2012年9月26日水曜日

島津家と修験道——大浦の宇留島家

宇留島家の看経所
我が家から歩いて2分もしないところに、(今は空き屋だが)宇留島(うるしま)家という家があり、そこは久志地権現と言われ、看経所(かんきんじょ)が残っている。

この宇留島家というのは、この大浦の地で代々島津家に仕えた修験者(山伏)の家であった。鹿児島はかつて修験道が盛んであり、特に南薩は金峰山を中心に修験の文化が色濃かったと考えられる。

鹿児島で修験道が盛んだった理由の一つに、藩主である島津家が山伏を重く用いたことがある。戦国期の島津家では政策や軍事の戦略を立てるのにクジ(御鬮)を使っていたが、クジを引くのは偶然に任せるのではなく神慮を得るためであり、宗教的な力が必要だった。そこでクジを引いたのが、その作法を心得ていた山伏だった。

戦の進退をクジで決めるというと、現代的観点からは非合理的に見えるが、私はそうでもないと思う。最適な戦略・戦術は事後的にしかわからないし、戦において冷静な判断は元より難しい。ましてや撤退の決定は非常に困難だ。また異論の出やすい戦場において、神慮の判断ならば反対派も黙らざるを得ない。そう考えると、重要な判断をクジに任すというのは、一見迷信的に見えて実は理に適っているのかもしれない。

しかも、山伏を軍事に活用するというのには実利もあっただろう。というのも、修験者は山林を跋渉して各国を渡っていたので、他国の事情にも詳しく人脈もあり、いわば一種のスパイとして活躍していたらしい。戦国期の関所とは国境であって、普通の人は自由に往来できなかったが、山伏はこれを自由に通行できた。『勧進帳』で源義経が山伏に偽装するのも、山伏は関所を通行できるという特権があったからである。しかも山伏は山中の行者道によって人知れず他国に移動することが可能で、密書一つ届けるにしても圧倒的に有利だ。

島津家が山伏を家老や老中として迎えたのは、戦勝祈願の霊験を得るためということ以上に、そういう山伏の持つネットワークを活用するためだったのではないかという気がする。宇留島家も土着の人間ではなく、千葉から南薩まで下向してきたらしい。

宇留島家は特に島津忠良(日新斎)の頃に重く用いられたが、それもある戦を契機としてのように思われる。忠良が1538年に加世田の別府城を攻めた際、宇留島十代東福坊重綱は山中で「三洛の秘法」とよばれる祈祷を行い、また忠良自身も久志地権現に籠もって戦勝を祈願した。その甲斐あってか別府城は落城。この戦いで加世田は島津家の支配に入り、同時にここ大浦も島津家の領地に組み込まれたようだ。この祈願の功により、東福坊は久志地権現、磯間権現等の別当職に任じられるとともに神田八町と宝物を下賜されている。

戦国期が終わり江戸時代に入ると、戦がなくなり島津家と修験者との関わりは希薄になっていく。宇留島家も島津家のために祈祷することはなくなるが、戦国期に得た八町(8ha)という広大な水田を経済力の源泉として、大浦でも有数の郷士となった。そして宇留島家は山伏として修行を続け、田畑の除虫祈祷や伊勢講の指導などを行い、庶民のための山伏としての性格を強めていった。

今ではこの地域に修験道の残映は感じることができないが、戦国から江戸期にかけて、修験道文化が色濃かったことは間違いない。修験の山である磯間嶽に向かい、かつて山伏が百姓を指導していたのかと思うと興味深い。

そういえば先日地域の古老から面白い話を聞いた。電話もなかった数十年前、うちの集落では地域の人への伝達事項がある時、合図として区長さん(集落のとりまとめ役)が法螺貝を吹いて知らせたのだそうだ。 これは、山伏がこの地域をまとめていたことの名残なのかもしれない。というのも、東福坊が下賜された神田八町の一部は、うちの集落の水田のようなのである。

【参考文献】
『さつま山伏 —山と湖の民俗と歴史—』 1996年、森田清美
『大浦町郷土誌』1995年、大浦町郷土誌編纂委員会

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