2013年1月17日木曜日

ポンカンの本当の旬

先日「ポンカンの収穫をぼちぼちしている」と書いたけれど、実は周りの農家には、もう全て実を収穫してしまっている人も多い。というのも、ポンカンは基本的に御歳暮贈答用の果実であるため、年内に出荷した方が単価が高いからである。

しかし、ポンカンの旬が12月かというと、そうでもない。味が乗って美味しい時期というのは、1月下旬から2月ということになると思う。素朴にはこの時期がポンカンの旬であって、この時期に出荷すればいいと思われるが、実際はこの時期のポンカンは二束三文である。

美味しいポンカンが二束三文で、やや早採りの年内収穫のポンカンが高いというのはなんだかおかしい気がするが、「ポンカンを御歳暮に贈りたい」という消費者のニーズに応えた結果ともいえる。また、2月になるとタンカンを始めとして甘味の強い他の中晩柑類(ミカン以外のカンキツ)が出荷されはじめるため、ポンカンの相対的な価値が下落するという事情もある。

よって、美味しい時期のポンカンが二束三文であることは、別に誰が悪いというわけでもない。だが、農家はできるだけ価格が高い時期に出荷しようとするため、結果として、ポンカンは本当の旬ではない時期に大量に流通することになる。こうなると、普通にポンカンを購入する人はその本当の味を知らない、ということになってしまう。

もちろん、その問題は生産者もよくわかっているのだが、これまでの流通や販路が年内の贈答用出荷を最優先として構築されてきたため、2月にポンカンを売ろうとしても大口の販路がないのである。さらには、早採りした方が樹への負担が少なく、生産が安定するという植物側の事情もある。

しかしながら、ポンカンのような果物は嗜好品である以上、美味しくなければいつか見捨てられてしまう。ポンカンを贈答用に購入する消費者も高齢の方が多いと聞くし、このままだと消費が先細りになると思われる。

現在、カンキツの品種は百花繚乱の観があり、今さらポンカンというのも古くさいが、かつて「東洋のベストオレンジ」と呼ばれたポンカンの魅力は、上述のような事情で市場的には十分に発揮されていない。一番美味しい時期に出荷することが合理的になるように、仕組みを工夫してみたい。

2013年1月16日水曜日

1月26日(土)、銀座三越で物産イベント「南さつまの実り」が開催予定

全農が2010年からやっている「みのりみのるプロジェクト」というのがある。

これは「農業を軸として多用なライフスタイルのあり方を提案する」というもので、Facebookを活用したり、デザインがかわいらしかったりして、いい意味で全農らしくない活動。ポスターなどが垢抜けているし、銀座三越の屋上に「みのる食堂」「みのりカフェ」を設置するなどセンスが若い。

この「みのりみのるプロジェクト」が、いま南薩を特集中であることは、関係者以外ほとんど知られていないであろう…。

具体的には、同プロジェクトが発行するおしゃれなフリーペーパー『AGRIFUTURE VOL.15』で南さつまが特集されており(正確にはJA南さつまの管轄範囲=南さつま市、枕崎市、南九州市)、1月26日(土)には、銀座三越9Fで「みのりみのるマルシェ 鹿児島県南さつまの実り」が開催される。

『AGRIFUTURE VOL.15』では、知覧紅(さつま芋)生産者の上木原さん夫妻、有機栽培の知覧茶生産者の塗木達郎さん、黒牛生産者の江籠範厚さんが大きく紹介。また特産品として、それ以外に「ポンカン・タンカン・キンカン」が紹介されている。さらに唐突に(?)坊津が見開きで紹介されていて、観光ボランティアガイドの鮫島昭一さんの的確な案内が掲載されている。

イベントの「みのりみのるマルシェ」は、簡単に言えば産直物産イベントだが、南薩というくくりでこういうイベントが行われることはまずないので、たった一日の小規模イベントとはいえ貴重と思う。内容は、お茶の販売の他、
「加世田のかぼちゃ」や「知覧紅」、「きんかん春姫」、「たんかん」が県ブランド指定を受け、一大産地を形成しており、今月の旬「枕崎にんじん」や「実えんどう」「スナップえんどう」など生産者の丹精込めて仕上げた農産物が揃います。
とのこと。何が出品されるのかイマイチ不明だが、0.1%くらい、私がJAに出荷したかぼちゃがそこに混じっている可能性もあるのかもしれない。

それにしても、この「みのりみのるプロジェクト」、センスは今っぽいのにほとんど注目されていない。三越に店を構えているのは全農の資金力としても、営農販売企画部の担当者が一人でやっているようなところがあり、展開が小さい(全農のWEBサイトにも直リンクがない…)。このマルシェも1日だけじゃなく、1週間くらい開催すればいいのにと思う。LEEとコラボしてジーンズのつなぎを開発するような(採算が取れるのか不明だが)面白いグッズ製作もしていて、これからも頑張ってもらいたいと思う。東京近郊で興味のある人は、三越のイベントにも行ってみてほしい。


【情報】みのりみのるマルシェ 鹿児島県南さつまの実り
2013年1月26日(土)銀座三越9階(GINZA TERRACE)10:00〜

2013年1月14日月曜日

ポンカンの収穫をぼちぼちやっています

昨年末から、ぼちぼちポンカンの収穫をしている。

初めてポンカン(とタンカン)を栽培してみたわけだが、結果はあまりよくない。玉が揃っていないし、表面が汚い(キズ等がある)のが多い。

玉が揃っていないのは摘果が甘かったせいだ。つまり成らせすぎた。最初だから加減が分からなかったが、今年の経験でなんとなく摑めた気もする。

表面が汚いというのは、サビダニという目に見えないダニがたくさんいたせいで、直接的には薬剤散布が適期にできなかったためと思われる。私は初年度の栽培ということで、薬剤散布をカレンダー的(つまり、防除基準に定められている通り)にやったわけだが、今年は天候不順もあったせいで、有効な防除になっていなかったかもしれない。

味の方はどうかというと、少し淡泊かなと思っていたが、1月も半ばになって味が乗ってきた気がする。もちろん他の人のポンカンと味比べをしてみないと分からないが、ちゃんと予措(採った後しばらく貯蔵して熟成させる)すれば許容範囲の出来と思われる。

ポンカンは初心者向け果実と言われていたが、確かに素人の管理でもそこそこ収穫することができたし、普通に食べる分には十分のものが出来た。次年度は有機栽培にトライしたいと思うので、主に病害虫防除の点ではまたしても散々な結果になることが予想されるが、今年度の反省を踏まえてよりよい栽培ができたらと思う。

一方で、タンカンは管理が悪いと全然ダメのようだ。似たようなカンキツなのに性格がかなり違うのは面白い。

2013年1月10日木曜日

遺品整理は(面倒だけどやり始めると)面白い

昨年末、大掃除で少しだけ遺品整理をした。なかなか面倒な作業だったが、面白かったこともある。

うちは築約百年の古民家であるが、基本的には遺品の類はかなり処分されている。例えば古い家具とか衣類などは残っていない。が、仏壇周りだけは手つかずの状態で残っていて、収納スペースがもったいないので少し整理してみることにした。

内容は、本、写真(アルバム)、思い出の品(?)、という感じだが、今回手をつけたのは本である。残された本を見るだけでも、そこにあった人生を垣間見るようで面白い。本というものは、何か新しいことに取り組む時に参照することが多いから、ここに暮らしていた人がどういう希望をもって、何に挑戦していたか感じられるようである。

農村なので農業関係の本が多いのは当然として、栽培技術的なものではなく、例えば岩波書店の『村の図書室』シリーズなど、新しい農村を作っていこうとしていた当時の気運も感じられて面白い。この『村の図書室』は岩波書店が(かつて本を読まないと思われていた)農村の人々を啓蒙するため「農村青年」に向けて作った双書で、今で言う農文協の本みたいな存在のシリーズである。それから農村婦人活動に関する本も多い。どういう活動をしていたのだろうか。

だが、もっとも面白いものは、実はローカルな冊子だ。例えば、小学校の文集『大浦の子』、旧大浦町時代の広報誌といったものである。その中でも白眉は久保青年団発行の小冊子(文集みたいなもの)で、昔の青年団はこんなことまでやっていたのかと驚かされた。これらについては、いずれ内容を詳細に検証してみたいと思う。

それにしても、遺品整理というのはかなり大変な作業である。基本的には不要品なので本などもほぼ全部捨てることにしたが、それでも本の間に写真が挟まっていたりして油断がならない。けっこうな作業量なので委託は新しいビジネスになるのではと思ったが、調べてみると既にいろいろな業者がある。なんと遺品整理士という資格まで存在していた。その仕事内容は、遺品整理というより清掃や不要品処分が中心だが、これから団塊世代が老後を迎えるので今後成長していく産業だろう。

ところで、家具の処分などは委託できるが、(ローカルな)本や写真についてはどのように整理するのだろうか。遺族にとってはいらないものでも、貴重な歴史の証言者である場合もあるし、そこが遺品整理で一番面白いところなので、安易に処分しないようなやり方で処理してもらいたいものだ。何十年か経つと、民俗学の資料としてとても貴重になると思うので。

2013年1月3日木曜日

2013年、正月。

謹賀新年。

この写真は残念ながら元旦ではないが、1月2日の朝焼けの写真。大浦の顔の一つである磯間嶽にかかる曙光である。

一年の計は元旦にあり、というのは随分平凡な言葉だが、ここに移住してきてちょうど一年ということでもあるので、昨年の反省と今年の抱負めいたものを述べておきたいと思う。

まず昨年の反省であるが、
  1. 農業倉庫建築、機械購入など農業基盤整備があまりできなかった。
  2. 山の整備と利用が進まなかった。
  3. 栽培した作物の管理もあまりよくなかった。
  4. 農業に関して、いろいろな記録をちゃんとやっていなかった。
というところかと思う。それから仕事には関係ないが、自宅の庭の管理がおざなりだったことと、墓参りや墓地の掃除があまりできなかったことも挙げられる。それから、農産物販売サイトを開設の予定であったが、なぜかInternet Explorerで正常に表示されないという問題があってそれも延びているのも気になるところ。

次に新年の抱負であるが、上記反省点を改善するのは当然のこととして、次のことに取り組んでみたい。

第1に作付体系の検討。農業経営の要諦は作付体系にあると思うが、これは一度構築してしまうと(機械や資材などへの投資が必要なので)なかなか変えられない。しかも出荷体制や気候、借りられる土地の条件など制約は多く、効率的な体系を主体的に構築していくことは難しい。当面は果樹と園芸作物(かぼちゃなど)を考えているが、より効率的な体系を(やや長期的な意味で)検討したいと思う。

第2に農産加工所の開設。ここは大消費地から遠く隔たった本土の端っこなので、農産加工は必須だと感じている。最初は普通のキッチンみたいな規模からスタートして、経験を積みたい。ただ、これに関しては自分よりも家内の活躍に期待するところ大である。

第3に有機栽培への挑戦。実際成り立つものなのか、やってみなくてはわからないので、限られた範囲で実験してみる。とりあえずポンカン・タンカンは有機栽培とし、園芸作物についても出来そうなものがあれば取り組んでみたい。

ともかく、昨年の仕事や暮らしを思い返せば、いろいろな場面で先輩農家や周りの人たちが助けてくれ、それでなんとか成り立ったというところかと思う。まだまだ私自身わからないことだらけではあるが、今年は、あまり迷惑にならない程度の仕事ぶり・暮らしぶりができるように努力したい。本年もよろしくお願い致します。

2012年12月31日月曜日

サメと取違伝説——南薩と神話(5)

南薩の神話もついに最後のエピソードである。

山幸彦は海神の宮で、海神の娘トヨタマ(豊玉)姫と結ばれたのであるが、海幸への仕返しを果たした後にトヨタマ姫がやってきて、「子どもが産まれるのでやってきました」という。彼女は海辺に産屋を作り、鵜の羽で屋根を葺いていたところ急に産気づいた。そして言うには「異郷の人間は、産む時は本当の姿になります。私も本当の姿で産もうと思いますので、お願いですから覗かないように」として産屋に閉じこもった。

山幸彦はその言葉を訝しんで産屋を覗いてしまい、そこに大きなサメがのたうっているのを見て仰天。そのためトヨタマ姫は正体を見られたことを恥じ、産まれた子どもにウガヤフキアエズ(鵜の屋根を葺き終えないうちに、という意味)という不思議な名前を付け、子どもの養育を妹のタマヨリ(玉依)姫に任せて海神の宮に帰ってしまった。

このウガヤフキアエズは、長じて叔母に当たるタマヨリ姫を娶り、4人の子をもうけるが、そのうちの1人が後の神武天皇である。この神武の誕生で記紀神話の幕が閉じることになる。

ところで、タマヨリ姫の正体もまたサメであったとは記紀には書いていないが、姉妹である以上タマヨリ姫もサメと考えるのが自然だ。とすると、神武天皇は母(タマヨリ姫)と祖母(トヨタマ姫)がサメということになり、血統的には3/4がサメということになる。天皇家というのは、祭祀的には稲に関係する農耕的性格が強いが、その起源は多分に海洋的な性格を持っている。サメを祖神とする考え方は南洋に多いと聞くが、ここにも隼人が持ち込んだ海洋性が見えるようである。

さて、サメが正体のトヨタマ姫だが、これを祀っているのが、水車からくりで有名な知覧の豊玉姫神社だ。知覧はトヨタマ姫と縁が深く、その陵(墓)が残っていることを始めとしてその伝説が多く残っている。特に有名なのが「取違伝説」だ。

なんでも、海神からそれぞれ川辺と知覧を治めるように使わされたトヨタマ姫とタマヨリ姫であったが、頴娃から知覧に着いて一泊したところで、犀利なタマヨリ姫は土地の豊かな川辺の方が有利であることに気づき、トヨタマ姫がのんびりしている隙に川辺に行ってそこを治めたということである。本来行くべき所と逆に取り違えて行ったということで、その一泊した場所を取違(とりちがい)というようになり、今でもそこには取違さんという変わった苗字の人が住んでいる。ちなみに川辺側でタマヨリ姫を祀っているのは、かつて川辺の総鎮守であった飯倉神社である。

これは記紀神話にはないエピソードだし、ストーリー的にも記紀神話に接続する箇所もなく、かなりローカル色が濃い。もともとの取違伝説では、取り違える対象が天智天皇の第一皇女と第二皇女だったという話もあり、後世に改編されたものという可能性も大きいが、ともかくトヨタマ姫は知覧の地元の神だという意識があったことを示唆している。南薩における記紀神話は、天孫ニニギがコノハナサクヤ姫と出会ったのが笠沙、海幸と山幸がケンカしたのが笠沙〜枕崎の西南海岸というように巡って、トヨタマ姫の出産で知覧に至って終わるわけである。

このように、南薩は記紀神話の舞台として重要な地域であるにも関わらず、それがあまり認知されていない。その理由としては、このあたりには立派な古社・大社がないことが考えられる。仮に出雲大社のようなモニュメンタルな神社があれば、それが崇敬の対象としてわかりやすいし、なによりそこを中心に観光業が栄えて経済的にも潤う。結果的に神話伝説への関心も増し、対外的なアピールも盛んになる。

しかし、現実の加世田〜知覧の地域には、観光客が大勢訪れるような大規模な神社はなく、いくら神話の舞台とはいえ、そこに広がるのは縹渺とした風景だけだ。それが逆に本物っぽいという通もいるだろうが、一般的には面白味に欠ける。そう考えると、南薩の神話が注目を浴びることは今後もあまりなさそうだが、ここにはかつて阿多隼人たちが山海を舞台に活躍してつくり上げた日本の源流の一つがあると言えるだろう。

【参考文献】
『知覧町郷土誌』1982年、知覧町郷土誌編さん委員会
『古事記』1963年、倉野憲司 校注

2012年12月26日水曜日

隼人の南洋的神話=海幸・山幸——南薩と神話(4)

黒瀬海岸(撮影:向江新一さん)
南さつま市笠沙に「黒瀬海岸」という海岸があり、ここは一風変わった伝説を持つ。

なんでも、天孫ニニギは高千穂峰に降臨した後、舟で南下し、たどり着いたのがここ黒瀬海岸だということで、うら寂しい漁港に神代聖蹟「瓊瓊杵尊御上陸之地」という仰々しい石碑も建っている。またこの故事に因み、ここは別名「神渡海岸」ともいう。

正統派の記紀神話では舟で南下したというエピソードはないわけで、これはローカルな神話なのだが、だからこそ面白い。というのも、神さまが海の向こうからやってくる、という神話はポリネシアなど南洋の神話に多く、古代の隼人たちの海人的性格を示唆しているように思われるからだ(ちなみに遊牧民系だと、神さまは天から降りてくる場合が多い)。

ニニギの息子たちの海幸彦・山幸彦の神話は、そういう海人たる隼人が記紀へ持ち込んだ神話だろう。話の筋はこうである。山幸は海幸に「仕事道具を交換しよう」と持ちかけ釣針を借りるが、海に釣針を落としてしまう。その弁償に1000個の釣針を新たに作ったが海幸は「元の釣針を返せ」と納得しない。山幸が途方に暮れていると、塩椎神(シオツチのカミ)が来て「この”間なし勝間の小舟”に乗ってワタツミ(海神)の宮へ行きなさい」と言う。その通りにいくと海神の宮に着き、そこで出会った海神の娘、豊玉姫と結ばれ3年を過ごす。

そして山幸はふと海幸とのケンカを思い出し、海神に相談すると、海神はいろいろな魚を集めて釣針の行方を問う。そこで鯛の喉に例の釣針が引っかかっていることが判明。山幸は海神から「塩盈珠(しおみつたま)」「塩乾珠(しおふるたま)」という水を自在に操る宝物をもらい、釣針とともに帰還。この道具を使い海幸を懲らしめ、その結果海幸は山幸に服従を誓って物語が終わる。

この神話は南薩に残る神話でも最も中心的、かつローカル性が確実なものだろう。例えば、金峰町の双子池はコノハナサクヤ姫が海幸たち兄弟を産んだところというし、笠沙町の仁王崎は「二王の崎」の意であって、海幸山幸が兄弟ゲンカをしたところという。また枕崎は山幸が”間なし勝間の小舟”に乗って最初に付いた場所といい、枕崎の旧名「鹿篭(かご)」はこれに由来するという。ついでに、指宿には「指宿のたまて箱」の由来でもある竜宮伝説が伝えられているが、竜宮伝説=浦島太郎物語は海幸・山幸の神話の変形なのだろうと考える人もいる。もちろん海幸・山幸の神話は南薩だけに伝えられているものではなく、安曇氏の海神信仰も混淆しているようだが、物語の原型は隼人たちのものだっただろう。

ところで、海幸山幸の話は神話学的には「釣針喪失譚」と呼ばれ、南洋に多く分布しており、特にミクロネシアのパラオ島、インドネシアのケイ諸島、スラウェシ島にはこれと酷似した神話がある。どうも、隼人族はこうした南洋系の人々と近い関係にあったようだ。

ちなみに、前の記事で紹介した「天皇が短命なのは醜いイワナガ姫を拒否したため」という神話も、類似のそれがインドネシアからニューギニアの南洋に分布しており、中でもスラウェシ島のある部族が伝えている神話とは非常に共通点が多い。

このような事実から推測すると、隼人たちは黒潮に乗って南洋から来たか、あるいは南洋の人々と共通の祖先を持つ人々だったのだろう。事実、金峰町の高橋貝塚からは南洋でしか採れないゴホウラという貝の腕輪の半加工品が日本で唯一発見されているし、吹上浜の伝統的な漁具のカタギテゴという魚籠(びく)は日本では南九州にしか存在しないが、東南アジアには広く分布している。

ぼくの鹿児島案内。』の著者、岡本 仁さんは「鹿児島は東南アジアの最北端と言っているが、これは案外的外れではなく、鹿児島は文化的には東南アジアと共通項が多いのである。

それはさておき、神話に話を戻すと、この山幸彦が天皇家の祖先であり、海幸彦が隼人阿多の君の祖先ということになっている。つまり、阿多隼人は天孫から分かれた天皇家の親戚ということになっているのである。記紀神話は各氏族の天皇家との関係を示す寓話という側面があるので、天皇家と親戚ということ自体は特筆大書すべきものではないが、天孫から分かれた子孫という設定は格が高いので、隼人たちの朝廷における重要性を示しているとも考えられる。

ただし、正統派の記紀神話解釈では、この神話は、隼人の祖(海幸)が天皇家(山幸)に服属を誓うということで、隼人族が朝廷に服属すべき由来を説明したものとされている。南薩の神話の中心である海幸・山幸の神話が、朝廷への服属の神話にさせられているというのも、なんとも皮肉なものだ。そもそも、海に生きる海幸彦が、海神を味方につけた山幸彦にやっつけられるという話自体、皮肉な展開なのだけれど。

【参考文献】
『日本神話の源流』1975年、吉田敦彦
『海の古代史 ー東アジア地中海考ー』2002年、千田 稔 編著
『古事記』1963年、倉野憲司 校注