2020年1月23日木曜日

共鳴する加速関係——大浦町の人口減少(その4)

(「いかにして大浦町が農業の機械化先進地となったか」からの続き)

大浦のメインストリートを、木連口(きれんくち)通りという。

南北に延びる、700mほどの通りである。今でも、役場、銀行、役場、郵便局、スーパー、農協、ガソリンスタンドなどが並びメインストリートとしての名目は保っているが、まあ有り体に言ってシャッター通りになってしまっている。

しかしこの通りが最も賑やかだった昭和20年代は、たくさんのお店や家がこの通りを埋め尽くしていた。年末の歳の市になると、すれ違うこともできないほどの人でごった返したという。大浦干拓が完成した昭和40年代にも多くの店が軒を連ねており、この700mに電器店だけで4店もあった。理容・美容室に至ってはなんと11店も(!)あったのである。美容室が犇めく東京・南青山でもそれほどの美容室の密度はないかもしれない。

かつての大浦の絶望的な貧しさを考えると、理容・美容室がとんでもない密度で存在していたことが不思議なくらいである。既に述べたように、昭和60年代になっても大浦町民の平均所得は全国平均の半分、鹿児島県の平均の70%しかなく、全国でも有数の貧乏地帯だったのだから。にも関わらず、木連口通りが活気に溢れていたことも同様に事実だった。

東南アジアや南米などを旅してきた人は、この貧しさと活気の両立を別段不思議とも思わないかもしれない。統計で見れば極貧の地域で最低の生活を余儀なくされているボロ屋街の人々が、実にアッケラカンとしてせせこましくなく、通りは活気があって人々は元気だということがたくさんあるのだから。いや、そういう地域の貧乏な人たちの方が、立派な企業に勤める高級住宅街の人達よりもずっと生き生きして人生を謳歌しているように見えることもしばしばだ。

だから過去の大浦が、全国有数の貧乏な町であったことと、木連口通りに活気があったことは矛盾しない。ポケットにはお金はなかったが、みんな若く無鉄砲で、将来の心配などせずその日暮らしをしていた。事業計画書などなしに新しい商売を筵(むしろ)一枚で始め、うまくいかなければさっさと辞めた。通りには入れ替わり立ち替わり新しい商売が生まれ、消えていった。大浦だけでなく、日本中がそういう時代だった。

——どうして、この活気が失われてしまったのだろう。

ここに掲載したのは、1955〜1995年の大浦町の人口・世帯数・高齢化率のグラフである。

1955年(昭和30年)には7500人以上いた人口が、30年後の1985年には約半数の3700人あまりに減ってしまった。この人口減少は、若者が町を去ったために起こったので、高齢化率は逆に10%未満から30%以上へと急上昇した。通りから活気が失われた直接の原因は、この高齢化である。

これは日本の農村に共通した傾向ではあった。産業の中心が農業を中心とした第一次産業から製造業など第二次産業へとシフトし、農村の若者たちは「金の卵」と言われて集団就職で上京していった。だが大浦のように変化が急激だったのも珍しい。だからこそ大浦町は鹿児島県で第1位の高齢化自治体になったのである。

なぜ大浦の人口減少はかくまでに急激だったか。

干拓事業やそれに続く基盤整備事業、そして農業の大規模化・機械化といった意欲的な動きがあったにも関わらず、同じ時期に人口が急減しているのは傍目には不可解だ。しかし実はこれらの動きは連動していたのである。

というのは、農業の大規模化・機械化が急速に進んだ原因は、人々の意欲だけではなかった。むしろ人口減少への対応という側面もかなり存在したのである。例えば、昔の田植えというのは、一族総出で行われなくてはならない一大行事だった。ところが若手がどんどん都会へ出て行ってしまうと、十分な人手が集まらなくなる。そうなると機械で田植えをしなければしょうがない。ある意味では、人々はやむにやまれず機械化に進んだのである。

そして、農地の規模拡大はより人口減少と関わっていた。既に述べたように、干拓以前の大浦の農家の平均的な規模は30aほどだったが干拓地では3haと10倍になり、その他の地域でも徐々に規模が拡大していった。ということは、農地の総面積はそれほど変わらない以上、農地の規模が10倍に増えることは、農家数は10分の1に減ることを意味する。

これは、零細農家が競争に負けて廃業していった、ということではない。後継者のいない農家が自主的に廃業していった結果であり、農業の近代化がそれについていけない零細農家を淘汰したわけではなかった。むしろ、この時期の大浦の農業に機械化・大規模化のトレンドがあったことは、そうした廃業農家の耕作地がスムーズに集積され、荒廃せずに済んだというプラスの面が大きかった。

しかし農業の大規模化・機械化が進めば進むほど、人口減少が加速していったこともまた疑い得ない。今まで5人必要だった作業が、機械の力を借りて2人でできるようになる。今まで10人の人手で耕した田んぼが、トラクターでは1人で耕せる。このように省力化が進んでいくと、同じ農業を続けて行こうにも、自然と人間があぶれて行ってしまう。

若者は、ぼーっとしているように見えても、こういう趨勢に極めて敏感である。「自分はいずれ、ここにいなくてもよい人間になる」、うすうすでもそう感じれば、自然と外に目が向くのが若者だ。逆に言えば、この時期に農業の大規模化や機械化のトレンドがなく、相変わらず人手に頼った農業をしていれば、ある程度の若者はイヤイヤながらでも大浦に踏みとどまったかも知れない。「自分がいなければこの家はやっていけない」と思えば責任感から人生を選択する人はけっこう多い。

しかし実際には、大浦の農業は急速に近代化しつつあり、人手に頼らなくてもすむ形へと変わっていった。人口減少の流れがある以上、そういう形に変えて行かざるを得なかったからだ。農業の大規模化・機械化は人口減少の原因ではなかったが、それを助長する要因ではあった。

農地の大規模化・機械化・人口減少は「共鳴」し合いながら加速していったのである。この共鳴する加速関係があったことが、大浦が鹿児島県で第1位の高齢化自治体になるほど急激な人口減少がおこった理由であった。

このように書くと、町の発展のために行われた干拓事業や基盤整備事業、そして個々の農家の大規模化の努力が裏目に出たかのように感じる人がいるかもしれない。仮にそうした動きがなく、人々が狭い耕地で人手に頼った昔ながらの農業をしていれば、急激な人口減少は避けられたのかもしれない。事実、大浦よりももっと僻地の山村で意外と人口が維持されたケースはあった。でもそれは長期的に見れば、静かに廃村へ歩んでいくことにほかならなかった。基盤整備をしない狭い田んぼばかりの土地は、いずれ耕作が不可能になることは明らかだからだ。牛や馬で耕す人は今や誰もいない。

だから大浦が早い時期に農業の近代化に取り組んだことは、急激な人口減少という痛みはあったものの、長期的に見れば町の発展に寄与したのである。今でも大浦は耕作率が高く、主要な水田にはほとんど耕作放棄地がない。それに町にとっては人口減少は痛みだったかもしれないが、出ていった若者を見てみれば、大浦で農業をするよりもずっと実入りのいい仕事に就いた人が多かった。やりたいことができずに農業をやらされるより、都会に出て行くことができたのはよい面もあった。

もちろん、本当なら生まれ故郷を離れたくなかった、という若者もたくさんいただろう。そうした若者に町内でよい就職口を準備できなかったのは残念なことだ。だが当時の人達に何ができただろう。農業の生産性を上げる、というのが純農村地帯であった大浦にとって唯一にして最大の経済政策だったことは間違いない。 結果的に激しい人口減少を招いたのはわずかばかりの皮肉だったとしても、大浦の農業を持続可能なものに変革した功績は計り知れない。

大浦は、時代に取り残された遅れた地域だったから人口減少したのではない。

逆だ。時代を先取りし、他の地域に先立って農業の大規模化・機械化が進んだために、人口減少や高齢化をも先取りしてしまったということなのだ。それが、同時期に過疎が進んだ他の農山村との際だった違いだったと私は思う。

でもそれにしても、いや、そうであればこそ、近代的な農村に生まれ変わった大浦のメインストリートが、やはりシャッター通りになっていったことの意味を問わなければならない。大浦が遅れた地域だったのであれば、木連口通りが衰退した理由は簡単だ。しかし大浦は農業の近代化によって「稼げる地域」になっていったはずなのだ。人口減少があるにしても、もはや昔のような極貧の地域ではなくなっていた。それなのに商店街が寂れていったのはどういうわけだったのか。

(つづく)

【参考文献】
「大浦町の農民分解と今日の農業問題」2002年、朝日 吉太郎 

2020年1月17日金曜日

いかにして大浦町が農業の機械化先進地となったか——大浦町の人口減少(その3)

大浦からよその地域の農業を見てみると、機械化の遅れに驚くことがある。

例えば、鹿児島市内の近郊でも、未だに結構お米の天日干しがされている。そして田んぼの形は山の地形に沿ってぐにゃりと曲がっていたりする。そういうところの農業は傍目にはのどかで美しいが、実際にやるのは大変で、ほとんどボランティア活動みたいな気持ちでないとできない。

一方、大浦ではお米の天日干しはほとんどない。収穫はほぼ100%コンバイン。コンバインでの稲刈りと乾燥機での乾燥は、バインダー収穫と天日干しに比べ数分の1の労力だ。一度コンバイン収穫に慣れてしまえば、天日干しにはもう戻れない。

私は大浦で就農した時、大浦は農業の機械化が進んでいるとは特に思っていなかった。しかし研修などで他の地域を訪れて農業の実態に触れてみると、「大浦って、小規模な農家も割と機械化が進んでいるよな」と思うようになった。

大浦では、干拓は別格としても、町内の主要な農地も整形された四角い田んぼが中心になっていて、大きな農業機械で合理的に耕作されている場所が多い。ちいさな耕耘機でえっちらおっちら田んぼを耕すようなやり方は、僻地の農山村だとそんなに珍しくないものだが、大浦ではそういうのは趣味的な農業を除いてほとんど存在しない。同程度の農山村と比べれば、大浦は明らかに農業の機械化先進地である。

——この機械化をもたらしたのは、大浦干拓の影響だろう。

広大な干拓地を耕作するためには機械化は必然だったが、それは干拓地以外の農業にも波及した。干拓で活躍する効率的な機械仕事を見せつけられ、山間部で農業をやっている人もこれからの農業は機械を使わなければできないことを痛感したのだ。

農家というのはだいたい保守的である。というより、耕作大系というのはいろいろな要素が絡み合っていて一部だけを変えることは難しいから、自然と前年踏襲的になるのである。だから、仮に便利な農業機械が開発されたとしても、それを積極的に導入する人は限られる。ところが、農家は隣の農家がやっていることはよく見ている。隣の農家が新しい機械によってうまい具合に作業を合理化したと見るや、それを導入するのにはあまり躊躇がない。右へ倣え主義というよりも、実証されたことはすぐ取り入れるのもまた農家である。

であるから、干拓地での機械導入は大浦全体の農家に高い機械化意欲をもたらした。第一線の大規模農家が巨大なトラクターを持っているのは当然としても、大浦の場合はそれに次ぐ規模の農家もけっこう大きなトラクターを導入していることが多い。これは、まず機械を高機能化させてから経営規模を拡大していく、というやり方が大浦でセオリー化したためではないかと思う。

そして機械化にはもう一つ大事な要素がある。圃場の基盤整備事業である。

「基盤整備事業」とは、ここでは「農地の区画整理」を指す。昔の田んぼは牛や馬で耕していたから、そこまでには牛馬が通るだけのあぜ道があればよく、また真四角である必要もなかった。ところがトラクターで耕耘するようになると、トラクターが田んぼまで行くための道が必要である。さらに、トラクターでは狭く不整形な田んぼは耕耘しづらいため、田んぼは広く真四角であることが望ましい。

だから、昔ながらの棚田のような田んぼを壊して、新たに真四角の規格化された広い田んぼに生まれ変わらせるのが基盤整備事業である。要するに農地の再造成だ。これをしないと機械化は思うように進められない。

ところが、この事業はなかなか進めるのが難しい。市街地の区画整理が遅々として進まないのと同じ理由である。新たに道を通すには、みんなが土地を供出しなければならないし、費用負担もある。広い農地を持つ人にとっては土地の生産性を向上させるが、狭い農地しかない人や機械化に関心がない人にとってはあまり旨味がない。しかも区画整理と一緒で、区域の全員が事業に賛成しないと実行出来ない。だから基盤整備事業は時代の要請であったにもかかわらず、多くの地域でそれほどスムーズには進まなかった。

だが大浦の場合、基盤整備事業が概ね順調に進んだ。それは、干拓地の大規模農業を目の当たりにし、機械化の意欲が高まっていたからだろう。機械化を進めるためには基盤整備事業が必要で、基盤整備が行われるとさらなる機械化が可能になる。機械化と基盤整備事業は、撚り合わされた糸のように進行していった。

その背景には、基盤整備事業に対する町役場の熱意があったのももちろんだ。近隣の自治体が観光施設とかレクリエーション施設といったハコモノを次々と建てていったときも、大浦町は地味な基盤整備事業に注力し続けた。

それから、基盤整備事業が積極的に実行されたことは、思わぬ(もしかしたら狙っていた面もあったのかもしれない)形で大浦干拓事業の帳尻を合わすことにもなった。 というのは、干拓地に入植した人たちには、干拓地の土地の購入や高額な機械の導入などによって、1000万円単位の借金を抱えた人も少なくなかったのである。最初、干拓地はただの砂浜だったから農地としては最も劣等であり、生産性も低かった。巨大な借金を返していく現金収入はすぐには得られなかった。

そこでそうした人達は、昼間は基盤整備事業の土方で働き、夕方から農業に従事するというダブルワークで借金を返済したのであった。こういう事情もあったからか、大浦では基盤整備事業は積極的に進められ、一時期は町の経済のかなりの部分が基盤整備事業という公共事業で支えられていたくらいである。

それはともかく、農家の機械化への意欲、役場の積極的な事業推進などによって、平成に入ってからの基盤整備事業は着々と進み、大浦の主要農地は全て事業を完了し、整形された広い四角い圃場が並ぶことになったのである。こういう地域は鹿児島では珍しいと思う。

その上、そうした大規模事業の対象は水田だけに留まらなかった。茶園や大規模養鶏団地の造成といったことが、県や国の補助を活用して矢継ぎ早に推進された。大浦は、干拓をきっかけとして構造改善事業(農業の基盤を造成していく事業)に非常に前向きな地域となり、こうした事業が華やかに行われていた時は連日のように県の役人が大浦を訪れ、遊浜館(大浦の旅館)が賑わっていたのである。

こうして、戦前から平成にかけて、大浦の農業はすっかり近代的な形へと生まれ変わった。干拓地だけでなく、大浦町の全域で圃場は効率的な形に整備され、人々は最新式の機械を導入していた。

このように書くと、かつての大浦町が意欲的で活気のある場所だったと思うかも知れない。だが、その動きの裏で、急激な人口減少とそれに伴う高齢化は非情にも続いていた。まるで大浦の農業を発展させようとする努力など存在していないかのように。

(つづく)

【参考文献】
「大浦干拓事業と笠沙町・大浦町の農業経済」2002年、西村 富明
「過疎化,高齢化の構図:再考〜笠沙町,大浦町の現状から」2002年、高嶺 欽一
「大浦町の農民分解と今日の農業問題」2002年、朝日 吉太郎

2020年1月3日金曜日

新年の抱負

みなさん、明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。

昨年は(昨年も!)、あまりこのブログ記事を書けなかった。その原因はハッキリしていて、他のところで記事を書いているからだ。

私は現在このブログの他に、「南薩の田舎暮らし ブログ」と「石蔵ブックカフェ ブログ」を業務的に書いていて、趣味の読書メモブログ「書径周游」も書いている。それぞれ昨年書いた記事数は、

南薩の田舎暮らし ブログ 31記事
石蔵ブックカフェ ブログ 29記事
書径周游 54記事

ということで、「南薩日乗」以外で114記事書いているわけだ。「南薩日乗」では20記事書いているから、昨年書いたブログ記事数は計134。約3日に1日は何かしらのブログを更新していることになる。改めて集計してみると結構な数だ。

なので、このブログだけを見れば、更新頻度が落ちて情報発信力が落ちているのだが、実際にはブログ記事ばっかり書きすぎなのかもしれない。でも他のブログは半ば義務的に書いている部分がある。趣味の読書メモブログは義務でもなんでもないが、でも読書メモなので本を読んだら義務的に書いている(読んでも書いていない本も多少あるが)。だからフリーハンドで書きたいことを書いているのはこのブログだけである。

私としては、今年はこのブログの更新をもうちょっと積極的にやっていこうと思っている。でも「南薩の田舎暮らし」とか「石蔵ブックカフェ」のブログは必要な広報としてやっているので、他のブログの更新頻度を落とすのも難しい。そうなるとブログをもっと書きまくるしかないんだろうか。

確かに私は文章を書くのが好きである。元々「石蔵ブックカフェ ブログ」なんかは、写真中心で文章はいらないよね、といって始めたはずがいつの間にかテキスト中心のブログになってしまった。中学生の頃に、原稿用紙3枚か4枚書けばいいというような作文で10枚以上も書いていたのだから、もうこれは宿痾みたいなものである。

でもそろそろ、量より質のことを考えてもいい頃合いかもしれない、とも思う。何よりこの、社会の教科書みたいな悪文をどうにかしないと。先日数年前に自分が書いた文章を見直してみたら、まだその頃の方が文学的で、表現に工夫があった。最近は歳のせいか(!?)どうも文章が無味乾燥すぎて自分でも読むに耐えない時がある。もう少し表現に気を遣わないといけない。もちろん内容の方も、より多様化できるとなおよい。

そんなわけで、年頭に少し抱負じみたものを書いておこう。今年はこのブログ「南薩日乗」をもう少し更新し、しかも文章表現をもっと生き生きしたものにしよう。

でも、そのためには時間が必要である。もっと早く書く術を身につけたとしても、やはり記事の執筆には時間がかかる。今これを書いているのも結局深夜になってしまった。それはあまりよくないことである。書いても書かなくてもいいブログ記事の執筆のために生活が振り回されたら本末顚倒だ。だからその前提として、まずは仕事(農業)が順調でないといけない。そして家庭生活も充実していなくてはいけない。そして当たり前のことだが、自分や家族が健康でないといけない。

こうして話は、随分と平凡なところに落ちついてきた。今年一年、公私ともに充実し、家族みんなが健康でありますように!

2019年12月20日金曜日

笠沙恵比寿と『南さつま市観光ビジョン』

先日の南さつま市議会で、本坊市長は笠沙恵比寿について「来年4月からの休館もやむを得ない」という認識を示した。

報道によればその理由は、第1に来年4月からの指定管理者が見つかっていないこと、第2に利用者数が低迷していること、第3に今後の施設の維持管理に多額の予算がかかると見込まれること、である。

2015年から指定管理者をしていたのはJTBコミュニケーションズ。旅行会社大手のJTBがテコ入れをしてくれるなら、きっと笠沙恵比寿も黒字経営になるだろうと市は考えていたのだが、実際にはやはり経営は厳しく、JTBは来年4月からの契約を更新しないと言ってきた。

要するに、JTBが経営しても利益が出なかった。これではまた指定管理者を公募しても無理そうだ。そこで市は、今年の3月、笠沙恵比寿の活用に関して「サウンディング型市場調査」というものをやった。

【参考】「笠沙恵比寿」をどうするか
https://inakaseikatsu.blogspot.com/2019/03/blog-post.html

この調査は、今までと違ったやり方で笠沙恵比寿の活用方がないか探るものだったと思う(あわよくば買い取りますという提案を期待していたのかも)。しかし妙案はな出なかった。というか、今から考えると最初からダメもと調査みたいな感じで、休館を見据えた手順の一種だったのかもしれない。

そりゃあそうだ、という気もする。JTBはいろいろ頑張って経営していたように見える。それでも損失が出るのなら、やはり施設自体に無理があったと考えざるを得ない。このまま笠沙恵比寿を維持していくのは、税金をドブに棄てることになるのかもしれない。

でもちょっと待って欲しい。

ここに一冊の報告書がある。昨年2018年の3月に南さつま市がまとめた『南さつま市観光ビジョン「わくわく!サンセット 南海道」』だ(「みなみかいどう」と読む)。

【参考】南さつま市観光ビジョン「わくわく!サンセット 南海道」(PDF)
http://www.city.minamisatsuma.lg.jp/shisei/docs/kankoubijonminamikaidou3003.pdf

これは観光に関して「南さつま市が、今後、的を絞って取り組むべき方向性についての検討」を行ってまとめたもので、「今後、この観光ビジョンを参考にしながら、行政と観光協会が中心となり、多くの関係団体と連携しながら、食や体験、人を絡めた観光振興を図ってまいります」と述べている。

これは残念ながら一般の市民にはあまりお知らせされなかったものの、結構頑張ってつくられた報告書で、地域の主立った人達だけでなく、頴娃の加藤潤さんや「美山商店」の吉村祐太さんなどこういう分野ではキーマンと言える人も参画してまとめられたものである。

その内容を一言でまとめれば、「海」「夕日」をキーワードに食や体験、人を絡めたわくわくするような観光地づくりを進めていこう! というものだ。

国道226号線(南さつま海道八景)を中心とした海岸の圧倒的な景観、とくに東シナ海に沈む夕日をシンボルに、ただ景色を見るだけでなくスキューバダイビングやカヌー、ヨット、シーカヤックといったマリンスポーツ、そして定置網体験やトレッキング、自転車などの体験活動を売りとして、農産物・海産物を生かした食を提供して地域の魅力を高めていこうというものである。

私としても、南さつま市の最大の観光資源は海岸線の景観だと思っているから、この方向性はとても理解できる。そして景観を見るだけではなくて、体験活動と絡めて楽しんでもらおうというのはぜひやって欲しい。

しかし、である。

実はこのコンセプト、笠沙恵比寿設立のコンセプトと全く同一なのである! 2000年に旧笠沙町が笠沙恵比寿をオープンさせるにあたって考えたのが、「海」を総合的に楽しむ上質なレジャーを目指す、ということで、まさに海の景観だけでなく体験活動(釣りやクルージング)、食(地域の相場より高価だが上質な食を提供)を組み合わせたレジャーの拠点施設となるよう設計されていた。

ということは、この『南さつま市観光ビジョン「わくわく!サンセット 南海道」』の実現にあたって中心となるのも、笠沙恵比寿であるはずなのだ。いや、私は『南さつま市観光ビジョン』を読んで、てっきり「これは低迷している笠沙恵比寿をテコ入れしていこうっていうことなんだろうな〜」と思っていたのだ。

しかも『南さつま市観光ビジョン』には、考えられる観光プランがいくつか参考で載っているのだが、「笠沙恵比寿」を使うとは明示されていないとはいえ、その中の多くが実際には笠沙恵比寿を拠点として考えるのが自然なプランなのである。

だから、今回の笠沙恵比寿、休館やむなし、の報を聞いて私が思ったのは、「南さつま市観光ビジョンは、一体何だったんだろう?」ということだった。休館やむなしの判断は、理解できるとしても、それにあたって『南さつま市観光ビジョン』が何も考慮されていないとすれば、あれは何のためにつくったのだろう?

そもそも、笠沙恵比寿は人気が低迷しているから経営が厳しいわけではない。笠沙恵比寿の経営の足かせは、たった10部屋しかない客室である。大型バスで来ても全員は泊まれない。シーズン中は断られる客も多いらしい。だから人気はあるのにかき入れ時にたくさんのお客を泊められない。

旅館業は、シーズン中にたくさんのお客を受け入れて儲け、オフシーズンには従業員に暇を出して出費を抑える、というビジネスモデルが普通だ。それなのに10部屋しか客室がないと、そういうことができない。その意味では、笠沙恵比寿設立の際の高級志向というコンセプトに元々無理があったのだ。

しかし笠沙恵比寿自体の人気はある。今からでもお手頃なファミリー・団体向けへと路線変更し、30部屋くらい簡易な客室を増設すれば十分経営がやっていけそうな気がする。客室の増設とはオオゴトに思うかも知れないが、最近の安普請の客室ならさほど予算もかからず、客の利便性はいい(現在の笠沙恵比寿の客室は凝った作りだがあまり機能的ではない)。実際、垂水にある「薩摩明治村」なんかはそういう安普請の客室で賑わっている。

そう考えると、笠沙恵比寿を休館(というより廃止)するというのは、経営的に考えても「やむを得ない」ものではない。これまでの失敗を踏まえて経営戦略を練り直し、体験活動を中心としたファミリー・団体向け施設として再出発すればやっていけそうだし、『南さつま市観光ビジョン』の実現にもすごく役立つ。いや、『ビジョン』の実現にあたって間違いなく要(かなめ)になるのは笠沙恵比寿なのだ。

それなのに、笠沙恵比寿の休館という観光政策上重要な決定に、『南さつま市観光ビジョン』は全く影響力を及ぼしていないように見える。これでは『南さつま市観光ビジョン』は無駄だったということになる。私は、今後の観光政策は全て『ビジョン』に基づくべきだ、と言いたいわけではないし、その内容を全面的に支持しているわけでもない。そもそも『ビジョン』は政策の方向性を定めたものというよりは参考書の位置づけでしかない。

しかし南さつま市(だけでなく近隣の町)の熱い人達がまとめた報告書が、現実の政策に影響力を及ぼしていないらしいのが悲しいのである。笠沙恵比寿の休館まであと3ヶ月。それまでの間に、行政から『南さつま市観光ビジョン』と笠沙恵比寿の関係について一言でも説明があってほしい。「あれにはこう書いてありますけど、実際はなかなか経営が厳しくて…」という程度の内容でもいい。

それが、行政に求めらえている誠実さだと、私は思う。自らがまとめた『ビジョン』を自らが見て視ぬ振りをしているようでは、行政の信頼性は大きく損なわれる。

こういうことを気にしているのは南さつま市でも私一人なのかもしれない。笠沙恵比寿をどうするのか、は多くの人の関心事だとしても、『ビジョン』との整合性をとやかくいっているのは。

でもこれは、本質的には整合性の問題ではないのである。言葉に対して誠実であるかどうか、という姿勢を問いたいのだ。笠沙恵比寿は旧笠沙町の観光政策の集大成だ。これまでたくさんの人たちが理想の実現に向かって努力してきた。それを廃止するというのであれば、数字で説明するのはもちろんのこと、「誠実さ」によって納得させなくてはならない。

2019年12月6日金曜日

大浦干拓という大事業——大浦町の人口減少(その2)

(「大浦町とコルビュジェの理想の農村 」からのつづき)

大浦町は、干拓の町である。

国道226号線を加世田から走ってくると、越路浜を過ぎて田園の中を突っ切る真っ直ぐな道路になり、そこの何もない交差点を南に曲がるとこれまた1.6kmもの一直線の道になる。両側は真っ平らの田んぼ。これが大浦町に入る道である。

私にとって大浦町の第一印象は、この、どこまでもまっすぐな、滑走路のような道だった。

大浦にはかつて、勾配1000分の1とも1500分の1ともいう遠浅の干潟「大浦潟」が広がっていた。1メートル下がるのに、1.5kmも進まないといけないという低勾配である。大浦の山間部にはそれほど広い耕地はないから、ここを干拓して広い畑や田んぼに変えれば、非常に生産力をアップすることができる。

そんなことから、藩政時代から大浦潟は干拓事業の対象となり、小さな入り江を利用した10町歩(10ha)程度の干拓事業が散発的に行われていた。そして昭和15年、日中戦争による食糧難の中、遂にこの広大な湾内の潟を全て田んぼに変えてしまおうという大事業が立案される。

当時、国は食糧増産のため「農地開発営団」を設置して農地の開拓を進めようとしていた。大浦干拓の事業はこの機運に乗り、農林省に直談判して国の事業として認められる。そして昭和18年、農地開発営団の事業として大浦潟の干拓が起工された。

「国の事業」といっても、太平洋戦争がたけなわになった頃であり、国の予算も潤沢ではなかった。大規模な干拓事業にはたくさんのガソリンが必要になるので農林省としては難色を示し、計画が承認された直後に早くも頓挫しかけたほどだ。しかし当時の唐仁原町長は「私の処はガソリンは要りません。荷車で現場まで運びます」と主張し応諾させたのだった。

ところが戦時中は地元の若い人間は戦争に徴発されて不在が多かったため、結局、青壮年団、青年学校、婦人会、果ては小学生までが奉仕作業に動員されることとなった。

終戦後、農地開発営団は廃止されたが、大浦干拓は農林省直営事業に移管されて続けられた。とはいうものの終戦後のモノも金もない時代、かなりの苦労があった模様である。物資と燃料の不足に悩まされ、作りかけの潮留め(堤防)はたびたび台風で破壊された。モッコを担いで土を運んだ、というような話を私自身も聞いた事がある。集落ごとに「特別労務班」が編成されて仕事にあたったという。

こうして昭和22年、大浦干拓第一工区の潮留めが完成。これが冒頭に触れた滑走路のような直線道路があるところ、概ね国道226号線の南側の地区である(正確には現在「恋島コンクリート」があるところより南側の区域)。潮留めが完成してからは、砂浜だったところを畑にしていく困難が待っていた。最初のうちは作物がうまく育たず、干拓地ができてからも苦労は続いたのである。

さらに昭和25年からは、その北側にあたる大浦干拓第二工区が起工し、昭和34年に完成。こうして第一工区174.5ha、第二工区161.8ha、合計336haもの大干拓が完成したのである(その後干拓地内の田畑の造成工事が行われ、完工したのは昭和40年)。

鹿児島県内で干拓というと出水干拓が有名で、昭和22年から40年という大浦干拓とほぼ同時期に同じく農林省直轄事業として造成されているが、西工区(90ha)、東工区(230ha)合わせて約320haであり、大浦干拓の規模には僅かに及ばない。出水干拓は江戸時代から行われた干拓地の集成であるため全体では1500haにもなるが、一事業としては大浦干拓の336haは鹿児島県では最大の干拓事業だった。

この大干拓の完成によって、大浦は「乳と蜜の流れる地」になるはずだった。戦前戦後の厳しい時代、奉仕作業でモッコを担いで土を運んだ人達も、「子どもたちには美味しいお米をお腹いっぱい食べさせたい」という一念だったという。そういう作業の合間に歌われたのに「大浦干拓の唄」(関 信義作詞)がある。その4番の歌詞はこういうものだ。

広い砂浜 大浦潟の
 工事 竣功(おわり)の暁にゃ
黄金(こがね)花咲く 五穀が稔る
 大浦干拓 平和の源泉(もと)よ

戦前までの大浦は、「走り新茶」という特産品はあったものの耕地が狭いため農業の規模が小さく、また人口が多かったので貧困に苦しんでいた。人々は、大浦の将来の発展を干拓に託したのだった。

それは、成功したように見えた。広大な干拓地には、次々と地元の人間が入植した。それまでは3反(30a)あれば平均的な農家だったのに、干拓地ではその規模が10倍にもなった。大浦の山間部では田んぼ1枚は5aもないところが多かったが、干拓では田んぼ1枚が1ha(=100a)あった。

アメリカやヨーロッパのような、大規模農業が大浦で取り組まれた。こうした広い面積を相手にするには、どうしても機械化が必要である。牛で耕しているわけにはいかない。人々は耕耘機を使うようになった。今では1haもある田んぼを(トラクターではなく)耕耘機で耕すのは気が遠くなるが、当時としては画期的だった。

まさに今、農水省が進めている「大規模化・省力化」の農業が、50年も前にこの大浦町で先進的に行われるようになったのである。

近隣の町の農家は、広大な大浦干拓を羨ましく見ていた。山間の狭小な田んぼを牛で耕すのとは効率が全く違ったからだ。一直線の道と整然と区画された田んぼは、コルビュジェが考えていたような合理的な町と村、そして新しい時代の理想の農業を象徴していた。

だが大浦干拓が完成したその時、既に大浦の人口減少は始まっており、その後も歯止めはきかなかった。もちろんその後の人口減少には高度経済成長という背景もあった。農業よりも製造業が花形産業になっていったからだ。でもそれは県内の他の農村でも同じだった。

だから理想の農村となったはずの大浦町が、鹿児島県内1位の高齢化自治体になっていったのは奇異とせざるを得ない。

発展が約束された土地を、なぜ人々は離れていったのか。

(つづく)

【参考文献】
『大浦町郷土誌』1995年、大浦町郷土誌編纂委員会

2019年11月13日水曜日

永留さんのこと

11月7日、友人の永留純一さんが亡くなった。

永留さんには、来る11月22−23日に開催する「石蔵アカデミアwith Tech Garden Salon」というイベントで、「歩けば増える、好きな建物・まち並み」という演題で講演をお願いしていた。だが、その講演は永遠に聞けなくなった。

【参考】11月22日−23日、出張版石蔵ブックカフェで石蔵アカデミア4回やります!|“石蔵アカデミア with Tech Garden Salon”
https://so1ch1ro.wixsite.com/ishigura-bookcafe/post/11月22日-23日、出張版石蔵ブックカフェで石蔵アカデミア4回やります!

永留 純一 (LEAP編集部)
「歩けば増える、好きな建物・まち並み」
誰に会う用事も無く、一人でまちを歩く時間が大好きです。自宅や会社の近くでも、有名な観光地でも、予備知識なしに初めて訪れる有名ではないまちでも。ちょっとしたコツは、お笑いのセンスのようなもの。まちや通りの何気ない建物や看板などが、今日もあなたからの「ツッコミ」を待っています。

そもそも、このイベントの最初の構想を抱いたときから、講演をお願いする人のリストの筆頭にあったのが永留さんだ。

永留さんは、街なかの気になる建築の写真をよくFacebookに載せていた。取り上げられているのは、決して立派な、オシャレな、意匠を凝らした建築ではない。むしろまち並みに埋もれた、地味で、こぢんまりした建物が多かった。でもその建物は、どこか普通の建物とは違う面影があるのだ。なんだか変わったリズムで窓がついていたり、昭和のタイル張りがやたらと自己主張していり、変な方向に傾(かし)いでいたり…。永留さんは、設計した人、住んでいる人の、平凡な中に潜んだ「こだわり」や人間性が、チラっと表れたような、そんな建物の面影を切り取っていた。

私は、そういう永留さんの建築センスが大好きだった。

そこには、まち並みの中に生きる建築と、それを作った人、利用している人への温かい眼差しがあった。でもそこにちょっとしたツッコミをくわえて、クスっと笑っている感じが永留流の建築観賞術なのだ。

私は、この永留流の建築観賞術を多くの人に知ってもらいたかった。平凡なまち並みが、こんなにも面白い鑑賞対象になりうるということを、教えて欲しかった。

永留さんに講演をお願いしたのはそれだけではない。永留さんはそうした見方の背景となる理論的な部分もしっかりしていた。大学時代の話は伺ったことがないが、大阪芸術大学の大学院まで出られていたようである。その上、建設現場の仕事にも(かなり泥臭い部分の仕事にも)携わった経験があるそうだ。永留さんは、建築理論から建物を作る職人さんたちに至るまでの幅広い視野を持っていた。しかも永留さんは、建築のことばかりでなく、様々なことに好奇心を持ち、貪欲に学ぶ人だった。しばしば、意外なところで永留さんから教えられることがあった。

でも、永留さんとは、実は腰を据えて話をしたことがなかった。だから、私が永留さんに講演をお願いしたのは、その建築観賞術をみんなに知って欲しいというだけでなく、他ならぬ私自身が、永留さんの話をじっくり聞いてみたかったのだ。

ところが講演をお願いした時に、永留さんは条件を出した。もしかしたら、突然講演ができなくなるかもしれない、と。

なぜなら、末期の肺がんに冒されているから——。

これが今年の6月のこと。当時のメールを見返してみると、永留さんからは「生きていたらよろしくお願いします!」と書いてある。生きるか死ぬかの瀬戸際で、永留さんは講演をOKしてくれた。私は「当日ドタキャンでも構いません」と答えた。この際、そんなことはどうでもよくなった。

永留さんは、あまり人前に出て話をするタイプの人ではなかった。今まで、鹿児島国際大学でジェフリー・アイリッシュさんに呼ばれてヒトコマ講義を受け持ったのと、砂田光紀さんに呼ばれて串木野の留学生記念館で話したことがあったくらいだったようだ。だから永留さんは、自分なりの建築観について一度話したいという希望を持っていたみたいだ。「話したいことというか、まとめたいことは色々とあります」と永留さんは語った。そしてそれだけでなく闘病の励みとして、講演があるなら少なくとも11月まで生きないと!という気持ちになるんだと言ってくれた。

当時のメールには「中くらいの未来に人参を下げて、だましだましやっていこうと思います!」とある。

こうして、永留さんに依頼した講演は特別な意味を持つようになった。今回の講演はただの講演じゃない。大げさに言えば、永留さんの建築人生の集大成となるものなのだ。そこまで大それたものじゃなくても、最初にしておそらくは最後の、永留さんの一人舞台なのだ。私は、永留さんの講演を文字起こしして講演録にする計画を立てた。

私と永留さんの仲は、そんなに親しいものだったとはいえない。5年くらいの付き合いしかないし、実は一度もゆっくり二人で話したことはない。でも、いわゆる波長が合う、というか、多くを語らずともスッと言葉が通じる感じがあった。別段示し合わせていないのに、同じイベントで顔を合わせるといった機会も一再ならずあった。ほぼ同世代の、通じ合える友人だと私は思っていた。だから、友人へのプレゼントとして、一世一代の講演録を贈りたかったのである。棺桶の中に入れるプレゼントになるかもしれないとしても。

永留さんは、情報誌『LEAP』の編集部で働いていた。私も永留さんのお陰で、何度か『LEAP』に主催のイベントを取り上げてもらった。2019年11−12月号の『LEAP』でも、来る「石蔵アカデミア」を取り上げてくれた。こんな記事だ。

11月22日「石蔵アカデミア」に 建築に関する講座が登場 
南さつま市万世『丁子屋』で、石蔵アカデミアという講座が行われている。11月後半は出張版として、会場を南九州市市民交流センターひまわり館に移して、2日にわたり4種の講座が開かれる。建築ファン向けには11月22日午後からの「歩けば増える、好きな建物・まちなみ」。講師は筆者が務める。また、ほか3講座は各ジャンルの一流講師ぞろいなので、建物好きでなくとも文化の秋を感じてみて。

これは『LEAP』で永留さんが担当していた「建物ルーペ、まちのツボ」というコーナーでの紹介なのだが、「講師は筆者が務める」と書きながらその名前がどこにも書いていないのが、いかにも控えめな永留さんらしい。

この調整をしたのが9月の末。詳しいことは分からないが、この頃、永留さんは入院しながらできる範囲で仕事を続けていたのではないかと思う。講演まであと2ヶ月弱の時である。仕事を続けられているくらいなら、講演もなんとかできそうだ、と私は思っていた。いや、永留さん自身も、「講師は筆者が務める」と自分で書いているくらいだから、少なくとも8割方は講演可能だと思っていただろう。

だが、病魔は非情であった。それから約1ヶ月で、永留さんは帰らぬ人となった。享年45歳。早すぎる旅立ちだった。

永留さんは、鹿児島の文化を支える人の一人だった。永留さんは鹿児島の近現代建築を公開するイベントである「オープンハウス カゴシマ」の開催にも携わっていたが、このイベントにもその力が大きく与っていたのではないかと思う。決して表に出て華々しく活動するような人ではなかったけれど、欠くべからざる1ピースのような人が永留さんだった。

【参考】オープンハウス カゴシマ
http://openhousekagoshima.org/ 

私は永留さんの、少しはにかんだような、優しい笑顔が大好きだった。

お通夜でその永留さんと対面した。そこには壮絶な闘病の跡があった。こんな時期に講演をお願いするなんていうことは、本当はやらない方がよかったのかもしれない。少なくともご家族の方には、ご心配をかけたと思う。永留さん自身は「闘病の励み」とは言っていたが、心理的には負担だっただろう。正直、申し訳なかったと思う。

でも私は、この講演があったことで、永留さんの最後の半年が未来へ進むものになったんじゃないかと信じたい。それには価値があったんだと。

今はとても、「謹んでご冥福をお祈りします」なんて型どおりの言葉は出てこない。これを書き終えたら、永留さんとの思い出が過去のことになってしまうようで、書き終えるのが辛い気さえする。

お通夜から帰ってきたら、顎のあたりがズキズキと痛くなっていた。帰りの車中、ずっと歯を強く食いしばっていたのだ。

今も、これを書きながら涙が止まらない。

2019年8月10日土曜日

大浦町とコルビュジェの理想の農村——大浦町の人口減少(その1)

ここに、農村の地域計画の理想図がある。巨匠ル・コルビュジェが構想したものだ。

この農村のどこが理想的なのかというと、図の左端「1 国道または県道」が農村の中心部から遠く隔たっている、ということだ。

コルビュジェは、建築家としてのキャリアをスタートさせた当初から交通の問題を重視していたらしい。効率的な経済活動のためにはスムーズな交通が必要なのに、街の中心部には人家が密集するため交通が麻痺しがちだという矛盾をどう解消するか、また自動車が増えてくるにつれ、人々が安全かつ気持ちよく散歩することはできなくなる、というような問題意識から、コルビュジェは道路を役割ごとに分ける構想を抱いた。

といっても話は簡単で、高速交通を担う幹線道路、生活道路、歩道などを別々の道として通し、特に街の中心部を幹線道路が突っ切らないようにする、という都市計画を提案したのである。

日本だけでなくヨーロッパでも、街や村は街道沿いに栄えるものである。街道は街の中心であり、購買や人々の交流が盛んに行われていた。しかし自動車時代になると、古くからの街道は国道や県道としてたくさんの自動車が行き交うようになった。こうなると、街は中心を突っ切る幹線道路によって分断され、最も中心となるべき場所の活気が失われてしまう。

…とコルビュジェは考えたが、日本の現状からするとその考えはそっくり鵜呑みにするわけにはいかない。地方都市に行くと、ショッピングセンターやレストランや文化ホールがあるのはやはり国道沿いであって、そこはやはり活気の中心だからだ。

しかし同時に、自動車移動が中心の地方都市においては、その最も活気があるはずの区画に、ほとんど人が歩いていないということは、コルビュジェの危惧が全くの杞憂ではなかったことを示しているのである。

ところで、初めてこのコルビュジェの理想図を見た時、驚いた。というのは、この理想図が、私の住む大浦町の様子とソックリだったからなのだ。

Googleマップで見てみてもわかりづらいから、ちょっと簡単な図を書いてみたが、大浦町の様子はこのようになっている。

北の方に国道226号線が通っていて、街の中心はそこから奥まったところにあるのがポイントだ。これがまさにコルビュジェの理想図の通りなのである。

さらにそれだけでなく、農協や農産物の集荷施設、郵便局や学校の位置関係なども、あの理想図にかなり似通っている。まあこれらの施設の配置はどこの街も似たようなものだから措くとしても、かなりの程度、大浦町がコルビュジェの理想図を現実化した街だということは言えるだろう。

コルビュジェは、あの理想図を実際の街を観察した結果として描いたのではなくて、理論的に導き出した。ところが大浦町は図らずしてその理想を現実化していた。大浦町は、コルビュジェの構想の妥当性を検証する材料のひとつだと言える。

では大浦町は理想の農村と言えるのか? 答えはノーだろう。ここは昭和30年代から既に過疎化が進行し、全国で最も早く高齢化が進んだ地域のひとつである。例えば昭和60年の国勢調査では、鹿児島県の高齢化率(老年人口比率)が14.2%で全国3位であったが、その中でも大浦町は28.8%と鹿児島県全体の2倍もの比率(!)であり、県内第1位の高齢化自治体だったのである。

この頃は少子化ということは関係なかった時代で、この高齢化率の高さは人口流出のもたらしたものだ。この背景には大浦町の貧しさがあった。当時(昭和62年)の町民所得は全国平均のほぼ50%に過ぎない年収100万円ほどで、全国有数の貧乏自治体だった。それであるからどんどん若者は都市部へ出て行き、昭和30年に約7500人いた人口が昭和60年には約半分の約3800人に減少した。貧乏で、人がどんどん去っていった地域、それが大浦町だった。それが理想の農村とは、とても呼べないだろう。

コルビュジェの理想を現実化していた街は、コルビュジェが考えていた通りには発展せず、むしろ衰退していった。だが正確を期するなら、ここでひとつ付け加えなければならないことがある。実は元来、大浦町の国道は現在のように街の中心部から離れて通っていなかった。昔は普通の街と同じように、幹線道路が街の中心部を通っていたのである。

後に国道となる幹線道路が遠ざかっていったのは、戦前戦後を通じて推し進められた干拓事業によってであった。図では斜線で示したのが干拓地で、当然ここは元々は海だった。元来の幹線道路は海沿いを走る道で、その道沿いに大浦町の中心部もあった。ところが干拓事業によって海岸線が遠ざかり、それに応じる形で幹線道路も海沿いを走るように路線変更された。こうしてコルビュジェの理想図の通りの街が出来上がったのである。大体昭和40年代の頃と思われる。

大浦町は、コルビュジェの理想の農村となったにも関わらず、その後もどんどん衰退していった。東京や大阪に住む人からしてみれば、こんな日本の端っこの交通の便の悪いところが衰退するのはごく自然なことと思うだろう。でも実際は、大浦町はさほど山深い村ではなく、むしろ地形的には開けた方だし、近場の地方都市(加世田)への距離もそれほど遠くない。むしろ利便性のよい農村なのである。

先日南大隅町(大隅半島の南の端っこ)に行ったのだが、ここは非常に山深く、地形も険しいところで、さらに市街地からの距離もかなり遠い。正直「よくこんなところに人が住んでいるなあ!」と思ったくらいだった。でも昭和60年の時点では、大浦町はここよりもさらに高齢化した地域だったのである。

コルビュジェの理想の農村を具現化した街であり、さらに利便性もよい開けた場所であったにもかかわらず、なぜ大浦町は全国に先駆けて高齢化していったのか。

少し考えてみたい。

(つづく)

【参考文献】
『人間の家』ル・コルビュジエ、F・ド・ピエールフウ共著、西澤 信彌 訳
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2016/08/f.html
ル・コルビュジエとド・ピエールフウによる、住みよい家をつくるための都市計画提案の書
過疎化と高齢者の生活—老年人口比率33.1%の鹿児島県大浦町—」1990年、染谷俶子