しかない。どうして、鹿児島では抹茶は作られていないのだろうか?
それは、端的には、鹿児島には藩政時代、茶の湯(茶道)の文化があまりなかったからであろう。77万石の雄藩であった薩摩藩で茶の湯が盛んでなかったのは意外であるが、ではどうして薩摩藩では茶の湯が振るわなかったのだろうか。
その理由は、第1に、薩摩藩の武士は貧乏だったことが挙げられる。薩摩藩は人口の約40%が武士という、全国的に見ても異常に武士の多い社会だったので、武士の多くは貧乏だった。茶の湯には金がかかるので、貧乏武士にはできようはずもない。
第2に、外城(とじょう)制も影響していると思われる。外城制とは、おおざっぱに言えば武士を地方に在住させる制度のこと。江戸時代、一国一城と決められていたのだが、薩摩藩は「これは城ではない、外城です」として武士を地方に駐在させた。他の藩では、武士は城下町に集中して住んでいたので武家文化が栄えたが、薩摩藩では貧乏武士が分散して地方に住んでいたので、武家文化があまり振るわなかった。茶の湯は武家文化なので、薩摩藩では茶の湯を嗜む武家はほとんどいなかったと思われる。
第3に、君主である島津家が茶の湯に熱心でなかったこともあるだろう。江戸時代、大名は将軍家の接待のために茶の湯の作法を修める必要があった。当然、島津家も茶の湯を行っていたし、役職として茶道方(つまり茶による接待役=いわゆる茶坊主)も置かれていたのだが、島津家からは江戸時代、茶人と呼ばれるほどの当主は出なかった。
島津家でも、戦国時代の島津義弘は千利休に教えを請うたこともある茶人だったし、薩摩藩が朝鮮出兵で連れ帰った陶工に茶道具を作らせたという話もあるが、ほんの一時期のことに過ぎないと思われる。江戸時代には、島津家は大名として必要最低限の茶の湯は嗜んだが、それ以上ではなかっただろう。
どうして島津家が茶の湯に熱心でなかったのか、という理由はよくわからないが、よく言われるのは、中興の祖、島津忠良(日新斎)の教えに「茶の湯に入れ込むのはよくない」というものがあり、これが影響しているという。質実剛健を好んだ日新斎が、豪奢な数寄屋文化を戒めるのは当然とも言えるが、この教えが数百年も守られるとは、ちょっと信じがたい。
しかし、日新斎が詠んだという歌「魔の所為か 天けん(キリスト教)おかみ(拝み)法華宗、一向宗に数奇の小座敷(茶の湯)」を見ると、それもあながち嘘ではないかもしれないという気がしてくる。
キリスト教、法華宗、一向宗というのは、薩摩藩では禁制で手ひどく弾圧されていた。それと同列に、茶の湯が並んでいるのである! たかが茶飲み、「魔の所為」扱いせんでも…という気がするのだが、こんな強く否定されては、歴代の島津藩主が茶の湯に冷淡な態度を取らざるを得なかったのも頷ける。
ともかく、そういう歴史的な経緯から、鹿児島では茶の湯の文化が武家層に定着しなかった。それはそれで仕方ないが、茶業の県なのにもかかわらず、お茶屋さんに並ぶ抹茶に自県生産のものがなく、宇治などから取り寄せていることには、少し寂しい気がするのである。
歴史は重要だが、あまり過去に引き摺られるのもよくない。そろそろ、鹿児島にも抹茶を飲む文化が栄えてもいい頃ではないだろうか。
さて、先日も書いたのだが、その鹿児島では、抹茶がほとんど生産されていない。私の知る限り、鹿児島で抹茶を製造しているのは一社しかない。どうして、鹿児島では抹茶は作られていないのだろうか?
それは、端的には、鹿児島には藩政時代、茶の湯(茶道)の文化があまりなかったからであろう。77万石の雄藩であった薩摩藩で茶の湯が盛んでなかったのは意外であるが、ではどうして薩摩藩では茶の湯が振るわなかったのだろうか。
その理由は、第1に、薩摩藩の武士は貧乏だったことが挙げられる。薩摩藩は人口の約40%が武士という、全国的に見ても異常に武士の多い社会だったので、武士の多くは貧乏だった。茶の湯には金がかかるので、貧乏武士にはできようはずもない。
第2に、外城(とじょう)制も影響していると思われる。外城制とは、おおざっぱに言えば武士を地方に在住させる制度のこと。江戸時代、一国一城と決められていたのだが、薩摩藩は「これは城ではない、外城です」として武士を地方に駐在させた。他の藩では、武士は城下町に集中して住んでいたので武家文化が栄えたが、薩摩藩では貧乏武士が分散して地方に住んでいたので、武家文化があまり振るわなかった。茶の湯は武家文化なので、薩摩藩では茶の湯を嗜む武家はほとんどいなかったと思われる。
第3に、君主である島津家が茶の湯に熱心でなかったこともあるだろう。江戸時代、大名は将軍家の接待のために茶の湯の作法を修める必要があった。当然、島津家も茶の湯を行っていたし、役職として茶道方(つまり茶による接待役=いわゆる茶坊主)も置かれていたのだが、島津家からは江戸時代、茶人と呼ばれるほどの当主は出なかった。
島津家でも、戦国時代の島津義弘は千利休に教えを請うたこともある茶人だったし、薩摩藩が朝鮮出兵で連れ帰った陶工に茶道具を作らせたという話もあるが、ほんの一時期のことに過ぎないと思われる。江戸時代には、島津家は大名として必要最低限の茶の湯は嗜んだが、それ以上ではなかっただろう。
どうして島津家が茶の湯に熱心でなかったのか、という理由はよくわからないが、よく言われるのは、中興の祖、島津忠良(日新斎)の教えに「茶の湯に入れ込むのはよくない」というものがあり、これが影響しているという。質実剛健を好んだ日新斎が、豪奢な数寄屋文化を戒めるのは当然とも言えるが、この教えが数百年も守られるとは、ちょっと信じがたい。
しかし、日新斎が詠んだという歌「魔の所為か 天けん(キリスト教)おかみ(拝み)法華宗、一向宗に数奇の小座敷(茶の湯)」を見ると、それもあながち嘘ではないかもしれないという気がしてくる。
キリスト教、法華宗、一向宗というのは、薩摩藩では禁制で手ひどく弾圧されていた。それと同列に、茶の湯が並んでいるのである! たかが茶飲み、「魔の所為」扱いせんでも…という気がするのだが、こんな強く否定されては、歴代の島津藩主が茶の湯に冷淡な態度を取らざるを得なかったのも頷ける。
ともかく、そういう歴史的な経緯から、鹿児島では茶の湯の文化が武家層に定着しなかった。それはそれで仕方ないが、茶業の県なのにもかかわらず、お茶屋さんに並ぶ抹茶に自県生産のものがなく、宇治などから取り寄せていることには、少し寂しい気がするのである。
歴史は重要だが、あまり過去に引き摺られるのもよくない。そろそろ、鹿児島にも抹茶を飲む文化が栄えてもいい頃ではないだろうか。
2012年3月26日月曜日
茶業今昔:茶の栽培にトライしてみたい理由
うちの近所では、このように管理が放棄された茶畑をよく見る。近所にあった製茶工場も2010年に閉鎖されたのだという。私は、いずれ茶の栽培もやってみたいと思っているので、茶業が下火になっているのはちょっと悲しい。
どうして茶業が衰微しているのかというと、その直接的な理由は、茶葉の価格が下がっているからである。統計を見てみると2000年前後をピークにして漸減しており、ピーク時と比べて半値以下になっている茶葉もある。
その減少の背後にあるのは、茶葉の流通・消費の構造の変化である。すなわち、ペットボトル飲料としてのお茶の普及と、自宅用緑茶の消費低迷が挙げられよう。今や茶葉の国内消費量の1/4は、ペットボトル飲料だ。
ペットボトルのお茶が急速に売り上げを伸ばした一方で、それに伴って生産者側が潤ったかというと、そうはなっていない。もちろん、一部にはうまく対応して収益を上げた生産者もいたわけだが、大部分の経営は苦しくなったのだった。なぜなら、ペットボトル用のお茶生産はそれまでと全く違うものが要求されたからである。
それは、年間を通じた供給の安定と、品質の均一さ、低価格であった。これは、従来のお茶生産と真逆である。なぜなら、お茶は新茶が重要視され季節性が強いものであると同時に、産地毎の微妙な違いを楽しむものでもあり、多品種少量の生産・消費が一般的であったからである。そのため、産地毎に味や香りに特徴を出すとともに、いかに特徴ある新茶を高く売るかということに重点を置いた生産・販売の体系が作られてきたのであった。
当地、南さつま市大浦町のお茶栽培は大正期に開始されたものだが、これも通常の八十八夜より1ヶ月早いという「走り新茶」を大阪へ売り込んで盛んになったものだ。これは、当時としては日本一早い新茶だったらしく、一時期は「大浦茶」として世に聞こえたらしい。
しかし、ペットボトルのお茶にとっては、新茶など何の意味もないのである。また、産地毎の特徴に至っては、品質管理上の障害にしかならない。これまでの茶業が依って立ってきたビジネスモデルが一気に裏目に出たのである。そのため茶葉の国内生産量は据え置かれつつ、近年、茶葉の輸入が増えてきている。
そもそも、日本の茶業は輸出産業として発展した。明治から大正にかけての貴重な外貨獲得の手段は、紅茶の輸出だったのである(紅茶と緑茶は製法が違うだけで茶の木は同じ)。古くからの産地ではなかった静岡が茶の一大生産地となったのも、輸出のための海路(横浜港・清水港)に恵まれていたということが大きかった。
戦中戦後は茶業も低迷したが、高度成長期には国内消費が増えたために生産が国内向けに転換されるとともに急速に増産が行われた。茶業にとっては、ある意味でこの時期に負の遺産が形成されたと言ってもよい。お茶の消費増は、嗜好飲料がまだ十分なかった高度経済成長期の一時的な現象だったと考えられるわけで、その時期に作付け面積を拡大させたことは、長期的には過剰生産体質の原因となった。
つまり、「昔の人はお茶をたくさん飲んでいたが、今の若者はあまり飲まない」というのは嘘なのだ。昔、お茶は贅沢な嗜好品であり、庶民はさほど飲んでいたわけではない。お茶をたくさん飲むライフスタイルが形作られたのは、高度経済成長期という割と最近のことなのである。
しかもこの時期、お茶が生活に浸透したのは(茶業界にとって)よかったが、一方でお茶があまりにも身近になりすぎ、飲食店等では「お茶はタダで出てくるもの」という常識が形成されてしまった。これでは、外食産業における茶の消費は期待できないというものである。
そう考えると、最近の茶業の低迷は、長期的なトレンドとしては致し方ない。茶は嗜好品である以上、コーヒーや紅茶、ジュースといった他の嗜好飲料が充実すれば消費量が減るのは当然である。しかも、緑茶は身近になりすぎて、嗜好品としての競争力が低下している。ペットボトルのお茶が普及したことで、お茶の消費量が堅調に推移していることは、茶業にとってはむしろ僥倖といえよう。
今後の日本の茶業をマクロ的に考えると、自宅用煎茶の生産は縮小し高品質化・高価格化を目指す一方、ペットボトル用には省力化・大規模化による均質な茶葉生産体制を形成することが重要だと思う。事実、南九州ではペットボトル用のお茶生産に適応して生産量を伸ばしている産地もある。
また、緑茶をあまりに身近な日常的な飲み物ではなく、本来の嗜好品の地位に戻してやることが必要だし、それが現今の流れでもある。 都市部で流行っている「nana's green tea」とか「祇園辻利」といった店は、嗜好品としてのお茶にはまだまだ可能性があることを示している。なにしろ、米国のスターバックスでも、抹茶ラテは売っているのだ。
そして、こうした店が煎茶ではなく抹茶を売りにしていることは、嗜好品としてのお茶の方向性を示唆している。嗜好品である以上、身近になりすぎた煎茶よりも、プレミアム感がある抹茶が有利なのは当然である。
とすれば、鹿児島県は全国2位のお茶の生産量があるにもかかわらず、なぜか抹茶の生産はほとんど行われていないわけだが、これからは抹茶生産が重要になるかもしれない。私が茶の生産にもトライしてみたいと思うのも、これまで抹茶生産の伝統や蓄積がない鹿児島だからこそ、面白い経営ができるのではないかと思ってのことなのである。
どのように抹茶を生産・販売するかということは工夫が必要だが、いつか、鹿児島産の抹茶を世に問うてみたいと思っている。
どうして茶業が衰微しているのかというと、その直接的な理由は、茶葉の価格が下がっているからである。統計を見てみると2000年前後をピークにして漸減しており、ピーク時と比べて半値以下になっている茶葉もある。
その減少の背後にあるのは、茶葉の流通・消費の構造の変化である。すなわち、ペットボトル飲料としてのお茶の普及と、自宅用緑茶の消費低迷が挙げられよう。今や茶葉の国内消費量の1/4は、ペットボトル飲料だ。
ペットボトルのお茶が急速に売り上げを伸ばした一方で、それに伴って生産者側が潤ったかというと、そうはなっていない。もちろん、一部にはうまく対応して収益を上げた生産者もいたわけだが、大部分の経営は苦しくなったのだった。なぜなら、ペットボトル用のお茶生産はそれまでと全く違うものが要求されたからである。
それは、年間を通じた供給の安定と、品質の均一さ、低価格であった。これは、従来のお茶生産と真逆である。なぜなら、お茶は新茶が重要視され季節性が強いものであると同時に、産地毎の微妙な違いを楽しむものでもあり、多品種少量の生産・消費が一般的であったからである。そのため、産地毎に味や香りに特徴を出すとともに、いかに特徴ある新茶を高く売るかということに重点を置いた生産・販売の体系が作られてきたのであった。
当地、南さつま市大浦町のお茶栽培は大正期に開始されたものだが、これも通常の八十八夜より1ヶ月早いという「走り新茶」を大阪へ売り込んで盛んになったものだ。これは、当時としては日本一早い新茶だったらしく、一時期は「大浦茶」として世に聞こえたらしい。
しかし、ペットボトルのお茶にとっては、新茶など何の意味もないのである。また、産地毎の特徴に至っては、品質管理上の障害にしかならない。これまでの茶業が依って立ってきたビジネスモデルが一気に裏目に出たのである。そのため茶葉の国内生産量は据え置かれつつ、近年、茶葉の輸入が増えてきている。
そもそも、日本の茶業は輸出産業として発展した。明治から大正にかけての貴重な外貨獲得の手段は、紅茶の輸出だったのである(紅茶と緑茶は製法が違うだけで茶の木は同じ)。古くからの産地ではなかった静岡が茶の一大生産地となったのも、輸出のための海路(横浜港・清水港)に恵まれていたということが大きかった。
戦中戦後は茶業も低迷したが、高度成長期には国内消費が増えたために生産が国内向けに転換されるとともに急速に増産が行われた。茶業にとっては、ある意味でこの時期に負の遺産が形成されたと言ってもよい。お茶の消費増は、嗜好飲料がまだ十分なかった高度経済成長期の一時的な現象だったと考えられるわけで、その時期に作付け面積を拡大させたことは、長期的には過剰生産体質の原因となった。
つまり、「昔の人はお茶をたくさん飲んでいたが、今の若者はあまり飲まない」というのは嘘なのだ。昔、お茶は贅沢な嗜好品であり、庶民はさほど飲んでいたわけではない。お茶をたくさん飲むライフスタイルが形作られたのは、高度経済成長期という割と最近のことなのである。
しかもこの時期、お茶が生活に浸透したのは(茶業界にとって)よかったが、一方でお茶があまりにも身近になりすぎ、飲食店等では「お茶はタダで出てくるもの」という常識が形成されてしまった。これでは、外食産業における茶の消費は期待できないというものである。
そう考えると、最近の茶業の低迷は、長期的なトレンドとしては致し方ない。茶は嗜好品である以上、コーヒーや紅茶、ジュースといった他の嗜好飲料が充実すれば消費量が減るのは当然である。しかも、緑茶は身近になりすぎて、嗜好品としての競争力が低下している。ペットボトルのお茶が普及したことで、お茶の消費量が堅調に推移していることは、茶業にとってはむしろ僥倖といえよう。
今後の日本の茶業をマクロ的に考えると、自宅用煎茶の生産は縮小し高品質化・高価格化を目指す一方、ペットボトル用には省力化・大規模化による均質な茶葉生産体制を形成することが重要だと思う。事実、南九州ではペットボトル用のお茶生産に適応して生産量を伸ばしている産地もある。
また、緑茶をあまりに身近な日常的な飲み物ではなく、本来の嗜好品の地位に戻してやることが必要だし、それが現今の流れでもある。 都市部で流行っている「nana's green tea」とか「祇園辻利」といった店は、嗜好品としてのお茶にはまだまだ可能性があることを示している。なにしろ、米国のスターバックスでも、抹茶ラテは売っているのだ。
そして、こうした店が煎茶ではなく抹茶を売りにしていることは、嗜好品としてのお茶の方向性を示唆している。嗜好品である以上、身近になりすぎた煎茶よりも、プレミアム感がある抹茶が有利なのは当然である。
とすれば、鹿児島県は全国2位のお茶の生産量があるにもかかわらず、なぜか抹茶の生産はほとんど行われていないわけだが、これからは抹茶生産が重要になるかもしれない。私が茶の生産にもトライしてみたいと思うのも、これまで抹茶生産の伝統や蓄積がない鹿児島だからこそ、面白い経営ができるのではないかと思ってのことなのである。
どのように抹茶を生産・販売するかということは工夫が必要だが、いつか、鹿児島産の抹茶を世に問うてみたいと思っている。
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