2019年4月19日金曜日

『薩南文化』に当ブログの記事が掲載されました

南九州市が出している『薩南文化』という年刊の地域文化誌、この最新号の第11号(平成31年号)に私が寄稿した記事が掲載された。

それは、 「清水磨崖仏群と齋藤彦松」という記事。実は当ブログでかつて書いたものである(ただしほんのちょっとだけリライトした)。

【参考】清水磨崖仏群と齋藤彦松
https://inakaseikatsu.blogspot.com/2017/07/blog-post.html

『薩南文化』は原稿募集型ではなくて依頼型の雑誌。つまり私が投稿したのではなくて、この記事を読まれた担当の方から、書いて欲しいという依頼があって書いたものだ。しかもなんと原稿料も出る。初めてものを書いて原稿料をもらったかもしれない。本当に有り難いことである。

詳しい内容は先ほどのリンク先を読んでいただければと思うが、簡単に言えば、それまでさほど価値があると思われていなかった清水磨崖物群の価値を見いだし、保存や研究に打ち込んだ齋藤彦松を紹介したものである。

どうして私が彼に興味を持ったのかというと、「清水磨崖仏群の価値を見いだしたのは、当時大学院生だった齋藤彦松氏である」というような簡単な紹介をどこかで読んだからだった。これを読んで、私は「どうして一介の大学院生がきっかけになったのだろう?」と疑問を抱いたのである。大学院生なんかたいして影響力がないのが普通だが、この大学院生は何者だったのか、と。

調べてみると、確かに清水磨崖物群を「発見」した齋藤彦松は、その時大学院生ではあったが、今の世の中でイメージされる大学院生とは随分違う。当時は昭和33年。大学院に進む人自体がほとんどいなかった時代だ。大学院生であっても、いっぱしの研究者として扱われていたのかもしれない。少なくとも、今の大学院生よりは権威があったろう。それに齋藤は既に40歳になっていた。そもそも大学に入ったのが36歳の時である(齋藤の若い頃には戦争があって学問どころではない時代だったから、当時はこういう人が結構いたのかも)。その頃の齋藤彦松は、一介の大学院生とはいえ、中堅の研究者の風貌をしていたのだろうと想像される。

しかし、そうは言っても、清水磨崖物群がある地元川辺町の人にとっては「もの好きなおじさん」くらいに見えたかもしれない。「○○大学教授」とかならともかく、いくら大学院生が「これは貴重なものだから保存した方がいいですよ!」と声高に叫んでも、右から左に聞き流されるのがオチではないか。

ところが実際には、齋藤が保存を進言してからたった1年後の昭和34年には、清水磨崖物群は県指定文化財になるのである。これは県が指定したわけだから川辺町の人たちがどう関わったのかはよく分からない(ちょうどその時の「川辺町報」が南九州市、鹿児島県図書館のどちらにも保存されていない)。よくはわからないのだが、少なくとも齋藤の主張を右から左に聞き流したということはないと断言できる。よそものの大学院生の言うことを「真に受けて」、保存に向けて動き出した、というのは明らかなのだ。

話を聞いてみると、川辺町の風土というか、街の雰囲気に「よそものを快く受け入れる。その代わり出て行った人には冷淡」というのがあるらしい。「出て行った人には冷淡」というのが面白いが、それはさておき川辺町には「よそものを快く受け入れる」というムードがあるのは今でも感じるところである。例えば、旧長谷小学校「かわなべ森の学校」(現「リバーバンク森の学校」)を使った「Good Neighbors Jamboree」もやっているのはよそものだが、こういう企画を受け入れる度量があるのが川辺である。

【参考】Good Neighbors Jamboree
https://goodneighborsjamboree.com/2019/

小さな町や村というのは、多かれ少なかれ「閉じた世界」を作っているものである。風景は何十年も変わらず、顔ぶれにもほとんど変化はない。「閉じた世界」になってしまうのはやむを得ない。しかしそんな場所でも、時にはそこにどこからか風来坊が現れることがある。その時に風来坊が言うことを、地元の人が「真に受ける」ことができるかどうかは、結構重要な気がする。

それは、その町や村が、ほんのちょっとでも外に向かって開いているかを示す、徴(しるし)であるのかもしれない。

2019年4月6日土曜日

「AIに勝つ まじないと魔除け展」と非合理の精神

鹿児島市名山町の「レトロフト museo」にて、このたびレトロフトの7周年記念として「AIに勝つ まじないと魔除け展」と題した展示会が開催される。

これに合わせていろいろなイベントが催されるが、特に初日には、『戦国時代の島津家と籤(くじ)』という講演会が予定されている。

【参考】7周年記念講演会『戦国時代の島津家と籤(くじ)』|レトロフト チトセ blog
http://retroft.com/5909
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記念講演会『戦国時代の島津家と籤(くじ)』
講師  尚古集成館 前館長 田村省三氏
日時  2019年4月14日(日)14時−15時
参加費 500円(要予約・先着30名様)
お申し込み コチラ←Clickに「講演会」と記入の上、お名前&連絡先を記入してお送りください。
会場  レトロフトチトセ1階 リゼット広場  鹿児島市名山町2−1 電話099-223-5066
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実はこの講演会の企画のきっかけが、有り難いことに私のこのブログ記事なのだという(!)

【参考】島津家と修験道——大浦の宇留島家
https://inakaseikatsu.blogspot.com/2012/09/blog-post_26.html 

その詳しい内容は上のブログ記事を読んでいただくとして、ごくかいつまんで言えばうちの近所にあった「宇留島家」という修験者の家系(の先祖)が島津家に使えたと言う話。島津家では修験者のひくクジを使って戦の戦略を決めるなど修験者を重用していたのだった。
 
展示会企画者であるレトロフトのオーナー夫妻は、この記事に検索でたどり着いて興味を持ったという。オーナー夫妻には日頃大変ご高配をいただいているが、それとは関係なく検索に引っかかって注目したということである。本当に有り難いことである。

オーナー夫妻は、私の話を聞きにわざわざ自宅まで来て下さった。ところが専門家でもなんでもない私である。当然ながらたいした話はできなかったが、ブログ記事や私の話を元にしてさらに考究を進め、専門家の田村省三氏にご講話いただくことになったそうだ。こういうフットワークの軽さというか、果敢に切り込んでいく姿勢は大いに見習わないといけない。

ところで展示会のテーマである「まじないと魔除け」というのは、非合理的なものの代表だろう。一言で言えば「迷信」として退けられる類のものである。戦国時代の島津氏も戦の戦略をクジで決めていたというが、生死がかかった戦略をクジで決めるなんて、現代の人からするとちょっと信じられない。例えば社運をかけた新製品の販売戦略をクジで決める社長がいたらどうだろうか?

しかし一方で、社会システムの中に卜占(ぼくせん=うらない)を組み入れなかった古代文明はない。中国では亀甲のひび割れに神意を伺い、ギリシアでは「デルフォイの神託」に代表される各地の神託がそれこそ戦争のやり方から土地の売買、結婚すべきかどうかといったことまで決めていたのである。古代日本でも男王が続いた戦乱の世を終わらせたのは、卑弥呼という巫女(ふじょ)による神権政治であった。

古代の人は迷信深かったから神託などというものを信じたのさ、と人はいうかもしれない。しかしこうも世界中の古代文明が、何らかの形で卜占の体系を備えていたとなると、卜占は文明の根幹にあるなにものかであると考えざるを得ない。人間は合理的であるだけでは文明を創り出せなかった。非合理的なものを「依り代」に使って、社会を「飛躍」させる必要があったのかもしれない。

しかし同時に、社会の中心にあった卜占の体系は、その多くが有害な副作用を持っていた。古代アステカ、マヤ、インカ文明では怖ろしいほど多くの人間が生け贄として神に捧げられた。中世のヨーロッパを支配したローマ・カトリック教会は人間を本質的に罪深いものと見なし、その罪深さを利用して社会を支配し発展を阻害した。さらには近代に至るまで、多くの無実の女性が魔女として火あぶりになった。こういう事例がいくらでも挙げられる以上、卜占とか神託をあまり持ち上げるわけにはいかない。

だが卜占が文明の根幹にあるなにものかなのだとしたら、我々はこれからの文明を作っていくにも、かつての卜占を代替する何かを見いださなくてはならないのだろう。私は、それがAI(人工知能)ではないことは確信できる。それは合理的なだけではたどり着けないところにある何かであると思う。ただ、これからの時代、それは自由な批判精神と共存できるものでなくてはならない。

…ちょっと話が逸れた。たぶんこの展示会はそんな大げさな問題設定をしているわけではないだろう。しかし「まじないと魔除け」も、かつて人類が文明を生みだすのに与った「依り代」としての力があると思う。非合理と切り捨てるのもいいが、「依り代」から何を生みだすかは、それを使う人の技倆にかかっているのである。

【情報】
レトロフト7周年記念「AIに勝つ まじないと魔除け展」
会期 2019.04.14(日)〜2019.04.21(日)
時間 11:00〜18:00
会場 レトロフトMuseo 月曜定休 最終日21:00まで
料金 入場無料
HP http://retroft.com
主催者 レトロフトMuseo
お問合せ 099 223 5066 info@retroftmuseo.com

2019年4月1日月曜日

県民それぞれが主体的に取り組む地域振興の方針が、ひっそりと公開された怪

3月27日、県のWEBサイトにひっそりと7つのファイルがアップされた。

鹿児島県の各地域振興局(県の出先機関)が作った「地域振興の取組方針」である。

【参考】各地域の「地域振興の取組方針」
鹿児島地域(PDF:875KB)
南薩地域(PDF:1,914KB)
北薩地域(PDF:845KB)
姶良・伊佐地域(PDF:1,543KB)
大隅地域(PDF:2,720KB)
熊毛地域(PDF:2,268KB)
奄美地域(PDF:624KB)

これが一体如何なるものであるか理解するためには、一年前の2018年3月に県が策定した『かごしま未来創造ビジョン』を見なくてはならない。

『かごしま未来創造ビジョン』とは、概ね10年後を見据えて鹿児島県の施策の方向性を定めたもので、特に自然環境や食、医療機関などを「鹿児島のウェルネス」と位置づけてブランド化し、県民の「健康・長寿・癒し」に活かしていこうというものだった。

【参考】かごしま未来創造ビジョン
https://www.pref.kagoshima.jp/ac01/kensei/keikaku/vision/documents/new_vision.html

鹿児島県のWEBサイトより「鹿児島のウェルネス」
これは、そこに謳われている方向性の是非はともかくとして、資料としてなかなかよくできていて、鹿児島県の置かれた窮状が理解でき、総花的ではあるが一応県行政を体系化したという面で意味があったと思う。

そして実際に各地域で施策に取り組む「地域振興局」が、 このビジョンを補完するものとして取組の方向性をこの1年間かけてまとめたのが冒頭の7つの「地域振興の取組方針」なのである。

その内容は、当然のことながら一つひとつは読んで面白いものではないが、7つ並べてみるとなかなか興味深い。最もやる気を感じるのは大隅地域で、目次を見ただけで他の地域とは全然違う。他の地域が雛形を基に行政の縦割りに基づいて作っているのに比べ、大隅地域はちゃんと議論して柱を作ったのが見える。

それに大隅地域では、策定にあたって若手や地域おこし協力隊との意見交換を行っており、それがちゃんと書かれている。それだけで好感が持てるというものだ。

ちなみに私の住む南薩地域については、「観光」が大きく取り上げられているのが特徴で(指宿があるため)、逆に他の地域ではかなり扱いが大きい「教育・文化・スポーツ」が脇に追いやられているのが気になるところである。

さて、この「地域振興の取組方針」は、一見「地域振興局(県)の施策の方向性を定めるもの」に見えるのであるが、実は違うのである。その趣旨を「南薩地域」のファイルから抜き出すと次の通りである。
南薩地域振興局では,この「かごしま未来創造ビジョン」を補完するものとして,南薩地域の課題や取組の方向性を明らかにし,県民をはじめ,企業,関係団体,大学,NPOなどの多様な立場にある団体・個人が, 鹿児島の目指す姿や取組の方向性を共有し,それぞれの分野で主体的に地域振興に取り組んでいただくための指針として「南薩地域 地域振興の取組方針」を作成しました。(強調引用者)
ちょっと待って欲しい。地域振興局が行政を今後この方針に従ってやっていきます、というのなら分かる。しかし方針を定めたからそれぞれが「主体的に地域振興に取り組んでいただ」きたいというのは、話が飛躍しすぎではないか。もちろんこの「取組方針」は、地域振興局自身が取り組んでゆくものが中心になっていて、何から何まで県民に丸投げされているわけではない。でも「こういう方針を定めたので、県民それぞれが自主的に取り組んでください」というにはちょっと無理があるものだ。

ではこの方針をどうやって定めたのかというと、例えば南薩地域では、「地域懇談会」というものを設置して2回ほど議論したようである(他の地域も大同小異)。この「地域懇談会」というのは、商工会・商工会議所、NPO、農協、小中学校、医師会等の代表など十数人で構成したもので、いわば地域の顔役に集まってもらった会議である。

【参考】南薩地域 地域振興の取組方針(地域懇談会について)
https://www.pref.kagoshima.jp/al01/chiiki/nansatsu/chiiki/20190330torikumihousinn.html

まあ確かに地域の人の意見を集約する意味では、こういう顔役に聞いたらそれなりに的確な意見が出るんだろう。しかし「鹿児島の目指す姿や取組の方向性を共有」しようというその方針が、それだけの意見交換で決められてしまうのは、私には違和感がある。南薩地域の場合なら、観光が大きな柱なのでもっと観光業に携わる現場の人が会議に入るべきだと思うし、市町村の担当だって入ってしかるべきだ(むしろなぜ入っていないのか謎)。それだけでなく、目立った活動をしないような普通の地域住民の意見をも丁寧に集約していく作業をしなくては、「それぞれの分野で主体的に地域振興に取り組んでいただくための指針」なんて定めようがないと思うのである。

さらに、百歩譲ってこれをそういう共通の指針だと認めるにしても、県のWEBサイトでひっそりと公開するだけで(私の見る限りトップページには全く出てこない)、それを多くの人が参照して、「よし! この方針に沿って私も取り組んで行こう!」と思うなんて、とてもじゃないがありそうもないことだ。ほとんどの人は、こういう方針が定められたこと自体知ることもないのがオチである。それでは策定の趣旨が貫徹できないではないか。

たぶん「多様な立場にある団体・個人が, 鹿児島の目指す姿や取組の方向性を共有し」と述べている県の担当者自身が、こんな地味な発表の仕方ではそんな共有は不可能なことは自覚していると思う。せっかく7つの「地域振興の取組方針」を定めたものの、それを本気で広め、遂行し、実現していこうという気はないのだろう。 本気でこれを県民に共有して欲しいなら、各地で説明会や意見交換会を開いたり、ポスターやパンフレットで広報したり、様々な方法でその浸透を図っていく必要がある。

もしかしたら県の人は、「いやいや、これはそんな大げさなもんじゃないんですから!」と言うかもしれない。あるいは「この程度の政策文書を作るのに、いちいち一般の人からの意見集約をするなんて労力がかかりすぎます!」という事情を述べるかもしれない。確かに、この「地域振興の取組方針」、地域の人に積極的にお知らせしていくには中身がちょっと役所的すぎる。

それに、この方針の元になっている『かごしま未来創造ビジョン』自体がそれほど県庁自身によって真面目に受け取られているとも思えない。例えば、最近降って湧いたように出てきた「新県立総合体育館を鹿児島中央駅西口に建設する」とか、「旧木材港の16ヘクタールを埋め立てする(何に活用するかはこれから検討する)」といったようなことと、この『かごしま未来創造ビジョン』とはどう関係するのか。多分、こうした新規大規模公共事業を検討するにあたって、『かごしま未来創造ビジョン』は全く顧みられていないだろう。

『かごしま未来創造ビジョン』の策定趣旨は、県のWEBサイトによれば
県政全般にわたる最も基本となるものとして,おおむね10年後を見据えた中長期的な観点から,鹿児島の目指す姿や施策展開の基本方向などを明らかにするとともに,これらを県民の皆様と共有し,「オール鹿児島」で次世代の鹿児島を創り,将来を担う子ども達にしっかりと引き継ぐために策定したものです。
とされているにも関わらずである。巨額の税金を使う新規大規模公共事業の検討にあたっても一顧だにされない「県政全般にわたる最も基本となるもの」なんて、一体何のために策定したのか…?

『かごしま未来創造ビジョン』にしろ、それに基づいた7つの「地域振興の取組方針」にしろ、全く無意味とは思わないが、それを作った県自身が本気で向き合おうとしないのなら、いっそのこと作らない方がいいと思うのである。はっきり言って、こういう形だけで実体の伴わない行政文書の作成は、無駄な仕事である。もっと役所自身が本気になれることに注力した方が生産的である。

とはいえ、もう策定してしまったものはしょうがない。なかったことにも出来ないだろう。だったら、やはりもっと堂々と発表し、県民の意見を仰いだり、この方針に沿ってどんなことが実行出来そうか提案を受けたりといった双方向のコミュニケーションを図っていく以外にない。

少なくとも私は、「多様な立場にある団体・個人が, 鹿児島の目指す姿や取組の方向性を共有し,それぞれの分野で主体的に地域振興に取り組んでいただくための指針」なるものが、県のWEBサイトの奥まったところでひっそりとアップされるだけなのは腑に落ちないのである。

2019年3月29日金曜日

鹿児島県議の働きを一般質問の回数から垣間見ようと思ったものの…

鹿児島県議選が始まった。

以前私は、南さつま市議会議員選挙にあたって、一般質問の質問回数によって議員の働きぶりを垣間見るという記事を書いたことがある。

【参考】「南さつま市 市議会だより」で市議の働きぶりを垣間見る
https://inakaseikatsu.blogspot.com/2013/11/blog-post_15.html

一般質問とは、年に4回行われる定例会において市政に対して自由に質疑を行うものである。一般質問の回数は働きぶりの直接の指標ではないし、なにより市政への意見の方向性は見えないからこれだけで市議としての働きの評価は不可能だが、年に4回しかない機会であるので、市政への積極性を表しているとは考えられる。投票の参考となるのではと思って分析したのだった。

今回の県議会議員選挙でも、同じように現職の任期中の活動を垣間見る参考になるのではないかと思い、同様の表をまとめてみた。それが次の表である。

現職議員の一般質問の回数表
※質問回数が多い順に並べたが、同じ回数の議員の名前は順不同である。
※外字の関係で名前の漢字が正確な表記でない場合がある。
※2019年の第1回定例会についてはまだ議事録が公開されていないので対象にしていない。
※会派名は略称とした。

私もこの表をまとめて初めて知ったが、鹿児島県議会の場合は一般質問は連続ではやらないという不文律(?)があるのか、質問数が多い議員でも一回おきに質問しているようである(例外はあるが)。定例会毎の質問者は16人と決まっているようで、毎回同じ人が質問すると質問できない人が出てきてしまうのでそうしているのかもしれない。

質問回数はごく簡単な指標だが、この表を眺めるだけでもいろいろ分かる。無所属の議員3人は皆よく一般質問をしている。県民連合の議員は平均よりやや下(なお平均は4.7回)。公明党の議員は低調。そして最大派閥の自民党はよく質問する議員もいれば、ほとんどしない議員もいてバラツキが大きい。ただし市議会の場合と違って県議会の場合は会派(政党)の存在感が大きいので、もしかしたら会派毎に質問人数を調整しているのかもしれない。この表を素直に積極性を示すものと受け取ってよいかは一考を要する。

とはいっても、私はこの表を投票の参考にしてもらおうとここに掲載したわけではない。それよりもまず言いたいのは、この表を作成するのにけっこう手間がかかった、ということなのだ。

以前やった市議会の場合は、議会広報紙「南さつま市 市議会だより」に一般質問の内容まで含めて書かれていたので広報紙を見るだけでよかったが、鹿児島県議会の場合「県議会だより」はページ数も少なく非常にざっくりとしたことしか書かれておらず、一般質問を誰がしたのかの記載すらない。

【参考】広報紙|鹿児島県議会
https://www.pref.kagoshima.jp/aa02/gikai/koho/kouhoushi/index.html

そして鹿児島県議会のWEBサイトでは、直近の議会についてはその主な内容が掲載されているものの、平成28年第4回定例会(11月〜12月)より前は掲載されていない(2019年3月29日現在)。

【参考】これまでの定例会等|鹿児島県議会
http://www.pref.kagoshima.jp/aa02/gikai/koremade/index.html

だからそれ以前の議会の内容を知りたかったら、いちいち「鹿児島県議会 会議録」で会議録を検索して確認しなければならないのである。私は先の表を作成するにあたり、このサイトにお世話になった。

【参考】鹿児島県議会 会議録
http://www.pref.kagoshima.dbsr.jp/index.php/

しかし議会の会議録を参照するというのはかなり面倒だ。普通の人はまず見ないだろう。目的の議案があってそれを確認するため、というならこういうサイトは便利であるが、議会でどのようなことが議論されているか知りたい、という場合にはほとんど使えない。

ともかく、私があの表を作るのに苦労したのはなぜかというと、鹿児島県議会のWEBサイトに情報があまりにも少なく、県議会の活動をほぼ広報していないからなのである。そもそも議員名一覧すらテキストデータで掲載されていない。画像化されているか、OCR(文字認識)が不十分なPDFデータなのだ。だから表を作るにあたって、まずは議員の名前を打ち込むところから手作業なのである。

支援する議員がいる場合は、議員が時々実施する「県政報告会」などで県議会の様子を知ることができるが、そういう会に出席するのはごく一部の人だから、県民の多くにとっては新聞報道や、広報紙と県議会WEBサイトくらいしか県議会情報はない。しかしそこを見てもほとんど個別の議論の内容が書かれていないとすれば、県民にとって県議会はブラックボックスなのだ

そもそも、県議会が県提出の議案を否決することはほぼめったにない。先ほどの会議録で調べたところ、原案が否決されたのは昭和60年以降でたった2回、平成14年と21年にあっただけで、それも議員定数の件である。つまり結果だけを見てみれば県議会は県政をほぼ追認しているだけなのだから、議論の内容をもっとよく見てみなくてはその働きぶりは判断できないのである。それなのにそういった情報は議事録しか出ていないのだから、県民から県議会が縁遠くなってもしかたないだろう。

ただでさえ投票率が低く、選挙だけでなく議会への関心が低い昨今である。若者が選挙に行かないとかいう前に、まず県議会の議論をもっとよく見えるようにし、今何が議論されているのか、それに対する議員個人の賛成・反対、主な議論の展開などをもっと表に出してもらいたいと思う。観光のPRにかける広報予算も大事だが、こういう地味なところにかける広報予算は将来的にはそれよりももっと大きな意義があると思う。

閑話休題。

先ほどの表に戻って、もうひとつ言いたいことがある。実は、この表が仮に議員の積極性を示すものだとしても、投票にあたっては(鹿児島市区を除いて)この表はほとんど役に立たないのである!

鹿児島県議会選挙区(県議会WEBサイトより)
というのは、例えば私の住む選挙区である「南さつま市区」の県議定員は1人。「A議員よりB議員の方がたくさん一般質問をしているからやる気があるなあ」と思ったとしても、B議員の選挙区が違えば投票できない。しかも今回の県議選の場合、1人の定員に対して1人しか立候補がなかったら無投票となった。選びようがないのである! 他にも無投票地区がいくつかある。わざわざ議員の働きぶりをレビューしてみたとしても、ほぼ無意味なのだ。

鹿児島県議会の選挙区は、21にも別れている。ほとんどが1人か2人の定員である。定員が少ないということは立候補者も少ないということだから、有権者にとっては選択肢の幅が狭まっているということだ。この小選挙区制度がいつから続いているのか分からないが、市町村の代表を県議会に送るという旧習に基づくものなのではないかと思う。

かつてはそれはそれで意味があった選挙区割りだろう。 しかし今となってはこのような小さい区割りに意味があるか。南さつま市在住で南九州市へ仕事に行き、遊びに行くには鹿児島市内まで足を伸ばす、なんて人は大勢いる。さらに仕事の営業では県内全域飛び回っているという人だって珍しくないだろう。車社会やインターネットの普及で、人々の行動範囲は50年前よりも数十倍に広がっている。小選挙区はもはや人々の生活実態から乖離していると思う。

また、県政の実質的区割りは「地域振興局」にある。「鹿児島」「南薩」「北薩」「姶良・伊佐」「大隅」「熊毛支庁」「大島支庁」の7つの地域振興局(とそれに準ずるもの)が県政の地区割りである。そしてこれらの地区割りは、それなりに地域の生活実態や地勢に沿ったものになっている。鹿児島県議会の選挙区割りも、「地域振興局」の管轄範囲と一致させた7つにするのが行政的にもスマートであり、有権者にも選択肢の幅を広げる意味でいいと思う。

前回2015年の県議選での投票率は、過去最低の48.87%。これは政治への無関心とかではなく、今の選挙制度が社会の実態にそぐわなくなっているのが真の原因だと思う。民主主義の意見表明の場として、選挙が正常に機能しなくなっている。選挙区割りを変更するだけでもかなり変わるのではないか。

まあ、「選挙区割りを変更するだけ」といっても区割りの変更は一大事である。まずは「議会の見える化」から取り組んではどうか。少なくとも、県議会を知りたいと思った時にそれに応えられるWEBサイト作りから始めたらどうだろう。

2019年3月26日火曜日

企画展「黄金の郷 南薩」と私のブログ記事

南溟館で開催されていた企画展「黄金の郷 南薩」に、先日ようやく行ってきた。

あまり知られていないが、佐渡金山が閉山した今、鹿児島県は金山が稼働している唯一の地域であり、特に南薩地区はそのうち3つの金山を有している(赤石(あけし)鉱山(知覧)、春日鉱山(枕崎)、岩戸鉱山(枕崎))。

さらに遡れば、指宿市には金銀鉱山群が、南さつま市(加世田)には銀鉱山があり、南九州市には県内最古で「幻の金山」とよばれる「田代金山」(永禄11年発見)もあるなど、南薩というのは非常に金銀採掘が盛んだった歴史がある。

南薩に鉱床が豊富なのは、400万年〜600万年前に薩摩半島西側で盛んだった火山活動の影響なのであるが、その化学的・物理的組成にも特徴があり、それは「南薩型鉱床」として世界的にも有名なのだそうだ。

企画展では、地質や採掘の歴史を振り返り、南薩の金山に改めて焦点を当てるものとなっていた。図録やパンフレットの類はなかったので内容は細かくは覚えていないが、地域住民にとっても普段なかなか知る機会がないことばかりで、非常に勉強になった。

一つ大変印象に残ったのは、枕崎市の「鹿籠(かご)金山」の発見者「有川夢宅(むたく)」のことである。鹿籠金山は、江戸時代には「山ヶ野(やまがの)金山」、「芹ヶ野(せりがの)金山」と並び薩摩藩の三金山の一つとされたほどの大金山であったが、天和年間(1681〜1684年)にこれを発見したのが有川夢宅という人物。

そして地域の大山祇神社(鹿児島によくある山の神を祭る神社)には、この有川夢宅が84歳の時に自ら刻んだお面が奉納されている。このお面が不思議で、王面(*)に似ていて阿吽を象っており、金山との関係は不明。この不思議なお面を彫刻した有川夢宅とは何者だったのだろうか。企画展では、有川は修験者だったのではないかと書いてあった。

修験者は普通の人が入らない山林を跋渉するわけだから、地質・鉱物に詳しかったのは当然としても、修験と鉱山の結びつきというのはそれ以上に深いものがありそうである。以前からこのテーマには興味があったが、近所に実例らしきものが出てきて興奮した次第である。

さて、この企画展の発端の一つは、私の書いたブログ記事にあった、と企画者の方が教えてくれた。それがこの記事。

【参考】吹上浜の「木を植えた男」
https://inakaseikatsu.blogspot.com/2017/04/blog-post_11.html

これは金山とは一見何の関係もない記事なのであるが、吹上浜の「木を植えた男」の子孫である宮内 敬二さんが、実は今でも稼働している金山の「赤石鉱山」を所有する「宮内赤石鉱業所」の創業者その人だったのである。

鉱山王・宮内家は南九州市では有名であったが、それが南さつま市で砂防事業に取り組んだ宮内家と同じであることが判明したのが私のこの記事によってだということだ。意外なところで意外な事実が繋がるものである。なお宮内敬二さんは加世田でも銀山(石塔庵銀山)を経営していた。

そういう話題があったから、南薩4市(南さつま市、枕崎市、南九州市、指宿市)で合同企画展をやろうという話になったとき、4市が共通に取り組めるテーマとして金山が着想されたそうである。

まあ、私のブログ記事は発端といえば発端ではあるが、まあ直接の発端ではなくて、それ以前の「話のタネ」みたいなものである。でもやっぱり書いたことがどこかで何かと繋がって、新しい何かが生まれるきっかけになったことは本当に嬉しかった。

この場を借りて、企画展の開催に携わった方々には厚く御礼申し上げます。

なおこの企画展は、南薩4市で巡回開催され、南九州市、南さつま市、枕崎市は既に終了、指宿市の「時遊館cocoはしむれ」にて2019年4/13〜6/2で見ることが出来る。

*王面というのは、蒲生八幡神社に奉納されているものが有名だが、つけるものというよりは邪鬼を払うために飾るものらしい。

※冒頭画像は鹿児島県のイベントカレンダーよりお借りしました。

2019年3月12日火曜日

「笠沙恵比寿」をどうするか

今、南さつま市は「笠沙恵比寿」の活用に関して「サウンディング型市場調査」というものをやっている。

笠沙恵比寿というのは、南さつま市の笠沙町の、端っこにある野間池(のまいけ)という小さな港町にある宿泊施設である。

【参考】笠沙恵比寿
 http://www.kasasaebisu.com/

笠沙恵比寿を作ったのは当時(合併前)の笠沙町。私は直接にはその頃を知らないが、かなり力を入れて作られた施設だったようだ。

笠沙町は、昭和40年代には既に過疎問題が始まっていたという過疎地域であり、主要産業である漁業も後継者問題に悩まされ、町の将来への危機感があった。一方で、東シナ海の壮大な景観や豊かな漁業資源に恵まれているという強みもあった。そうしたことから、町は観光による地域振興を模索し、様々なことに取り組んできた。

例えば、海岸沿いを巡る道(当時の県道笠沙枕崎線)を国道226号に昇格させた(1993年頃)。この道は、昔は「この道をよくぞバスが通れたなあ」というような、離合の出来ない、崖をへばりついて進む狭い道だったが、国道昇格後は整備が進み、今ではすばらしいドライブコースになっている。226号線沿いの写真スポット「南さつま海道八景」は、間違いなく日本有数の景観群である。

【参考】これぞ絶景!南さつま海道八景|南さつま市観光協会
https://kanko-minamisatsuma.jp/feature/8038/

また、笠沙には明治以来、数多くの杜氏(とうじ:焼酎づくりの職人)を排出してきた黒瀬という集落がある。この技術の伝承を行い地域おこしにも役立てるため、焼酎造り展示館である「杜氏の里 笠沙」も設立(1992年)。ここのつくる「一っどん(いっどん)」という焼酎は抽選でしか手に入らないほどの人気商品になった。

【参考】杜氏の里 笠沙
http://www.toujinosato.co.jp/

さらに1998年には、杜氏の里 笠沙の近く、沖秋目島という無人島を望む最高の立地に、「笠沙美術館」を設立。景観自体が美術作品のような素晴らしい美術館であり、私自身、南薩で一番好きなのがこの美術館からの眺めで、好きが高じて「海の見える美術館で珈琲を飲む会」というイベントを毎年開催しているくらいである。

そして2000年、こうした取組の集大成として作られたのが「笠沙恵比寿」なのである。

笠沙恵比寿は単なる宿泊施設ではなく、「海」を総合的に楽しむ上質なレジャーを目指すものであった。ホテルやレストランだけでなく、海の博物館までも併設し、釣りやクルージングはもちろん、昔はホエールウォッチングまで楽しめた(記憶があやふやですが)。

設計したのは、今では鉄道車両デザインで著名な水戸岡鋭治氏。館内には水戸岡氏が描いた笠沙に生きる生き物たちの絵がたくさん掲げられ、博物館部分だけでなく施設全体にアート的な雰囲気が横溢する(ちなみに笠沙美術館も水戸岡氏のデザインである)。

笠沙恵比寿は、遠くから「ホンモノ」を求める客を呼び込もうという構想だった。

それはある程度成功したのだと思う。このあたりの相場からは高い宿泊費や食事でも、最初は客が入った。しかし第三セクターによる運営は、どうしても民間的な競争の中ではやっていくことができなかった。

次第に客足は遠のき、売上は右肩下がりになった。客室が10部屋しかないというのもホテルとしては大きな足かせで、上質を求める少数の客を相手にする戦略が裏目に出た。2015年からは指定管理者としてJTBが切り盛りしたものの、どうも挽回とまではいかなかった模様である。こうして、テコ入れを図る必要が生じた。

そういうわけで、この 「サウンディング型市場調査」が行われることになったようである。「サウンディング型市場調査」というのは私も初めて聞いた。要するに、「どうやったら活用できそうか、ゼロベースで意見や提案を下さい」というものらしい。ただし、意見を言えるのは実際にその施設を利用していく可能性がある法人・個人なので、例えば私なんかが意見を出すことはできない。

【参考】笠沙恵比寿の活用に関するサウンディング型市場調査の実施について|南さつま市
http://www.city.minamisatsuma.lg.jp/jigyosha/shigoto-sangyo/shokogyo-kigyo/e021494.html

こういう調査を行うこと自体はよいと思う。何しろ、高級路線の施設というのが公共施設として異色であり、行政による運営に向いていないというのは明白である。笠沙恵比寿の当初のコンセプトを貫徹するならば、民間に売却するのが最も自然かもしれない。

しかし、何にせよいえることだが、「何を」やるかよりも、「どう」やるかの方がずっと重要である。「民間に意見を聞く」のはいいとして、この調査に関する説明会も何もないようだし(参加申し込みした事業者に対する説明会はあるが、「こういう調査をやっているのでぜひ参加して下さい」という説明会がない)、WEB以外のどこで広報しているのか不明である。まさかWEBのみということはないだろうが、積極的に広報している感じがなく、誰に提案してほしいのかという意志をあまり感じない。

先日、鹿児島市が「鹿児島市ブランドメッセージ&ロゴマーク」をみんなの投票で決めようというイベントをしたが、そこにモデル・YouTuberの“ねお”さんを呼んでいたのを見習うべきだ。これは、ただ投票をお願いするだけといえばだけなのであるが、人に意見を聞くためにはどれだけ工夫が必要かというのをまざまざと見せつけられた思いである。「意見を言わない人が悪い」などと言っている時代ではなく、人の意見を聞くためにコストをかけなければ、後で大変な目に合うのが現代である。

【参考】みんなで選ぼう!鹿児島市ブランドメッセージ&ロゴマーク|鹿児島市
https://www.city.kagoshima.lg.jp/kouhousenryaku/citypromo/logo/ivent.html

笠沙恵比寿の場合は、このブランドロゴの場合よりもずっと意見・提案の必要性が大きいわけだから、もっとずっとコストをかけてもいいのである。例えば、東京や大阪などに職員が出張していって、大手デベロッパーやコンサルに話を聞くということから始めてもよいと思う。まずは星野リゾートのようなやり手リゾート運営業者に意見を聞いてみたらどうか。

さらに、些末なことと人はいうかもしれないが、参加した事業者からのヒアリングが1事業者あたり30分〜1時間だそうである。せっかく提案に来てくれた業者に、話を30分にまとめろというのはさすがに短すぎないか。こういうことは言いたくないが、ちょっと「上から目線」を感じる調査なのである(私のこのブログ記事だって上から目線じゃねーか、と言われればその通りなんですが…)。

そしてもう一つ付け加えるべきなのは、民間業者からの意見・提案を聞くのと並行して、やはり地域住民の意見ももっと聞くべきだということだ。これには役所の方も「今までさんざん意見は聞いてきました」と反論するに違いない。それはそうである。しかも住民の方では笠沙恵比寿の高級路線を理解せず、「もっと手頃な価格にしてほしい」といったような意見もあったそうだし、住民の総意に基づいた運営にしたら、たぶん笠沙恵比寿はやっていけない。

しかし、である。公共施設である以上、住民の「こういう町になってほしい」「こうなったらいいな」という夢に基づいていなければならないと私は思う。そのためには、今までさんざん意見は聞いてきたとしても、やはり住民の意見を聞く必要がある。そして、「住民の意見」なるものは、実はもっとも聞き取りづらいもので、本当にホンネの意見を聞こうと思ったら、大げさに言えば「合宿」をしなければならない。少なくとも、WEB上のパブリックコメントなんかでは本当の住民の声は集めることができないと思う。

もちろん役所にしてみれば、生産的かどうかもわからない「住民の声」なるもののためにそんな時間は割けないと言うだろう。それでなくても人が減らされて忙しいのに。でも私は、そういう一見無駄な作業こそが真に生産的なものになると信じている。

笠沙恵比寿をスマートな施設にするだけなら、たぶん星野リゾートに売却するだけで十分だ。きっと今よりは繁盛して、雇用も生まれて、住民も満足するだろう。人が羨むステキな施設になるに違いない。でもたぶん、それでは「こうなったらいいな」という住民の夢を紡ぎ出すという作業は、どこにも介在する余地がない。

南さつま市は「夢を紡ぐまち」を掲げていて、「夢を紡ぐ」という市民歌もある。私は、このスローガンは割とよいと思っている。経営に行き詰まった施設をどう処分するか——というような話では夢がなさ過ぎる。行き詰まった時こそ、理想を語らねばならない。1990年代からの笠沙町の意欲的な観光振興施策の集大成としてできたのが笠沙恵比寿だ。ぜひ前向きに話が進んで欲しい。
 

2019年2月24日日曜日

海からやってきた2頭のクジラ

先日、笠沙の小浦に2頭のクジラが打ち上がった。

下の娘がクジラを見てみたいというので保育園から海岸まで直行。正確な場所は聞いていなかったが、行けば人だかりがあるだろうとタカをくくって進むと、果たして大勢の人が集まっているところがある。自宅から車で15分ばかりの岩場に巨大なクジラが横たわっていた。

クジラは大きい、と頭で分かってはいても、実際間近で見るのは初めてで、大きさに圧倒された。あまりにも大きいので、逆にリアリティが感じられないほどだ。20m弱のマッコウクジラで、重さは40トンくらいではないかという話だった。

クジラは、発見された時には既に死んでいたそうだ。こういう巨大なクジラは、浮力で体を支えなくては自らの重みに耐えられないため、陸に上がると体が押しつぶされ死んでしまうのだという。それとも元々病気で弱っていて打ち上げられたんだろうか。

娘たちは、意外とケロっとしているように見えたが、次の日、上の娘は過去最長の日記を書いていた。やはり、強烈な印象を与えたのかもしれない。そして、下の娘が夜の読み聞かせに読んでもらおうと本棚からとってきたのが『海に帰った4頭のクジラ』という絵本。私自身、この本を読みながら、なぜか感極まって泣きそうになってしまった。

『海に帰った4頭のクジラ』
『海に帰った4頭のクジラ』はニュージーランドのダニーデンという港町で実際にあった出来事を描いている。ある日11頭のヒレナガゴンドウという小型のクジラが海岸に打ち上げられ、それを町のみんなで力を合わせて救出するという話である。クジラを海に返していくシーンが特にいい。みんな、へとへとに疲れているなかで大喜びするという描写が、生き物への愛情に溢れていて感動する。

ちなみに、私の住む大浦町でも2002年に14頭のマッコウクジラが漂着し、真冬の大荒れの海でクジラの巨体と格闘し1頭を救出したという事件があった。うちに『海に帰った4頭のクジラ』という絵本があるのも、自分の町でこの事件があったからこそだ。

ちなみに助かったのは1頭だけで、残りの13頭は死亡、その処理にも非常なる苦労があった。後日、13頭の慰霊の意味もこめた「鯨との日々」というモニュメントが建てられ、またさらに数年後、そのうち1頭の骨格標本を展示する「くじらの眠る丘」も作られた。ことの顚末は当時鹿児島新報(今はないローカル新聞社)の記者をしていた方が詳細に書いている。

【参考】クジラ漂着騒動記
http://www5.synapse.ne.jp/kabahiko/newpage426.htm

詳細な記録としては、『鯨との日々 : くじら座礁の記録』という本が公的機関(南薩西部地域振興対策協議会=合併前の市町村連合会みたいなもの)によってまとめられた。またこの事件によって、地域には漂着クジラの処理のノウハウが蓄積し、今回打ち上げられたクジラについては翌日には沖合に仮繋留されたらしい。ものすごい対応の早さである。

だから14頭のクジラ漂着は忘れられたわけではないのだが、しかしこの事件ももう17年も前のことで、子どもたちは直接知らないし、記憶もやがては風化していく。何もかも覚えていられない以上、忘れても仕方ないものといえばそれまでかもしれない。

でも『海に帰った4頭のクジラ』を読んで改めて思った。物言わぬ生き物を助けるということには無上の価値があることで、その経験は次の世代に伝えていくべきなんだと。そのためには、絵本という形態が非常に理に適っているということも。

そんなことで、私が密かに思ったのは、大浦町の14頭のマッコウクジラ漂着の物語を絵本にしたらどうだろうということだ。 今ならまだ当時奮闘した人の話も聞ける。見守っていた人たちの話も聞ける。私自身は新参者の住民なので漂着事件を直接には経験していないが、そういう人たちの話を元にすれば少なくとも何があったかを伝える絵本が書けるんじゃないか。

ただ絵本である以上、絵を描く人を見つけないといけない。それを子どもたちに言ったら、「自分たちが描くから大丈夫だよ」と気軽に言う。

——そんなに簡単に描けるわけないだろ、難しいんだぞ、と言っておいた。